浅田彰の講演予定。
「構造と力」刊行四十周年記念。
タイトルは「現代世界へのパースペクティヴ」。
注目する人々はいろいろいるだろうとおもうけれども面白いことに浅田彰は「構造と力」(中公文庫、勁草書房)だけの批評家ではない。「逃走論」(ちくま文庫)や「ヘルメスの音楽」(ちくま学芸文庫)刊行当時の浅田彰は「日本寄せ場学会」にも顔を出していた。大阪・釜ヶ崎にも来ていた。言い換えれば、「構造と力」は釜ヶ崎へも足を運びながら同時に書かれた書籍でもあるということだ。
一方「現代世界」。ネットの世界化は世界のリゾーム化の実現であるとともに世界の釜ヶ崎化の実現というに限りなく近い。しかし「近い」というのは見た目だけに過ぎず実態は世界の寄せ場化とどこがどう違うのか区別がつかないという現状。いつどこに誰がいてもすぐその場で誰もが手配師になることができ、逆にいつどこにいても誰もが最低賃金以下の最底辺労働者になることができる。こんなはずではなかったという見方とおそらくこうなるだろうという見方は当時からあったが、大方の見込み通り実現されてしまったのは後者の側の世界化にほかならない。
朝日カルチャーセンターの会員ではないので講演を見ることはできないが、世界の釜ヶ崎化と釜ヶ崎の世界化が実現した「この現代世界」がどのように語られるかはたいへん興味深いかもしれない。
当時の夏祭り。夜になると支援者や有志が待機している施設のまわりを西成警察署員が巡回に回ってくるわけだが、警察の規律では抜いてはいけない場合であるにもかかわらず警棒を躊躇なく抜き放ち肩からぶら下げて四、五人ほどの固まりで威嚇しながらぐるぐる牛歩してまわるという始末。その数ヶ月前東京の山谷ではドキュメンタリーを撮っていた映画監督が反対勢力によって射殺される事件が起こってもいた。
ところがこのような現場は別段寄せ場にのみ限った話ではない。「世界」とはどういうものか、大手マス-コミが芸能人のスキャンダルや巨大スポーツイベントを通して読者視聴者の目から常に覆い隠し続けてきたもの、覆い隠しているものとは一体どんなものか。それを知るためのパースペクティヴの提供であってほしいとおもう。「覆い隠す」ものというのは常に言語交換、貨幣交換、そして性であるという点は四十年を経てもなお変わっていないだろう。