ステレオタイプは変化していく。恋愛にもステレオタイプ的な、いわば「作法」とか「マナー」という形式があったし、さらに微妙に変化しつつ今もある。変化するならステレオタイプと言うのは間違いではないかと指摘することもまたできるが、その場合、弁証法的な意味で「揚棄する」と言い換えても構わないとおもう。
さて「来月で二十六歳になる」知星(ちほ)は姉に頼まれ、姪で中学生の美寧々(みねね)を一晩預かることになる。で、「恋バナ」し合うことを約束させられる。ちなみに知星はいわゆる「恋バナ」が苦手だ。考えさせるのではなく回想し考えさせられる側に回っていく。逆にひと回り年下で中学生の美寧々は、知星が現在抱え込みつつ事実上棚上げしてしまっている恋愛関係の<枠組み>をまったく別の<枠組み>へ解放する役割を演じる。さしあたり二箇所。
(1)「『遥矢さんには会ったことがないけど、知星ちゃんに悲しい目に遭わないでほしいとか助けてあげたいとか、それって全部好きっていう意味だよね。わたしも、学校で習ったばかりだから間違っていたらごめんだけど、好きを、好き以外の言葉で言い換えているだけなんじゃないかなあって、思ったよ』」(高瀬隼子「新しい恋愛」『群像・2024・2・P.14』講談社 二〇二四年)
(2)「『結婚が全てじゃないって、学校で習うけど、やっぱり素敵だと思っちゃうな。ずっと一緒にいようって相手に伝えるってことは、それはもう好きの言い換えじゃなくて、愛してるとかそういうことだと思うから』」(高瀬隼子「新しい恋愛」『群像・2024・2・P.21』講談社 二〇二四年)
なるほど中学生というのは存在論的に言えば怖いもの無しの強さを発揮することがままある。それが身に危険を引き寄せることがあるにしても。だが少なくとも現状の恋愛に行き詰まっている知星を別の<枠組み>へ開いてやることができるのは作品の中で美寧々ただひとりである。ただし開き方があまりにも無造作であり過ぎる。そしてそんな無造作ぶりに譲歩した上でさらに一歩有効性を認めるとすればそれは、ニーチェ流にいえば、美寧々が我知らず<無垢な子供>を演じているからにほかならない。
世界の主流をなしているのはいつもステレオタイプに陥りがちな大多数の<おとな>だ。個々別々に見たにせよ、個人的レベルでは本心をいえばステレオタイプを嫌っている人々でさえも、生きていく上では断腸の思いというステレオタイプな態度でそれなりに他者の立場では否定しようのない事情をいくつも抱えながらますます自分で自分自身の日常生活や仕事や恋愛関係を苦悶に満ちた状況へわざわざ追い込んでいくしかないという唖然とするほかない逆説の渦に巻き込まれている。しかしこのこと自体に一片の未来を賭けることができるとすれば、美寧々のあっけらかんとし過ぎにおもえる態度はもしかするともしかする。
いや、そんなことは小説だから言えることだろう?!そういう<おとな>に会いたければ世界中どこへ行ってみても出くわすことができるだろう。そう考えただけでさらに疲れる。匙を投げたくなることもしばしばに違いない。
知星へ向けて美寧々が打ち開いた解放。それはあえて元号を用いるとすれば「<令和>の小説」というすでに「制度化」が進行しつつある次元で、ただ単なるなだらかな過程とは異なる僅差をのぞかせつつ、昨今のおぞましい「働き方改革」へ向けてさえも立ち止まらせ、何事かを考えさせる力を持つ。例えばロスジェネにとって深刻この上ない二〇四〇年問題。あるいは五十代半ばを越えつつあるシングル世帯が望まずして陥ってしまいおそらく死ぬまで抜け出せないと想定されている諸問題が目一杯詰め込まれている。
小説ラストで知星の周囲で急に漂いはじめる不安な空気。掴めていると思っていたにもかかわらずがらりと変化して見え始めた世界。しかしなにがしかの希望へも繋がっているように思われる奇妙に開かれた解放感。その場を包み込むように近づいてくるサイレンの音。もっとも、ひとりの読者としては漱石「それから」のラストをちらと想起させはするが。
ほんの少しばかり踏み間違えばただちに暗闇の中へひとりぽつんと取り残されそうなとりとめのない孤独感の切迫は短編という形式が奏功して意外なほど今日的な感覚をもたらす。同時にようやく世界的規模で浸透したリゾーム社会の方向喪失感の底知れなさが、底知れなさの側から覗いてもいる。