白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ322

2024年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年三月三十日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

今日は爪切り。死去した母が大切に切り抜き残していたページを思いがけず引っ張り出してくれた爪。もちろん丁寧に切り揃えてやった。食事も成猫用を主軸にした移行期。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ケレラ。リミックス・ヴァージョン。DIY(勝手に作れ)の見本のような多様な光線の変化がなかなか幽玄。

 

 


Blog21・個人の抹殺と「デジタル全体主義」

2024年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

ともあれなぜ二代目タマはこともあろうに飼い主とフリージャズしつつ引っ掻き出してくることができたのか。

 

「奉祝!即位の礼 特別企画 皇居に秘められた『7つの謎』を歩く」『週刊女性セブン 令和の秋のスペシャル合併特大号 7大付録 P.21~28』小学館 二〇一九年十月二十四日)

 

「7大付録」の一つには「地図」もあった。合わせて保管しておいたのはなんと飼い主の妻。理由は極めて単純。

 

「って、うち東京行けへんやん。それ見てな、東京見物するねん」。

 

遺品としてはずいぶんアナログに思えてみえても出版社がそもそも小学館。株の半分は集英社。データが削除されてしまうなどということはまず考えにくい。「デジタル遺品」へ変換することが可能になる見込みは大いにある。

 

さらに「週刊女性セブン」のその号には長く芥川賞選考委員を務めている山田詠美のエッセイ「日々甘露苦露」も載っていた。のちに連載をまとめた「吉祥寺デイズ」も刊行された。その昔、清志郎が「ゲロを吐いて」いたらしい「吉祥寺」はこれまたジャズの街でもある。

 

「群像」(二月号)に戻らねばならない。

 

生前になにかと決めておいたので遺品整理に手間取ることはほぼないと思っていた。ところがつい二日前、母が長く使っていたアレルギー性鼻炎薬がきちんと二錠出てきた。それでないとなかなか体に合わなかったもの。誰もが知る大手ではなく中堅メーカーから出ている。物心ついた頃から喘息を伴うひどいアレルギー性鼻炎に苦悩してきた長男としては、鼻炎のタイプは違っているのになぜかその鼻炎薬が体質に合った。遺品として残すことにした。

 

一方。

 

前に一度触れた。

 

「データ保存のコストを理由にデータが廃棄される可能性はあるし、サービスを提供する企業自体が倒産することもあり得るだろう。現実に、一九九〇年代から二〇〇〇年代に運営されていた無料ホームーページサービスやブログサービス、電子掲示板サービスは二〇二三年時点までにその多くがサービスを終了してしまった。コピーを取っておかない限り、その時代のインターネット上の人の交流や文化、個人の足跡はあっさりと消えてしまうわけだ」(折田明子「死後にデータを残すこと」『群像・2024・2・P.142』講談社 二〇二四年)

 

これはどうしたらいいのか。どうすべきか。「あっさりと消えてしまう」ほかない「個人の足跡」とそうでない「個人の足跡」とはどこでどう区別されるのか。というより「あっさり《消されてしまう》」あるいは「《改竄されてしまう》」データさえあるかもしれない。加速するばかりのマス-コミ全体主義を多少ぎくしゃくしてでも回避するためにはどうすればいいか。そう思わないだろうか。


Blog21・全体主義的不寛容と高齢者の<居場所>2

2024年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

保坂和志のいう「猫との共同作業」。

 

「『僕が誰かの小説を読むのは僕とその人との共同作業ということになるんですか?そしたらね、保坂さんが猫のことを書くときは猫との共同作業ですやん、そしたらね、鎌倉の海のことを書くときは鎌倉の海との共同作業ということになるんですか?』

 

というか、そこまで話を整然と並べていくとそういうことになる、説得力がある、あるいは整然としすぎていて説得力がない、私はいつもあたり前ではない道すじか飛躍に惹かれているということかーーー」(保坂和志「鉄の胡蝶は歳月の記憶に夢に彫るか(68)」『群像・2024・4・P.277』講談社 二〇二四年)

 

夫個人としては「二代目タマ’s ライフ」をUPしている。たぶん「共同作業」という言葉はずいぶん変わった言い方になるが常に不均衡性を保ちつつフリージャズしているに違いない。夫は世界的に有名なアルバート・アイラーやオーネット・コールマンも認めるが個人的には阿部薫を好む。

 

そう言えばちょうど昨日のことだ。二代目タマが前足で小型の本棚の中を引っ掻いて雑誌の「切り抜き」を引っ張り出してきた。死んだばかりの母が切り抜いて残しておいたもの。

 

「奉祝!即位の礼 特別企画 皇居に秘められた『7つの謎』を歩く」『週刊女性セブン 令和の秋のスペシャル合併特大号 7大付録 P.21~28』小学館 二〇一九年十月二十四日)

 

案内は元JTBで紀行エッセイストの竹内正浩。そう描写してわざわざUPしたりすることにいっときの精神安定感を得ている夫はなるほど「猫との共同作業」に「煩悩」していると言えるのかも知れない。

 

ちなみに母は思想やイデオロギーのことなどほとんど何ひとつわかっていないような平凡な一市民であって皇室や簡単な歴史くらいしか知らずに生涯を終えた。昭和の主婦の典型のひとりではあった。素人なりに歴史の勉強に励んだり天皇皇后さらにその系譜について調べたり、先に死んだ父と一緒に天皇家ゆかりの地を夫婦で訪れ散策するのをとても楽しみにしていた。

 

ところが奉祝歌の歌い手がジャニーズ(嵐)だったとは。

 

言葉が出そうにない。戦時中に生まれた昭和の主婦の典型だったがゆえに尚のこと。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて744

2024年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

喪中。

 

診察結果。通常の服薬を継続することに。ただ、一過性にせよ疲れから来る散鬱のため過食ぎみになっていたことが判明。体重43~45㎏平均だったのが51㎏まで約6㎏増加していた。

 

今朝の仮祭壇メニュー。ミニトマト。ミカン「清見オレンジ」。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はウォルター・ビショップ・ JR.「MILESTONES」。


Blog21・全体主義的不寛容と高齢者の<居場所>

2024年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年三月二十九日(金)の朝、文芸時評を開く。「カフカ」、「カルト」、「ウクライナ」は当然のごとく目に飛び込んでくる。とともにこの日は少々違った。「方舟(はこぶね)」、「信」、「煙」、「馬」、「社内」、「墓碑銘」といった言葉が続く。ウクライナは瞬時にパレスチナを連想させ、この電波戦争の時代になお「自動小銃」を思わせずにはおかない。

 

まず「小銃」、「馬」、「墓碑銘」。どれも「信」を名に持つ小島信夫の小説のタイトルとして映り込んでくる。かつて柄谷行人はいっていた。

 

「『小銃』において書かれているのは、戦争というよりも、いわば『戦争などの一つの特徴』である。ここでは、主人公は小銃という物に固執する。この物は、恋人を意味する記号となる。それは実際の小銃であると同時に女でもあって、結局主人公はそのような物=記号によって支配されている。彼は小銃の主人であると同時に、小銃が彼の主人なのである。小島信夫の作品では、しばしばそのような『物』があらわれる。『馬』・『鬼』・『星』のような初期短編ではそれが最も顕著であるが、それをシンボリズムとよぶのはあたっていない。むしろ、マルクスがそういった意味で、フェティシズムとよぶべきである」(柄谷行人「小島信夫論」『差異としての場所・P.226』講談社学術文庫 一九九六年)

 

文芸時評を担当している古川日出男の意図とはなぜかずれを立ち騒がせつつ「方舟(はこぶね)」という言葉は否応なく昨今ますます不可視化され強化されていく管理社会としての「社内」と繋がってしまう。

 

さてしかし小島信夫と被ったのにはわけがある。数日前にたまたま読んでいた保坂和志の連載に出てきた。その流れの直前にこうある。

 

「『僕が誰かの小説を読むのは僕とその人との共同作業ということになるんですか?そしたらね、保坂さんが猫のことを書くときは猫との共同作業ですやん、そしたらね、鎌倉の海のことを書くときは鎌倉の海との共同作業ということになるんですか?』

 

というか、そこまで話を整然と並べていくとそういうことになる、説得力がある、あるいは整然としすぎていて説得力がない、私はいつもあたり前ではない道すじか飛躍に惹かれているということかーーー」(保坂和志「鉄の胡蝶は歳月の記憶に夢に彫るか(68)」『群像・2024・4・P.277』講談社 二〇二四年)

 

いつもの保坂節。ところが柄谷節と被ってしまったためか古川日出男の誠実さにもかかわらず脳内で次のように変換された。

 

「保坂和志はいつもあたり前ではない道すじか飛躍に惹かれているといっている。しかしそれは無数の諸価値の隠蔽においてあらわれる貨幣へと自身が《命がけの飛躍》を欲望することと違わない」

 

それはともかく「煙」に関して保坂和志は「煙そのもの」について述べているわけではなく、もはや全体主義的不寛容制度のモデルと化したことがあたかも絶対的正義あるいはポリコレの見本として事実上どんな政治家も選挙が始まると口にすることだとじたばた抗議する。そしてこのじたばたぶりにはれっきとしたわけがある。

 

「工事現場や道路の工事の休憩時間を見たことがあるだろうか、スマホを持たない老人が話す相手もなく、ひとりぼんやり空だかビルだか見やりながら片手に缶コーヒーを持って、片手にタバコを持っている、ホームレスを私が見るのはほとんどの場合街の中でなくテレビのドキュメンタリーだがホームレスの人たちもたいていタバコを吸っている、いまやタバコを吸う人は心が弱いのでなく社会的に見て立場の弱い、居場所のない、文字どおりの弱者になった、その人たちの憩いであるタバコを、健康に害があるというだけの理由でどんどん値上げするのはおかしい」(保坂和志「鉄の胡蝶は歳月の記憶に夢に彫るか(68)」『群像・2024・4・P.277』講談社 二〇二四年)

 

地方都市でも大型マンション建設ラッシュが続いているが、例えば滋賀県のような「琵琶湖があってナンボ」的な、やや地味な研究都市としては環境的に向いているけれども財政的にどこがどんなふうに厳しいのか不透明な部分を考慮した場合、そろそろ後期高齢者になろうかという七十代くらいの肉体労働者が地上から見上げるような場所で建材を運んでやっと労賃を得ているというのが実状。保坂和志もそういう点で本当の弱者は一体誰なのかと問う。

 

煙草の煙にはタールという発癌性物質が含まれている。アメリカの幾つかの州で解禁された大麻に含まれる発癌性物質もタールである。怪しげないわゆる「健康食品」とは違い、絶対的正義あるいはポリコレを振り回して追い込めば追い込むほど正しいとは必ずしも限らない。それなら大量の自動車ばかりばんばん走らせながら一方で「環境を大切に」というスローガンはなんなのかと。

 

それはそうともし仮に。日本の天皇がニコチンとタールとの両方を含む煙草を一日二十本服用しなければならない原因不明の病を患う事態に陥ったと仮定してみよう。世界でもトップレベルの医師団に治療を任せてもなおそれしか治癒の技術が見あたらないとなったらどうするのか。どう考えるべきか。「特例」を認めるべきかどうか。そのとき全体主義的ポリコレ支持者はどのような見解を発表すべきが最も妥当と判断するだろうか。

 

話は変わるがちなみに同じ文芸時評を見た妻は「群像からは載ってないよ?」と言った。夫は答えた。「群像二月号の特集がそもそも『死について、』。言い換えれば時評の見出しにある『終わりと向き合う』ということでね」。