白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ18

2023年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月二日(金)。

 

早朝。夜明け前のまだ暗い時間にリビングの隅の暗いところからたたたと出てきて飼い主の足首を引っ掻く。お腹が空いているらしい。餌皿に五粒ほど残っていたカリカリに近づいて食べきってしまう。

 

朝食(午前九時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

よく寝る。けれども目を覚ます度にくしゃみをしている。くしゃみだけなら昨日もあったがほんの一、二回で気にするほどのこともないと思っていた。今日は二、三度続くことがある。まだ風邪が治りきっていないのか、それとも一度治ったもののまた風邪を引いたのか、昨日夜からの気象条件の変化もあってよくわからない。

 

遅めの昼食(午後二時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。カリカリ摂取量が半分以下に減少。とはいえ風邪薬はもう使いきってしまっているので動物病院で診察してもらうべきだろうか。しかし外はあいにくの雨。とりあえず洗顔再開。殺菌成分はまだ残っているはず。念入りに二度。

 

午後の遊び時間。ひと通り元気に走り回り、玩具を取り換えてやると大層うれしそうにはしゃぐ。しかしどうにも、くしゃみが気にかかる。遊んだと思ったら早々に籠の中に入って体を休めている。

 

午後五時三十分。雨が降りつづいている。出かける準備に取りかかる。

 

午後六時三十分。雨は止みそうにない。タマをキャリーバッグに入れて動物病院へ。

 

診察結果。熱は平熱の範囲。特に体調を崩したというわけでもないらしい。当面の風邪薬を出してもらう。食欲の思わしくない時のためにa/d缶を四個購入。帰宅後すぐに投薬。シリンジでヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)20グラム摂取。

 

午後八時。籠の中ですやすやよく眠り始める。

 

体重測定。790グラム。昨日より20グラム増。

 

800グラムになれば一回目のワクチン接種の予定だったわけだが、思わぬ拍子にくしゃみを連発、食欲減退を見せたので予定変更。風邪の症状がすっかり消失するのを見てからにしようとおもう。単純に順調といっても実際はいろいろ紆余曲折するものだとしみじみ。

 

“Prophet!”said I,“thing of evil!—prophet still,if bird or devil!

By that Heaven that bends above us—by that God we both adore—

Tell this soul with sorrow laden if,within the distant Aidenn,

It shall clasp a sainted maiden whom the angels name Lenore—

Clasp a rare and radiant maiden whom the angels name Lenore.’

Quoth the Raven, “Nevermore.”

 

「『予言者め!』私は言った、『悪なる者!ーーー鳥か魔神か、ともかくも予言者よ!ーーー

我等の上に穹隆をなす天に誓ってーーー我々の共にあがめる神に誓ってーーー

悲しみの重荷に悩むこの魂に教えてくれ、かの遠いエデンの苑に、

天使らがレノアと名づけた清い乙女を、わが魂の抱(いだ)く日が来るかどうかをーーー

天使らがレノアと名づけた世に稀な光りかがやくその乙女を』

鴉は答えた、『最早ない』」(ポオ「鴉」『詩と詩論・P.159』創元推理文庫 一九七九年)


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて435

2023年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩のはずが。予定は予定でしかないと言ってしまえば簡単ですが、割り切ることができるかどうかはまた全然別問題になってくるでしょう。

 

ここ数日、後期高齢者の母の体調があまり思わしくありません。特に胃の変調が激しいようです。食事内容もすっかり変わってしまいました。肉類と油物はまったく受け付けなくなりました。ほとんど突然に近いくらい。一日の食物摂取量は半分に激減。本当にここ数日。三週間あったかなかったかという期間のうちに。

 

高齢者は朝が早いと古くから言われています。母の場合、もう何年も前から早朝五時にキッチンにやってきて少量のご飯とともに豆腐と漬物を頂いてきました。もっとも、早いのは朝だけのことで、その後、これといった異変も見せず昼食は普通に食べ、夕食もほぼ普通に食べてくることができていました。肉類も油物も。

 

ところがこの五月に入ってからというもの、みるみるうちに食欲そのものが低下し、胃痛を訴え、一日の食物摂取量は約半分に落ち込んでしまいました。例えば餃子。これまで八個用意すれば七個は食べてくれていたのですが、五月二十八日の夕食で餃子を用意した時、四個食べるのも「しんどい」と言います。

 

以前と変わらないのは早朝五時に起きてきて少量のご飯とともに豆腐と漬物を頂くことくらい。さらに日頃から口にする言葉が急に変わってきました。どういうことかというと、弱気な言葉ばかり目に見えて増えたことです。

 

母の友人の一人にナガサキで被爆し被爆者手帳を持っている女性がいました。癌を患い早くに亡くなったのですが、亡くなる前の数ヶ月ほどの間、食欲減退が著しく、もう何を食べるのも気が向かないと言ってらしたようです。母は被爆者ではないのでその種のケースの体調急変を体で知っているわけではありません。ただ、「そういうものかも知れない」と思っていたわけです。ところが後期高齢者になって数年を経た今、今度は自分が、打ち続く急激な食欲減退や胃痛に襲われ始めると、被曝が原因で亡くなった友人女性が最後に訴えていた苦しみを思い出し、「こんな感じだったのか」と、世をはかなんでいるような発言をぽつぽつこぼすようになりました。

 

そんなわけで、早朝の朝ごはんの支度の際、散歩に出かけて帰宅してみたらもう母がキッチンで倒れて死んでいたというのは避けたいと思い、ともかく、ここしばらくは様子を見ることにしました。高齢者の介護は妻がやると限っているわけではまったくありませんし、そもそも妻の病状にしても、早朝は安静にして十分睡眠を取らなければいけない症状が十年くらい続いています。したがって、遷延性うつ病であるとはいえ、強固な不眠を伴っているため夜に何度も目を醒ます点を逆利用して、当面は母の早朝の体調に気を配る時間帯に切り換えることも可能なスケジュールにしたいと思っています。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・暴力的宙吊りとしてのプルーストの<覗き見>

2023年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>はエメに依頼してアルベルチーヌの生前に「シャワー施設でなにがあったのか」の情報収集に当たらせる。スパイ活動といえばどこかシリアスなイメージの一つも閃きそうな空気ではある。けれども実際のところはプルーストの三大テーマの一つ<覗き見>が、再び、なおかつ、いきなりそそり立つ、というばかり。しかしただ単に一つのテーマが同じように繰り返されるというだけで済むわけではまるでない。二度三度となるとそう簡単に無視することのできない違和感に引っかからないわけにはいかなくなってくる。

 

プルーストが<覗き見>を取り扱う際、不可解なのは、<覗き見>する側が直接<見る>ことは決してできないようにわざわざ設定されている点に特徴がある。ごく一般的で凡庸な設定の場合、さらにもっとごく普通に考えてみるなら、覗き見する側が直接<見る>ことのできる特権的な位置をあらかじめ占めていることが前提条件であって、逆に<覗き見>される側からは<覗き見>されていることを直接<見る/知る>ことができないよう設定されている場合がほとんどすべてに違いない。

 

ところがプルーストの場合、<覗き見>する側が直接<見る>ことは決してできない構造が設定されており、<覗き見>する側があえて窮屈で屈折した状況下に置かれ、なおかつ間接的な形に限り始めて<覗き見>することが許される構造が取られている。なぜそうなのだろう。おそらくプルーストが注目させたい<覗き見>というのは、<覗き見>する側の心情の屈折を取り扱っているわけではないという断り書きを、文章そのものが兼ねているという事情から自然発生的に出現する課題だからである。

 

プルースト作品の<覗き見>の構造はどの箇所においても犯罪をめぐる心理学的諸問題とはまったく無関係である。作品に書き付けられていく一つ一つの言葉に忠実であればあるほど<覗き見>は間接的でなければ可能ではなく、間接的に混みいっていて始めて可能になるという、おそらく前代未聞の困難、偶然の不意打ちでなければ<覗き見>とは決して言えないような現場を思いがけず<見せつけられてしまう>という<見てしまった側>の<気まずさ・きまり悪さ・驚き>を前提とした宙吊り的立場が先立つと考えられているふしがある。

 

例えばヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの性的シーンで<覗き見>している人間はどこにいるというのだろう。<私>という言葉はある。けれども<私>はそこにいるともいないともわからない。位置決定不可能な記述で覆い隠されている。とすれば、ただ<私>の<目>だけが宙をさまよってでもいるのだろうか。<私の目>が一方でヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの性的シーンを<覗き見>しつつ、もう一方で読者に向けて<報告者>の役割を演じる。そんなことが同時にできるものだろうか。宙に浮いた<目だけ>が一方へ漂い、<報告>するだけの機能がもう一方へ分裂している。しかし、本当に分裂している限りでそれは同時に可能だとプルーストはいうのである。さらにこの<覗き見>のシーンは、まるで予期していなかったあからさまな<冒瀆>を<見せつけられてしまう>という<見てしまった側>の<気まずさ・きまり悪さ・驚き>を暴力的なほど一気に宙吊りしてみせている点で、<被害者/加害者>の境界線を無効化してもいる。

 

プルースト作品で重要な位置に置かれている幾つかの<覗き見>シーン。しかし一体何が重要なのか。重要なのは、そもそも<覗き見>している人間は、一体どこにいてどこから何を覗いているのかはっきりわからない、極めて曖昧だ、という多元的未決定性である。この点は二〇二三年に入って世界中でやや唐突に語られ出したAI開発を始めとする新しい管理社会のあり方、日本ではつい先日から急浮上してきたマイナンバーカード関連の将来的リスクを先取りしている観点でもあるので、十分注意深く見ておく必要性があるだろう。

 

繰り返しになるが、<覗き見>する側が直接<見る>場面は一つもない。だからといってそれこそ紛れもなく<覗き見>にほかならない。むしろそれこそが本当の<覗き見>と呼ぶにふさわしいとプルーストは遥か彼方からあたかも予言者のように振る舞ってでもいるかのようだ。無限にうようよ増殖する匿名の意志による<覗き見>。いつ、どこで、誰がなど、一つもわからない。けれども常に誰かに<覗き見>されている。一方、匿名の誰かが思いも寄らないところでまったく何一つ悪意なく<覗き見>させられ法廷に引きずり出されて裁き抜かれるかもしれない不意打ちの恐怖。新しい管理社会の静まり返った不穏さは、不断にアップデートを繰り返す機械が高度化すればするほど、機械が失敗しなくなればしなくなるほど、逆に端末において人間が手を触れたその瞬間、想定外の事故が多発してくるという逆説のうちに出現する。

 

今後ますます加速していく<リアルタイム>という概念。速度への無限信仰。<リアルタイム>は機械の側にあるのであって人間の側にはもはやない。代表例としてここ数年でずいぶん様変わりした投資方法を上げればよくわかるに違いない。最適化された投資を行っているのは誰なのか。今どき人間個人が人間個人の頭でせっせと考えあれこれ取引している光景を見かけたりするだろうか。ほとんど機械依存状態である。投資家はいつもアップデートされ高速で最適化されていく投資のための諸機械に隷属していなくては生きていけなくなっている。ニーチェの予言通り、今や人間はほとんど記号に過ぎない。部品に過ぎない。忠実で柔軟な隷属が仕事である。だからもう長いこと名前は記号でしかなかったし、匿名で十分機能するようになってきた。

 

プルーストは、<私>がアルベルチーヌについて「アルベルチーヌは嘘をついていたのか、やはり女たちを愛していたのか、私のもとを去ったのは女たちと自由につき合うためだったのか、それを知ろうとした」けれども、それは間接的にしかわからない位置へ留め置いている。どこまで行っても未決定であり続けるというわけだ。

 

「事物にせよ人間にせよ、私にとってそれが存在しはじめるのは、それが私の想像力のなかで個性的な存在になるときでしかなかった。類似のものがほかに無数にあったとしても、想像力に想いうかんだものが私にはその余を代表するものになったのだ。アルベルチーヌをめぐる疑念という点で、私がずいぶん前からシャワー施設でなにがあったのかを知りたいと願ったのは、女への欲望という点では、私がたまたま類似のうわさを耳にする機会があってそれに該当するような娘や小間使いが大勢いることは承知していたにもかかわらず、私が売春宿に通う娘とピュトビュス夫人の小間使いを知りたいと願ったのと事情はなんら変わらない。そのふたりこそサン=ルーが話してくれた女で、私にとって個性的な存在となったからである。私の健康状態のみならず、優柔不断や、サン=ルーが言った『日延べ』する癖などが原因となって、なにを実現するにも困難が伴うせいで、私はいくつかの欲望を遂げることと同様、いくつかの疑念を解明することを一日また一日と、ひと月またひと月と、一年また一年と先送りしていた。とはいえ私は、そうした疑念の真相をつきとめるのを忘れまいと心に決め、そうした疑念を記憶にとどめていた。それだけが私にとり憑いていたからであり(ほかの疑念は私の目には形をなさず、存在していなかった)、また現実のなかからたまたまそれだけが選ばれたということ自体が、その疑念においてこそ、私がすこしでも現実に、知りたかった生活の真相に触れられることを保証してくれたからである。おまけに実験する人にとって、それがうまく選ばれたものであるなら、ただひとつの小さな事実だけでも、類似の無数の事実にかんする真実を知らしめる一般法則を定めるのに充分ではなかろうか?アルベルチーヌは、生前つぎからつぎへと私にべつなすがたをあらわしたように、私の記憶のなかでもさまざまに分割された時間としてしか存在しなかったが、それでも私の思考は、アルベルチーヌのうちに統一をとり戻してふたたびひとりの存在たらしめたし、私は、そのひとりの存在について一般的な評価をくだそうとして、アルベルチーヌは嘘をついていたのか、やはり女たちを愛していたのか、私のもとを去ったのは女たちと自由につき合うためだったのか、それを知ろうとしたのである。シャワー係の女の語ることは、もしかするとアルベルチーヌの素行にかんする私の疑念に最終的な決着をつけてくれるかもしれないのだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.216~218」岩波文庫 二〇一七年)

 

ゆえに「私はいくつかの欲望を遂げることと同様、いくつかの疑念を解明することを一日また一日と、ひと月またひと月と、一年また一年と先送りしていた」。未決定のまま、宙吊りのまま、延々と引き延ばしていくこと。言い換えれば、<リアルタイム>を放棄して<被害者/加害者>の境界線の無効化を延長・再延長させていくことで脱コード化する世界をどこまでも逃走しようとする。

 

といってもそこで「中心/周縁」の対立と両者による再活性化作用が魔法のように消え失せるわけではいささかもない。一つの絶対的中心の消滅は、逆に世界中どこへ行っても「中心/周縁」の対立に出くわさない場所はないという事態を出現させた。至るところで「中心/周縁」。このような世界ではリアルであることが虚無的であることと限りなく等しいものに変わってくるのである。アナーキーな価値分裂という数値化不可能な崩壊感覚をともなって。