恋愛に関する欲望の変化について、相手の変化の隔たりが大きければ大きいほど欲望は最大値を示すとプルーストはいう。一方に娼婦や粋筋の女(ココット)たちを置いてこう論じる。
「昔は暗屋(くらや)と呼ばれていたところに所属する女たちはもとより、粋筋の女(ココット)たちでさえ(相手が粋筋の女だとわかっている場合にかぎるが)、めったにこちらの心を惹かないのは、その手の女がほかの女に比べて美しさが足りないからではなく、つねに身を任せる用意ができていて、こちらが手に入れようと必死になるものをすでに提供しているからであり、こちらが征服した女ではないからである。この場合、くだんの隔たりは最小値になる。街娼ともなると、早くも通りにいるときから、ふたりきりのときにする笑いを投げかけてくる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.319~320」岩波文庫 二〇一六年)
なぜそうなのか?彼女たちが「めったにこちらの心を惹かないのは、その手の女がほかの女に比べて美しさが足りないからではなく、つねに身を任せる用意ができていて、こちらが手に入れようと必死になるものをすでに提供しているからであり、こちらが征服した女ではないからである」。あらかじめ共犯関係が出来上がっている場合、プルーストのいう「くだんの隔たりは最小値になる」。文字通り「征服した女ではない」。売買契約に則って女を自分の自由にするに当たり、ただ単に貨幣交換したというに過ぎない。性欲処理のための商品交換に他ならず、恋愛に関する欲望とはまるで関係がない。ニーチェのいう「愛するということ=所有欲を満たすということ」という公式とは似て非なるばかりか、自分で自分自身を欺むくための社会的装置を利用したというに過ぎない。
では恋愛における欲望の最大値はどのように示されるのか。相手が「専門の職業をもった女」であること。この条件はすぐ前の文章で用いられているわけだが。もう少し明確化され、こう説明されている。「海岸で見かけた娘が、こちらを見向きもしない傲慢な娘だとする。また店のカウンターでまじめにせっせと働いているのを見かけた売り子の娘が、同僚の娘たちから冷たくされないためだけにせよ、こちらにつっけんどんな返事をする。はたまた見かけた果物屋の娘などはろくに返事もしない」。当時それらはどれも特定の衣装で区別されていた。それぞれの制服がそれぞれの職業を象徴していた。そして恋愛における欲望の最大値は、熱心かつ生真面目に労働に打ち込んでいる際の娘たちと、その同じ娘たちが愛の行為の中で変容する際との間で生じないわけにはいかない偏差(違い)が大きければ大きいほどますます増大する。職業を象徴する制服が木っ端微塵に溶融する時、女の側は始めて相手の男が「征服した女」へ転倒する。そうでなければ恋愛における欲望の最大値は達成できない。またそうでなければそうでないほど両者の隔たりーーー熱心かつ生真面目に労働に打ち込んでいる際の娘たちと、その同じ娘たちが愛の行為の中で変容する際との間で生じないわけにはいかない偏差(違い)ーーーは最小値へ傾斜するため恋愛とはほど遠い関係へ急降下するほかない。プルーストは「われわれは女が示したすがたとはまるっきり異なる彫像をその女からつくり出そうとする彫刻家のようなものである」と述べる。
「われわれは女が示したすがたとはまるっきり異なる彫像をその女からつくり出そうとする彫刻家のようなものである。海岸で見かけた娘が、こちらを見向きもしない傲慢な娘だとする。また店のカウンターでまじめにせっせと働いているのを見かけた売り子の娘が、同僚の娘たちから冷たくされないためだけにせよ、こちらにつっけんどんな返事をする。はたまた見かけた果物屋の娘などはろくに返事もしない。するとどうだろう、われわれはそうした娘をなんとか変えてやろうと試さずには気がすまない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.320」岩波文庫 二〇一六年)
ここで言われている「彫刻家」とはどんな「彫刻家」か。<愛=所有欲>という定式を暴露したニーチェはいう。
「私たちが事物のうちへと《変貌》や《充実》を置き入れ、その事物を手がかりに創作し、ついにはその事物が私たち自身の充実や生命欲を反映しかえすにいたる状態とは、性欲、陶酔、饗宴、陽春、敵を圧倒した勝利、嘲笑、敢為(かんい)、残酷、宗教的感情の法悦にほかならない、とりわけ、《性欲》、《陶酔》、《残酷》という《三つの》要素である、ーーーすべてこれらは人間の最古の《祝祭の歓喜》に属しており、すべてこれらは同じく最初の『芸術家』においても優勢である」(ニーチェ「権力への意志・下・八〇一・P.314」ちくま学芸文庫 一九九三年)
様々な暴力による相手の精神の加工=変造の過程を経ることが条件となる。ニーチェの指摘通り、まるでカルトと変わらない。
「人間の差異は、単に彼らの財産目録の差異に示されているのみではない。すなわち、彼らがそれぞれ異なる財を追求するに値すると考え、また共通に承認する財の価値の多少、その順位について互いに意見を異にする、という点に見られるのみではない。ーーー人間の差異は更にむしろ、何が彼らにとって財の真の《所有》であり《占有》であると見なされるか、ということにおいて示される。例えば、女について言えば、比較的に控え目な者は、肉体を自由にし、性的享楽を味わうだけですでに、その所有・占有の十分な満足すべき徴(しるし)と認める。他の者はもっと邪推深く、もっと要求が多い占有欲をもっていて、そうした所有は『疑問符』を伴うもの、単に外見上のものであると見て、一層精細な試験をしようとし、わけても、女が彼に身を任(まか)せるだけではなく、更に彼女の持っているものや持ちたがっているものをも彼のために手放すかどうかを知ろうとする。ーーーそのようにして始めて、彼は女を『占有した』と認めるのである。しかし、それだけではまだ彼の不信と所有欲に結末をつけない者もある。彼は自ら女が一切を彼のために棄てても、言ってみれば彼の幻影のためにそうしているのではなかろうか、と疑う。彼はおよそ愛されうるためには、まず徹底的な、いな、どん底までよく知られたいものだと望む。彼は敢えて自分の正体を覗(のぞ)かせるのだ。ーーー彼女がもはや彼について錯覚をもたず、彼の親切や忍耐や聡明のためにと全く同じく、彼の魔性や秘(ひそ)かな貪婪(どんらん)のためにも彼を愛するとき、始めて彼は愛人を完全に自分が占有したと感じる。また、或る者は国民を占有したいと思う。そして、その目的のためには、あらゆるカリョストロ的、カティリーナ的な術策を弄してもよい、と彼には思われる。更に他の者は、もっと繊細な占有欲をもっていて、『所有せんと欲すれば、欺くべからず』と自分に言って聞かせる。ーーー彼は自分の仮面が民衆の心を支配しているのだと考え、そのため苛立(いらだ)って耐(た)え切れなくなり、『故にわれを知ら《しめ》ざるべからず。かつまた、まずもって、われ自らを知らざるべからず!』と思う。世話好きな慈善家の間には、彼らが助けてやるはずの者をまずもって支度してかかるといったあの愚かしい奸智が見いだされるのが殆ど通例である。例えば、あたかもその者が助けられるに『値し』ており、まさしく《彼らの》助けを求めていて、すべての助力に対して彼らに深い感謝と帰服と恭順を示すかの如く思ってそうするのだ。ーーーこのような自惚(うぬぼ)れをもって、彼らは困窮者を所有物を処理するが如くに取り扱う。彼らは所有物に対する欲求からして一般に慈善的で世話好きな人間だからである。彼らは助力が妨げられたり、出し抜かれたりすると嫉妬する。両親は識らず知らずに子供を自分たちに似たものにするーーー彼らはこれを『教育』と名づける。ーーー子供を産んで一つの所有物を産んだのだと心の底で信じない母親は一人もいないし、子供を《自分の》概念や評価に従わせる権利があることを疑う父親は一人もいない。それどころか、以前には新しく生れた子供の生殺の権を思うがままに揮(ふる)うことが(古代のドイツ人の間でそうであったように)、父親たちには当然のことと思われていた。そして、父親がそうであったように、今日でもなお教師・階級・僧職・君主などがあらゆる新しい人間において、躊躇なく新しい占有への機会を見るのである」(ニーチェ「善悪の彼岸・一九四・P.144~146」岩波文庫 一九七〇年)
ところがしかし、「例の売り子や、一心にアイロンをかける洗濯屋の娘や、果物屋の娘や、乳製品店の娘と、こちらの愛人になるはずの同じ娘とのあいだでは、両者の隔たりは最大値になり、その乖離はさらに大きくなる気配であるうえ、その隔たりは職業上身につけた仕草によって変化し、仕事の動作をしているときの娘の両腕は、いまや夜毎その口が接吻の用意をしている最中(さなか)こちらの首へしなやかにまきつく両腕とは、アラベスクのように相互に似ても似つかぬ形を描く」。同じ一人の娘がまったく別の人間へ生成変化する。愛する男にとって、この間の隔たりの大きさから得られる快楽は他の何ものにも換え難い。ゆえに「われわれは、身持ちがよく職業柄こちらとは縁遠いように見える娘たちに取り入るべく浮き足だって言い寄ることをたえずくり返すのに生涯を費やす」。
「例の売り子や、一心にアイロンをかける洗濯屋の娘や、果物屋の娘や、乳製品店の娘と、こちらの愛人になるはずの同じ娘とのあいだでは、両者の隔たりは最大値になり、その乖離はさらに大きくなる気配であるうえ、その隔たりは職業上身につけた仕草によって変化し、仕事の動作をしているときの娘の両腕は、いまや夜毎その口が接吻の用意をしている最中(さなか)こちらの首へしなやかにまきつく両腕とは、アラベスクのように相互に似ても似つかぬ形を描くのである。それゆえわれわれは、身持ちがよく職業柄こちらとは縁遠いように見える娘たちに取り入るべく浮き足だって言い寄ることをたえずくり返すのに生涯を費やすのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.321」岩波文庫 二〇一六年)
それにしても多種多様な職業が上げられているのはなぜか。<愛=所有欲>は、マルクスのいう<諸商品の無限の系列>を通過するように多種多様な職業に従事する女を次々と「征服」しようと欲するからである。多種多様な職業が可能であるためにはそれぞれの職業がそれぞれ異なっていなくてはならない。その違いはどこから生じるのか。ニーチェはいう。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)
ニーチェのいう「新しい占有への機会」。それはどんどんやって来る。だからもう何度も経験してしまうことになる。にもかかわらず、ではなく、それゆえに「われわれはこの最初の逢い引きでそんな幻想が消滅することぐらい百も承知なのだ」と言うことができる。
「とはいえわれわれはこの最初の逢い引きでそんな幻想が消滅することぐらい百も承知なのだ。そんなことはどうでもいい、幻想のつづくかぎり、それを現実に変えることができるか試したくなるもので、それゆえ冷淡な態度が気にかかった洗濯屋の娘にわれわれは想いをはせるのである。恋愛にかかわる好奇心は、土地の名がそそる好奇心と同じく、つねに幻滅をもたらすが、ふたたび再生し、いつまでも満足することがないのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.321~322」岩波文庫 二〇一六年)
ここで「恋愛にかかわる好奇心は、土地の名がそそる好奇心と同じく、つねに幻滅をもたらすが、ふたたび再生し、いつまでも満足することがない」とある。なぜか。<仮面>でしかないからだ。
「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・序論・P.62~63」河出文庫 二〇〇七年)
しかし「土地の名」と欲望との関係について、もう少し詳しく見ておく必要性があるだろう。