アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。
末期癌の母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。
午前六時。
前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「京の鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。
漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。
昨日昼食。トマト(一個)。しじみ汁。ちくわ(一本)。
テレビ「家族法廷」を見る。
昼寝。塩サバの焼いたの(四分の一切れ)。
昨日夕食。
テレビ「相棒」を見る。
午後十時。就寝はスムーズ。
むくみ(浮腫)がまた一段と重症化。右足膨張とともにふくらはぎの血管が蜘蛛の巣状に浮き上がって見える。
参考になれば幸いです。
今朝の音楽はジョニー・スミス・クインテット「TENDERLY」。
初稿を見てみる。
(1)「汽車通るま下た草ひく顔をあげず」(尾崎放哉)
(2)「淋しいから寐てしまをう」(尾崎放哉)
(3)「口あけぬ蜆寂しや」(尾崎放哉)
どれも凡句の領域を出ない。中学生でも書けるようなレベル。ただ選者によってはその他の作品にも目を配り、作者の資質を見抜いた上で朱を入れて作品の価値を引き出す技術に長けている人がいた。放哉の場合は荻原井泉水がその任に当たった。井泉水が朱を入れたあとどうなったか。
(1)「背を汽車通る草ひく顔をあげず」(尾崎放哉)
(2)「淋しい寐る本がない」(尾崎放哉)
(3)「口あけぬ蜆死んでいる」(尾崎放哉)
現在日本全国の書店で流布している尾崎放哉の句は後者のもの。
ひるがえって井泉水自身の句はどうか。これから自由律俳句を作り上げていく第一人者として準備作業に取りかかったばかりだったこともあり、これといって褒められたものはあまり見あたらない。理論的先駆者にして教育者の宿命といえるだろう。
さて、今なお言えることだか、一般に俳句や短歌の結社あるいは同人誌で思想的対立は付きもの。今のネット上の惨状は放置するとして、実際に本人同士が顔を合わせる場では一触即発ということはいくらもある。しかし死者は出ない。アルコールが入り過ぎていない限り怪我人が出ることもまずない。そして何より頭の使い方のこつを知っている人間が司会進行を務めることと、うまく場の空気を切り換える技術を持つ同人が何人か同席しているのが常だ。
二次会などの酒の席でもそれは変わらない。気配りのすばやい人間が司会進行を務め、なおかつ場の空気の切り換えに長けた同人が二、三人参加しているだけで不毛な感情的対立は間をおかず回避され、ネット上で多々起こりがちな無益で電気代ばかり使わせる悪循環は起こそうにも起こりえない。ただ同人誌でも内部分裂に立ち至った例は多い。それならそれでもう二度と別れた相手側の誹謗中傷をしないことが肝心。それができないのなら病院へ通い詰めて頭を冷やすかいさぎよく身を引くか、どちらかしか原則的に許されるべきでない。
周囲にすれば顰蹙でしかない。思想的立場が問題になったとしても、それが極右と極左との対立であるにせよ、自分だけが正しいなどとありえない論理を滔々と述べ立てて悦に入り、ますます顰蹙を買うばかり。その種の同人はとっとと出ていけばいい。そして理解し合える仲間を探すことから始めればいいとおもう。同好の士はネット時代ゆえ幾らでも見つかるとおもう。どのみちまた仲間割れすることが見え見えであるにせよ。司会進行や場の空気の切り換えに長けた同人の言葉を聞く耳を持たないというのなら、いっそひとりの世界へ引きこもり自己満足のうちに生涯を終えるのがまだしもかもしれない。だがそれでもまだ、見た目とは裏腹の自分自身のだらしのなさまで隠し通すことはおそらくできないだろう。