さらに作品の中で何度も繰り返される事情。作品の生産者の側が何をどのように書いたとしても、その消費者の側(読者)の「精神のなかに製造されるのはべつの考えなのである」。
「それぞれの読者が目を見開いているとき私の見ているイメージをそのまま見ているわけではないということが信じられず、電話では人の口にしたことばがそのまま電話線を通って伝わると信じている人たちと同じく無邪気に、著者の考えは読者にじかに伝わるものと信じてしまうが、実際には読者の精神のなかに製造されるのはべつの考えなのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.334~335」岩波文庫 二〇一七年)
認識対象がまるで消え失せてしまうわけではなく、逆にそれは衝撃として読者の側を惰眠から叩き起こす。としてもなお読者の側が知りうるのはーーープルーストの言葉を借りればーーー「あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」。
「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)
そこで人々はいつも勘違いばかりしているということになる。「われわれの誤りは、むしろものごとをあるがままに、名前をそう書いてあるがままに、人びとを写真や心理学の教える固定した基礎知識のままに提示する点にある。しかしふだん実際に知覚しているのは、けっしてそんなものではない。われわれは世界をすっかり間違ったふうに見たり、聞いたり、知覚したりしているのだ」。
「しかし私がド・ロルジュヴィルをあたかもデポルシュヴィルであるかのようにつくり替えてしまい、かくして名前を二度もとり違えたこと自体は、なんら驚くにはあたらない。われわれの誤りは、むしろものごとをあるがままに、名前をそう書いてあるがままに、人びとを写真や心理学の教える固定した基礎知識のままに提示する点にある。しかしふだん実際に知覚しているのは、けっしてそんなものではない。われわれは世界をすっかり間違ったふうに見たり、聞いたり、知覚したりしているのだ。名前にしても、経験が誤りを正してくれるまで、われわれはそれを聞こえたとおりにくり返しているが、そんな訂正がつねにおこなわれるとはかぎらない。コンブレーではだれもが二十五年ものあいだフランソワーズにサズラ夫人のことを話していたはずなのに、フランソワーズはサズラン夫人と言いつづけた。それはフランソワーズの習性であり、私たちの反駁によってかえって強化され、サン=タンドレ=デ=シャンのフランスに一七八九年のさまざまな平等原理をつけ加えたものであったが(フランソワーズが要求した市民の権利はただひとつ、私たちと同じようには発音せず、ホテルや夏や空気を女性名詞として使いつづける権利だった)、それは自分の誤りにわざと高慢に固執する態度から生じたものではなく、フランソワーズの耳には実際つねに相変わらずサズランと聞こえていたからにほかならない。こうして永久にくり返される誤りこそ『人生』であり、その無数の形は、目に見える世界や耳に聞こえる世界にだけ見出されるのではなく、社交や恋愛や歴史などの世界にも見出される。リュクサンブール大公妃は、裁判長の妻の目には粋筋の女(ココット)にしか見えないが、もっともこれはなんら重大な結果をもたらさない。いささか重大な結果をもたらしたのは、スワンにとってオデットが容易に身を任せない女に見えたことで、そのせいでスワンは小説じみた想像をたくましくしたが、自分の勘違いに気づくと、その想像はいっそうの苦痛にしかならなかった。さらにもっと重大な結果になったのは、ドイツ人の目にはフランス人が『雪辱戦』しか考えていないと見えたことだろう。われわれは世界について形の定まらぬ断片的ヴィジョンしか持たず、危険な示唆を生みかねない恣意的連想でそのヴィジョンを補っているにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.343~345」岩波文庫 二〇一七年)
なぜ「われわれは世界をすっかり間違ったふうに見たり、聞いたり、知覚したりして」ばかりしているのか。むしろそうするほかないのか。馬鹿な人間と馬鹿でない人間とがいるという話ではまるでない。人間は「ものごとをあるがままに、名前をそう書いてあるがままに、人びとを写真や心理学の教える固定した基礎知識のままに提示する」と<思い込む>ことができる<お人好し>でいることしかできないからだとニーチェはいう。
(1)「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.319』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.352~353』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである、しかもそのさい不器用な手でもって原形の模写が行われるので、どの見本も不正確で、原形の忠実なる模写とは信用できないような結果になっているかのようなのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.353』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(4)「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(5)「真理への意志とは、固定的なものを《でっちあげること》、真なる・持続的なものを《でっちあげること》、あの《偽りの》性格を度外視すること、このものを《存在するもの》へと解釈し変えることである。それゆえ『真理』とは、現存する或るもの、見出され、発見さるべき或るものではなく、ーーー《つくりだされるべき》或るもの、《過程》に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる《名称の役目をつとめる》或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、《能動的に規定するはたらき》としてであってーーーそれ自体で固定しているかにみえる或るものの意識化としてでは《ない》」(ニーチェ「権力への意志・下・五五二・P.87~88」ちくま学芸文庫 一九九三年)
どんな人間も常に読み違える。その点でプルーストはたいへん冷静沈着だ。
「われわれは世界について形の定まらぬ断片的ヴィジョンしか持たず、危険な示唆を生みかねない恣意的連想でそのヴィジョンを補っているにすぎない」
例えば昨日、日本のマス-コミはこぞってロシアでの軍事行動を全面的に取り上げた。しかしプルースト、さらにもっとかさのぼってニーチェに言わせれば、それこそ「われわれは世界について形の定まらぬ断片的ヴィジョンしか持たず、危険な示唆を生みかねない恣意的連想でそのヴィジョンを補っているにすぎない」というほかない。なぜなら、ロシアに関するあの大々的なマス-コミ報道で肝心の沖縄の問題がすっかり覆い隠されてしまった一日になってしまったからである。
これだから日本のマス-コミはあれよと言うま間もなく加速的に信用を失っていくのだ。