エメから届いた情報は、アルベルチーヌがバルベックのシャワー施設で他の(複数の)女性と一緒に「愛の営み」を過ごしていた動かぬ証拠として、手紙という形式を通して<外部から>もたらされる形を取る。エメはアルベルチーヌについていかなる利害関係者でもない。ゆえにその情報は途方もなく価値の高い「事実」、この上なく信憑性にすぐれた「事実」として、あっけなく<私>を打ち砕いた。
何の利害にも絡んでいない情報提供者。政治的利害に左右されざるを得ない<スパイ>の場合なら多少なりとも周辺事情に通じていなくては務まらないにしても、全然そうではなく、逆に遥かにわけのわかっていない立場の情報提供者から届けられた手紙ゆえに、その言葉は紛れもない重みを帯びて<私>を鞭打つ。
極めて客観的というわけだが、プルーストが焦点化しているのは、「客観的な事実」と呼ばれているものも「一つのイメージ」に過ぎないということであり、その意味では多少なりとも統一性のあるメタ言語だといえるにしても、そのメタ目線のさらにメタ目線というものがあり、そのまたさらなるメタ目線のメタ目線のメタ目線のーーーと、延々続いていくほかない事情への配慮である。
そしてメタ言語の無限の系列の中からたった一つのメタ言語だけが「事実」として抽出されるやいなや、<私>の奇怪な妄想は、次に描かれているように、「私には想いもよらなかった虚偽と過ちだらけの生活をのぞき見させてくれる眺め」を出現させる。
さらに「客観的な事実というのも、これまたイメージにほかならず、それに向き合うときの心的状態によって異なるものとなる。苦痛もまた、陶酔に劣らず、変化をもたらす強力な要因なのだ。こうしたイメージと結びついた苦痛は、たちどころにこれらのイメージを、つまりグレーの服の婦人や、チップや、シャワーや、グレーの服の婦人と連れだってアルベルチーヌが決然とやって来た通りなどを、ほかのどんな人でも想いうかべることのできるものとは完全に異なるものーーー私には想いもよらなかった虚偽と過ちだらけの生活をのぞき見させてくれる眺めーーーにした」。
<外部から>到来した情報は、<私>に、<私>の頭脳が達成できる限りで最も遠く最も広いところまで<覗き見>させる。エメの手紙が正確であればあるほど<私>の考えはあながち妄想とも言えなくなる。かといって一つの妄想も混在していないとも言いきれない。<私>は宙吊りのまま放置される。
「アルベルチーヌがなにも言わず決然としてグレーの服の婦人とやって来たからには、ふたりは前もって待ち合わせていたのだ、シャワー室のなかで愛の営みをする取り決めをしていたのは堕落の経験があってそんな二重生活をうまく隠そうとしている証拠なのだ、私がこう考えたからこそ、つまりこうしたイメージがアルベルチーヌの有罪という恐ろしい情報を私にもたらしたからこそ、たしかにこうしたイメージはただちに肉体的苦痛をひきおこし、このイメージはその苦痛と切り離しえないものとなった。ところがこの苦痛は、すぐさまそのイメージにも影響を及ぼしたのである。客観的な事実というのも、これまたイメージにほかならず、それに向き合うときの心的状態によって異なるものとなる。苦痛もまた、陶酔に劣らず、変化をもたらす強力な要因なのだ。こうしたイメージと結びついた苦痛は、たちどころにこれらのイメージを、つまりグレーの服の婦人や、チップや、シャワーや、グレーの服の婦人と連れだってアルベルチーヌが決然とやって来た通りなどを、ほかのどんな人でも想いうかべることのできるものとは完全に異なるものーーー私には想いもよらなかった虚偽と過ちだらけの生活をのぞき見させてくれる眺めーーーにしたわけで、わが苦痛はそうしたイメージをその素材自体から変質させてしまい、私は地上の光景を照らしだす光のなかでそれを見ていたのではなく、それはべつの世界の断片、つまり呪われた未知の惑星の断片となり、いわば『地獄』の眺めとなったのである。『地獄』となったのは、バルベックの全体のみならず、エメの手紙によるとアルベルチーヌがそこから自分よりも若い娘たちをしばしば呼び寄せてシャワー施設へ連れていったという近隣のあらゆる土地だった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.226~227」岩波文庫 二〇一七年)
<私>に襲いかかった苦痛の力は情け容赦なく<私>の思考の速度をぐんぐん押し上げる。限度を忘れた<私>の観念は「バルベックの全体のみならず、エメの手紙によるとアルベルチーヌがそこから自分よりも若い娘たちをしばしば呼び寄せてシャワー施設へ連れていったという近隣のあらゆる土地」を一気に「地獄」へ置き換える。
<土地の名>とその内容。天国とまではいかないにせよ、そして生きていれば誰もが何度か経験した覚えがあるように、少なくとも「地獄」へ転化することはしばしばある。その条件として「べつの世界の断片、つまり呪われた未知の惑星の断片」との遭遇が上げられる。別の価値体系が支配する世界。<私>はそれに耐えられないというわけだ。
ところが世界には<私>の知らない<未知の世界>、<別の価値体系に従って動いている世界>が幾つもある。人間は別の価値体系に耐えられない時、アルベルチーヌに向けられた<私>の観念がそうだが、<有罪>を宣告して厄介払いしてしまおうとする傾向を持つ。<私>は夢うつつのあいだに、愛しているにもかかわらず、とともに、愛しているがゆえになおのこと、アルベルチーヌを<有罪>の監獄へ叩き込んでしまわなくてはいられなくなる。ところが<私>は間違いなくアルベルチーヌを愛しているがゆえにますます高まる苦痛を認めつつ、厄介払いの不可能をも受け入れるほかなくなる。
かといって事態はそう簡単にすんなりはかどって行くだろうか。行かない。はかどって行くのは、この場合、暴走するという次元で始めて意味を持つ。だがしかしそれが暴走に見えるのはプルースト作品を一つのまとまった<物語・ストーリー>として読もうとするからである。十重二十重に複雑化していてもはや一つのストーリーなどという<神話>に収まりきるはずのない作品をまたしても<再神話化>してしまうのは、おそらく無駄だ、とプルーストは問いかけるのである。