それにしても「ニオイバイカウツギ」とアルベルチーヌの「赤面」とはいつどこでどう繋がったのだろう。
「私を死ぬほど悲嘆に暮れさせたのは、ニオイバイカウツギの枝の一件であり、さらにアルベルチーヌが私を狡猾な人間で自分を嫌っているのだと考え、またそう言ったことである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.429」岩波文庫 二〇一七年)
アルベルチーヌとアンドレが同性愛行為に耽って楽しんでいる部屋へ、不意に<私>がニオイバイカウツギの木の枝を持って帰宅したことにある。アルベルチーヌとアンドレはどうしたか。
「わたしたち、すっかり動転して、ばつの悪いのを隠そうと、相談する時間もないまま同じことを思いついて、ニオイバイカウツギの匂いを嫌がるふりをしたの、ほんとはね、ふたりともその匂いは大好きだったんだけど。あなたがその木の長い枝をかかえて帰ってきたので、わたしは顔をそむけて動揺を隠すことができたってわけ」
いうまでもなくただ単なる木の枝に過ぎないニオイバイカウツギに罪があるわけでは全然ない。そうではなく、アルベルチーヌたちと<私>との<間>でほんの一、二秒あるかないかという間の悪い瞬間が生じかけた時、たまたまそこに出現したニオイバイカウツギが、その場のなんとも奇妙で言語化不可能な怪しい空気を全面的に引き受け象徴するシニフィアン(意味するもの)として打刻されることになったというわけだ。
「『運の悪いことに、わたしたちはあやうく見つかるところだったの。あの娘(こ)は、ちょうどフワンソワーズが買い物に出かけ、あなたがまだ帰っていない、そのすきを利用しようとしたわけ。で、電話をぜんぶ消して、あの娘(こ)の部屋のドアは閉めないでおいたの。あなたの上がってくる足音が聞こえたとき、わたしは慌てて身支度して下りてゆく時間しかなかったわ。でも、そんなに慌てることはなかったの。信じられない偶然だけど、あなたが鍵を持って出るのを忘れて、呼び鈴を鳴らさなけりゃならなかったんだもの。でもわたしたち、すっかり動転して、ばつの悪いのを隠そうと、相談する時間もないまま同じことを思いついて、ニオイバイカウツギの匂いを嫌がるふりをしたの、ほんとはね、ふたりともその匂いは大好きだったんだけど。あなたがその木の長い枝をかかえて帰ってきたので、わたしは顔をそむけて動揺を隠すことができたってわけ。それでわたし、フランソワーズがもう帰っていてドアを開けてくれるかもしれないなんて、とんでもないヘマなこと言っちゃったけど、ちょっと前には、わたしたちは散歩から帰ったばかりだなんて嘘をついたところだったの、帰ったときフランソワーズはまだ出かけていなかったのに(それがほんとうだったの)。でも、間(ま)が悪かったのはーーーあなたが鍵を持っていると想いこんでーーー明かりを消したことね、あなたが上がってくるとき明かりがつくところを見るんじゃないかと心配になったから。どっちにしてもわたしたち、あんまりぐずぐずしすぎたのね。それから三晩、アルベルチーヌは一睡もできなかったのよ。あなたが不審に思って、出かける前になぜ明かりをつけておかなかったんだとフランソワーズに訊くんじゃないかと、ずっと心配してたからよ。アルベルチーヌはあなたをとっても怖がっていて、ときどき、あなたは狡猾で、意地が悪くて、結局あたしのことが嫌いなのよって言ってたもの。三日経ってあなたが平静なのを見て、フランソワーズになにも訊く気がなかったんだとわかって、やっとアルベルチーヌは眠ることができたの。でもそれ以来アルベルチーヌは、わたしと二度と関係を持つことはなかったわ。怖かったのか、あなたをずいぶん愛していると言ってたから気が咎めたのか、それともべつのだれかが好きになったのかしら。どっちにしても、アルベルチーヌの前でニオイバイカウツギの話をすると、あの娘(こ)はかならず真っ赤になって、それを隠そうとして顔に手をやるようになったの』」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.404~406」岩波文庫 二〇一七年)
アンドレの証言の重要部分。「どっちにしても、アルベルチーヌの前でニオイバイカウツギの話をすると、あの娘(こ)はかならず真っ赤になって、それを隠そうとして顔に手をやるようになったの」。
ところがアルベルチーヌの「赤面」は何も今に始まったことではまるでない。<私>がアルベルチーヌのトランス(横断的)両性愛を疑った時にずいぶん踏み込んだ厳しい質問をあびせて追い込んだことがあった。<私>の嫉妬とアルベルチーヌのトランス(横断的)両性愛を<有罪>としてしか捉えることができない<私>の精神的暴力とがないまぜになって最も凶暴化していた頃だ。
「『そうなんだ、かわいいアルベルチーヌ、乱暴なことを言ったのなら赦しておくれ。でもぼくは、かならずしもきみが考えるほど極悪非道な男じゃないよ。ぼくたちの仲を裂こうとする意地の悪い連中がいてね、きみを苦しませたくないから、一度もこんな話をしようと思ったことはなかったけど、さすがにあれこれ密告が届くと、うろたえてしまうときがあるんだ』。そしてバルベックを発ったときの事情に通じていると示すことのできるこの機会を利用して、私はこう言った、『たとえば、ほら、きみがトロカデロへ行った午後のことだけど、ヴェルデュラン夫人のところにヴェントゥイユ嬢が来る予定だったのをきみは知っていただろう』。アルベルチーヌは赤面した。『ええ、知ってたわ』。『あの娘とよりを戻すためじゃなかったと誓えるかい?』『もちろん誓えるわよ。でもどうして<よりを戻す>なんて言うの?誓って言うけど、一度も関係なんてなかったのに』。アルベルチーヌがこんなふうに嘘をつき、赤面がおのずと告白した証拠を否定するのを聞いて、私は心外だった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.475」岩波文庫 二〇一七年)
おそらく決定的な詰問。その後ほどなくアルベルチーヌは<私>が作り上げた<監禁・監視・管理>から逃げ出し、逃げた先で死んだ。その意味で<私>はなるほどアルベルチーヌの殺害者にほかならない。
しかしプルーストが作品を通して語っているのは、もはや「神の死」(ニーチェ)が宣告された後になって、なお絶対的な価値観念として「有罪/無罪」という干からびたイデオロギーにこだわる態度とはほど遠い。
「ニオイバイカウツギ」、「アルベルチーヌの赤面」、あるいは「エメの手紙」。これらはどれもあるシニフィアン(意味するもの)として作品を押し進めていく<記号>として立ち現われる。そしてそれら記号はどれも、ある場面を前後の脈略なく不意に出現させたり、あるいはまったく別の事柄へ接続させたりしつつ、近代文学の始まりとともに見え隠れしていた<神話(捏造されたストーリー)としての近代文学>の終わりを早くも告げていたように見える。