<制度としての顔>は近代文学の登場とともに出現したのかもしれないが、十九世紀末から第一次世界大戦にかけて、プルーストは早くもその無効化の始まりについて語っている。
「女の顔は捉えがたい」
「結局のところ私は、アルベルチーヌがなぜ私と別れたのかを相変わらず理解できずにいた。女の顔は捉えがたい。顔の揺れうごく全表面を捉えることのできない目にはもとより、唇にも捉えがたく、まして記憶にはもっと捉えがたい。また女の社会的地位によって、またこちらの地位の高さによって、さまざまな雲がかかって女の顔を変えてしまうが、われわれの目に見える女の行動とその動機とのあいだには、それよりもなんと分厚い幕が引かれていることだろう。その動機は、幕の向こうのわれわれには見えない奥にあり、しかもわれわれの知っている行動とはべつの、その行動とはしばしば矛盾する行動まで生みだす。友人たちから聖人君子だと信じられていたのに、公文書を偽造したり、公金を横領したり、祖国を裏切ったりした公人の存在が発覚しなかった時代があるだろうか?大貴族が、天塩にかけた執事で、大貴族みずからこれは律儀者だと太鼓判を押し、実際そうであったかもしれぬ男に、毎年のように金を使いこまれたなんてことが何度あっただろう。ところで他人の動機を覆い隠すこの幕は、われわれがその人に恋心をいだくと、いっそう分厚く向こうを見通せないものになる」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.440」岩波文庫 二〇一七年)
しかし<私>はアルベルチーヌの「顔」について、あるいは「顔を通して」、何か一度でも「捉えた」ことがあっただろうか。例えばスワンの場合、スワンがオデットの「顔」について何やら理解したかのように思い込んでいられたのはオデットの「顔」がスワンの愛する芸術(音楽・絵画)と接続されている間に限られていた。
(1)ヴァントゥイユの音楽と共鳴共振することで。
「そのあいだにもピアニストは、ふたりのために、ふたりの愛の国家ともいうべきヴァントゥイユの小楽節を弾いてくれる。ピアニストが始めるのは、ヴァイオリンのトレモロがつづく箇所からで、数小節のあいだはそれだけが聞こえて前面に陣どっている。と、突然、それがわきに退き、なかば開いたドアの狭い框(かまち)が奥行きを生みだしているピーテル・デ・ホーホの画のように、ずっと遠くから、まるで異なる色彩をまとい、射しこむ光のビロードのような光沢につつまれて、小楽節は踊らんばかりに、田園詩ふうに、挿入された逸話のように姿をあらわし、まるでべつの世からやって来たかと思える。単純な、それゆえに不滅の襞(ひだ)をまとって通りすぎてゆくとき、天賦の優雅さをあちこちに振りまきつつ、いつも同じえもいわれぬ微笑みをうかべている。しかしスワンは、いまやそこに幻滅が混じるような気がした。小楽節は、みずから幸福にいたる道を指し示しながら、その幸福の空しさも心得ているように思えたのである。軽やかな優雅さのなかに、なにやら完結したところ、心残りのあとに訪れる解脱(げだつ)にも似たところが存在した。しかしそんなことは、スワンにはどうでもよかった。小楽節をそれ自体として考えるよりーーーつまり、これを作曲したときに自分のこともオデットのことも知らなかった音楽家にとって、また何世紀もあとにこれを聴くすべての人にとって、小楽節がなにを表現しているかと考えるよりーーー、おのが恋の証(あかし)であり、想い出であると考え、そのおかげでヴェルデュラン家の人たちもかわいいピアニストも、オデットと同時に自分のことを想いうかべ、ふたりを結びつけてくれると考えたのである。こんなわけでスワンは、オデットの勝手気ままな願いに応じて、ソナタ全曲をだれかに演奏してもらう計画は諦め、あいかわらずこの一節しか知らないでいた。オデットから『どうして残りが必要ですの?これが《あたしたちの》曲ですもの』と言い渡されていたのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.85~86」岩波文庫 二〇一一年)
(2)ボッティチェリの絵画と共鳴共振することで。
「オデットの顔に美しさを認めるためには、たいてい黄土色にやつれ、ときに赤い小さな斑点の見える頬のなかで、バラ色のみずみずしい頬骨のところに限って頭に浮かべる必要があり、まるで理想は到達しがたく、手にはいる幸福はつまらないと想い知らされたみたいに、スワンをひどく悲しませた。見たいという版画を持って来てやったところ、オデットはすこし加減がよくないからと言いつつ、モーヴ色のクレープ・デシンの化粧着すがたで、豪華な刺繍をほどこした布をコートのように羽織り、それを胸元にかき合わせてスワンを迎えた。オデットは横に立つと、ほどいた髪を両頬にそって垂らし、楽に身をかがめるように、すこし踊るような姿勢で片脚を曲げて首をかしげ、元気がないと疲れて無愛想になるあの大きな目で版画に見入っていたが、そのすがたにスワンは、はっとした。システィーナ礼拝堂のフレスコ画に描かれたエテロの娘チッポラにそっくりだったからである。つねづねスワンは、大画家の画のなかにわれわれをとりまく現実の一般的特徴を見出すだけでなく、とうてい一般化できない知り合いの顔の個人的特徴を認めて喜ぶという特殊な趣味をもっていた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.93~94」岩波文庫 二〇一一年)
「いずれにしても少し前からスワンの感じていた印象の充実が、むしろ音楽を愛する心から生じたものとはいえ、絵画の嗜好までをも豊かにしてくれ、オデットとチッポラとの類似に気づいたときの喜びをはるかに深いものとし、スワンにいつまでも影響をおよぼすことになったのである。それを描いたサンドロ・ディ・マリアーノがむしろボッティチェリという通称で呼ばれるのは、通称が画家の真の作品ではなく、作品を通俗化したありきたりの偽りの見方を想起させるようになって以来のことだ。もはやスワンはオデットの顔を見ても、頬の質の善し悪しで、つまり、いつか接吻したときに自分の唇が触れる頬の純粋に肉としての柔らかさで評価するのではなく、繊細で美しい線の錯綜として鑑賞した。おのがまなざしでその線を巻きもどし、その渦巻く曲線を追いつつ、律動感あふれるうなじを流れるような髪や湾曲したまぶたに結びつけては、オデットがどのような特徴を備えているかが明確にわかる肖像画に仕上げるかのように見つめたのである。そうやってオデットを見つめると、顔にも身体にもフレスコ画の断片があらわれる。これから先スワンは、女のそばにいるときでも女のすがたを想いうかべるだけのときでも、つねにフレスコ画の断片を見出そうとした。スワンがこのフィレンツェ派の傑作にこだわったのは、オデットのうちにたしかにそれが再発見されたからにほかならないが、逆にこの類似がオデットにも美しさを授け、ますます貴重な女にしたのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.99~100」岩波文庫 二〇一一年)
さらに<制度としての顔>が<制度としての近代文学>の条件の一つを成していたとしても、<制度としての顔>というイデオロギーの成立がその誕生の瞬間からすでにその内部に<顔の崩壊・解体>を孕むことになるのは極めて妥当ではないかと思われる。スワンはずいぶん以前からよく知っている社会的位置を指し示す人々の<顔の崩壊・解体>に直面する。オデットとの恋愛の終わりを告げる序曲は最初にひとまず<制度としての顔>がそもそも<ずれ>たり<解体>したりするものだという<変身>として描かれる。それらの「顔」はどれもみな記号として作用する。次のように。
「ところが今回はじめて気づいたのは、お仕着せすがたの立派な従僕たちである。華麗な衣装を身につけて散らばり、暇をもてあましてあちこちの腰掛けや箱のうえで猟犬の群れのように眠りこけていたが、遅れてきた招待客の思いがけぬ到着のために目を覚まし、グレーハウンドを想わせる高貴で鋭い横顔をもちあげて起きあがると、さっと駆け寄り、ぐるりとスワンをとり囲んだのである。そのうちのひとりの風貌はとりわけ獰猛で、ある種のルネサンスの画で拷問を描いた場面に出てくる刑吏のような情け容赦のない顔をしてスワンのほうに進み出ると、持ちものを受け取ろうとした。ところが厳しく無慈悲なまなざしは穏やかな亜麻の手袋の力で中和されていたからか、スワンに近づいてきたその男は、スワン本人のことは軽蔑しているのにその帽子には敬意を払っているかに感じられた。帽子をそっと受け取った手袋は手にぴったりはめられていたから、その仕事がなおのこと丁寧に見え、逞しい手とは対照的に感動的と言えるほど繊細に見えた。その帽子をさらに手渡された助手のひとりは新入りなのか、獰猛なまなざしをおどおどとあちこちにさまよわせて激しい恐怖にとらわれているのをあらわにしているさまは人間に飼われて間(ま)もない獣の動揺ぶりである。
そこからすこし離れて、お仕着せすがたの屈強な大男がひとり、じっと彫刻のように役にも立たず、もの想いにふけっていた。まるでマンテーニャのひどく騒然とした画のなかで、たがいに飛びかかり喉(のど)をかき切って殺しあう人びとのかたわらで、もっぱら装飾として描かれた戦士が、盾にもたれてもの想いに沈んでいる図である。スワンのまわりに殺到した仲間の一団からひとり離れ、争いには無関心を決めこんでいるふうで、緑色の残忍な目でぼんやりとその場面を見つめているのは、嬰児虐殺や聖ヤコブの殉教場面を想わせた。この男はすっかり消滅した種族に属するかと思われーーーあるいは、もしかするとサン・ゼーノの祭壇画とエレミターニ教会のフレスコ画のなかにしか存在したことがなく、スワンは間近で見たことがあるが、いまもなおその画のなかでもの想いに沈んでいる種族にすぎずーーー、巨匠マンテーニャのパドヴァ人のモデルか、アルブレヒト・デューラーのザクセン人のモデルかが、古代の彫像に胎ませて生ませた種族かと思われた。そして天然の縮れ毛をポマードでなでつけた赤毛の髪のふさは、さまざまな処理されていたが、それはこのマントーヴァの画家マンテーニャがたえず研究していたギリシャ彫刻の場合と同じである。ギリシャ彫刻では、たとえ人間だけを表現したものをつくる場合でも、すくなくとも人間の単純な形から、あらゆる自然の生きものから借用したかのようなじつに多様で豊かな形をとり出すすべをこころえており、ただの髪の毛でも、巻き毛がつややかにカールして先が鋭く尖っていたり、三つ編みが三重に花をあしらった王冠状に重なっていたりして、ひとかたまりの海草のようにも、ひとつの巣から孵化(ふか)した白ハトのひなの群れのようにも、ひと畝のヒヤシンスのようにも、からみあうへびのようにも見えるのである。
ほかの召使いたちもやはり屈強の大男で、歴史建造物のような階段のステップにすっくと立ち、そのすがたが装飾的で大理石像のように微動だにしないので、パラッツォ・ドゥカーレの階段にならって『巨人の階段』と呼べそうな構図である。スワンは階段を上がりながら、オデットがここを上がったことは一度もないと考えると悲しくなった。ああ、これとは正反対の、あの退職したお針子のところの悪臭ただよう足元も怪しげな暗い階段をのぼるのなら、どんなに嬉しいことか。あの『六階』のためなら、オペラ座の舞台脇特別ボックス席を一週間借り切るより高い金額を払ってもいいぐらいだ。オデットがやって来る夜にそこですごす権利が獲得できるばかりか、やって来ない日でもそこでオデットについて話せるうえ、ふだん俺のいないときにオデットに会っているのだから、恋人について、はるかに現実味をおび、それでいて近寄りがたい神秘的情報を秘蔵していると思える人たちと暮らせるのだ。この元お針子の悪臭を放つとはいえ欲望をそそる階段には勝手口がなく、夜になると各小口の玄関マットのうえに汚れた空の牛乳缶が出してある。それにひきかえ、いまスワンの上がってゆく華麗だが見向きもされない階段では、両側のさまざまな高さの壁に、小部屋の窓や広間のドアのつくる窪みがあり、その前でそれぞれ自分が統括する屋敷内のサービスを体現してうやうやしく招待客に会釈しているのが、受付係や召使頭や食器係である(いずれも律儀な人たちで、ほかの日にはそれぞれの領域でそれなりの独立した生計を立て、小さな商店主と同じで自宅で夕食をとっているが、近い将来には医者や工場経営者のようなブルジョワ家庭に仕える可能性のある人たちだ)。めったに身につける機会のない華麗なお仕着せにいささか窮屈な想いをしながら、着る前に言い渡された指示を忘れないよう注意して各小口の装飾アーケードの下に立つすがたは、壁龕(へきがん)のなかに飾られた聖人像を想わせるとともに、きらびやかな厳かさと庶民的善良さとが中和している。大男の守衛は、教会警手のような恰好で、お客が到着するたびに杖で床を叩いている。スワンは階段を上がるあいだ、青白い顔の召使いにつき添われた。頭のうしろに髪をリボンで結んで小さな尻尾状にしたところは、ゴヤの描いた教会聖具室係や、古典劇の代書人とそっくりである。ようやく階上にたどり着いて受付机の前を通ると、登記簿を前にした公証人のように腰かけていた従僕たちが立ちあがり、スワンの名を書きしるした。ついで控えの間へと進むと、入口を飾っているのはーーー屋敷の主(あるじ)としては芸術作品をただひとつ飾るためにこしらえ、作品名にちなんで何々の間(ま)と呼ぶたぐいの部屋で、装飾はあえて控えて他のにはいっさいなにも置かない部屋であるーーー、ベンヴェヌート・チェルリーニが警邏(けいら)兵を描いた貴重な肖像とそっくりの、ひとりの若い従僕だった。身体をほんのすこし前にかがめ、赤い首当てからさらに赤い顔を出し、その顔からは、熱気をおび、それでいて臆病な献身的熱意がほとばしり出ている。従僕は、音楽を聴くサロンの入口に掛けてあるオービュソンのタピスリーを穴があくほど見つめているが、そのまさざしは血気盛んで警戒を怠らない必死なもので、軍人のような冷静さとも、超自然をあがめる信仰心とも思えーーーはたして警戒警報のアレゴリーなのか、待機の化身なのか、戦闘準備の記念像なのかーーー見張り番が天守閣から敵の出現を待ちうけているとも、天使が大聖堂や塔の上から審判の時を窺っているとも見えた。もはやスワンに残されているのは、演奏会の部屋に入るだけである。ドア番の守衛が、まるで町の城門の鍵を渡すときのようにお辞儀をしてドアを開けてくれた。とはいえスワンが想いうかべていたのは、オデットが許してくれたら現在いるはずの家のことであり、ちらと見た玄関マットのうえに置かれた空の牛乳缶が想い出されて胸が締めつけられた。
タピトリーのドアガーデンの向こうに入ると、目の前にくり拡げられたのは召使いに代わる招待客たちの光景である。すぐにスワンは、あらためて男というものは醜いという想いにとらわれた。男の顔が醜いのはよく承知していたはずなのに、それがあらためて新鮮に感じられたのは招待客の目鼻立ちがーーーそれまでは追求すべき一連の快楽や、避けるべきいざこざや、お返しすべき儀礼などの代名詞であった人が、その人と特定するために実践的に使われる符丁であることをやめーーーもっぱら美的要素に関連する顔の輪郭それ自体として判断されるようになったからである。こうして男たちにとり囲まれると、多くの男がかけている片メガネまでが(以前のスワンなら全員が片メガネをかけていると表現するのが関の山だっただろう)、いまやだれもがかけるという習慣を意味するのではなく、それぞれ一種の個性を備えているように見えた。入口で話しこんでいるフロベルヴィル将軍とブレオーテ侯爵にしても、長いことスワンにはジョッキー・クラブに紹介してくれたり決闘の介添人になってくれたりと役に立つ友人だったが、いまや一幅の画に描かれたふたりの人物のように見えてしまう。そのように眺めるせいか将軍の片メガネは、まぶたのあいだで砲弾のようにきらりと光っているのが凱旋将軍らしく卑俗に感じられ、切り傷の残る顔の額のまんなかに片目の巨人キュクロプスよろしくひとるだけ光る目が化けものめいた傷に見え、その傷を受けたのは光栄でも、それを見せびらかすのは不謹慎に思えた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.301~309」岩波文庫 二〇一一年)
プルーストは人間(ここではアルベルチーヌ)の身振り(言葉・振る舞い)を通して「その動機」を見抜こうとする意志の無効を宣告する。
「われわれの目に見える女の行動とその動機とのあいだには、それよりもなんと分厚い幕が引かれていることだろう」
すでにニーチェが述べていた。差し当たり三箇所参照。
(1)「《われわれの『認識』概念の起源》。ーーー私は、これについての解明を、巷間から取ってくるとしよう。民衆の誰かれが、『あいつは、俺のことが認識(わか)った』と言うのを、私は耳にした。ーーー。そのとき私は自分に問うてみた、ーーーいったい民衆は認識(わかる)という言葉をどういう意味にとっているのか?民衆が『認識』を求める場合、彼らは何を求めているのか?知られぬものを《熟知のもの》に還元すること、それ以外の何ものでもない。われわれ哲学者ーーーそのわれわれも、いったい、認識という言葉を《それ以上》の意味に解しているだろうか!熟知のものとは、つまり、われわれがそれに馴染(なじ)んでいて、もはや不審に思わないもの、われわれの日常茶飯事、われわれがはまりこんでいる何らかの常例規則、われわれの知り抜いていることがらの一切合切、である。ーーー認識へのわれわれの欲求とは、この熟知のものへの欲求にほかならないのではなかろうか、どうだろう?すべての見知らぬもの、見慣れぬもの、疑わしいもののなかに、われわれを二度と不安にしないような何かを見つけ出そうとする意志ではなかろうか?われわれに認識せよと指令するのは、《恐怖の本能》ではなかろうか?認識者の小躍(こおど)りする喜びは、安心感を取り戻したことの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)そのものではなかろうか?」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五五・P.395~396」ちくま学芸文庫 一九九三年)
(2)「《背後の問題》。ーーーある人間がいくら明らかにして見せても、人は次のように問うことができる。それは何を隠しているのだろう!それはどこから眼差しを逸(そ)らせるのだろう?それはどんな偏見を刺激するのだろう?そしてそれからさらに。この偽装の精巧さはどこまで及ぶのか?そしてその際どこで彼は失敗するのか?」(ニーチェ「曙光・五二三・P.422」ちくま学芸文庫 一九九三年)
(3)「《いわゆる動機の戦い》。ーーー『動機の戦い』ということが言われる。しかしそれは動機の戦いでは《ない》戦いを特徴づけている。すなわち、行為の前、われわれが熟慮するとき、意識の中には、われわれがそのすべてをなしうると思う様々な行為の《結果》が順番にあらわれ、われわれはこの結果を比較する。ある行為の結果が圧倒的に一層有利なものになるであろうと確認したとき、われわれはその行為の決心がついたと思う。われわれの考慮がこの結論に至る以前は、結果を推測し、それをその全体的な強度という点で見ぬき、しかもすべて脱漏の欠点がないようにし、この際計算はさらにその上に偶然で割り算されねばならない、という大きな困難のために、われわれはしばしば非常に苦悩する。そればかりか、最も困難なことをいうと、ひとつひとつとしては極めて確かめがたいすべての結果が、今や一緒に《ひとつの》秤の上でお互いに重さを計られなければならない。しかもあらゆるこれらの可能的な結果や《質》の相違のために、利益のこの決議論に対して、われわれは分銅のほかに秤も欠いているということが、全くしばしばなのである。しかしわれわれがこれにも話をつけ、われわれがお互いに重さを計りうる結果を、偶然が秤の上にのせたものとしよう。そうするとわれわれは今や実際に、ひとつの特定の行為の《結果の像》の中に、ほかならぬこの行為をする《動機》を、ーーーそうだ!《ひとつの》動機を持つことになる!しかしわれわれが結局行為する瞬間には、ここで論じられた種類、『結果の像』の種類とは違った種類の動機によって、われわれはしばしば十分に規定されるのである。そのときに影響を与えるのは、われわれの力の働きの習慣や、われわれがおそれたり、尊敬したり、愛したりする人による小さな刺激や、さしあたりのことをすることを好む怠惰や、決定的な瞬間に、手あたり次第の極めて些細な出来事によって引き起こされる想像力の興奮である。全く計り知れないまま登場する肉体的なものが影響を与える。機嫌が影響を与える。まさしく偶然にほとばしり出ようと準備していた何らかのわずかの感動の噴出が影響を与える。手短にいうと、われわれが一部は全然知らず、一部はほんのわずかしか知らない動機、またわれわれが《以前には》お互いに全く計算でき《なかった》動機が、影響を与える。これらの動機の間にも、戦いが、追いやりと駆逐が、分銅の量の均衡と低下があることは、《ありそうなことである》ーーーそしてこれが本来の『動機の戦い』であるであろう。ーーーそれは、われわれには全く見えもしないし、意識されもしないものである。私は結果と成果を計算し、こうして《ひとつの》非常に重要な動機を動機の戦列に編入した。ーーーしかし私はこの戦列自体を見ないと同様に、編成もしない。戦いそれ自身が私には隠されている。勝利そのものも同様である。なぜなら、私が最後に何を《なす》かは、私のよく知るところであるが、ーーーいかなる動機がそれによって本来勝利を収めることになったかということは、私のよく知るところではないからである。あらゆるこれらの無意識的な過程を勘定に入れないこと、そして行為の準備を、それが意識されるかぎりにおいてのみ考えることが、《まさしくわれわれの習慣である》。そこでわれわれは、動機の戦いを、様々な行為の可能的な結果の比較と《取り違える》。ーーー最も効果があり、そして道徳の発達にとって最も宿命的な、取り違えのひとつである!」(ニーチェ「曙光・一二九・P.151~153」ちくま学芸文庫 一九九三年)
いつも間違うほかなく、取り違うほかなく、失敗するほかなく、疲弊するばかりなのだ。<神の死>とともに<認識マシンとしての私>はその都度みずからの失敗を数え上げるほか何一つやることがなくなっていたのである。