次の箇所でプルーストは「空間に視覚上の錯覚があるように、時間にも同様の錯覚が存在する」と述べる。しかも人間はしばしばこの種の「錯覚」に陥っている。
「アルベルチーヌの生前最後の数ヶ月」。それはこれまで見てきたように「数ヶ月のあいだに私の人生につぎからつぎへと生起したあらゆるできごとの想い出のせいでーーーまた人は自分が大きく変わったときに実際よりも長い時間を生きたと考えがちだから、そうしたあるできごとの想い出のせいでーーー、その数ヶ月は一年よりもはるかに長いものに感じられた」。なるほどそういう経験なら多かれ少なかれ誰もが持っているし記憶してもいる。
プルーストが鋭く切り込むのはその直後から。こうある。「にもかかわらず私はそんな多くのことがらをいまや忘れてしまい、そうして生じた空虚な空間がそんな最近のできごとを自分から遠ざけたせいで、私はそれらを遠い昔のことのように思ったが、それも私がそんなできごとを忘れるだけの『時間』と言われるものを持ったからだろう」。
「アルベルチーヌの生前最後の数ヶ月のあいだに私の人生につぎからつぎへと生起したあらゆるできごとの想い出」。そんな「最近のできごとを自分から遠ざけた」と感じさせたのはほかでもない「私がそんなできごとを忘れるだけの『時間』と言われるものを持ったからだろう」と。アルベルチーヌとの想い出に「忘却」が生じた。
この忘却はアルベルチーヌとの想い出を「忘れるだけの『時間』と言われるものを持った」瞬間、いきなり生じる。さらに忘却には特徴があるとプルーストは指摘する。
「忘却の時間が私の記憶のなかに不規則かつ断片的に差し挟まれたためにーーー海上をおおう濃霧が万物の目印を消してしまうようにーーー、私の時間の距離感は混乱してばらばらにな」ると。
「すこしずつ忘却をもたらすのが時間であることに変わりはなくても(とはいえ忘却をいきなり現実のものとして私に実感させてくれたのは、ほかへ気が逸れたことーーーデボルシュヴィル嬢への欲望ーーーであった)、べつの反応によって忘却もまた時間の概念を根本から変えずにはおかない。空間に視覚上の錯覚があるように、時間にも同様の錯覚が存在する。私のなかには仕事をしたい、無駄にすごした時をとり戻したい、生活を変えたい、というより真の生活をはじめたい、という昔ながらの漠然とした意志がなおも存続していたせいで、私は自分が昔と同じように若いのだと錯覚していたが、それでもアルベルチーヌの生前最後の数ヶ月のあいだに私の人生につぎからつぎへと生起したあらゆるできごとの想い出のせいでーーーまた人は自分が大きく変わったときに実際よりも長い時間を生きたと考えがちだから、そうしたあるできごとの想い出のせいでーーー、その数ヶ月は一年よりもはるかに長いものに感じられた。にもかかわらず私はそんな多くのことがらをいまや忘れてしまい、そうして生じた空虚な空間がそんな最近のできごとを自分から遠ざけたせいで、私はそれらを遠い昔のことのように思ったが、それも私がそんなできごとを忘れるだけの『時間』と言われるものを持ったからだろう。そのような忘却の時間が私の記憶のなかに不規則かつ断片的に差し挟まれたためにーーー海上をおおう濃霧が万物の目印を消してしまうようにーーー、私の時間の距離感は混乱してばらばらになり、距離はこちらで縮まったかと思うとあちらでは延びる始末で、あらゆるものと私との距離が、あるときは実際よりもずっと遠くに、あるときはずっと近くに感じられた」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.388~390」岩波文庫 二〇一七年)
忘却は「私の記憶のなかに不規則かつ断片的に差し挟まれ」ることができる。言い換えれば、愛や嫉妬についてすでに書かれたように、<私>の時間は連続的で単一なものではまるでなく、逆に、いついかなる時でも「無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立」つ、不連続的な諸断片であり得るというである。
「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)
この事情は睡眠において最も顕著な特徴を見せつける。
(1)「人は眠っていても、自分をとり巻くさまざまな時間の糸、さまざまな歳月と世界の序列を手放さずにいる。目覚めると本能的にそれを調べ、一瞬のうちに自分のいる地点と目覚めまでに経過した時間をそこに読みとるのだが、序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある。かりに眠れないまま明けがた近くになり、本を読んでいる最中、ふだん寝ているのとずいぶん違う格好で眠りに落ちたりすると、片腕を持ちあげているだけで太陽の歩みを止め、後退させることさえできるので、目覚めた最初の瞬間には、もはや時刻がわからず、寝ようと横になったところだと考えるかもしれない。眠るにはさらに場違いな、ふだんとかけ離れた姿勢、たとえば夕食後に肘掛け椅子に座ったままでうとうとしたりすると、その場合、大混乱は必至で、すべての世界が軌道を外れ、肘掛け椅子は魔法の椅子となって眠る人を猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐらせるから、まぶたを開けるときには、数ヶ月前の、べつの土地で横になっていると思うかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・一・P.28~29」岩波文庫 二〇一〇年)
(2)「ベッドで眠っていても、眠りが深くなり、精神が完全に弛緩すると、それだけで精神は寝入った場所の地図を手放してしまう。すると夜のただなかに目覚めたとき、自分がどこにいるのかわからないので、最初の一瞬、私には自分がだれなのかさえわからない。私は、動物の内部にも微(かす)かに揺らめいている存在感をごく原初の単純なかたちで感じるだけで、穴居時代の人よりも無一物である。しかしそのとき想い出がーーー私が実際にいる場所の想い出ではなく、私がかつて住んだことがあり、そこにいる可能性があるいくつかの場所の想い出がーーーまるで天の救いのようにやって来て、、ひとりでは脱出できない虚無から私を救い出してくれるのだ。かくして私は、何世紀にもわたる文明の歴史を一瞬のうちに飛びこえるのだが、すると、ぼんやりとかいま見た石油ランプや、つぎにあらわれた折り襟のシャツなどのイメージが、すこしずつ私の自我に固有の特徴を再構成してくれるのである。
われわれのまわりに存在する事物が不動の状態にあるのは、それがそれであって他のものではないというわれわれの確信のなせる業(わざ)であり、つまり、それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性が、それらを不動の状態に置いているかもしれない。とはいえ私がこのように目覚めるとき、わが精神は私がどこにいるかを知ろうと必死にあがくけれど徒労におわり、すべてが、事物が、土地が、歳月が、まわりの暗闇のなかをぐるぐると旋回する。私の身体は、しびれて身動きができない場合、徒労の具合から手足の位置をつきとめ、そこから壁の向きや家具の位置を割り出し、自分のいる住まいを再構成し、それがどこなのかを判断しようとする。身体にやどる記憶が、肋骨や、膝や、肩にやどる記憶が、かつて寝たことのある部屋をつぎつぎに提示してくれるのだが、そのあいだも身体のまわりでは、さまざまな目に見えない壁が、想いうかべた部屋のかたちに合わせて位置を変えつつ、暗闇のなかを渦のように旋回する」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・一・P.29~31」岩波文庫 二〇一〇年)
(3)「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である。たしかに中断があったのに(眠りが完全であったり、夢がまるで自分とかけ離れたものであったりした)、なにがわれわれを導いているのか?心臓の鼓動が止まり、舌を規則的に引っ張られて息を吹きかえすときのように、たしかに死があったのだ。われわれが一度しか見たことのない部屋にもきっとさまざまな想い出をよび覚ます力が備わり、その想い出にさらに古い想い出がつながっているか、あるいはわれわれの内部で想い出のいくつかが眠りこんでいて、目覚めたときにそれが意識されるのだろう。目覚めるさいのーーー眠りというこの恵みぶかい精神錯乱の発作のあとーーー復活という現象は、つまるところ、人が忘れていた名前や詩句や反復句(ルフラン)を想い出すときに生じることと似ているにちがいない。そうだとすると死後の魂の復活も、ひとつの記憶現象としてなら理解できるかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
というふうに<私>の時間は多元的かつ支離滅裂に分裂し得る。睡眠時間を取ったことのある人間なら誰でも知っていることだ。とするとこの多元性に対し、なぜ<統一>などというあり得ない自己欺瞞が生じたのだろう。ニーチェはいう。
「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
事実を<見ない>態度についてニーチェはいう。
「自己観察に対する不信。或る思想が或る別の思想の原因であるということは、確定されえない。私たちの意識という机の上では、あたかも或る思想がそれに後続する思想の原因であるかのように、諸思想が次々と現われる。事実私たちは、この机の下で演じられている闘争を見ないのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二四七・P.147」ちくま学芸文庫 一九九四年)
それこそ人間の<弱さ>であると。