アルトーはもはや「症例アルトー」として取り扱われている。けっして医学的な意味でではなく、文学という制度の中でばらばらにされ、要するにミンチにされた。そして「総括あるいは概括そして《まとめ》」という身振りのうちに、社会は、何度も何度も繰り返し繰り返しアルトーを統一へ還元してしまう。
「私は姿を現し、私は元気を取り戻し、私は注意深く調べ、私は人目を引き、私は封印を解く、私の死んだ生は何も隠してはいないし、その上虚無はけっして誰の害にもならなかった、内部に戻ることを私に強いるのは、過ぎ去り、時として私を沈めるあの嘆かわしい不在であるが、しかし私にははっきり、とてもはっきりと見えるのだ、虚無でさえ私はそれが何であるかを知っているし、しかも私は内部に何があるのかを言うことだってできるだろう」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.167~168』河出文庫)
というふうにアルトーもまた自分で自分自身を、しばしば「総括あるいは概括そして《まとめ》」てしまうことがある。その意味でアルトーはたいへん深いところ、途轍もなく深いところで、「気が狂って」いたということができる。
「自然は何も欲しないが、しかし自然はつねに何かを達成する。ーーー《私たちは》何かを欲して、《つねに何か別のものを達成する》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七二五・P.356」ちくま学芸文庫)
そういう意味では。だからアルトーはどこにでもいるごく当たり前の人間だったといえる。ただ単に或る部分がごく僅かに突出していたに過ぎない。ごく僅かな突出。しかしそれは病気である。世間から見ればなかなか病気には見えないが、権力という位置から見れば極めて危険なあり方である。そのあり方は病気として厳重に監禁され絶え間なく監視されねばならない危険極まりない病気である。しかし権力というものは世間とまったく別のものではない。むしろその動作環境はほとんどいつも一致している。けれどもアルトーやゴッホが恐れられたのは、自然の猛威が人間を恐れさせるように、アルトーやゴッホという突出部に対して社会の側が恐れたからである。アルトーは続ける。
「ヴァン・ゴッホは正しかった、人は無限のために生きることができるし、無限によってしか満足しないこともあり得る、地上と諸天球のなかには無数の偉大な天才を堪能させるに足るだけの無限があるのだし、ヴァン・ゴッホがそこから自らの生全体を照射する欲望を満たすことができなかったのは、社会が彼にそれを禁じたからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.168』河出文庫)
ゴッホが持っていた最大の欲望。それは性的欲望ではなく、少なくとも性的欲望はその一部分でしかなく、逆に無限という基準なき基準を創造しつつ「自らの生全体を照射する欲望」のことだった。しかし社会はそれをいつも禁じることにしている。だからゴッホの中でもまた次のような事態が生じた。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
アルトーもまた同じだ。
さてしかし、社会はなぜいつも社会規範を必要とするのか。個々人に向けて「空気を読む」ことを厳しく強制しつつ、社会は、個々人が《正しく》「空気を読む」ことができているか、自己点検させて止まないのか。かつてははっきり目に見えていた社会的文法。華々しい身体刑を伴っていたために誰にでも単純に理解可能だった。もはやそれは目に見えない。目に見えない次元へ移動した。社会は近代化すればするほど社会的文法を不可視化する。そして二〇〇年ほど前、管理のテクノロジーは身体刑という形式をほとんど必要としなくなる。とはいうものの身体刑は、実在する刑務所という執行機関が今なお強固に担っているではないかと反論することは可能だ。しかしそれは可視化された隔離という一部分に過ぎない。そういう単純な事情が問題なのではなく、隔離されていないところでいつもすでに執行されている管理という問題があるのだ。人間は個々人の次元で絶えざる自己点検という終わりのない新しい管理形態を受け取った。ただ単に受け取っただけではない。それを《欲望する》ほどにまで立ち至っている。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.44」河出書房新社)
ただし、そこへ行くまでに或る種の、避けて通れない過程があったのである。道は平均的な人々が思い込んでいるほど平坦ではなかった。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「私は姿を現し、私は元気を取り戻し、私は注意深く調べ、私は人目を引き、私は封印を解く、私の死んだ生は何も隠してはいないし、その上虚無はけっして誰の害にもならなかった、内部に戻ることを私に強いるのは、過ぎ去り、時として私を沈めるあの嘆かわしい不在であるが、しかし私にははっきり、とてもはっきりと見えるのだ、虚無でさえ私はそれが何であるかを知っているし、しかも私は内部に何があるのかを言うことだってできるだろう」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.167~168』河出文庫)
というふうにアルトーもまた自分で自分自身を、しばしば「総括あるいは概括そして《まとめ》」てしまうことがある。その意味でアルトーはたいへん深いところ、途轍もなく深いところで、「気が狂って」いたということができる。
「自然は何も欲しないが、しかし自然はつねに何かを達成する。ーーー《私たちは》何かを欲して、《つねに何か別のものを達成する》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七二五・P.356」ちくま学芸文庫)
そういう意味では。だからアルトーはどこにでもいるごく当たり前の人間だったといえる。ただ単に或る部分がごく僅かに突出していたに過ぎない。ごく僅かな突出。しかしそれは病気である。世間から見ればなかなか病気には見えないが、権力という位置から見れば極めて危険なあり方である。そのあり方は病気として厳重に監禁され絶え間なく監視されねばならない危険極まりない病気である。しかし権力というものは世間とまったく別のものではない。むしろその動作環境はほとんどいつも一致している。けれどもアルトーやゴッホが恐れられたのは、自然の猛威が人間を恐れさせるように、アルトーやゴッホという突出部に対して社会の側が恐れたからである。アルトーは続ける。
「ヴァン・ゴッホは正しかった、人は無限のために生きることができるし、無限によってしか満足しないこともあり得る、地上と諸天球のなかには無数の偉大な天才を堪能させるに足るだけの無限があるのだし、ヴァン・ゴッホがそこから自らの生全体を照射する欲望を満たすことができなかったのは、社会が彼にそれを禁じたからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.168』河出文庫)
ゴッホが持っていた最大の欲望。それは性的欲望ではなく、少なくとも性的欲望はその一部分でしかなく、逆に無限という基準なき基準を創造しつつ「自らの生全体を照射する欲望」のことだった。しかし社会はそれをいつも禁じることにしている。だからゴッホの中でもまた次のような事態が生じた。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
アルトーもまた同じだ。
さてしかし、社会はなぜいつも社会規範を必要とするのか。個々人に向けて「空気を読む」ことを厳しく強制しつつ、社会は、個々人が《正しく》「空気を読む」ことができているか、自己点検させて止まないのか。かつてははっきり目に見えていた社会的文法。華々しい身体刑を伴っていたために誰にでも単純に理解可能だった。もはやそれは目に見えない。目に見えない次元へ移動した。社会は近代化すればするほど社会的文法を不可視化する。そして二〇〇年ほど前、管理のテクノロジーは身体刑という形式をほとんど必要としなくなる。とはいうものの身体刑は、実在する刑務所という執行機関が今なお強固に担っているではないかと反論することは可能だ。しかしそれは可視化された隔離という一部分に過ぎない。そういう単純な事情が問題なのではなく、隔離されていないところでいつもすでに執行されている管理という問題があるのだ。人間は個々人の次元で絶えざる自己点検という終わりのない新しい管理形態を受け取った。ただ単に受け取っただけではない。それを《欲望する》ほどにまで立ち至っている。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.44」河出書房新社)
ただし、そこへ行くまでに或る種の、避けて通れない過程があったのである。道は平均的な人々が思い込んでいるほど平坦ではなかった。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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