白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ43

2023年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月二十七日(火)。

 

カリカリを十粒ずつ増やしてみる。

 

遅めの朝食(午前八時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

とてもよく遊ぶ。今度は洗濯バサミがお気に入りのようだ。一つの玩具だけでは飽きるので玩具はいつも幾つか用意しておく。洗濯バサミで遊ぶ場合、リビングの一方から他方へ素早く滑らせてやると一生懸命追いかけてつかみにいく。ほかの玩具と違って飼い主もともに移動しないといけないため一回ごとが面倒だが家の中で少しも動かないよりはましだろうと猫につき合う。

 

遅めの夕食(午後八時)。

 

ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

スエットの紐が好きな猫は少なくないようだが、二代目タマも例に漏れず飼い主のスエットパンツの紐を見るたびに引っ張りにくる。引っ張ってほどいてしまう。飼い主は紐をくくり直す。紐をくくるとまたタマがやってきて引っ張ってほどいてしまう。飼い主はもう一度紐をくくり直す。次にタマが近づいてくると目の前で紐のついた玩具の紐の部分をちょろちょろ動かしてやる。すると今度は玩具の紐を夢中になって追いかけまわす。

 

Perhaps it may be that my mind is wrought

To a fever by the moonbeam that hangs o’er,

But I will half believe that wild light fraught

With more of sovereignty than ancient lore

Hath ever told―or is it of a thought

The unembodied essence,and no more,

That with a quickening spell doth o’er us pass

As dew of the night-time o’er the summer grass?

 

「あるいは 私の心が ふりそそぐ月の光に

激しく狂わされているということもありえよう。

だが どうも私には あの野性の光は

古い伝説が かつて認めていたよりも もっと強い

支配力をはらんでいると思われてならないのだーーー

それともこれは一つの思念の 具体性を持たぬ精気に他ならず

それが 夏草に置く夜露のよおうに 活力を呼び戻す魔力を伴って

われらの上を 通り過ぎるのではないだろうか?」(ポオ「スタンザ」『詩と詩論・P.38~39』創元推理文庫 一九七九年)


Blog21・呆れた人間の自己欺瞞

2023年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

次の箇所は当たり前といえばあまりにも当たり前のことではある。

 

「ただひとつの行動にも数多くの原因がからんでいる」。だから、「どの観点に立つかによってひとつひとつの行動がさまざまな様相を呈する」。

 

「私がようやく気づきはじめたのは、ただひとつの行動にも数多くの原因がからんでいるという理論は、そもそもアルベルチーヌが友人の娘たちとつき合うときに巧みに駆使して、自分がやって来たのはその人のためだとそれぞれの娘に信じこませるのに役立つものであったが、この理論は畢竟(ひっきょう)、どの観点に立つかによってひとつひとつの行動がさまざまな様相を呈することの、いわば人為的で意図的な象徴にほかならない」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.435」岩波文庫 二〇一七年)

 

ところがどんな人間でも実にしばしばこのありふれた事情を忘れ去って平気である。

 

(1)「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?

 

肉体を信ずることは『霊魂』を信ずることよりもいっそう基本的である。すなわち後者は、肉体の断末魔を非科学的に考察することから発生したものである。

 

《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する」(ニーチェ「権力への意志・下・四九〇~四九二・P.34~36」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

(2)「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

そして何かをきっかけにして不意にそのことを思い出す。何がそのきっかけになるかは誰にもわからないが、しかし人間は、そのきっかけに不意打ちされるまでずいぶん長いあいだ当然と思い込んでいたことについて、すっかり忘れ去ってしまっていたと思い出して逆に驚くのである。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて462

2023年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日と同じく午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは同じです。

 

母の膵頭部癌(転移の疑いあり)の治療方針の目処がようやく立ったことで昨日はいつもより一時間ほど早く眠れた。夜間に目が覚めたのは一度だけだがそれからしばらくじっとしていたら再び眠れた。いつもなら一度目覚めてしまうとそれからまったく眠れないのが常。

 

アメリカほどではないにせよ精神疾患を患う患者が激増した日本でさえ、不眠が強いタイプのうつ病によく効く薬剤というのはありそうでその実なかなかない。その日その日の調子次第で幾つかの薬剤を組み合わせて調整している。

 

読書は大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(講談社文芸文庫)。

 

日本近代文学の終わりというのは日本近代文学が取り扱っていた諸問題の解消ではまるでなく、逆にそれら諸問題が日本中の至るところに、個々人のごくふつうの日常生活のいつでもどこででも当たり前に出現して空気のように速やかに浸透し個々人を巻き込み巻き込まれることが避けられない世界の出現である。その終わり頃に、まだ目に見えやすい構造を用いて書かれた小説の読み直しは欠かせないだろうとおもう。

 

では現代文学とは何か。カフカ的な世界(審判、城など)が不意に個々人に襲いかかりあがけばあがくほど宙吊りにされていく一方で、そのことに隣人も友人も誰一人知らないか気づいても理解不能なまま日常が通り過ぎていくような、奇怪な情況が世界中で溢れかえるような世の中になったのは周知のことだ。

 

参考になれば幸いです。