白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ42

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月二十六日(月)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)四十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)四十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

早めの昼食(午前十時三十分)。普段の昼食より早い時間だがカリカリだけならどれくらい食べるだろうか。そう思い、ニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿に盛ってみるとぱくぱく食べた。なかなか行けそうだ。

 

夕食(午後七時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)四十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)四十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

少し留守番させていたからかどうかわからないがお腹をすかせている様子。食べる時に「きゃあ」と鳴き声を上げてうれしそうにがつがつ食べた。

 

In youth have I known one with whom the Earth

In secret communing held―as he with it,

In daylight,and in beauty from his birth.

Whose fervid,flickering torch of life was lit

From the sun and stars,whence he had drawn forth

A passionate light―such for his spirit was fit---

And yet that spirit knew not,in the hour

Of its own fervor what had o’er it power.

 

「若い頃のことだ、私はある男を知っていた。大地は彼に

ひめやかな共感をよせーーー彼もまた白日のもとでさえ

生まれながらの美への憧れのうちに大地との共感を保っていた。

火の粉を散らして燃える彼の生命のたいまつは

太陽と星とによって 火をともされ 彼はそこから

情熱の光を汲んでいたーーーそれこそ彼の魂にはふさわしかったーーー

それでいて この魂は 赫赫と燃えるときにも知らないのだったーーー

いったい何が 自分の上に 力を及ぼしているのかを」(ポオ「スタンザ」『詩と詩論・P.38~39』創元推理文庫 一九七九年)


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて461

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日と同じく午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは同じです。

 

今日の午後に病院へ。患者本人をまじえて医療スタッフから説明を受ける。治療方針はほぼ決定。

 

もうしばらくすればビルビリン数値が1まで下がるはず。それに伴い黄疸は消える。そこまでの回復が見えればいったん退院可能。

 

次に抗がん剤治療開始。自宅から週一で抗がん剤治療に通う。付き添うことになるが、抗がん剤治療時の点滴投与はそれなりの時間がかかるため付き添う側は付き添う側でそれなりに耐える時間。今度はそれがリハビリになる。落ち着いて読書できればとおもう。

 

患者本人はなるべく体力回復につとめること。そうでないと手術できるものもできなくなってしまい困るので。

 

手術に向けた通院とはいえ、ともかく一度帰宅して家で暮らすことができそうで、それが救いといえばいえる。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・<マス-コミ=大文字の言葉>が覆い隠した沖縄基地問題の一日

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

さらに作品の中で何度も繰り返される事情。作品の生産者の側が何をどのように書いたとしても、その消費者の側(読者)の「精神のなかに製造されるのはべつの考えなのである」。

 

「それぞれの読者が目を見開いているとき私の見ているイメージをそのまま見ているわけではないということが信じられず、電話では人の口にしたことばがそのまま電話線を通って伝わると信じている人たちと同じく無邪気に、著者の考えは読者にじかに伝わるものと信じてしまうが、実際には読者の精神のなかに製造されるのはべつの考えなのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.334~335」岩波文庫 二〇一七年)

 

認識対象がまるで消え失せてしまうわけではなく、逆にそれは衝撃として読者の側を惰眠から叩き起こす。としてもなお読者の側が知りうるのはーーープルーストの言葉を借りればーーー「あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」。

 

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

 

そこで人々はいつも勘違いばかりしているということになる。「われわれの誤りは、むしろものごとをあるがままに、名前をそう書いてあるがままに、人びとを写真や心理学の教える固定した基礎知識のままに提示する点にある。しかしふだん実際に知覚しているのは、けっしてそんなものではない。われわれは世界をすっかり間違ったふうに見たり、聞いたり、知覚したりしているのだ」。

 

「しかし私がド・ロルジュヴィルをあたかもデポルシュヴィルであるかのようにつくり替えてしまい、かくして名前を二度もとり違えたこと自体は、なんら驚くにはあたらない。われわれの誤りは、むしろものごとをあるがままに、名前をそう書いてあるがままに、人びとを写真や心理学の教える固定した基礎知識のままに提示する点にある。しかしふだん実際に知覚しているのは、けっしてそんなものではない。われわれは世界をすっかり間違ったふうに見たり、聞いたり、知覚したりしているのだ。名前にしても、経験が誤りを正してくれるまで、われわれはそれを聞こえたとおりにくり返しているが、そんな訂正がつねにおこなわれるとはかぎらない。コンブレーではだれもが二十五年ものあいだフランソワーズにサズラ夫人のことを話していたはずなのに、フランソワーズはサズラン夫人と言いつづけた。それはフランソワーズの習性であり、私たちの反駁によってかえって強化され、サン=タンドレ=デ=シャンのフランスに一七八九年のさまざまな平等原理をつけ加えたものであったが(フランソワーズが要求した市民の権利はただひとつ、私たちと同じようには発音せず、ホテルや夏や空気を女性名詞として使いつづける権利だった)、それは自分の誤りにわざと高慢に固執する態度から生じたものではなく、フランソワーズの耳には実際つねに相変わらずサズランと聞こえていたからにほかならない。こうして永久にくり返される誤りこそ『人生』であり、その無数の形は、目に見える世界や耳に聞こえる世界にだけ見出されるのではなく、社交や恋愛や歴史などの世界にも見出される。リュクサンブール大公妃は、裁判長の妻の目には粋筋の女(ココット)にしか見えないが、もっともこれはなんら重大な結果をもたらさない。いささか重大な結果をもたらしたのは、スワンにとってオデットが容易に身を任せない女に見えたことで、そのせいでスワンは小説じみた想像をたくましくしたが、自分の勘違いに気づくと、その想像はいっそうの苦痛にしかならなかった。さらにもっと重大な結果になったのは、ドイツ人の目にはフランス人が『雪辱戦』しか考えていないと見えたことだろう。われわれは世界について形の定まらぬ断片的ヴィジョンしか持たず、危険な示唆を生みかねない恣意的連想でそのヴィジョンを補っているにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.343~345」岩波文庫 二〇一七年)

 

なぜ「われわれは世界をすっかり間違ったふうに見たり、聞いたり、知覚したりして」ばかりしているのか。むしろそうするほかないのか。馬鹿な人間と馬鹿でない人間とがいるという話ではまるでない。人間は「ものごとをあるがままに、名前をそう書いてあるがままに、人びとを写真や心理学の教える固定した基礎知識のままに提示する」と<思い込む>ことができる<お人好し>でいることしかできないからだとニーチェはいう。

 

(1)「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.319』ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.352~353』ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(3)「つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである、しかもそのさい不器用な手でもって原形の模写が行われるので、どの見本も不正確で、原形の忠実なる模写とは信用できないような結果になっているかのようなのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.353』ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(4)「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(5)「真理への意志とは、固定的なものを《でっちあげること》、真なる・持続的なものを《でっちあげること》、あの《偽りの》性格を度外視すること、このものを《存在するもの》へと解釈し変えることである。それゆえ『真理』とは、現存する或るもの、見出され、発見さるべき或るものではなく、ーーー《つくりだされるべき》或るもの、《過程》に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる《名称の役目をつとめる》或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、《能動的に規定するはたらき》としてであってーーーそれ自体で固定しているかにみえる或るものの意識化としてでは《ない》」(ニーチェ「権力への意志・下・五五二・P.87~88」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

どんな人間も常に読み違える。その点でプルーストはたいへん冷静沈着だ。

 

「われわれは世界について形の定まらぬ断片的ヴィジョンしか持たず、危険な示唆を生みかねない恣意的連想でそのヴィジョンを補っているにすぎない」

 

例えば昨日、日本のマス-コミはこぞってロシアでの軍事行動を全面的に取り上げた。しかしプルースト、さらにもっとかさのぼってニーチェに言わせれば、それこそ「われわれは世界について形の定まらぬ断片的ヴィジョンしか持たず、危険な示唆を生みかねない恣意的連想でそのヴィジョンを補っているにすぎない」というほかない。なぜなら、ロシアに関するあの大々的なマス-コミ報道で肝心の沖縄の問題がすっかり覆い隠されてしまった一日になってしまったからである。

 

これだから日本のマス-コミはあれよと言うま間もなく加速的に信用を失っていくのだ。


Blog21・アルベルチーヌの無限の変化を可能にする<無数の死>

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌの死によって<私>にもたらされた一つの観念。

 

「なぜなら人は愛さなくなれば多くのことを知りうるだろうが、そのときにはもう知りたいという気持も失せているからである。いや、これはまったく同じことだとさえ言える。というのも、もう愛していない女に再会して、その女がすべてを打ち明けてくれるとすれば、実際、相手はもはやその女ではないからであるか、あるいはこちらがもはや自分ではない、つまり愛していた人間がもはや存在しないからだ」

 

あたかも天啓に打たれでもしたかのような、いかにも突然の気づきに襲われでもしたかのような、大袈裟な文章。大袈裟なのは以前にも述べたようにプルーストが時々用いる演出でしかない。

 

「みずからのうちに反駁の可能性を宿さぬ考えなどひとつもなく、みずからのうちに反対語を宿さぬ語もひとつとしてない。いずれにせよ、もしそれがほんとうだとしても、亡き愛人の生活にまつわるこんな役にも立たぬ真実が、それをどうすることもできない今になって深淵から浮かび、ようやく立ちあらわれたのだ。こうなると人は(忘れてしまった女のことはもう気にかけていないから、きっといま愛しているべつの女を想いうかべ、この女にかんしても同じことが生じるかもしれないと考えて)意気消沈する。人は『もしあの女が生きていたら!』と考える。そして『せめてこの生きている女が、このような事態を、つまり自分が死んだら隠していたことは残らずこの私に知られてしまうことを、理解してくれたなら!』と考える。しかしこれは循環論法というものだ。もし私がアルベルチーヌを生かしておくことができていたら、同時に、アンドレがなにも打ち明けない事態が生じたにちがいないからである。これは人がよく口にする『ぼくがきみを愛さなくなれば、きみも悟るだろう』ということばと異工同音である。このことばは、いかにも正鵠を射ているが、いかにも不合理でもある。なぜなら人は愛さなくなれば多くのことを知りうるだろうが、そのときにはもう知りたいという気持も失せているからである。いや、これはまったく同じことだとさえ言える。というのも、もう愛していない女に再会して、その女がすべてを打ち明けてくれるとすれば、実際、相手はもはやその女ではないからであるか、あるいはこちらがもはや自分ではない、つまり愛していた人間がもはや存在しないからだ。ここにもまた死が介在したというべきで、死がすべてを容易にしたと同時に、すべてを無用にしたのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.408~409」岩波文庫 二〇一七年)

 

プルーストが恥をしのんで柄にもない大袈裟な演出をわざわざ演じる際に読者に告げていること。それをしばしば繰り返すこと。そうすることで反復されているのはなんなのか。

 

「さまざまなアルベルチーヌのひとりひとりが異なるのは、ダンサーが舞台に登場するたびに、投光器の光が無数に変化し、そのせいでダンサーの色彩も形も性格も変わるのに似ている。この時期に私がアルベルチーヌのうちに眺めた存在はあまりにも多様であり、のちのちの私も、どのアルベルチーヌを想いうかべるかによって自分がべつの人間となる習慣を身につけたのかもしれない。私は、場合によって嫉妬深い男、つれない男、官能にふける男、憂鬱な男、怒り狂う男になったが、これらはよみがえる想い出のつれづれに再創造されただけではなく、たとえ同じひとつの想い出でも、その想い出を評価するときに介在する確信の度合いの違いによって再創造されたのである。つねに立ち返るべきはこのことであり、たいていの時間われわれの心を気づかないうちに満たしているこの確信であるが、この確信はわれわれの幸福にたいして、われわれが実際に見ている相手より重大な役割を果たすのだ。というのもわれわれが人を見るのもこの確信を通じてであり、見ている相手にそのときどきの重要性を与えるのもこの確信だからである。厳密に言うなら、のちにアルベルチーヌのことを考えたときのさまざまな私にも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.642」岩波文庫 二〇一二年)

 

次々変化していくアルベルチーヌはその都度その時かぎりのアルベルチーヌでありもう二度と出現することのないアルベルチーヌの無限の系列である。とともに<私>も次々変化していっていることを忘れてはならないとプルーストは述べる。

 

「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)

 

あるアルベルチーヌから別のアルベルチーヌへの無限の変化の系列。それにともなう<私>自身の無限の変化の系列。したがって変化のたびに「死が介在した」ということでなければならない。