「群像」(二〇二四年三月号)で平野啓一郎は「AIと文学」という中見出しを設けてこう述べている。
「私たちの社会には、人間の肉体に対する素朴な賛美があり、美しい足のイメージはスポーツ用品から化粧品の宣伝に至るまで、至るところに溢れています。それ自体は、否定し難いことでしょうが、身体障害者にとっては、この健常者中心主義は、しばしば自らの新しい身体としての義手や義足に対し、劣等感を刺激するものとなります。つまり、生身の足と義足との間には、美観に於いて『本物』と『ニセモノ』という序列が生じてしまうのです。そして、義足を生身の足に似せようとすればするほど、生身の足が基準となり、目標とされて、ますます両者の区別は意識化されてしまいます。
もう一点、最初に義足は、道具か、身体か、という問いかけをしましたが、義足は設計に於いては、基本的に道具です。なぜなら、先ほども述べました通り、その機能は、歩行を一義的に目的としているからです。これは、道具一般の特徴であり、ペンは書くもの、ハサミは切るものと、道具の多くは、目的とその存在とが一対一で対応しています。これは、身体の多義性と著しく異なる点です。
医学に於いて、怪我の治癒のみならず、リハビリテーションの必要が認識されるようになったのは、第一次大戦時とされています。怪我の治癒は、個人的な問題ですが、リハビリテーションには、兵力の戦地への再投入、社会への労働力としての復帰という意味があり、社会的であり、動員という発想と強く結びついています。だからこそ、義足に一義的に求められたのは、労働者としての社会的有用性という意味で、歩行機能なのです」(平野啓一郎「記憶への声、記憶からの声」『群像・2024・3・P.76』講談社 二〇二四年)
すでに「本心」は文庫化(文春文庫)されているが、人間は人間社会という枠組みの中で否が応でも科学技術とともに生きているし今後もなお生きていくほかない。そんな議論がかしましい現在、引用した部分は読者の個人的事情で日常生活がにわかに慌ただしくなりだした頃、たまたま目にとまった箇所。
かつて大阪で身体障害者介護に携わっていた頃。夫婦ともに車椅子を要する身体障害者がいた。セックスはどうするか。介助者が付き添う。たった二人だけでということははなから不可能。かれらが女児を二人もうけて何年か経った頃、大学を中退し大阪から離れた。
さらに何年経ったかはどうでもいい話で、夫婦の夫の側がJR天王寺駅のプラットホームから車椅子ごと線路へ転倒した。その上へ電車が走り込んでくることはなかったが打撲が激しく病院へ運ばれたところ結果は「高次脳機能障害」。
二人の女児といってもすでに大学生(音大だったか?)くらいになっていた。一命は取り留めたものの二人の娘の一方の名前は覚えていたが、もう一方の娘の名前も顔もすっかり忘れ去っていたようだ。最初に口をついて出た言葉は「あんた、誰?」。そう言われた一方の娘はショックのあまり声が出ず家出してしまったとかなんとか、そういうことだったらしい。その事情について知人の身体障害者を介して知らされたのもすでに十年くらい前のこと。
リハビリの意味について平野啓一郎の説明にある「怪我の治癒は、個人的な問題ですが、リハビリテーションには、兵力の戦地への再投入、社会への労働力としての復帰という意味があり、社会的であり、動員という発想と強く結びついています」というフレーズは再び考えさせる。
高度テクノロジーだAIだとやかましい昨今、特にマス-コミ。日本なら日本を代表するマス-コミは朝日新聞らしいが、それはともかく、地域紛争的局地戦を濫発させることで大儲けする新自由主義は正しいのかどうか、このままずるずる世界戦的規模へ膨張させておくのは果たして賢明なのか、朝を迎えるたびに払拭しきれない違和感に襲われる。