ゴッホを追いつめたのは社会規範である。アルトーが一貫して述べているのはそういうことだ。けれども社会規範というものは、その常として、いつも「誠実そうな顔をして」近づいてくる。ゴッホが描く「自然」は「子供っぽい」という理由で。
「誠実そうな顔をして、彼のうちの子供っぽさを摘み取るためにヴァン・ゴッホにそっと近づいた、発育しつつあった(自然な)子供っぽさを切り離すために」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.160』河出文庫)
人間が持つ社会的文法は目に見えない。それは或る一定の時期における人間社会のすべての風景を根底から規定するよういつも働きかけている。すでに根絶しがたいほど慣習化した制度として常に人間の言動をその規範の枠内に保ち、規範内部に収まっているか、はみ出していないかどうか、管理監督している。そして社会規範は管理徹底のために「健康な精神」と称して、すべての人間の「身体のなか」へ入り込んで侵食してしまうことを心がけている。次のように。
「いつもはつねに乱交パーティや、ミサや、赦禱や、あるいは聖別、憑依、女淫夢魔、男淫夢魔といったような他の祭儀の際に起こるような起こるように、それがヴァン・ゴッホに対して起こったのである。つまり社会というやつが彼の身体のなかに入り込んだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.119』河出文庫)
ゴッホにとってそれは耐えがたい経験だった。ゴッホは過剰な自己探究者ではあったが、けっして過剰な性欲に苛まれていなどいなかったからである。ところが社会はゴッホの精神に対し、社会の共犯者となるよう強制した。相入れない道徳によって暴力的に侵入されたゴッホは、何ら意図してもいない罪を浴びせかけられ、社会全体に敵対する存在として位置づけられた。社会全体に行き渡った道徳という暴力というものからそのすべての憎悪を一身に引き受けなければならない立場に追い込まれた。ただ、社会の目に見えて映っているような風景でなく自分の思うような風景画を描いたというだけで。社会規範の側からすればそれほど悪質な犯罪もまたとないというわけだ。
「そしてヴァン・ゴッホはそこで千の夏をふいにした。そのために彼は三十七歳で死んだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.161』河出文庫)
裸婦を描いた画家はたくさんいた。日本で人気のルノワールを始め、ゴッホの友人だったゴーギャンはさらに南のタヒチへ出かけて異国の女性の丸裸の姿を多く描いた。しかし自殺に追い込まれたのは裸婦に関心がなく、身近な風景ばかりを題材にしていたゴッホなのだ。なぜだろうか。人間の生にとって「性的欲望」というものが極めて重要な政治的要素となっていたことに注目しなければならない。それは専制主義的王権時代のように抑圧され否定されるものではもはやなく、新興ブルジョワ階級によって誘導され分析され生産と人口管理と社会秩序を通して国家の力に資するものへと置き換えられたからである。抑圧はもう必要ない。だから国王が持っていた「殺す」権利は国王とともに葬り去られた。代わって、中央集権的監視と新しい社会秩序維持発展のために「生かす」ことが最大限重要視されるようになる。国家増強・国威発揚のため、「生かす」ためのテクノロジーとして性的欲望はまったく新しい社会的価値を与えられる。国家監視の下で人間を「生かす」ための生産調整として、同時に規律化し綿密詳細に管理するための身体の測定と統計。また人間社会にとって必要とされる身体的かつ精神的「基準」の増殖に資する「性的欲望」という新しい「装置」が、創設される。国家が主導する二つの視線が認められる。一つはマクロレベルで二つに分かれる。
「一方では性は、身体の規律に属する。身体的な力の訓練と強化と配分であり、エネルギーの調整とその生産・管理である。他方では、性は、それが誘導するすべての総体的作用を通じて、住民人口の調整・制御に属する。性は同時に二つの領分に組み込まれる」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
もう一つはミクロレベルで国家化された医学=医学体系的国家による常時監視体制の確立とそのあくなき追求である。
「それは無限に細かい監視と、あらゆる瞬間における管理統制と、細心の空間的配備と、無際限の医学的・心理学的検査と、身体に対する一連の<微笑権力>とを引き起こす」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
それらすべてにわたる情報の一元的管理によって国家は、いついかなるときでも、社会のどんな細部にでも突如として介入することを可能にした。
「それはまた、大々的な措置や統計学的測定、社会体の全体あるいは様々な集団の全体を対象とした介入を引き起こしもする」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
古典主義時代から十九世紀一杯を通して性的欲望は意味を変えた。性欲は抑圧されない。むしろ「分析される」。詳細かつ綿密に分析されることで人間を「調教する」ために大いに活用されるものとなる。そしてこの「調教」はそれじたい、さらなる性的欲望を生産する。
「性的欲望は各人の個性の暗号となる、つまり個人を分析することを可能にするものであると同時に、個人を調教することを可能にするものだ。しかし同様に、それは政治的操作のテーマ、経済的介入のテーマとなり(生殖への唆かしあるいは抑制によってである)、また、教化あるいは責任賦与のイデオロギー的キャンペーンのテーマとなる」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
さてしかし、このような「政治的操作」ならびに「経済的介入」の「テーマ」として浮上してきた性的欲望はどのような分析によって全面的政治性を帯びることになったか。フーコーは差し当たり「四つの戦略」を上げている。
(1)「女の身体のヒステリー化」。それが問題視されるのは第一に社会の《生産性》にとってである。女性はいつも《順調な繁殖力を維持しているべき》だとする社会規範が出現したのは太古の大昔のエピソードではない。逆に資本主義的生産様式が定着してくる過程で発生してきたまったく最近の、ここ二百年ばかりのうちに出現した近代の産物でしかない。それが世界的規模で拡張されたときこの産物はすでに全体主義的《神話》の次元にまでのぼりつめていた。さらに生物学的見地から、子供は女性の身体から生み出されるものなので、子供に対する道徳的責任と安全保証は女性の役割であるという見解がすべての異論を排除する形で固定化される。そして家族という空間の基礎的機能を根底から担うのもまた女性であるほかないとして世論を上げて一斉に規定される。この時点で発生したのが《母性》というものであり、ニーチェの言葉を借りれば世界的規模での「でっち上げ」が完成したのである。だからヒステリーは健康な女性のネガティヴな姿として、否定的なものとして、「健康な女性」という《神話》と同時に出現し、「健康な女性」というポジティヴな《神話》を支えるネガティヴな役割を与えられるとともに一種の「狂気」とされるに至る。ところがこの構造は構造自体の作用によって、理性は狂気の支えなしに存在しないという事情を覆い隠してしまう。だからといって、女性はただ単に子供を産めば良いということではない。それは資本主義の生成期において妥当する事情ではあっても、テクノロジーの高度化によって剰余価値の増殖が可能になった以上、ますます可能になっていく以上、ただ単に子どもばかり生まれてしまっては逆に国家は困惑することになる。問題は、産児制限したり逆に産児制限を抑制したりといった、人間の身体を《調整する》ことにある。生殖装置としての婚姻は労働力商品の再生産でもあるが、他方、性的欲望の装置は生殖とは関係のない性的欲望を増殖させ、それを質的にも量的にも測定し様々に分類し情報化し管理社会の実験的強化に資する。だからフーコーは「性的欲望の解放」とは呼ばず「性的欲望の装置」と呼ぶのだ。そのための身体の計測であり、中央集権的管理領域の無限の増殖強化に供される身体なのである。増殖する性的欲望を《欲望する管理》があるのだ。
(2)「子供の性の教育化」。ここで問題となるのは子どもたちの「自慰行為」である。それは「自然」なのだが「不自然」でもあるとされる。というのは自慰行為は子どもを生産しないからだ。だが自慰なしに子どもは生きていくことができるだろうか。まったくないとすれば近いうちに性犯罪に走ることは目に見えている。そこで、ありとあらゆる親、家族、教育関係者、医師、心理学者などが子どもたちの「自慰行為」目指して殺到し教育的指導の中へ注意深く監禁包囲するという前代未聞の事態が生じた。
(3)「生殖行為の社会的管理化」。国庫-財政管理に関わる。性行為ではなく、生殖行為が、政治的社会管理という措置の下に置かれる。この後者、子どもを生産する限りでの「生殖行為」の《義務化》と《責任化》とが国家によって一元的管理される。管理するのは国家である。国家であるがゆえ、結婚した夫婦の前には前提として《子供を生産する》責任と《子供を生産し過ぎてはいけない》という二重の責任が出現する。また別に性的欲望そのものは恒常的な増殖を義務づけられる。婚姻は合法だがまさしく婚姻が合法的であることによって触発されつづける非合法的な欲望〔種々の多型倒錯的欲望(たとえばフェチ、パンチラ、性風俗、小型スマートフォンの違法使用、等々)〕を生産する。それもまた身体において測定され管理され商品化されると同時に大量生産と大量消費との経済的過程へ組み込まれ貨幣による商品交換を経て剰余価値を実現する。それは国家-資本からの要請であるにもかかわらず、なぜか《社会全体に対する責任》であるという意味の置き換えが、責任転嫁が、なされる。さらにこの置き換えは、市民社会に対する国家-資本による極めて重大な詐欺ではないか、という問いについて。ニーチェはいう。
「《開戦理由とそのたぐい》。ーーー隣国と戦争をやろうとすっかり決心して、これになにか《開戦理由》をみつけだす君主は、自分の子どもの母親をすりかえて、それをそのさきは母親と思わせようとする父親のようなものである。そしてわれわれの行為の公に披露された動機はほとんどすべてそのようなすりかえられた母親ではないのか?」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五九六・P.460」ちくま学芸文庫)
さらに性欲と生殖との決定的違いについて。ニーチェから。
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)
さらにフロイトから。
「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫)
また、道徳化された生殖という国家的欺瞞について。
「人間にその性欲を、子供をもうけるための《義務》としてしか意識させないような、高度に道徳的な虚偽がありうるかもしれない」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・九四四・P.508」ちくま学芸文庫)
(4)「倒錯的快楽の精神医学への組み込み」。単純化すれば「性倒錯」の取り扱い方についてということだ。様々な欲望の観察対象として、客体化された身体として、計測される。けれどもそこから国家が汲み上げるのは、倒錯として認められる希少価値のある種々の性的欲望についての科学技術=テクノロジーとその集中管理である。《欲望するテクノロジー》とでもいうべきか。
そしてフーコーはいう。
「一般的に言って、『身体』と『人口問題』の接点にある性は、死の脅威よりは生の経営のまわりに組織される権力にとって中心的な標的となる」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
問題は<性>とは何か、ではなく、「生の経営のまわりに組織される権力にとって中心的な標的となる」<性>なのだと。ゴッホは性欲にあまり重要な価値を置かない。ほとんど関心がない。それより遥かに絵画に、絵画する自分の《手》としてゴッホは生きた。ところが他方、性欲にばかり夢中になり性的欲望の科学技術化(テクノロジー化)に邁進していた国家があった。そんな国家からすれば性欲より遥かに絵画に夢中になっているゴッホを許すことは到底できない。国家権力は混乱した。不安を覚えた。そして社会化された人々から構成されたヨーロッパ市民社会はゴッホを自殺へ追いつめてしまったわけだが、それが一体どのようなことなのか、当時は誰にもわからなかった。ちなみにニーチェはゴッホの同時代人だったけれども、ゴッホの絵画はまるで売れていなかった。だからだろうか、ニーチェはゴッホについて何一つ語らないまま死んでしまっている。「『身体』と『人口問題』の接点にある性」とフーコーはいう。そしてそれは問題の立て方として正しいだろうと思われる。<生>と<性>についての考察。その重要性。けれども、二〇二〇年の世界ではマスコミというものが「米中対立」という余りにも安易な形式を持ち出して割り込んでくる。特に日本ではその傾向が強い。しかしそのような行為は日本の視聴者に対して、肝心の、日本全土に横たわる諸問題を覆い隠すという転倒を生じさせる。国家-資本が要求する性的欲望の分析とその中央集権的管理にとって、国民による生産と消費、それに見合う社会保障が確立されておらず制度化もされていない状態では、グローバル資本の自己目的的諸運動は加速を欲してさらなる停滞あるいは恐慌を反復させるばかりだというのに。とりわけ日本では、日本が危機におちいるたびにマスコミはなぜか米中対立を持ち出してきて日本自身の危機を市民社会全体に知らせようとせず逆に覆い隠そうとする。歴史的見地からいえば、危機の時期に顕著な傾向として、マスコミと国家とは急速に近づくわけだが。ところが今では、国家は多国籍資本によって、その一部分へと再編されてしまっている。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
というふうに。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「誠実そうな顔をして、彼のうちの子供っぽさを摘み取るためにヴァン・ゴッホにそっと近づいた、発育しつつあった(自然な)子供っぽさを切り離すために」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.160』河出文庫)
人間が持つ社会的文法は目に見えない。それは或る一定の時期における人間社会のすべての風景を根底から規定するよういつも働きかけている。すでに根絶しがたいほど慣習化した制度として常に人間の言動をその規範の枠内に保ち、規範内部に収まっているか、はみ出していないかどうか、管理監督している。そして社会規範は管理徹底のために「健康な精神」と称して、すべての人間の「身体のなか」へ入り込んで侵食してしまうことを心がけている。次のように。
「いつもはつねに乱交パーティや、ミサや、赦禱や、あるいは聖別、憑依、女淫夢魔、男淫夢魔といったような他の祭儀の際に起こるような起こるように、それがヴァン・ゴッホに対して起こったのである。つまり社会というやつが彼の身体のなかに入り込んだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.119』河出文庫)
ゴッホにとってそれは耐えがたい経験だった。ゴッホは過剰な自己探究者ではあったが、けっして過剰な性欲に苛まれていなどいなかったからである。ところが社会はゴッホの精神に対し、社会の共犯者となるよう強制した。相入れない道徳によって暴力的に侵入されたゴッホは、何ら意図してもいない罪を浴びせかけられ、社会全体に敵対する存在として位置づけられた。社会全体に行き渡った道徳という暴力というものからそのすべての憎悪を一身に引き受けなければならない立場に追い込まれた。ただ、社会の目に見えて映っているような風景でなく自分の思うような風景画を描いたというだけで。社会規範の側からすればそれほど悪質な犯罪もまたとないというわけだ。
「そしてヴァン・ゴッホはそこで千の夏をふいにした。そのために彼は三十七歳で死んだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.161』河出文庫)
裸婦を描いた画家はたくさんいた。日本で人気のルノワールを始め、ゴッホの友人だったゴーギャンはさらに南のタヒチへ出かけて異国の女性の丸裸の姿を多く描いた。しかし自殺に追い込まれたのは裸婦に関心がなく、身近な風景ばかりを題材にしていたゴッホなのだ。なぜだろうか。人間の生にとって「性的欲望」というものが極めて重要な政治的要素となっていたことに注目しなければならない。それは専制主義的王権時代のように抑圧され否定されるものではもはやなく、新興ブルジョワ階級によって誘導され分析され生産と人口管理と社会秩序を通して国家の力に資するものへと置き換えられたからである。抑圧はもう必要ない。だから国王が持っていた「殺す」権利は国王とともに葬り去られた。代わって、中央集権的監視と新しい社会秩序維持発展のために「生かす」ことが最大限重要視されるようになる。国家増強・国威発揚のため、「生かす」ためのテクノロジーとして性的欲望はまったく新しい社会的価値を与えられる。国家監視の下で人間を「生かす」ための生産調整として、同時に規律化し綿密詳細に管理するための身体の測定と統計。また人間社会にとって必要とされる身体的かつ精神的「基準」の増殖に資する「性的欲望」という新しい「装置」が、創設される。国家が主導する二つの視線が認められる。一つはマクロレベルで二つに分かれる。
「一方では性は、身体の規律に属する。身体的な力の訓練と強化と配分であり、エネルギーの調整とその生産・管理である。他方では、性は、それが誘導するすべての総体的作用を通じて、住民人口の調整・制御に属する。性は同時に二つの領分に組み込まれる」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
もう一つはミクロレベルで国家化された医学=医学体系的国家による常時監視体制の確立とそのあくなき追求である。
「それは無限に細かい監視と、あらゆる瞬間における管理統制と、細心の空間的配備と、無際限の医学的・心理学的検査と、身体に対する一連の<微笑権力>とを引き起こす」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
それらすべてにわたる情報の一元的管理によって国家は、いついかなるときでも、社会のどんな細部にでも突如として介入することを可能にした。
「それはまた、大々的な措置や統計学的測定、社会体の全体あるいは様々な集団の全体を対象とした介入を引き起こしもする」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
古典主義時代から十九世紀一杯を通して性的欲望は意味を変えた。性欲は抑圧されない。むしろ「分析される」。詳細かつ綿密に分析されることで人間を「調教する」ために大いに活用されるものとなる。そしてこの「調教」はそれじたい、さらなる性的欲望を生産する。
「性的欲望は各人の個性の暗号となる、つまり個人を分析することを可能にするものであると同時に、個人を調教することを可能にするものだ。しかし同様に、それは政治的操作のテーマ、経済的介入のテーマとなり(生殖への唆かしあるいは抑制によってである)、また、教化あるいは責任賦与のイデオロギー的キャンペーンのテーマとなる」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
さてしかし、このような「政治的操作」ならびに「経済的介入」の「テーマ」として浮上してきた性的欲望はどのような分析によって全面的政治性を帯びることになったか。フーコーは差し当たり「四つの戦略」を上げている。
(1)「女の身体のヒステリー化」。それが問題視されるのは第一に社会の《生産性》にとってである。女性はいつも《順調な繁殖力を維持しているべき》だとする社会規範が出現したのは太古の大昔のエピソードではない。逆に資本主義的生産様式が定着してくる過程で発生してきたまったく最近の、ここ二百年ばかりのうちに出現した近代の産物でしかない。それが世界的規模で拡張されたときこの産物はすでに全体主義的《神話》の次元にまでのぼりつめていた。さらに生物学的見地から、子供は女性の身体から生み出されるものなので、子供に対する道徳的責任と安全保証は女性の役割であるという見解がすべての異論を排除する形で固定化される。そして家族という空間の基礎的機能を根底から担うのもまた女性であるほかないとして世論を上げて一斉に規定される。この時点で発生したのが《母性》というものであり、ニーチェの言葉を借りれば世界的規模での「でっち上げ」が完成したのである。だからヒステリーは健康な女性のネガティヴな姿として、否定的なものとして、「健康な女性」という《神話》と同時に出現し、「健康な女性」というポジティヴな《神話》を支えるネガティヴな役割を与えられるとともに一種の「狂気」とされるに至る。ところがこの構造は構造自体の作用によって、理性は狂気の支えなしに存在しないという事情を覆い隠してしまう。だからといって、女性はただ単に子供を産めば良いということではない。それは資本主義の生成期において妥当する事情ではあっても、テクノロジーの高度化によって剰余価値の増殖が可能になった以上、ますます可能になっていく以上、ただ単に子どもばかり生まれてしまっては逆に国家は困惑することになる。問題は、産児制限したり逆に産児制限を抑制したりといった、人間の身体を《調整する》ことにある。生殖装置としての婚姻は労働力商品の再生産でもあるが、他方、性的欲望の装置は生殖とは関係のない性的欲望を増殖させ、それを質的にも量的にも測定し様々に分類し情報化し管理社会の実験的強化に資する。だからフーコーは「性的欲望の解放」とは呼ばず「性的欲望の装置」と呼ぶのだ。そのための身体の計測であり、中央集権的管理領域の無限の増殖強化に供される身体なのである。増殖する性的欲望を《欲望する管理》があるのだ。
(2)「子供の性の教育化」。ここで問題となるのは子どもたちの「自慰行為」である。それは「自然」なのだが「不自然」でもあるとされる。というのは自慰行為は子どもを生産しないからだ。だが自慰なしに子どもは生きていくことができるだろうか。まったくないとすれば近いうちに性犯罪に走ることは目に見えている。そこで、ありとあらゆる親、家族、教育関係者、医師、心理学者などが子どもたちの「自慰行為」目指して殺到し教育的指導の中へ注意深く監禁包囲するという前代未聞の事態が生じた。
(3)「生殖行為の社会的管理化」。国庫-財政管理に関わる。性行為ではなく、生殖行為が、政治的社会管理という措置の下に置かれる。この後者、子どもを生産する限りでの「生殖行為」の《義務化》と《責任化》とが国家によって一元的管理される。管理するのは国家である。国家であるがゆえ、結婚した夫婦の前には前提として《子供を生産する》責任と《子供を生産し過ぎてはいけない》という二重の責任が出現する。また別に性的欲望そのものは恒常的な増殖を義務づけられる。婚姻は合法だがまさしく婚姻が合法的であることによって触発されつづける非合法的な欲望〔種々の多型倒錯的欲望(たとえばフェチ、パンチラ、性風俗、小型スマートフォンの違法使用、等々)〕を生産する。それもまた身体において測定され管理され商品化されると同時に大量生産と大量消費との経済的過程へ組み込まれ貨幣による商品交換を経て剰余価値を実現する。それは国家-資本からの要請であるにもかかわらず、なぜか《社会全体に対する責任》であるという意味の置き換えが、責任転嫁が、なされる。さらにこの置き換えは、市民社会に対する国家-資本による極めて重大な詐欺ではないか、という問いについて。ニーチェはいう。
「《開戦理由とそのたぐい》。ーーー隣国と戦争をやろうとすっかり決心して、これになにか《開戦理由》をみつけだす君主は、自分の子どもの母親をすりかえて、それをそのさきは母親と思わせようとする父親のようなものである。そしてわれわれの行為の公に披露された動機はほとんどすべてそのようなすりかえられた母親ではないのか?」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五九六・P.460」ちくま学芸文庫)
さらに性欲と生殖との決定的違いについて。ニーチェから。
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)
さらにフロイトから。
「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫)
また、道徳化された生殖という国家的欺瞞について。
「人間にその性欲を、子供をもうけるための《義務》としてしか意識させないような、高度に道徳的な虚偽がありうるかもしれない」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・九四四・P.508」ちくま学芸文庫)
(4)「倒錯的快楽の精神医学への組み込み」。単純化すれば「性倒錯」の取り扱い方についてということだ。様々な欲望の観察対象として、客体化された身体として、計測される。けれどもそこから国家が汲み上げるのは、倒錯として認められる希少価値のある種々の性的欲望についての科学技術=テクノロジーとその集中管理である。《欲望するテクノロジー》とでもいうべきか。
そしてフーコーはいう。
「一般的に言って、『身体』と『人口問題』の接点にある性は、死の脅威よりは生の経営のまわりに組織される権力にとって中心的な標的となる」(フーコー「知への意志・P.184」新潮社)
問題は<性>とは何か、ではなく、「生の経営のまわりに組織される権力にとって中心的な標的となる」<性>なのだと。ゴッホは性欲にあまり重要な価値を置かない。ほとんど関心がない。それより遥かに絵画に、絵画する自分の《手》としてゴッホは生きた。ところが他方、性欲にばかり夢中になり性的欲望の科学技術化(テクノロジー化)に邁進していた国家があった。そんな国家からすれば性欲より遥かに絵画に夢中になっているゴッホを許すことは到底できない。国家権力は混乱した。不安を覚えた。そして社会化された人々から構成されたヨーロッパ市民社会はゴッホを自殺へ追いつめてしまったわけだが、それが一体どのようなことなのか、当時は誰にもわからなかった。ちなみにニーチェはゴッホの同時代人だったけれども、ゴッホの絵画はまるで売れていなかった。だからだろうか、ニーチェはゴッホについて何一つ語らないまま死んでしまっている。「『身体』と『人口問題』の接点にある性」とフーコーはいう。そしてそれは問題の立て方として正しいだろうと思われる。<生>と<性>についての考察。その重要性。けれども、二〇二〇年の世界ではマスコミというものが「米中対立」という余りにも安易な形式を持ち出して割り込んでくる。特に日本ではその傾向が強い。しかしそのような行為は日本の視聴者に対して、肝心の、日本全土に横たわる諸問題を覆い隠すという転倒を生じさせる。国家-資本が要求する性的欲望の分析とその中央集権的管理にとって、国民による生産と消費、それに見合う社会保障が確立されておらず制度化もされていない状態では、グローバル資本の自己目的的諸運動は加速を欲してさらなる停滞あるいは恐慌を反復させるばかりだというのに。とりわけ日本では、日本が危機におちいるたびにマスコミはなぜか米中対立を持ち出してきて日本自身の危機を市民社会全体に知らせようとせず逆に覆い隠そうとする。歴史的見地からいえば、危機の時期に顕著な傾向として、マスコミと国家とは急速に近づくわけだが。ところが今では、国家は多国籍資本によって、その一部分へと再編されてしまっている。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
というふうに。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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