白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ22

2023年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月六日(火)。

 

朝食(午前五時)。朝の風邪薬投与。1ミリリットルのミルクで溶かしてシリンジで口から与える。その後、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。残さず食べてくれたのでほっとする。

 

昼寝。午後三時頃までよく眠る。飼い主は飼い主なりに他にもいろいろ気疲れがあるようで、昼食後、しばらく横になっていた。タマとほとんど一緒に目を醒ます。見ると、いかにも遊んでほしそうだ。飼い主はさっさと風呂掃除を済ませて遊んでやる。

 

遅めの夕食(午後九時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

今日の食事摂取は安定している。シリンジで与えるのが風邪薬だけになったぶん気分的にも随分楽になった。運動量もわるくないように思える。

 

体重測定。880グラム。昨日より20グラム増。

 

She was a child and I was a child,

In this kingdom by the sea,

But we loved with a love that was more than love―

I and my Annabel Lee―

With a love that the winged seraphs of Heaven

Coveted her and me.

 

「《彼女》は子供だった、《私》は子供だった、

海のほとりのこの王国で、

それでも私らは愛し合った、愛よりももっと大きな愛でーーー

私と、そして私のアナベル・リイとはーーー

天に住む翼の生えた熾天使たちも私らから

偸(ぬす)みたくなるほどの愛をもって」(ポオ「アナベル・リイ」『詩と詩論・P.196』創元推理文庫 一九七九年)  


Blog21・東アジア的<共同幻想>に侵蝕された<対幻想>(性・セックス・家族ならびにその多様性)の<悲劇>

2023年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

前回に引き続き、今度は<共同幻想>に侵蝕された<対幻想>の悲劇について触れておきたい。吉本隆明が参照するのは夏目漱石とその妻との関係である。

 

「英国留学は漱石にとって『不愉快』なものであった。そして帰国後に待ちかまえていたのは<不愉快>な妻や縁者であった。

 

かれらは不如意な留学生活をきりあげて帰ってきた漱石の、不如意な生活から金銭をせびりとり、すこしでもおおく稼ぐことを強要する<不愉快>な亡者たちにみえた。

 

『道草』によれば主人公の健三は、この不如意をすこしでも脱するために、もちまえの大学教師のほかに、かけもちの講師をやって稼ぎを細君の手にわたしている。しかし細君はべつだん嬉しそうな顔をせず<家族>の不如意をすこしでも柔らげることは、夫たるものの当然の義務であるかのように振舞った。夏目鏡子の『漱石の思ひ出』をみると、ここのところはこうなっている。

 

それでもいい按排に翌る三十七年の四、五月頃から大分よくなつて参りまして、(漱石の《あたま》の調子がーーー註)段々こんな無茶なことをしないやうになりました。その代り前から貧乏だつたのが、この年には一層つまつて了つて、どうにもかうにも参りません。そこでたしか秋から帝大一高の外に明大へ一週二時間づつ出るやうになつて、その二、三十円の金でも余程当時の私たちの生活にはたしになりました。けれどもそれで元より楽になつたとは申されません。よく大学なんかよして了ひたいと申して居りましたが、それでも学校にはキチンキチンと出たやうです。

 

その前後に漱石の気狂いじみた<家族>うちでの振舞を、微にいり描いて『気味の悪いたらありませんでした』などとしゃあしゃあとかいている。文脈をふまえたうえでよむと、大学教師など一切やめたがっている漱石が、ますます大学教師にのめりこんでまで生活費を稼いでいるのを、細君が描写しているにしては、きわめて異様におもわれてくる。漱石のいとなんだ<家族>はひどいものだという感想を禁じえない。鴎外の『半日』をよむと、鴎外の<家族>もまたひどいものだとおもえる。だが鴎外自身は、生活のこまごまとしたことを処理するのは社会の表通りを胸をはって歩くための小さな里程だと信じているところがある。そのため、ひどくても、かくべつかくされた形而上の意味づけは感じられない。漱石のばあいはちがっている。ここでは本質的に理解を拒絶した男・女が<家族>をいとなんでいることを疑うことができない。

 

漱石はまったくおなじ時期のおなじことを『道草』でつぎのように描写している」(吉本隆明「共同幻想論・対幻想論・P.176~178」角川文庫 一九八二年)

 

新潮文庫版を参照すれば次の箇所。

 

「然(しか)し若(も)し夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三は又若し細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求を充たす方便としては寧(むし)ろ失敗に帰してしまった」(夏目漱石「道草・P.54」新潮文庫 一九五一年)

 

吉本隆明はいう。漱石が求めたのは<対幻想>は漱石とその妻とのあいだで生ずる固有の関係でありまたその限りでの<家族>である。しかし一方、漱石の妻が求めたのは<共同幻想>としての<習俗>に則って<共同幻想>が<対幻想>に押し付け<対幻想>を叩き壊してくる様式にしたがって生活費を稼ぎ家に入れることに尽きている。両者の溝を埋めるとか埋めない以前に、両者は始めからまるで違った価値体系の下で生きている。

 

「鴎外の『半日』では<奥さん>は我ままで軽薄な性格を、夫である<博士>によってあばかれている。だが、漱石の『道草』では細君は、健三から冷酷な解剖をいちどもうけていないといっていい。ただ人間は男性としても女性としても孤独で、そのあいだに介在する関係は、とうてい理解しあえない齟齬をもつものだということがよく描きだされている。主人公の健三は細君に優しくありたいとかんがえながら、ことごとに冷水を浴びせかけられ、弾きかえされる。細君もおそらくそうであろう。夫に優しくありたいとおもうのに、夫は理由もなく不機嫌なため心は閉ざされてしまう。たれがこの関係の齟齬を裁くのかわからない。鴎外の『半日』では、細君のくだらなさを裁くのは<博士>であり、また傷ましいのも<博士>である。

 

漱石が『道草』の健三を借りて、じぶんの願望をのべていると仮定すれば、かれはあきらかに<夫婦>の本質をもとめているので<夫婦>の円満な生活を願っているのではない。まして言葉のうえの<優しさ>をもとめているのではない。しかし細君にとっては<夫婦>の本質などはどうでもいいが、実際に円滑に進行してゆく生活が、物質的にも知慧としても必要であった。彼女にとって婚姻し、夫と一緒に住み、子を産み、育てながら、ほどよい<家族>を形成することは、なによりもまず世上に流通する習俗であり、それに忠実にしたがっているまでである。しかし、この夫婦は漱石の英国留学を契機にして、すでに本質的には崩壊していた。漱石が<夫婦>にもとめたのは一対の男女のあいだの<対>幻想の本質であり、けっして一緒の屋根の下に住んでいる個人と個人ではなかった。細君がじっさいに漱石に要求したのは、本来ならば<夫婦>にだけ存在しうる<対>幻想の世界をこわしながら、漱石がなおその世界に、物質的な顔をむけてくれることであった。この夫婦のあいだの齟齬は、習俗としての<家族>と<対>幻想としての本質的な<家族>とのあいだの距離である。漱石は細君のなかに<習俗>を、いいかえれば姉妹や近親の女をしか見出せなかったのに、夫婦として<家族>を営むことを余儀なくされたのである」(吉本隆明「共同幻想論・対幻想論・P.178~179」角川文庫 一九八二年)

 

漱石は自分たち夫婦生活の中に現実離れした夢まぼろしを見ようとしていたわけではまるでない。むしろ妻の側こそ欧米では十分あり得たし、二〇二三年現在なお追求・主張され続けている<対幻想>(性・セックス・家族ならびにそれらの多様なあり方)を無我夢中で切り捨て、逆に<共同幻想=習俗>という暗黙のうちの同調圧力を<夢まぼろし>に過ぎないとは夢にも思わず漱石に向けてどしどし強要するのである。

 

近代日本の比較的早い時期すでに、幾らでもあり得たし、あり得るし、あり得るだろう<対幻想>の側が、なぜか東アジア的<共同幻想>(法・国家)から受ける侵蝕によって軒並み踏み躙られていく場所に、まさしく漱石は立ち会っていた。


Blog21・東アジア的<共同幻想>に侵蝕された<自己幻想>(個人的な自己意識)の<悲劇>

2023年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

ドゥルーズ=ガタリのいうリゾーム型社会の出現にもかかわらず、近代日本の出現と同時にほとんど一気に<様式化された<個人の死>について考え直しておくことは無駄ではない。そもそもドゥルーズ=ガタリは世界中で押し進められる不断の脱コード化作用の中で、それ以前の状態(コード化・超コード化)の過程がまったく消え失せてしまうことは決してないと前提している。それ以前の状態(コード化・超コード化)の過程はむしろ、リゾーム型社会において、脱コード化の流れとともに世界中にばらまかれた形で偏在するからだ。<脱コード化>の流れの至るところで<コード化・超コード化>の出現と消滅との繰り返しが演じられる。

 

そこで改めて昨今ふたたび台頭してきた東アジア的<共同幻想>とそれに対立しつつも侵蝕されるほかない<自己幻想>(個人的な自己意識)が織りなす<悲劇>とはどのようなものか、捉え直しておく必要性があるだろう。吉本隆明は「遠野物語」を引用しつつ、それを<近代日本の悲劇>として述べる。

 

「たとえば、知人が不幸な事件にであって喪失感にうちのめされていたとする。<わたし>はじぶんが不幸な事件にであって喪失感にみまわれたことを想い起こして、知人の喪失感の状態を察知しようとする。しかしどれほど察知しようとしても、けっして知人が現に出逢っている喪失感の切実さには、はじめから到達できない。人間は<他者>の喪失感を、じぶんの喪失感におきかえられないからだ。このとき<わたしは、どれほど<他者>の喪失感をおもいつめても、とうていじぶんの体験みたいに感じられないと諦めて、判断を中止してひきかえすか、または人間はどうしてじぶんのことみたいに<他者>のことを了解できないのか、という問いにまで普遍化してじぶんにつきつけるほかに術がない。

 

<死>ではこの問題は極限のかたちであらわれてくる。人間はじぶんの<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そしてこの不可能さの根源をたずねれば<死>では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<侵蝕>されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に<侵蝕>された状態を<死>と呼ぶというふうに。<死>の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な<死>は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような<侵蝕>を意味するために、個体の<死>は共同幻想の<彼岸>へ投げだされる疎外を意味するにすぎない。近代社会では<死>は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の<侵蝕>は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通するようになる。

 

ここまできて、わたしたちは<死>の様式が志向する類型をとりだせるはずなのだ。それは<他界>概念の構造を決定するとおもう。

 

『遠野物語』のなかから、わたしたちはまず<死>が、じぶんのじぶんにたいする心的な<作為>体験としてあるような<死譚>をみつけだすことができる」(吉本隆明「共同幻想論・他界論・P.121~123」角川文庫 一九八二年)

 

ちくま文庫版全集を参照すれば次の箇所。

 

「遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠(たかじょう)なり。町の人綽名(あだな)して鳥御前(とりごぜん)という。早池峰、六角牛の木や石や、すべてその形状と在所とを知れり。年取りて後茸採(きのこと)りにとてひとりの連れとともに出でたり。この連れの男というは水練の名人にて、藁(わら)と槌(つち)とを持ちて水の中に入り、草鞋(わらじ)を作りて出て来るという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山(むけえやま)という山より、綾織(あやおり)村の続石(つづきいし)とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端より四、五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭(あか)き顔の男と女とが立ちて何か話をしているに出逢いたり。彼等は鳥御前の近づくを見て、手を拡(ひろ)げて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも構わず行きたるに女は男の胸に縋(すが)るようにしたり。事のさまより真(まこと)の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば戯れてやらんとて腰なる切刃を抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴りたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず、連れなる男はこれを探しまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までにさらになきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にも言うなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥(やまぶし)のケンコウ院というに相談せしに、その答には、山の神たちの遊べるところを邪魔したるゆえ、その祟りをうけて死したるなりと言えり。この人は伊能(いのう)先生なども知合なりき。今より十余年前の事なり」(柳田國男「遠野物語・九十一」『柳田國男全集4・P.53~54』ちくま文庫 一九八九年)

 

吉本隆明はこう述べる。

 

「ようするに『鳥御前』は幻覚に誘われて足をふみすべらし、谷底に落ちて気絶し、打ちどころが悪かったので三日程して<死>んだというだけだろう。けれど『鳥御前』が、たんに生理的にではなく、いわば綜合的に<死>ぬためには、ぜひともじぶんが<作為>してつくりあげた幻想を、共同幻想であるかのように内部に繰込むことが必要なはずだ。いいかえれば山人に蹴られたことが、じぶんを<死>に追いこむはずだという強迫観念をつくりださねばならなかったはずだ。そしてこのばあい『鳥御前』の幻覚にあらわれた赭ら顔の男女は、共同幻想の表象にほかならないのである。

 

このばあい『鳥御前』が生理的に死ねば『鳥御前』のいっさいの幻想は消滅する。しかし逆に『鳥御前』の<死>とは『鳥御前』の生理的な<死>をさすものだろうか。そういう問いを発してみれば、その答えはけっして安直にかんがえるほど自明ではない。なぜなら『鳥御前』の生理的な<死>は、かれの<作為>された関係幻想の死をも意味するからだる。そして関係幻想の位相からは、人間はじじつ、じぶんは何々に出逢ったから死ぬという意識から、逆に生理的な<死>をもたらすことができるのだ。それは共同幻想が自己幻想の内部で、自己幻想をいわば<侵蝕>するという理由によって説明することができる。ーーーわたしのかんがえでは、べつに《融即》の原理で死ぬのではなく、未開人の自己幻想が共同幻想(呪力)に<侵蝕>されることで、いわば心的に<死>ぬのである。そしてかすり傷くらいで<死>んでしまうのは、未開人では自己幻想と共同幻想とは未分化なため、この<侵蝕>が即時的に起りうるからである。

 

『遠野物語』の『鳥御前』は、もちろん未開人ではないから、共同幻想と自己幻想との未分化な心性を想定することはできない。ただ共同幻想が自己幻想に侵入してくる度合におうじて、かれは《自発的》にじぶんを共同幻想の<彼岸>へ、いわば<他界>へ追いやり、そのことによって共同幻想から心的に自殺させられる存在である。このことは、かれの心的な自殺が生理的な<死>を促進したかしなかったかということとは無関係だといえよう」(吉本隆明「共同幻想論・他界論・P.123~124」角川文庫 一九八二年)

 

人間は生理的に死ぬに際してすら、あらかじめ出来上がっている<神話>(ストーリー)に沿った形でしか許されていない。<共同幻想>(法・近代国家)による支配は全国津々浦々にまで浸透し、ありとあらゆる<個人の死>からその固有性を奪い去り、<共同幻想>に侵蝕された<形式的死>へ置き換えるのに忙しかったのである。

 

言い換えれば、生理的な<死>には必ず<固有性>がまとわりついているがゆえに、逆に近代国家は、そのような<固有性>の存在を許すわけにはいかなかった。極めて個人的な<自己意識>の自由な存在を許せば、統制的な近代国家は始めから成り立たなくなる。だから<共同幻想>は、一個人がその生涯で最も個人的な輪郭を見せつけるほかない<死>の瞬間を支配しようと常に待ち構えないではいられなくなった。<共同幻想>はいつも<死>に狙いを付けている。

 

したがって近代国家における<個人の死>は、それがどのような形の死であっても、「共同幻想から心的に自殺させられる」という無意識的に押し付けられた様式を取っている。「《自発的》にじぶんを共同幻想の<彼岸>へ、いわば<他界>へ追いや」るという様式を取らなければ死ぬこと一つ許されない、というわけである。近代日本の成立は個人主義の輸入を伴っていたけれども、同時にそれは<共同幻想>としての近代国家が暗黙のうちに許しを与える様式において、という相反する条件付きで始まっている。個人主義の輸入は個人主義の徹底管理とともに始まったという<悲劇>におおわれている。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて439

2023年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

午前五時、いつものように朝早い後期高齢者の朝食の支度を横で見ています。

 

漬物(なす)は塩分を抜くために表面の皮を削ぎ落とし、中身を水洗いしながら揉み込んでさらに塩分を抜き、ラップの上に乗せてティッシュで水分をよく吸い取ってから皿に盛る。

 

ご飯の横に豆腐を置いて頂きます。豆腐は器に京豆苑「絹豆腐」を適度に崩して盛り、市販の白だしをかけてレンジで少し温めたもの。

 

だから毎朝おかずは二品。味もかなりあっさりめですが残さず食べられています。

 

ここまでは昨日と同じです。明日も同じなら弱っていないという意味ではそれでいいのでしょう。

 

ただ、高齢者だからといって食事は柔らかければ柔らかいほどいいというわけでは必ずしもなく、弁当を取るにしても柔らかいものばかりのコースを選ぶことはできますがそういうことを望んでいるわけではないと言います。そこそこふつうの固さでも食べられるものは食べます。ただ、肉類と油物は食べた後ほどなく胃痛や胃もたれが起きてくるのと、それが必ず夜中まで続くのが大変嫌で気が重いというのです。

 

胃もたれが収まらないのでうっとうしく、夜中に目を覚ましてキッチンまでやって来てお茶を飲むと、なぜかわかりませんがすうっと楽になるようです。今のところは。

 

しかしもし、お茶を飲んでも胃痛や胃もたれが取れないようになってくれば、その時はどうするのがいいのか。治療薬を服用するとしても後期高齢者の場合、よくあるように治療薬自体が逆に胃を荒らす原因になってしまい本末転倒です。そうはいっていてもだんだんそうなっていくでしょう。そうなった時、ほかにどんな方法が用意されているのか。身近な家族としてはまるで先の見えない世の中になって既に久しく、さらにこの傾向はますます加速してきたと実感せずにはいられません。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・<嫉妬の力>による欧米から東アジアへの瞬間移動

2023年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

愛するという形を用いて、ニーチェの言葉へ置き換えれば、<私>はアルベルチーヌを支配することを欲していた。<幽閉・監視・監禁>だけでなく、友人たちを利用して行った幾つかのスパイ行為を含むと、極めて現代的な<管理>のあり方に限りなく近づく。それは管理されている側が管理されていることを忘れ去ってしまうほど巧妙かつ狡猾な方法であり、ややもすれば管理されている側はとうとう<自由>を手に入れたかと勘違いしてしまうことすらしばしば起こる。

 

ところが、「アルベルチーヌにたいする私の愛情においては、知りたいという欲求よりも、私が知っているとアルベルチーヌに知らしめたいという欲求のほうがつねに優位を占めていた」がゆえに、管理はいつも圧倒的圧力として感じ取られてしまうほかない。したがって「その結果として、アルベルチーヌからそれまで以上に愛されたためしは一度もなく、むしろ逆の事態になった」。

 

「たとえばアルベルチーヌがサン=マルタン=ル=ヴェチェへ行きたいという願望を表明したことなどは一例で、その名に興味を覚えたからと言うのだが、だれかその土地の農家の娘と知り合いになったのがほんとうの理由だったのかもしれない。とはいえシャワー係に訊ねてエメがそれを教えてくれたとしても、なんにもならなかった。そのことをエメが私に教えてくれたのをアルベルチーヌは永久に知るはずはないからで、というのもアルベルチーヌにたいする私の愛情においては、知りたいという欲求よりも、私が知っているとアルベルチーヌに知らしめたいという欲求のほうがつねに優位を占めていたのである。そのほうが異なる幻想をいだくふたりのあいだに存在する隔たりを解消できたからであるが、その結果として、アルベルチーヌからそれまで以上に愛されたためしは一度もなく、むしろ逆の事態になった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.228~229」岩波文庫 二〇一七年)

 

しかし注目したいのはプルーストがあからさまに<暴露>して見せている事情だけにとどまらない。なるほど<私>が選択した方法がアルベルチーヌを死へ追いやったことは否定できないしすべきでもない。だが<私>はこの箇所でもう一つのおぞましい構造の出現を欲望してもいる。<私>はアルベルチーヌについてすべてを知っていると<知らしめておく>ことで、「そのほうが異なる幻想をいだくふたりのあいだに存在する隔たりを解消できたからである」と同一化の暴力を平然と肯定する言葉を振りかざしている点であきらかだろう。

 

<共同幻想>(法・国家)の圧力によって相異なる価値観で結ばれることのある<対幻想>(性・セックス・家族)を徹底的に叩き潰した上で改めて<共同幻想>(法・国家)の衣で包み込み、<共同幻想>(法・国家)が<対幻想>(性・セックス・家族)を内包するという政治形態。吉本隆明はそれを欧米にはまるで見られない東アジア独特の国家形態として述べた。しかしプルースト作品でそれに言及できるのはなぜだろう。<私>の置かれた心の状態が、伝統的な欧米の<言語=理性>の<倫理>からはみ出した精神状態としての<嫉妬>の暴力に包み込まれているからである。

 

支離滅裂たる<嫉妬>の暴力は読者を瞬時に欧米から東アジアへ移動させることができる。読者の知らぬ間に、である。そういう意味で<私>の嫉妬の力は、欧米の理性からも倫理からも遠く離れた東アジアの辺境の<共同幻想>(法・国家)として、アルベルチーヌが理想とする<対幻想>(性・セックス・家族)を徹底的に叩き潰そうと虎視眈々と身構えていたというわけだ。ヘーゲルから引こう。

 

「夫と妻、両親と子供、兄妹というきょうだい、これら三つの家族関係のうちで、まず、《夫》と《妻》の《関係》は、一方の意識が他方の意識のうちに、自分を《直接》認めることであり、互いに認め合うという認識の関係である。この関係は、相互認識であっても《自然的》であり、人倫的認識ではないから、精神の『表象』であり『像』であるに止まり、現実の精神そのものではない。ーーーそれは精神を想い浮べ、その像をもちはするが、それらの関係は、自分とは別のものにおいて現実となる。だからこの関係は自らにおいてではなく、子供という他者において現実となる。ーーーこの関係は、この他者が生成することでありこの他者のうちで自ら消えて行くことである。そして世代から世代へ進むこの交替は、民族のうちに存立している。ーーー夫と妻相互の敬愛は、自然的な関係と感覚を混えており、その関係はそれ自身においては自己還帰しない。また、『両親』と『子供』相互の敬愛という第二の関係も、それと同じである。子供に対する両親の敬愛も、自分の現実を他者のうちにもっており、他者のうちに自立存在(対自存在、自独存在)が生成して行くのを見るだけで、それを取りもどしえないという感動に影響されている。かえって子供は、自己の現実をえて、よそよそしいものになったままである。ーーーだがこれとは逆に、子供の両親に対する敬愛は、自分自身の生成、つまり自体を、消えて行く両親においてもっており、自立存在や自分の自己意識は、その本源たる両親から分かれることによってのみ、獲られるという感動に伴われているが、ーーーこの分離のうちでその本源は枯れて行くのである。これら二つの関係は、両者に分け与えられている両側面の移行と、不等のうちに止まっている」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.34~35」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

ヘーゲルは<親>と<子>との間で<対幻想>が成立することを知っていたし認めてもいた。ただそれを<対幻想>と呼んでいないだけであって、この箇所に限っていえば事実上、吉本隆明の言い分は十分通用する。

 

「『感動』とか『敬愛』とかいう言葉を排除して、ただ<対幻想>という言葉をつかうことにすれば、事態はもっとはっきりしてくる。このばあい『感動』とか『敬愛』とかヘーゲルが呼んでいるのは心身相関の<性>的な構造にほかならない。『古事記』のヤマトタケルが負っている<倫理>は、ヘーゲルのいう『感動』や『敬愛』による家族内の倫理ではない。うとまれた<子>は<父>のもっている政治権力に反抗してこれを奪いとるか、あるいは<父>の宣命をうけいれて<父>の権力を代行しながら、個体としては野垂れ死をするか二者択一の道しかのこされていない。そこにはじめて<倫理>の問題があらわれてくる。いいかえればもともと<家族>内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>内の《あつれき》にのりうつったとき<倫理>の本質があらわれる」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.215~216」角川文庫 一九八二年)

 

吉本隆明が<あつれき>の犠牲者として最初から決定されていると指し示すのが<父>(天皇)に対する<子>(ヤマトタケル)にほかならない。「古事記」について賛否両論あるとかないとかのレベルではまるでなく、すべての読者が「古事記」に対するこれまでの読解の変更を迫られる。

 

「『古事記』のヤマトタケルの物語は、統一部族国家の成立期に<英雄時代>とよばれる戦乱期が、歴史的に実在したかどうかとはかかわりがない。かりに景行期に部族国家のあいだに戦乱があり、のちの大和朝廷勢力がこの戦乱の鎮圧に成功した支配者をもったのが歴史的な事実だったと仮定しても、『古事記』のヤマトタケルの遠征物語は、この歴史的な事実ときりはなして読まれるべきである。ほんらいは家族内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>の問題としてあらわれる。そういうプリミティヴな<権力>の構成譚として、はじめて意味をもっている」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.216」角川文庫 一九八二年)

 

「古事記」にある景行天皇の条。他の条と同じくひとまず系譜が述べられる。しかしその後すぐ、ヤマトタケルの英雄冒険譚であると同時に<父>(天皇)が<子>(ヤマトタケル)の潜在的な力に脅威を感じる箇所へ雪崩れ込んでいる。あまりに象徴的だ。ヤマトタケルは最初に<父>(天皇)の地位を脅かし怖れられるがゆえに西へ東へ次々と戦地へ追いやられる<子>であり、「もともと<家族>内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>内の《あつれき》にのりうつったとき<倫理>の本質があらわれる」ような、家族内<生贄=人柱>として登場してくる。「古事記」から引こう。

 

「天皇がヲウスを呼んで言うにはーーー『おまえの兄はなぜか朝と夕の食事の席に出てこない。行ってねんごろに諭してこい』と言った。それから五日ほど過ぎたが、まだ出てこない。天皇はヲウスをまた呼んでーーー『なぜ今もっておまえの兄は顔を見せないのだろう。諭してやったのか』と問うた。『ねんごろに諭しました』との答え。『どう諭したのか』と更に問うと、答えて言うにはーーー『朝、明け方に、便所に入るところを待ち伏せして、引っ摑んで手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てました』と答えた。

 

天皇がこの息子の猛(たけ)く荒々しい性格を恐れて言うにはーーー『西の方に熊曾建(クマソ・タケル)という二人がいる。我らに刃向かう無礼な奴らだ。行って殺してこい』と言って遣わした。ヲウスはその時はまだ髪を額で結っていた。まず叔母のヤマトヒメのところに行ってその衣装を分けてもらい、剣を懐に入れて出立した。熊曾建(クマソタケル)の家に着いたみると、周囲を兵士たちが三重に囲んで、新しい部屋を造っているところだった。人々は新しい部屋の祝いの宴を開こうと食事の準備などをしていたので、あたりをうろついてその日を待った。宴の日がくるとヲウスは童女のように髪に櫛(くし)を入れて垂らし、叔母にもらった女の衣装を着て童女の姿になって、女たちに混じって新築の部屋に入った。クマソタケルたちはこの乙女を見ていたく気に入り、二人の間に坐(すわ)らせて宴席を盛り上げた。宴もたけなわとなった頃、ヲウスは懐から剣を出してクマソ兄の襟首を引っ摑み、胸に剣を刺し通した。クマソ弟はこれを見て恐れて逃げ出したが、ヲウスはその部屋の階段の下で追いつき、背中から摑みかかって尻から剣を刺し通した。そこでクマソ弟が言うにはーーー『その剣を動かさないで下さい。まだあなたに言いたいことがある』と言った。言うことを聞いてやることにして、その場に押さえ込んだ。クマソ弟が問うにはーーー『あなたは誰ですか』と問うた。そこで答えて言うにはーー『私は、纏向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)に住まわれて大八島国を治めるオホタラシヒコオシロワケの子で、名は倭男具那王(ヤマトヲグナのキミ)と言う。おまえらクマソの二人は我らに刃向かう無礼な奴らだから退治せよと言われたので、そのためにやってきた』と言った。クマソ弟がそこで言うにはーーー『その言葉のとおりです。西の方には私ら二人を除いて勇猛で強い者はおりません。しかし大倭の国には私らより強い男がいらっしゃる。あなたに名前を上げましょう。これからは倭建命(ヤマト・タケルのミコ)と名乗りなさい』と言った。そこまで言わせたところで熟れた瓜(うり)を切り裂くように斬って殺した。それ以来は尊称をつかって倭建命(ヤマト・タケルのミコト)と名乗ることにした。帰路には山の蚊神、河の神、また穴戸(あなと)の神などをすべて言葉で服従させて戻った。

 

倭建命(ヤマトタケルのミコト)は出雲の国に入った。出雲建(イヅモ・タケル)を殺そうと思って、まずは親友になった。そして赤檮(いちい)の木で偽の刀を作り、これを腰に帯びて、二人で肥川に水浴びに行った。ヤマトタケルは先に川から上がって、出雲建(イヅモタケル)がそこに外して置いていた剣を取って、『刀を取り替えよう』と言った。イズモタケルも川から上がってきてヤマトタケルの偽の刀を腰に着けた。するとヤマトタケルは、『ちゃんばらごっこしないか』と相手を誘った。二人とも刀を抜こうとしたが、イヅモタケルの刀はどうやっても抜けない。ヤマトタケルは刀を抜いてイヅモタケルを打ち殺した。そこで歌を詠むにはーーー

 

やつめさす 出雲建(いづもたける)が 佩(は)ける刀(たち) 黒葛多纏(つづらさはま)き さ身無(みな)しにあはれ

 

〔(やつめさす)イヅモタケルが身に着けた刀ときたら、葛をたくさん巻いて見た目はいいが、刀身がないとはお気の毒〕

 

こうして平定の務めを果たして、戻って報告した」(池澤夏樹訳「古事記・中巻・P.202~206」河出書房新社 二〇一四年)

 

西征は終わった。が、なぜか<父>は不服である。<父>の不服が<子>を破滅させる。<子>の破滅を加速させるのは<子>自身の超人的力量である。逆説ではあるが逆説は逆説なりに次のように進行する。逆説をどう取り扱えば順接のように見えるか。この手品について「古事記」編纂者ほどよく知っていた人々はおそらくいない。

 

「天皇がすぐにまたヤマトタケルに命じて言うにはーーー『東の方に十二の国々があって、荒々しい神や服従しない民がいる。これを説得して従うと言わせてこい』と言った。そこで吉備の臣らの祖先である御鉏友耳建日子(ミスキ・トモミ・タケ・ヒコ)を副官としてつけ、柊(ひいらぎ)で作った長さ八尋(やひろ)の矛を授けた。この命を受けたヤマトタケルはまず伊勢ん大神の神殿にお参りをして、神前で祈った後で、叔母のヤマトヒメに言うにはーーー『天皇は私が死ねばいいと思っているのでしょうか。西の方の悪人どもを退治しに送り出して戻って報告した後、さほどの時も経ていないというのに、なぜまた兵士も付けてくれないまま、東の方の十二国の悪人どもを平定せよと遣わすのか。これを考えてみれば、私が死ねばいいと思っているに違いありません』と言って、嘆いて泣いた。ヤマトヒメは草薙(くさなぎ)の剣(たち)をヤマトタケルに与え、また袋を一つ手渡して、『急な危難に出遭ったらこの袋の口を開きなさい』と言った。

 

尾張の国に着いたところで、後に尾張の国造(くにのみやつこ)の祖先になる、美夜受比売(ミヤズ・ヒメ)の家に行って泊まった。この人を妻にしようと思ったが、妻にするのは帰る時にしようと思い直し、約束をした上で、東の国に進んで山や河の荒々しい神々ならびに天皇の権威に従わない者どもをすべて説得して従わせた。相武(さがむ)の国に至った時、ここの国造がヤマトタケルを騙そうとして言うにはーーー『この先の野の中に大きな沼があります。この沼の中に住む神はまこと猛々しく乱暴な神です』と言った。その神を見ようと野に入った。国造が野に火を放った。騙されたと気付いて、叔母ヤマトヒメから貰(もら)った袋の口を開いてみると、中には火打ち石があった。まず刀で周囲の草を薙(な)ぎ払い、火打ち石で火を熾(おこ)して向い火を点(つ)けて野火の勢いを止めた。戻ってから国造らを切り殺して火で焼き滅ぼした。だからこの土地を今も焼遣(やきつ)と呼ぶ。

 

それからも旅を続けて、走水(はしりみず)の海を渡ろうとした時、この海峡の神が波を起こして船をぐるぐる回し、先へ進ませなかった。するとヤマトタケルの后の弟橘比売命(オト・タチバナ・ヒメのミコト)が言うにはーーー『私があなたに代わって海の中に入りましょう。あなたは与えられた仕事を果たして帰って報告なさって下さい』と言って、海へ入ろうとする時に、菅(すが)畳八重、皮畳八重、絁(きぬ)畳八重を波の上に敷いて、船を下りてその上に坐った。荒波はすぐに静まって船は進むことができた。そこでこの后が歌って、

 

さねさし 相武(さがむ)の小野(おの)に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問(と)ひし君はも

 

〔(さねさし)相模の野で火に囲まれた時、火の中に立っておまえは大丈夫かと聞いてくれたあなた〕

 

と歌った。

七日の後、后の櫛が海辺に流れ着いた。その櫛を取って陵墓を作って納めた。

 

更に旅を続けて、荒々しい蝦夷(えみし)をすべて服従させ、また山や川の荒々しい神たちをも平定して、京都へ帰ろうと戻る途中、足柄(あしがら)の坂本(さかもと)まで来たところで乾飯(かれいい)などを食べていると坂の神が白い鹿の姿で現れた。近くに来るのを待ってヤマトタケルが食べ残した蒜(ひる)の端で打ったところ、目に当たって鹿は死んでしまった。その坂に立って、嘆いて言うには、『あづまはや』と三回言った。だからその地は『あづま』と呼ばれることになった。

 

そこを越えて甲斐に出た。酒折宮(さかおりのみや)にいた時にヤマトタケルがーーー

 

新治(にひばり) 筑波(つくは)を過ぎて 幾夜か寝つる

 

〔新治と筑波を過ぎてから何晩寝たんだったか〕

 

と歌うと、火の番の老人がその先を続けてーーー

 

かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日(とをか)を

 

〔日々を重ねて九泊十日となりました〕

 

と歌った。そこでこの老人を褒めて、東(あづま)の国造にした。

 

そこから科野(しなの)へ抜け、科野の坂の神を服従させて、尾張の国まで戻り、先に約束しておいた美夜受比売(ミヤズヒメ)のところに到着した。食事の時にミヤズヒメが大きな盃(さかずき)に酒を満たして差し上げた。この時、襲(おすい)の裾に生理の血がついていた。ヤマトタケルがそれを見て歌うようにはーーー

 

ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやかひな)を 枕(ま)かむとは 我(あれ)はすれど さ寝(ね)むとは 我(あれ)は思へど 汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾(すそ)に 月立ちにけり

 

〔(ひさかたの)天の香具山を鎌のように細い白鳥が渡ってゆく。その白鳥の首のようにしなやかでなよなよとした腕のきみと枕を共にしようとしたら、抱いて寝ようとしたら、きみが着ている服の裾に月が昇った〕

 

これに対してミヤズヒメが答えて歌うにはーーー

 

高光(たかひか)る 日の御子(みこ) やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経往(きへゆ)く 諾(うべ)な諾な 君待ち難(がた)に 我が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立たなむよ

 

〔(高光る)太陽の御子、(やすみしし)私の高貴な方。(あらたまの)年が来るように、(あらたまの)月は去ります。仰(おっしゃ)るとおり、あなたを待ちきれなくて、わたしの服の裾に月が昇りもしましょうよ〕

 

と歌った。その夜は二人で共に寝て、大事な刀である草薙の剣をミヤズヒメのところに置いたまま、伊服岐(いぶき)の山の神を討ち取りに行った。

 

そこでヤマトタケルが言うことにはーーー『この山の神は素手でやっつけてやろう』と言った。山に登ってゆくと途中で白い猪(いのしし)に出会った。大きさは牛ほどもあった。そこで言挙して言うにはーーー『この白い猪はたぶん神の使いだろう。今殺さなくても帰りに殺せばいい』と言ってそのまま山に登った。すると激しい氷雨が降ってきて、そのためにヤマトタケルは朦朧(もうろう)となってしまった。(白い猪は神の使いではなく神そのものだったのに、間違いを言挙したからこんなことになったのだ)」(池澤夏樹訳「古事記・中巻・P.206~214」河出書房新社 二〇一四年)

 

ここまで来ればヤマトタケルの死は時間の問題だ。「古事記」編纂者の思惑通りに物語は進んでいく。死に方はほとんど野垂れ死、あるいは衰弱死。今でいえば<過労死>といっていいかも知れない。身も心もぼろぼろになって死んだ。にもかかわらず<葬送の儀式>は打って変わってあまりにも壮大で華々しく美しく飾られ過ぎている。なぜだろう。フロイトから。

 

「したがって、神話は個人が集団心理からぬけ出す第一歩である。最初の神話はたしかに心理学的な神話、つまり英雄神話であった。説明的な自然神話は、はるか後年になって登場したにちがいない。このような第一歩を踏みだし、空想の中で集団から解放された詩人は、ランクの注釈のつづきによれば、現実への帰路を見出すことも心得ている。なぜならば彼は集団の中に出かけて行って、彼らに自分の発案した主人公の行為を物語るからである。この主人公とは根本的には彼自身以外の何者でもない。このようにして彼は現実に降りていって、彼の聴衆を空想へと高める。聴衆は詩人の言葉を理解して、父祖にたいするおなじ憧憬の気持から英雄と自分を同一視することができる。英雄神話の虚構は英雄を神格化することで頂点に達する」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.247』人文書院 一九七〇年)

 

吉本隆明はこう述べる。

 

「フロイトは『神話は個人が集団心理からぬけ出す一歩である。最初の神話はたしかに心理学的な神話、つまり、英雄神話であった』(『集団心理学と自我の分析』)とのべているが、この見解はある意味では正鵠を射ている。どうしてかといえば『古事記』のヤマトタケル説話に英雄譚の面影があるとすれば、その本質はヤマトタケルの西征・東征の英雄的な物語の筋書きにあるのではなく、父権支配が確立した時期の政治権力をもった支配者の<父>と、その政治支配にとってかわる器量をもった<子>の《あつれき》が、<共同幻想>の構成としてしめされた点にあるからである。この<共同幻想>の《あつれき》は、フロイトの理論では<父殺し>の《あつれき》におきかえられるはずである」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.216~217」角川文庫 一九八二年)

 

プルースト作品で大いに語られる<嫉妬の力>があぶり出してくるもの。

 

<私>はアルベルチーヌの中に<超人>を見ないわけにはいかない。それ(超人)であるがゆえ、アルベルチーヌの生(性)におけるトランス(横断的)複数性についてどこからやって来るのか測り知れないおぞましい<有罪性>を見ないではいられず、根拠一つないにもかかわらず<生贄=人柱>として取り扱うほかないと思い込んだ。そして結局のところ死地へ赴かせたのだ。

 

<私>はアルベルチーヌを怖れる。ゆえに<私>はアルベルチーヌを殺す。そういうことなのだろうか。