どの国のマス-コミを見ていても全体主義移行期の特徴で忘れられがちな傾向というものが幾つかある。とりわけ今の日本で。
どのような特徴かというと、ともすれば全体主義に敏感な人々にしてからが入っていく必要のない話題に入っていき、重要な問題を視聴者読者の目から覆い隠してしまい、逆に全体主義に加担する結果になるという逆説である。日本の戦後民主主義時代でも何度かあった。とりあえず三点。
(1)主に国内のタレントを全面に押し出したスキャンダル。
(2) 中身のない株価上昇とバブル後に必ずやってくる不況とその後始末を誰が負担することになるのかといった深刻な問題の隠蔽。この問題への公的責任を伴う取り組みあるいは取り決めなしに第二、第三の「ロスジェネ」発生は不可避というほかない。
(3)戦争報道について。軍事産業抜きに動かなくなってきた新自由主義経済の中の日本というあり方。 二点。
(a)「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・P.234」河出文庫 二〇一〇年)
(b)「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.44」河出書房新社 一九八六年)
特に(3)ー(b)は日本と日本政府がよくよく取りたがる姿勢として今なお注目しておきたい。日本政府とそのマス-コミはなぜいつもどうでもいいことなら「よくしゃべり」逆にどうでもよくないことなら「よく黙る」ばかりなのか。