補聴器を売り歩く男。いるとしてもいないとしてもその男は参加者の中で最も早く涙を流してみることに成功する。ほかの誰よりも早く泣くことができる。小鳥であれば「鳴く」だが人間の場合はなぜか「泣く」。補聴器を通してというより男はたぶん補聴器なのであり補聴器として聴き取った音を別の形で聴かせることができる。
「トランクの中の補聴器を一つ貸してもらえたら、楽譜の音がよみがえるのではないだろうか、という気がした」(小川洋子「耳たぶに触れる」『群像・2023・12・P.15』講談社 二〇二三年)
母が抗癌剤の中止を申し出て緩和ケアへの移動が決まったのが八月九日。中止後ほどなく地域医療へ移れるものとばかり思っていたが地域の医療機関へ移るまでの手続きが思いのほか長く、癌治療拠点病院から紹介状を出してもらい地域の医療機関で初診を受けることができたのはようやく十一月一日のこと。新しい主治医やスタッフと顔を合わせた。文芸誌というのは一度購読し始めると連載ものも次々始まるので結局毎月買わないと腰の座りがわるくなる。この時の「群像」(十二月号)発売はその六日目に当たっていた。
秋。ちまたでは「秋がなくなった」とか「春がなくなった」あるいは「夏から急に冬になる」と大規模な気候変動の話題を耳にするようになって数年経つ。最近ではもはや「秋がなくなった」とか「春がなくなった」あるいは「夏から急に冬になる」というフレーズが挨拶がわりの地位を占めていた。黒猫のタマが唾液腺嚢胞を患いその検査と手術とを済ませるため大阪へ何度か往復したのは大阪の夏がなるほど大阪の夏だと思い知らされる頃で、手術そのものは十月七日だった。翌八日に退院するためもう一度大阪へ出かけたがなるほど独特の夏、学生時代を過ごした夏とほとんど変わっていない印象だったようにおもう。長岡京市から高槻、茨木、そして中心部の環状線へ窓を走る景色はすっかり様変わりしていたけれどもバブル崩壊直後から始まった不況の残骸が四半世紀ほども経つというのにところどころ瑕のように痛々しく見えていた。そんな瑕が目に入るたびに瑕を見ることで今どのあたりを通過中なのかを思い出すというくらい離れていたことを知らされる。
ちなみにこの時の黒猫の治療では大阪まで四度往復しているが三月三日に死去した大江健三郎のリリードが盛んに行われていて、車中では大江健三郎の「水死」や蓮實重彦の「表層批評宣言」を改めて読み直したりしていた。
緩和ケアを選択した場合、以後はCTスキャンやMRI診断、点滴などは一切ない。膵臓癌が確かに進行していて徐々に転移も始まっているだろうと思うわけだが、国のガイドラインに従う限りその種の診療はもうない。
いつものように適当にページを繰っていてたまたま目に止まった。
「トランクの中の補聴器を一つ貸してもらえたら、楽譜の音がよみがえるのではないだろうか、という気がした」(小川洋子「耳たぶに触れる」『群像・2023・12・P.15』講談社 二〇二三年)
症状は膵臓癌自体がそもそも症状なのだろう。さらに抗癌剤の副作用が加わっている。しかし母はすぐ寝たきりになったわけではない。平坦な道、例えば病院のロビーや待合でもゆっくりなら、介護者の背中のバッグにつかまりながら歩けていた。新しいかかりつけ医院の待合でふと思ったのは、CTスキャンやMRIなりで今の母の体を見たとしたら膵臓癌は終末期に向けてどんなふうに変形・増殖しているだろうかということだ。小説に出てくる補聴器を売り歩く男。そういう「補聴器」がもしあればどんな音を立てているだろうかということだ。
母はいう。
「ポテトサラダは食べられた」
慣れているからだろう。終末期に入っても食べ慣れたものなら案外食べられるのだなと朝食の食卓をみて思ってはいたが。豆腐や漬物なら自分で調理する力が残っていた。その日の夕食にはガンモも出したがガンモのほうはあまり進まなかった。食べられそうだと考えて買った食材ではあったけれども。
母が再び口を開く。
「ガンモはいけそうにない気がしてたけどやっぱりあかんかった」
それが七日の夕食後の短い会話である。食事を摂る側、消費者の側の気持ちが逆に申し訳ない精神状態に陥ってしまう。癌患者に限らず終末期患者の多くが今なおそのような「陥る必要のない」精神状態へ転倒し気持ちは日に日に縮小していく。
補聴器を売り歩く男。実際にいるとしたら「ポテトサラダ」は食べられたけれども「ガンモ」は食べたと言えない十一月七日の母の体内で増殖する癌はどんな音を立てていただろうか。その後、在宅での緩和ケアのあいだじゅう、音はどんなふうに変わっていったのだろうか。