関心を引いたのはまたしても言語がマス-コミの中で使用される際のステレオタイプ(お約束)に対する疑問。いつまでこうなのだろうか。
「但し、ほぼ同義ではあるが、日本語の“男・女”と男性・女性“とは、全く同義であるとは言えない。全く同義であるならばいかなる場面であっても交代可能だということになるが、そうはなっていないのだ。
マスメディアによる報道で、”東京・文京区音羽の路上で男性が男に刃物で刺され重体。警視庁は男を殺人未遂の疑いで逮捕“みたいな言いかたがされる。加害者は”男・女“で、被害者は”男性・女性“と、明瞭に区別して呼ばれる。”その後、男は死亡“となったら、死んだのは被害者ではなく加害者の方である。恐らく激しい反撃に遭っていたのだ。
このような報道の文脈では、”男“と”男性“とにそれぞれに違った色味が付いていて、自由に入れ替えることができないので、同義語だとは言えない。これは報道に限った話でもなく、お客さんは”男性・女性“、悪事を唆してくるのは”男・女“といった使い分けを、意識せずにする傾向は広く見られるのではないだろうか。”男・女“は誹り、貶め、賤しめられている。勿論、報道言葉とは異なり、例外は幾らでもあるだろうけれども、これは語彙選択の傾向の話である」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(9)」『群像・2024・4・P.413~414』講談社 二〇二四年)
そのような報道の文脈が年代的にいつどの辺りから定着してきたのかはある程度推定できるとしても、そのような報道の文脈でなければならない必然性は一体どこから出現しどのように定着したのか。本当に「必然的」なのかどうか。さらに今後もなお見直すつもりがなさそうなのはどうしてか。
この種の使い分けが明瞭に見える場所としてバルトのプロレス論は有名。
悪役が一人もいなければプロレスは成り立たない。あるいはひとりも悪役を演じないプロレスはプロレスとして成立し得ない。さてしかし同時にこの悪役は、たいていこれ以上考えられないほどの誹謗中傷を一身に引き受けることができるほど力強く卑劣な役者でなければならない。少なくとも「げす野郎」という呼ばれるに等しい役割を正確に果たせなければ「げす野郎」という罵倒の言葉が宙に浮いてしまう。それでは力不足である。
「げす野郎」と呼ばれるに等しい下劣ぶりを発揮できればプロレスラーとしては上等なのかもしれない。さらに想像を越える嫌悪を観客に与えることができればどうなるか。観客を下劣の極みの目撃者へ向かって興奮させることに成功した場合、何か変化が起きないだろうか。おそらくその瞬間、場内には「げす野郎」に代わって「げす女郎」という罵倒が飛び交う。プロレスという演出の場であってなお不意に飛び出す最下級の誹謗中傷語は「野郎」ではなく「女郎」である。「げす野郎」呼ばわりのそのまた最底辺に実は「げす女郎」呼ばわりがあったのだ。
となるとプロレスから離れて好事家趣味的「お約束」の世界ではまるでない日常生活の中でLGBT差別問題があちこちで起こっている昨今、マス-コミ報道は今なお半世紀以上も変わらない文脈をのんきに使いつづけていていいのかという疑問が湧くべくして湧いて出る。新しく出現しているこの必然的事情について肯定することができるかという問い。
「新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得することーーーこれは重荷に堪える敬虔(けいけん)な精神にとっては、身の毛のよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行なうことである。
精神はかつて、『汝なすべし』を、自分の奉ずる最も神聖なものとして愛していた。いまかれはこの最も神聖なもののなかにも、迷妄(めいもう)と恣意(しい)を見いださざるをえない。そして自分が愛していたものからの自由を強奪しなければならない。この強奪のために獅子を必要とするのだ。
しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、『然り』という聖なる発語が必要である。そのとき精神は《おのれの》意欲を意欲する。世界を離れて、《おのれの》世界を獲得する」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫 一九七三年)
というふうに「肯定する」身体へ自らを獲得できるかという問いかけが。