ひとわたりネットを見渡した後、文芸誌に掲載できる範囲でどんな言葉が飛び交っているか。さらにその中から中編小説構成上どんな言葉を引いてきたか。というところで先がだいたいわかってしまう小説は常に情報弱者たる一般読者にはありがたい点もなくはない。
コロナ禍。ある作家のもとへ舞い込んだ出版社からの執筆依頼。
「家庭雑誌としての性格上、平素から女性層を中心に読者を意識した誌面作りを心がけ」(青木淳悟「春の苺」『群像・2023・12・P.55』講談社 二〇二三年)
このステレオタイプにまずのけぞる。のけぞらせたい。そう青木淳悟は考えたのかもしれない。とすれば日本の出版業界にはそんな化石体質がまだまだ抜きがたく深々と根を張っているという内部告発におもえる。
そうではない。「家庭雑誌といえども内容はずいぶん変わってきた」という反論がただちに立てられそうだ。しかし逆にそうではない。東京の大手出版社勤務の編集者の感覚やセンスがどうなのか知るよしもないし、知らされたところで作者としてはいよいよ息苦しい金縛りに遭いますます食べていけなくなるかもしれないだろうことはなぜかよくわかる。
コロナ禍の三年間で主にテレビによる露骨な誘導報道がまかり通った。致命的なほど保守的な社会へ日本は丸ごと投げ返された。四大文芸誌に書けるくらいならその息苦しさをもっと書いてほしいと思ったりしなくもない。だが作者は読者の代弁者ではない。代弁者を買って出る必要はそもそもない。けれどもどこの読者の目にもてんで引っかからない作品を書き上げるというのはこれまた難しいかもしれない。全然売れなくなってしまうよりも難しいだろう。売れないなら売れないでそこには珍品愛好家の熱い視線が注がれている。逃れられない。
さて、タッチはたいへんやわらか。あまりにやわらか過ぎて途中で居眠ってしまいそうになるほどだ。
そんなことより重要なのは「屋根裏」という場を用いて何をどう料理しているか。今作では料理していないかは問題でないし問題にすべきでないとおもう。「屋根裏」のリサイクルはこれまで多くの作者が行き詰まった際に持ち出してくる常套手段のひとつだった。ところが「春の苺」を覗いてみると「屋根裏」について特にどうということはない。ともすれば頭のわるい批評家が口走ってしまいがちな「作者の分身」がどうしたこうしたと思わせて見せているのかいないのかもわからない。だからどうしたというふうにも思えない。どんな読者を想定したのかさえわからない。それはそれでいいのではと思わせたままあれよとラスト。
思い出した。「家庭雑誌」の罪について。コロナ禍の三年間で復古主義に陥った「女性向け」雑誌はひとつやふたつでない。巻き戻された時間。時間の無駄。わけても電気料金の高騰。高騰する電気料金は原発再稼働問題と直結している。年齢性別国籍にかかわらずすべての日本在住者に否が応でも降りかかってくる大問題のひとつである。そんな電気にまつわる怖い歴史とともにとりわけ日本の「女性向け」雑誌は何をどんな方向へ誘導してきたか。たった三年でどんなことに手を染めてしまったか。「女性向け」雑誌を開けばいきなり目に飛び込んでくる、特にヴィジュアル。ヴィジュアルという暴力。
ところがただ単にヴィジュアルだけで暴力や同調圧力になるとは限らない。けれどもそこへ堂々と打ち込まれた誤字脱字を含む「キャッチフレーズ」。言い換えれば「ナラティヴ/ナレーション」。「ナラティヴ/ナレーション」がひょいと差し込まれるやもうそのヴィジュアルは同調圧力への立派な働きかけと化す。同調した読者のほとんどは身も蓋もなく限度を忘れ、同調圧力の暴力性を全開まで押し広げ、メーターが振り切り飛び散ってなお止めることを思い出そうとしない。その瞬間、何人もの人間がどんな屈辱を舐めさせられどんな倒れ方をしているか、ひとつも知らない。目をおおうほどの「民度」の低さ、低劣さ。
あるヴィジュアルにひとつの「ナラティヴ/ナレーション」が添付されるや何事かが立ち上がる。紙面の暴力はいつどこでどんなふうに待ち伏せているか、とてもではないが読者の側にはわかったものではない。
そういえばつい先日、角川書店からいわゆる「ジェンダー」関連本が出されようとしたところ、なぜかストップという事態になった。内容は知らない。マス-レベルで大きく取り上げられたのはその「帯」にある「キャッチコピー」。内容を見る以前すでに「帯」の「キャッチコピー」でアウト。残念ながらといいたいところだがあれでは見事にアウト。
「何人の人間が気を失って倒れそうになったか。またしても外出に失敗したか。地道につづけてきた「脱引きこもり」計画をぶち壊しにされたか。統計のひとつも取ってみれば?取ってみたの?」
軽蔑に満ちたそんな声が漏れ聞こえてきそうだ。軽蔑であってもはや呪詛するに値しない。
ちなみに大阪ではそこそこ有名な差別本をめぐる裁判がまだつづいているようだ。コロナ禍で表面化したもの。裁判の進行自体からして問題視されている。裁判所内での「やじ」が酷すぎるという点への配慮は必要だろうとおもいはするが、裁判所自体がもっと酷すぎるというずっと前からの日本の司法の問題はなぜ問われずに無理やり閉ざされているのか。依然として不可解なのだ。