白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ41

2023年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月二十五日(日)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)四十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)四十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)四十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)四十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後七時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)四十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)四十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

食欲も食後の運動もとても順調。ただーーー。

 

水は専用の皿に盛って餌皿のすぐ横に置いてあるのだが、カリカリを食べたあと、どういうわけかわざわざキッチンのシンクまで小走りに近づいていき、シンクに残った水滴を口にしようとする。初代タマが子猫の頃もときどきやっていた。初代タマの場合はしばらくするとやらなくなったが二代目タマはどうなのだろう。ともかくキッチン付近でいたずらするのは止めさせないといけない。

 

Death was in that poisonous wave,

And in its gulf a fitting grave

For him who thence could solace bring

To his lone imagining―

Whose solitary soul could make

An Eden of that dim lake.

 

「湖の毒ある波の中には死がただよい、

その深い底には墓があったーーー

ここに自らの淋しい思念への慰めを汲み

この暗い湖を楽園と思う孤独の人に

あまりにも似つかわしい一つの墓が」(ポオ「湖」『詩と詩論・P.45』創元推理文庫 一九七九年)


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて460

2023年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日と同じく午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは同じです。

 

母と電話。

 

胆管ステント設置後、黄疸は日増しに後退。全身倦怠感も消えてきた模様。最初はほぼ全身が黄色くなっていた黄疸だが、昨日の面会時では指先から腕にかけて元の白い肌に戻っていた。顔の黄色も引いてきてはいる。

 

体力回復に向けて。胆汁うっ滞が一応解決したことで、体の動きは元通りとまではいかないにせよ、そこそこ楽にこなせる。食事を自分で摂れるようになったため点滴での栄養補給はもう基本的にしない。ただし嘔吐を催した場合に備えていつでも点滴できる装備は残してある。

 

五分粥から再開した食事だが噛む力を回復させるため少しずつ固めの食事内容へ変更しているところだが、今日は野菜も先日よりやや硬めに調理したものが出るようになった。おまけというかリンゴゼリーが付いてきたらしい。

 

肉は無理。では一体何でタンパク質を摂るか。とりあえず卵、魚のツナなどがメニューに出てきた。どうかわからないながらも試してみると卵もツナも違和感なく食べられたらしい。母はこれまでツナを食べなかったのだが、メニューに出てきたので一度口にしてみたところ案外いけるものだと呑気なことを言っている。

 

いずれにしても医師団からの詳細な説明は明日。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・「ニオイバイカウツギ」、「アルベルチーヌの赤面」、あるいは「エメの手紙」

2023年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

それにしても「ニオイバイカウツギ」とアルベルチーヌの「赤面」とはいつどこでどう繋がったのだろう。

 

「私を死ぬほど悲嘆に暮れさせたのは、ニオイバイカウツギの枝の一件であり、さらにアルベルチーヌが私を狡猾な人間で自分を嫌っているのだと考え、またそう言ったことである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.429」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌとアンドレが同性愛行為に耽って楽しんでいる部屋へ、不意に<私>がニオイバイカウツギの木の枝を持って帰宅したことにある。アルベルチーヌとアンドレはどうしたか。

 

「わたしたち、すっかり動転して、ばつの悪いのを隠そうと、相談する時間もないまま同じことを思いついて、ニオイバイカウツギの匂いを嫌がるふりをしたの、ほんとはね、ふたりともその匂いは大好きだったんだけど。あなたがその木の長い枝をかかえて帰ってきたので、わたしは顔をそむけて動揺を隠すことができたってわけ」

 

いうまでもなくただ単なる木の枝に過ぎないニオイバイカウツギに罪があるわけでは全然ない。そうではなく、アルベルチーヌたちと<私>との<間>でほんの一、二秒あるかないかという間の悪い瞬間が生じかけた時、たまたまそこに出現したニオイバイカウツギが、その場のなんとも奇妙で言語化不可能な怪しい空気を全面的に引き受け象徴するシニフィアン(意味するもの)として打刻されることになったというわけだ。

 

「『運の悪いことに、わたしたちはあやうく見つかるところだったの。あの娘(こ)は、ちょうどフワンソワーズが買い物に出かけ、あなたがまだ帰っていない、そのすきを利用しようとしたわけ。で、電話をぜんぶ消して、あの娘(こ)の部屋のドアは閉めないでおいたの。あなたの上がってくる足音が聞こえたとき、わたしは慌てて身支度して下りてゆく時間しかなかったわ。でも、そんなに慌てることはなかったの。信じられない偶然だけど、あなたが鍵を持って出るのを忘れて、呼び鈴を鳴らさなけりゃならなかったんだもの。でもわたしたち、すっかり動転して、ばつの悪いのを隠そうと、相談する時間もないまま同じことを思いついて、ニオイバイカウツギの匂いを嫌がるふりをしたの、ほんとはね、ふたりともその匂いは大好きだったんだけど。あなたがその木の長い枝をかかえて帰ってきたので、わたしは顔をそむけて動揺を隠すことができたってわけ。それでわたし、フランソワーズがもう帰っていてドアを開けてくれるかもしれないなんて、とんでもないヘマなこと言っちゃったけど、ちょっと前には、わたしたちは散歩から帰ったばかりだなんて嘘をついたところだったの、帰ったときフランソワーズはまだ出かけていなかったのに(それがほんとうだったの)。でも、間(ま)が悪かったのはーーーあなたが鍵を持っていると想いこんでーーー明かりを消したことね、あなたが上がってくるとき明かりがつくところを見るんじゃないかと心配になったから。どっちにしてもわたしたち、あんまりぐずぐずしすぎたのね。それから三晩、アルベルチーヌは一睡もできなかったのよ。あなたが不審に思って、出かける前になぜ明かりをつけておかなかったんだとフランソワーズに訊くんじゃないかと、ずっと心配してたからよ。アルベルチーヌはあなたをとっても怖がっていて、ときどき、あなたは狡猾で、意地が悪くて、結局あたしのことが嫌いなのよって言ってたもの。三日経ってあなたが平静なのを見て、フランソワーズになにも訊く気がなかったんだとわかって、やっとアルベルチーヌは眠ることができたの。でもそれ以来アルベルチーヌは、わたしと二度と関係を持つことはなかったわ。怖かったのか、あなたをずいぶん愛していると言ってたから気が咎めたのか、それともべつのだれかが好きになったのかしら。どっちにしても、アルベルチーヌの前でニオイバイカウツギの話をすると、あの娘(こ)はかならず真っ赤になって、それを隠そうとして顔に手をやるようになったの』」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.404~406」岩波文庫 二〇一七年)

 

アンドレの証言の重要部分。「どっちにしても、アルベルチーヌの前でニオイバイカウツギの話をすると、あの娘(こ)はかならず真っ赤になって、それを隠そうとして顔に手をやるようになったの」。

 

ところがアルベルチーヌの「赤面」は何も今に始まったことではまるでない。<私>がアルベルチーヌのトランス(横断的)両性愛を疑った時にずいぶん踏み込んだ厳しい質問をあびせて追い込んだことがあった。<私>の嫉妬とアルベルチーヌのトランス(横断的)両性愛を<有罪>としてしか捉えることができない<私>の精神的暴力とがないまぜになって最も凶暴化していた頃だ。

 

「『そうなんだ、かわいいアルベルチーヌ、乱暴なことを言ったのなら赦しておくれ。でもぼくは、かならずしもきみが考えるほど極悪非道な男じゃないよ。ぼくたちの仲を裂こうとする意地の悪い連中がいてね、きみを苦しませたくないから、一度もこんな話をしようと思ったことはなかったけど、さすがにあれこれ密告が届くと、うろたえてしまうときがあるんだ』。そしてバルベックを発ったときの事情に通じていると示すことのできるこの機会を利用して、私はこう言った、『たとえば、ほら、きみがトロカデロへ行った午後のことだけど、ヴェルデュラン夫人のところにヴェントゥイユ嬢が来る予定だったのをきみは知っていただろう』。アルベルチーヌは赤面した。『ええ、知ってたわ』。『あの娘とよりを戻すためじゃなかったと誓えるかい?』『もちろん誓えるわよ。でもどうして<よりを戻す>なんて言うの?誓って言うけど、一度も関係なんてなかったのに』。アルベルチーヌがこんなふうに嘘をつき、赤面がおのずと告白した証拠を否定するのを聞いて、私は心外だった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.475」岩波文庫 二〇一七年)

 

おそらく決定的な詰問。その後ほどなくアルベルチーヌは<私>が作り上げた<監禁・監視・管理>から逃げ出し、逃げた先で死んだ。その意味で<私>はなるほどアルベルチーヌの殺害者にほかならない。

 

しかしプルーストが作品を通して語っているのは、もはや「神の死」(ニーチェ)が宣告された後になって、なお絶対的な価値観念として「有罪/無罪」という干からびたイデオロギーにこだわる態度とはほど遠い。

 

「ニオイバイカウツギ」、「アルベルチーヌの赤面」、あるいは「エメの手紙」。これらはどれもあるシニフィアン(意味するもの)として作品を押し進めていく<記号>として立ち現われる。そしてそれら記号はどれも、ある場面を前後の脈略なく不意に出現させたり、あるいはまったく別の事柄へ接続させたりしつつ、近代文学の始まりとともに見え隠れしていた<神話(捏造されたストーリー)としての近代文学>の終わりを早くも告げていたように見える。