愛するという形を用いて、ニーチェの言葉へ置き換えれば、<私>はアルベルチーヌを支配することを欲していた。<幽閉・監視・監禁>だけでなく、友人たちを利用して行った幾つかのスパイ行為を含むと、極めて現代的な<管理>のあり方に限りなく近づく。それは管理されている側が管理されていることを忘れ去ってしまうほど巧妙かつ狡猾な方法であり、ややもすれば管理されている側はとうとう<自由>を手に入れたかと勘違いしてしまうことすらしばしば起こる。
ところが、「アルベルチーヌにたいする私の愛情においては、知りたいという欲求よりも、私が知っているとアルベルチーヌに知らしめたいという欲求のほうがつねに優位を占めていた」がゆえに、管理はいつも圧倒的圧力として感じ取られてしまうほかない。したがって「その結果として、アルベルチーヌからそれまで以上に愛されたためしは一度もなく、むしろ逆の事態になった」。
「たとえばアルベルチーヌがサン=マルタン=ル=ヴェチェへ行きたいという願望を表明したことなどは一例で、その名に興味を覚えたからと言うのだが、だれかその土地の農家の娘と知り合いになったのがほんとうの理由だったのかもしれない。とはいえシャワー係に訊ねてエメがそれを教えてくれたとしても、なんにもならなかった。そのことをエメが私に教えてくれたのをアルベルチーヌは永久に知るはずはないからで、というのもアルベルチーヌにたいする私の愛情においては、知りたいという欲求よりも、私が知っているとアルベルチーヌに知らしめたいという欲求のほうがつねに優位を占めていたのである。そのほうが異なる幻想をいだくふたりのあいだに存在する隔たりを解消できたからであるが、その結果として、アルベルチーヌからそれまで以上に愛されたためしは一度もなく、むしろ逆の事態になった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.228~229」岩波文庫 二〇一七年)
しかし注目したいのはプルーストがあからさまに<暴露>して見せている事情だけにとどまらない。なるほど<私>が選択した方法がアルベルチーヌを死へ追いやったことは否定できないしすべきでもない。だが<私>はこの箇所でもう一つのおぞましい構造の出現を欲望してもいる。<私>はアルベルチーヌについてすべてを知っていると<知らしめておく>ことで、「そのほうが異なる幻想をいだくふたりのあいだに存在する隔たりを解消できたからである」と同一化の暴力を平然と肯定する言葉を振りかざしている点であきらかだろう。
<共同幻想>(法・国家)の圧力によって相異なる価値観で結ばれることのある<対幻想>(性・セックス・家族)を徹底的に叩き潰した上で改めて<共同幻想>(法・国家)の衣で包み込み、<共同幻想>(法・国家)が<対幻想>(性・セックス・家族)を内包するという政治形態。吉本隆明はそれを欧米にはまるで見られない東アジア独特の国家形態として述べた。しかしプルースト作品でそれに言及できるのはなぜだろう。<私>の置かれた心の状態が、伝統的な欧米の<言語=理性>の<倫理>からはみ出した精神状態としての<嫉妬>の暴力に包み込まれているからである。
支離滅裂たる<嫉妬>の暴力は読者を瞬時に欧米から東アジアへ移動させることができる。読者の知らぬ間に、である。そういう意味で<私>の嫉妬の力は、欧米の理性からも倫理からも遠く離れた東アジアの辺境の<共同幻想>(法・国家)として、アルベルチーヌが理想とする<対幻想>(性・セックス・家族)を徹底的に叩き潰そうと虎視眈々と身構えていたというわけだ。ヘーゲルから引こう。
「夫と妻、両親と子供、兄妹というきょうだい、これら三つの家族関係のうちで、まず、《夫》と《妻》の《関係》は、一方の意識が他方の意識のうちに、自分を《直接》認めることであり、互いに認め合うという認識の関係である。この関係は、相互認識であっても《自然的》であり、人倫的認識ではないから、精神の『表象』であり『像』であるに止まり、現実の精神そのものではない。ーーーそれは精神を想い浮べ、その像をもちはするが、それらの関係は、自分とは別のものにおいて現実となる。だからこの関係は自らにおいてではなく、子供という他者において現実となる。ーーーこの関係は、この他者が生成することでありこの他者のうちで自ら消えて行くことである。そして世代から世代へ進むこの交替は、民族のうちに存立している。ーーー夫と妻相互の敬愛は、自然的な関係と感覚を混えており、その関係はそれ自身においては自己還帰しない。また、『両親』と『子供』相互の敬愛という第二の関係も、それと同じである。子供に対する両親の敬愛も、自分の現実を他者のうちにもっており、他者のうちに自立存在(対自存在、自独存在)が生成して行くのを見るだけで、それを取りもどしえないという感動に影響されている。かえって子供は、自己の現実をえて、よそよそしいものになったままである。ーーーだがこれとは逆に、子供の両親に対する敬愛は、自分自身の生成、つまり自体を、消えて行く両親においてもっており、自立存在や自分の自己意識は、その本源たる両親から分かれることによってのみ、獲られるという感動に伴われているが、ーーーこの分離のうちでその本源は枯れて行くのである。これら二つの関係は、両者に分け与えられている両側面の移行と、不等のうちに止まっている」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.34~35」平凡社ライブラリー 一九九七年)
ヘーゲルは<親>と<子>との間で<対幻想>が成立することを知っていたし認めてもいた。ただそれを<対幻想>と呼んでいないだけであって、この箇所に限っていえば事実上、吉本隆明の言い分は十分通用する。
「『感動』とか『敬愛』とかいう言葉を排除して、ただ<対幻想>という言葉をつかうことにすれば、事態はもっとはっきりしてくる。このばあい『感動』とか『敬愛』とかヘーゲルが呼んでいるのは心身相関の<性>的な構造にほかならない。『古事記』のヤマトタケルが負っている<倫理>は、ヘーゲルのいう『感動』や『敬愛』による家族内の倫理ではない。うとまれた<子>は<父>のもっている政治権力に反抗してこれを奪いとるか、あるいは<父>の宣命をうけいれて<父>の権力を代行しながら、個体としては野垂れ死をするか二者択一の道しかのこされていない。そこにはじめて<倫理>の問題があらわれてくる。いいかえればもともと<家族>内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>内の《あつれき》にのりうつったとき<倫理>の本質があらわれる」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.215~216」角川文庫 一九八二年)
吉本隆明が<あつれき>の犠牲者として最初から決定されていると指し示すのが<父>(天皇)に対する<子>(ヤマトタケル)にほかならない。「古事記」について賛否両論あるとかないとかのレベルではまるでなく、すべての読者が「古事記」に対するこれまでの読解の変更を迫られる。
「『古事記』のヤマトタケルの物語は、統一部族国家の成立期に<英雄時代>とよばれる戦乱期が、歴史的に実在したかどうかとはかかわりがない。かりに景行期に部族国家のあいだに戦乱があり、のちの大和朝廷勢力がこの戦乱の鎮圧に成功した支配者をもったのが歴史的な事実だったと仮定しても、『古事記』のヤマトタケルの遠征物語は、この歴史的な事実ときりはなして読まれるべきである。ほんらいは家族内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>の問題としてあらわれる。そういうプリミティヴな<権力>の構成譚として、はじめて意味をもっている」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.216」角川文庫 一九八二年)
「古事記」にある景行天皇の条。他の条と同じくひとまず系譜が述べられる。しかしその後すぐ、ヤマトタケルの英雄冒険譚であると同時に<父>(天皇)が<子>(ヤマトタケル)の潜在的な力に脅威を感じる箇所へ雪崩れ込んでいる。あまりに象徴的だ。ヤマトタケルは最初に<父>(天皇)の地位を脅かし怖れられるがゆえに西へ東へ次々と戦地へ追いやられる<子>であり、「もともと<家族>内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>内の《あつれき》にのりうつったとき<倫理>の本質があらわれる」ような、家族内<生贄=人柱>として登場してくる。「古事記」から引こう。
「天皇がヲウスを呼んで言うにはーーー『おまえの兄はなぜか朝と夕の食事の席に出てこない。行ってねんごろに諭してこい』と言った。それから五日ほど過ぎたが、まだ出てこない。天皇はヲウスをまた呼んでーーー『なぜ今もっておまえの兄は顔を見せないのだろう。諭してやったのか』と問うた。『ねんごろに諭しました』との答え。『どう諭したのか』と更に問うと、答えて言うにはーーー『朝、明け方に、便所に入るところを待ち伏せして、引っ摑んで手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てました』と答えた。
天皇がこの息子の猛(たけ)く荒々しい性格を恐れて言うにはーーー『西の方に熊曾建(クマソ・タケル)という二人がいる。我らに刃向かう無礼な奴らだ。行って殺してこい』と言って遣わした。ヲウスはその時はまだ髪を額で結っていた。まず叔母のヤマトヒメのところに行ってその衣装を分けてもらい、剣を懐に入れて出立した。熊曾建(クマソタケル)の家に着いたみると、周囲を兵士たちが三重に囲んで、新しい部屋を造っているところだった。人々は新しい部屋の祝いの宴を開こうと食事の準備などをしていたので、あたりをうろついてその日を待った。宴の日がくるとヲウスは童女のように髪に櫛(くし)を入れて垂らし、叔母にもらった女の衣装を着て童女の姿になって、女たちに混じって新築の部屋に入った。クマソタケルたちはこの乙女を見ていたく気に入り、二人の間に坐(すわ)らせて宴席を盛り上げた。宴もたけなわとなった頃、ヲウスは懐から剣を出してクマソ兄の襟首を引っ摑み、胸に剣を刺し通した。クマソ弟はこれを見て恐れて逃げ出したが、ヲウスはその部屋の階段の下で追いつき、背中から摑みかかって尻から剣を刺し通した。そこでクマソ弟が言うにはーーー『その剣を動かさないで下さい。まだあなたに言いたいことがある』と言った。言うことを聞いてやることにして、その場に押さえ込んだ。クマソ弟が問うにはーーー『あなたは誰ですか』と問うた。そこで答えて言うにはーー『私は、纏向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)に住まわれて大八島国を治めるオホタラシヒコオシロワケの子で、名は倭男具那王(ヤマトヲグナのキミ)と言う。おまえらクマソの二人は我らに刃向かう無礼な奴らだから退治せよと言われたので、そのためにやってきた』と言った。クマソ弟がそこで言うにはーーー『その言葉のとおりです。西の方には私ら二人を除いて勇猛で強い者はおりません。しかし大倭の国には私らより強い男がいらっしゃる。あなたに名前を上げましょう。これからは倭建命(ヤマト・タケルのミコ)と名乗りなさい』と言った。そこまで言わせたところで熟れた瓜(うり)を切り裂くように斬って殺した。それ以来は尊称をつかって倭建命(ヤマト・タケルのミコト)と名乗ることにした。帰路には山の蚊神、河の神、また穴戸(あなと)の神などをすべて言葉で服従させて戻った。
倭建命(ヤマトタケルのミコト)は出雲の国に入った。出雲建(イヅモ・タケル)を殺そうと思って、まずは親友になった。そして赤檮(いちい)の木で偽の刀を作り、これを腰に帯びて、二人で肥川に水浴びに行った。ヤマトタケルは先に川から上がって、出雲建(イヅモタケル)がそこに外して置いていた剣を取って、『刀を取り替えよう』と言った。イズモタケルも川から上がってきてヤマトタケルの偽の刀を腰に着けた。するとヤマトタケルは、『ちゃんばらごっこしないか』と相手を誘った。二人とも刀を抜こうとしたが、イヅモタケルの刀はどうやっても抜けない。ヤマトタケルは刀を抜いてイヅモタケルを打ち殺した。そこで歌を詠むにはーーー
やつめさす 出雲建(いづもたける)が 佩(は)ける刀(たち) 黒葛多纏(つづらさはま)き さ身無(みな)しにあはれ
〔(やつめさす)イヅモタケルが身に着けた刀ときたら、葛をたくさん巻いて見た目はいいが、刀身がないとはお気の毒〕
こうして平定の務めを果たして、戻って報告した」(池澤夏樹訳「古事記・中巻・P.202~206」河出書房新社 二〇一四年)
西征は終わった。が、なぜか<父>は不服である。<父>の不服が<子>を破滅させる。<子>の破滅を加速させるのは<子>自身の超人的力量である。逆説ではあるが逆説は逆説なりに次のように進行する。逆説をどう取り扱えば順接のように見えるか。この手品について「古事記」編纂者ほどよく知っていた人々はおそらくいない。
「天皇がすぐにまたヤマトタケルに命じて言うにはーーー『東の方に十二の国々があって、荒々しい神や服従しない民がいる。これを説得して従うと言わせてこい』と言った。そこで吉備の臣らの祖先である御鉏友耳建日子(ミスキ・トモミ・タケ・ヒコ)を副官としてつけ、柊(ひいらぎ)で作った長さ八尋(やひろ)の矛を授けた。この命を受けたヤマトタケルはまず伊勢ん大神の神殿にお参りをして、神前で祈った後で、叔母のヤマトヒメに言うにはーーー『天皇は私が死ねばいいと思っているのでしょうか。西の方の悪人どもを退治しに送り出して戻って報告した後、さほどの時も経ていないというのに、なぜまた兵士も付けてくれないまま、東の方の十二国の悪人どもを平定せよと遣わすのか。これを考えてみれば、私が死ねばいいと思っているに違いありません』と言って、嘆いて泣いた。ヤマトヒメは草薙(くさなぎ)の剣(たち)をヤマトタケルに与え、また袋を一つ手渡して、『急な危難に出遭ったらこの袋の口を開きなさい』と言った。
尾張の国に着いたところで、後に尾張の国造(くにのみやつこ)の祖先になる、美夜受比売(ミヤズ・ヒメ)の家に行って泊まった。この人を妻にしようと思ったが、妻にするのは帰る時にしようと思い直し、約束をした上で、東の国に進んで山や河の荒々しい神々ならびに天皇の権威に従わない者どもをすべて説得して従わせた。相武(さがむ)の国に至った時、ここの国造がヤマトタケルを騙そうとして言うにはーーー『この先の野の中に大きな沼があります。この沼の中に住む神はまこと猛々しく乱暴な神です』と言った。その神を見ようと野に入った。国造が野に火を放った。騙されたと気付いて、叔母ヤマトヒメから貰(もら)った袋の口を開いてみると、中には火打ち石があった。まず刀で周囲の草を薙(な)ぎ払い、火打ち石で火を熾(おこ)して向い火を点(つ)けて野火の勢いを止めた。戻ってから国造らを切り殺して火で焼き滅ぼした。だからこの土地を今も焼遣(やきつ)と呼ぶ。
それからも旅を続けて、走水(はしりみず)の海を渡ろうとした時、この海峡の神が波を起こして船をぐるぐる回し、先へ進ませなかった。するとヤマトタケルの后の弟橘比売命(オト・タチバナ・ヒメのミコト)が言うにはーーー『私があなたに代わって海の中に入りましょう。あなたは与えられた仕事を果たして帰って報告なさって下さい』と言って、海へ入ろうとする時に、菅(すが)畳八重、皮畳八重、絁(きぬ)畳八重を波の上に敷いて、船を下りてその上に坐った。荒波はすぐに静まって船は進むことができた。そこでこの后が歌って、
さねさし 相武(さがむ)の小野(おの)に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問(と)ひし君はも
〔(さねさし)相模の野で火に囲まれた時、火の中に立っておまえは大丈夫かと聞いてくれたあなた〕
と歌った。
七日の後、后の櫛が海辺に流れ着いた。その櫛を取って陵墓を作って納めた。
更に旅を続けて、荒々しい蝦夷(えみし)をすべて服従させ、また山や川の荒々しい神たちをも平定して、京都へ帰ろうと戻る途中、足柄(あしがら)の坂本(さかもと)まで来たところで乾飯(かれいい)などを食べていると坂の神が白い鹿の姿で現れた。近くに来るのを待ってヤマトタケルが食べ残した蒜(ひる)の端で打ったところ、目に当たって鹿は死んでしまった。その坂に立って、嘆いて言うには、『あづまはや』と三回言った。だからその地は『あづま』と呼ばれることになった。
そこを越えて甲斐に出た。酒折宮(さかおりのみや)にいた時にヤマトタケルがーーー
新治(にひばり) 筑波(つくは)を過ぎて 幾夜か寝つる
〔新治と筑波を過ぎてから何晩寝たんだったか〕
と歌うと、火の番の老人がその先を続けてーーー
かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日(とをか)を
〔日々を重ねて九泊十日となりました〕
と歌った。そこでこの老人を褒めて、東(あづま)の国造にした。
そこから科野(しなの)へ抜け、科野の坂の神を服従させて、尾張の国まで戻り、先に約束しておいた美夜受比売(ミヤズヒメ)のところに到着した。食事の時にミヤズヒメが大きな盃(さかずき)に酒を満たして差し上げた。この時、襲(おすい)の裾に生理の血がついていた。ヤマトタケルがそれを見て歌うようにはーーー
ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやかひな)を 枕(ま)かむとは 我(あれ)はすれど さ寝(ね)むとは 我(あれ)は思へど 汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾(すそ)に 月立ちにけり
〔(ひさかたの)天の香具山を鎌のように細い白鳥が渡ってゆく。その白鳥の首のようにしなやかでなよなよとした腕のきみと枕を共にしようとしたら、抱いて寝ようとしたら、きみが着ている服の裾に月が昇った〕
これに対してミヤズヒメが答えて歌うにはーーー
高光(たかひか)る 日の御子(みこ) やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経往(きへゆ)く 諾(うべ)な諾な 君待ち難(がた)に 我が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立たなむよ
〔(高光る)太陽の御子、(やすみしし)私の高貴な方。(あらたまの)年が来るように、(あらたまの)月は去ります。仰(おっしゃ)るとおり、あなたを待ちきれなくて、わたしの服の裾に月が昇りもしましょうよ〕
と歌った。その夜は二人で共に寝て、大事な刀である草薙の剣をミヤズヒメのところに置いたまま、伊服岐(いぶき)の山の神を討ち取りに行った。
そこでヤマトタケルが言うことにはーーー『この山の神は素手でやっつけてやろう』と言った。山に登ってゆくと途中で白い猪(いのしし)に出会った。大きさは牛ほどもあった。そこで言挙して言うにはーーー『この白い猪はたぶん神の使いだろう。今殺さなくても帰りに殺せばいい』と言ってそのまま山に登った。すると激しい氷雨が降ってきて、そのためにヤマトタケルは朦朧(もうろう)となってしまった。(白い猪は神の使いではなく神そのものだったのに、間違いを言挙したからこんなことになったのだ)」(池澤夏樹訳「古事記・中巻・P.206~214」河出書房新社 二〇一四年)
ここまで来ればヤマトタケルの死は時間の問題だ。「古事記」編纂者の思惑通りに物語は進んでいく。死に方はほとんど野垂れ死、あるいは衰弱死。今でいえば<過労死>といっていいかも知れない。身も心もぼろぼろになって死んだ。にもかかわらず<葬送の儀式>は打って変わってあまりにも壮大で華々しく美しく飾られ過ぎている。なぜだろう。フロイトから。
「したがって、神話は個人が集団心理からぬけ出す第一歩である。最初の神話はたしかに心理学的な神話、つまり英雄神話であった。説明的な自然神話は、はるか後年になって登場したにちがいない。このような第一歩を踏みだし、空想の中で集団から解放された詩人は、ランクの注釈のつづきによれば、現実への帰路を見出すことも心得ている。なぜならば彼は集団の中に出かけて行って、彼らに自分の発案した主人公の行為を物語るからである。この主人公とは根本的には彼自身以外の何者でもない。このようにして彼は現実に降りていって、彼の聴衆を空想へと高める。聴衆は詩人の言葉を理解して、父祖にたいするおなじ憧憬の気持から英雄と自分を同一視することができる。英雄神話の虚構は英雄を神格化することで頂点に達する」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.247』人文書院 一九七〇年)
吉本隆明はこう述べる。
「フロイトは『神話は個人が集団心理からぬけ出す一歩である。最初の神話はたしかに心理学的な神話、つまり、英雄神話であった』(『集団心理学と自我の分析』)とのべているが、この見解はある意味では正鵠を射ている。どうしてかといえば『古事記』のヤマトタケル説話に英雄譚の面影があるとすれば、その本質はヤマトタケルの西征・東征の英雄的な物語の筋書きにあるのではなく、父権支配が確立した時期の政治権力をもった支配者の<父>と、その政治支配にとってかわる器量をもった<子>の《あつれき》が、<共同幻想>の構成としてしめされた点にあるからである。この<共同幻想>の《あつれき》は、フロイトの理論では<父殺し>の《あつれき》におきかえられるはずである」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.216~217」角川文庫 一九八二年)
プルースト作品で大いに語られる<嫉妬の力>があぶり出してくるもの。
<私>はアルベルチーヌの中に<超人>を見ないわけにはいかない。それ(超人)であるがゆえ、アルベルチーヌの生(性)におけるトランス(横断的)複数性についてどこからやって来るのか測り知れないおぞましい<有罪性>を見ないではいられず、根拠一つないにもかかわらず<生贄=人柱>として取り扱うほかないと思い込んだ。そして結局のところ死地へ赴かせたのだ。
<私>はアルベルチーヌを怖れる。ゆえに<私>はアルベルチーヌを殺す。そういうことなのだろうか。