白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて154

2022年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で77パーセント、9時で64パーセントの予想。湖東方面も晴れの予想。鈴鹿峠は曇のち晴のようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2022.12.29)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.29)

 

「名称:“冬休みの通勤通学路”」(2022.12.29)

 

とはいえ、この時期が一年中で最も忙しい職業はたくさんあります。

 

二〇二二年十二月二十九日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・プルーストのいう「未知の存在」/その違い(差異)と置き換え、そして反復

2022年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

そう言われれば、とでもいうかのようにこうある。「私はエルスチールに似ていた」。なるほど「アトリエに閉じこもらざるをえないエルスチール」だったからである。読者にとってはまるで<私>の自由な連想が間断なく引き続いているかのようにしか見えない。ところがこの流れには連続性ではなく切断がある。テーマもまるで異なる場所移動によって出現した別の記号の系列だ。<私>はラカンのいう「様々な声による一種の音楽」からも「交響楽の総譜」からもすでに遠いところにいる。プルーストは、いつものことだが、そのような記述方法を取ることによって動的現実というものはそういうものだと教えている。ニーチェのいう<神の死>以後、どんな現実であろうと動的でない現実はどこにも存在しないし、世界は諸商品の無限の系列のように次々と脈略なく<接続・切断・再接続>を繰り返していく<諸断片>のモザイクでしかあり得ず、実際のところ脱中心化してばかりいるではないかと。なお画家としてのエルスチールは確かに次のようではある。

 

「私はエルスチールに似ていた。アトリエに閉じこもらざるをえないエルスチールは、春になって森にスミレが咲きみだれているのを知ると、それを見たくて矢も盾もたまらず、門番の女にその一束を買ってこさせた。そのとき感動のあまり幻覚にとらわれたエルスチールが目の前にあると信じたものは、ささやかな植物の画材が置かれたテーブルではなく、かつて無数のうねうねした茎が青い嘴(くちばし)状の花をつけてたわんでいるのを見たあの絨毯のような一画の下草であって、まるで幻想をさそう花の澄みきった香りがアトリエの一角に想像上の一地帯を現出せしめた観があった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.312~313」岩波文庫 二〇一六年)

 

一方<私>は、乳製品店で売り子をやっている一人の娘について、エルスチールに似た創造力を反復したに過ぎない。ふと目に止まっただけの一人の娘、乳製品店の売り子を務めている娘である。プルーストはその娘について「あまりよく見ていなかったので、なんの記憶もない顔のうえに違った形の鼻を何度もつけてみた顔についても『想い出す』などと言えるとしての話であるが」と断っている。読者に対する皮肉に聞こえるだけでなく、もう一方で、決して皮肉ではなく「あまりよく見ていなかったので、なんの記憶もない顔のうえに違った形の鼻を何度もつけてみた顔についても『想い出す』などと言える」と、あえて不意打ちして見せる。人間は「なんの記憶もない顔のうえに違った形の鼻を何度もつけてみ」ることを何度も繰り返している。プルースト作品の中の人間の顔というものは、目、鼻、口など様々なパーツからなる種々のモザイクであって、唯一の絶対性としてはまるで考えられていない。最初のバルベック滞在時すでに「美人」についてこうあった。

 

「私がさしかかっていたあの青春の一時期、特定の恋人がいない空虚さゆえかーーー恋する男から惚れた相手にするようにーーーいたるところに『美人』を欲し、探し求め、見出すものである。実際の目鼻立ちがわずかにでも目にとまりーーー遠くから、あるいは背後から、ある女性をほんのちらりと見てーーー目の前に『美人』が映し出されると、われわれは美人を見たものと想いこみ、胸を踊らせて足を速め、その女が消え去ってもいつまでも美人だったとなかば本気で信じるだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.323~324」岩波文庫 二〇一二年)

 

<私>の家には、洗濯屋の娘、パン屋の娘、果物屋の娘など、色々な娘たちが商品を届けにやってくるわけだが、ある日、その乳製品店の娘が来ているとフランソワーズが教えてくれた。フランソワーズはいつもながら察しがいい。<私>が<私>自身をエルスチールと勘違いさせるほど強烈な印象を与えた乳製品店の娘が来ていると。プルーストは「未知の魅力」という言葉を捧げている。

 

「私にとってその娘は未知の魅力で彩られていて、それは多くの女が待ち受ける娼家で見つけた美しい娘にはつけ加わるはずのない魅力である。これは裸でもなく妙な扮装もしていない正真正銘の乳製品店の娘で、本人に近づく余裕のないときにはきわめて美しい人だと想像しがちな女性のひとりで、どこかしら人生の永遠の欲望、永遠の哀惜を感じさせる存在であって、その存在の二重の流れがようやく方向を変えてわれわれのそばへやって来たのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.319」岩波文庫 二〇一六年)

 

この箇所で言われている「二重の流れ」について。「未知の存在」が常にそうであるような二重性である。「一方ではそれが未知の存在であり、その身長といい、プロポーションといい、相手を歯牙にもかけぬまなざしといい、高慢な泰然自若ぶりといい、これは絶世の佳人にちがいないと想像させるから」だが、もう一方で「求めているのが専門の職業をもった女で、その特殊な衣装による小説じみた連想から別天地にちがいないと想いこむ世界へわれわれを逃避させてくれるから」だとある指摘は重要だろう。

 

「二重の流れというのは、一方ではそれが未知の存在であり、その身長といい、プロポーションといい、相手を歯牙にもかけぬまなざしといい、高慢な泰然自若ぶりといい、これは絶世の佳人にちがいないと想像させるからであり、他方では求めているのが専門の職業をもった女で、その特殊な衣装による小説じみた連想から別天地にちがいないと想いこむ世界へわれわれを逃避させてくれるからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.319」岩波文庫 二〇一六年)

 

当時は職業によってそれぞれ衣装がまるで異なっていた。洗濯屋の娘、パン屋の娘、果物屋の娘などの衣装がそれぞれ異なっているように。といっても衣装というものは職業次第でその労働に適した衣装が採用されているため、それぞれ異なっているのは常識である。問題はそのことではなく、制服が職業を象徴していたという点に注目しなければならない。問題はまたしても違い(差異)と置き換え、そして反復に関わる。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて153

2022年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。昼間はよく晴れていました。湧き出る雲はいつも通りのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

時々日が陰ります。

 

「名称:“午後三時四十分”」(2022.12.28)

 

「名称:“北国街道”」(2022.12.28)

 

古墳群へ登ってみます。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.28)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.28)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.28)

 

湖畔近くへ降りてきました。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.28)

 

湖畔へ出ました。何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

二〇二二年十二月二十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて152

2022年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で93パーセント、9時で70パーセントの予想。湖東方面も晴れの予想。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2022.12.28)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

足元の枯葉や小枝に霜が張り付いています。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.28)

 

二〇二二年十二月二十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・朝早くから聞こえてきて私を魅了するオーケストラ/報告者<私>という狂気

2022年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌの外出は自動車を使ってノルマンディー地方へ出かけることもあり二週間ばかりに及んだりする。その際アンドレを監視役につけておけば、差し当たりこれといった疑念に苛まれることはなく安心していられる。そんな平穏な日々の訪れとともに<私>は或る種の奇怪な体験に身を任せる。「最初はしんと静まり返っていたところへ、いきなりトリップ売りの呼子(よびこ)と路面鉄道(トラムウェー)の警笛とが、まるで調子外れのピアノ調律師がやるように、かけ離れたオクターヴで外気を振動させた。やがて、交錯するべつべつの動機(モチーフ)が少しずつ聞きとれるようになって、そこにいくつか新たな動機(モチーフ)もつけ加わった」。<私>に音楽が到来するのである。

 

「アルベルチーヌが出かけたので、私はそんな考えごとはさておき、いっとき窓辺に身を寄せた。最初はしんと静まり返っていたところへ、いきなりトリップ売りの呼子(よびこ)と路面鉄道(トラムウェー)の警笛とが、まるで調子外れのピアノ調律師がやるように、かけ離れたオクターヴで外気を振動させた。やがて、交錯するべつべつの動機(モチーフ)が少しずつ聞きとれるようになって、そこにいくつか新たな動機(モチーフ)もつけ加わった。べつの呼子も聞こえてきて、なにを売り歩くのか判然としないその商人が呼ぶ声は、路面鉄道(トラムウェー)の警笛とそっくりで、しかもスピードに乗って通りすぎるわけではないので、なにやら路面鉄道(トラムウェー)が一台、もともと動けないのか、それとも故障したのか、じっと立ち往生して、断末魔の動物みたいに小刻みな悲鳴をあげているように思われた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.306」岩波文庫 二〇一六年)

 

生活空間の中に点在するそれぞれ雑種の別々の音がある。それはいつもある。「トリップ売りの呼子(よびこ)と路面鉄道(トラムウェー)の警笛と」、というように。その一つ一つが音楽の動機(モチーフ)として聴こえる。さらに生活空間を満たしている音は雑多であり決して一つではないので「そこにいくつか新たな動機(モチーフ)もつけ加わった」。<私>はそんな時間体験を「朝早くから聞こえてきて私を魅了するオーケストラ」と呼ぶ。

 

「もし私がこの貴族街に住まなくなったらーーーすっかり庶民的な界隈へ引っ越すのでもなければーーー、中心部の通りや大通りは(そこでは大きな食料品店のなかに果物屋や魚屋などが店を構えているから行商の売り声は無用のものとなり、そもそも売り声をあげても聞いてもらえないだろう)、ささやかな職人や食糧行商人のこうした連禱もことごとく拭い去られるように消え、朝早くから聞こえてきて私を魅了するオーケストラも奪われて、私にはなんとも味気なく感じられ、とうてい住めた場所ではないと思われるだろう」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.306」岩波文庫 二〇一六年)

 

こうもある。「ヴァイオリンのうなる音が聞こえるような気がするのは、ときには自動車が通るせいで、ときには私が電気湯たんぽに充分な量の水を入れておかなかったせいだ。そんなシンフォニーの最中に、場違いな時代遅れの『アリア』がとどろく」。

 

「ヴァイオリンのうなる音が聞こえるような気がするのは、ときには自動車が通るせいで、ときには私が電気湯たんぽに充分な量の水を入れておかなかったせいだ。そんなシンフォニーの最中に、場違いな時代遅れの『アリア』がとどろく。いつも自分の歌にがらがらの伴奏をつけて通りかかるボンボン売りの女に代わって、おもちゃ売りの男がミルリトンにくくりつけた繰り人形を前後左右に動かしながら、ほかにも多数の人形をひき連れてやって来ると、大聖グレゴリウスの典礼の朗唱法にも、パレストリーナの改革朗唱法にも、現代作曲家たちのオペラの朗唱法にもお構いなく、時代遅れの純メロディー派として大声を張りあげて歌いだす」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.307~308」岩波文庫 二〇一六年)

 

実に貴重な体験だと言わねばならない。<私>はアルベルチーヌに対する<幽閉・覗き見・監視>という所有欲とはまた違った機能を持つのだとプルーストは書いているわけであって、その際、<私>自身の狂気の報告という形を取って読者に向けて<暴露>している。それぞれのエピソードが諸商品の無限の系列をなして次々出現してきた「作品」だからこそ、むしろ積極的かつ明確に「<私>は狂気」、だとして文字通り受け取るべき箇所だろう。音楽への生成変化、オーケストラへの生成変化。ラカンから二箇所。

 

(1)「精神病の現象像においては、或るランガージュが突然前景へと現われ、そのランガージュとの間に、或る関係が精神病の初期から末期に至るまで維持されているということは誰の目にも明らかではないでしょうか。このランガージュはただそれだけで、声高に語り、そのざわめきと喧噪の内で、そしてまたその孤立性の内で語ります。神経症者がランガージュに住んでいるとすれば、精神病者はランガージュによって住まわれ、所有されているのです。重要なことは、患者が或る試練にかけられているということ、つまり、人間の経験の日常的なこと、誰にでもあることを支えている絶えざるディスクールに関係する何らかの欠落にさらされているということです。この絶えざる独語から何かが切り離され、その様々な声による一種の音楽として現われるのです」(ラカン「精神病・下・20・P.157~158」岩波書店 一九八七年)

 

(2)「われわれの学ぶのは、分析とは、言葉が言語活動の示す登記簿全体にわたって構成するところのいわば交響楽の総譜のような、様々に複合した働きの場の上で行なわれるものなのであり、またそこから作り出される多元的決定は、この次元においてのみ意味を持つものなのだ、ということである」(ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」『エクリ1・P.398』弘文堂 一九七二年)

 

壮大かつ悠遠な音楽的多元性。とはいえしかし(2)に「多元的決定」とあるのは注意を要する。「多元的」に間違いはない。だが「決定」は決して<ない>と言わねばならない。ラカンの理論は静的な観点から見た構造主義的なものだ。ところが現実はいついかなる時にでも動的でしかありえない。だから狂気もまた「決定」されることはまるでなく、「《位置決定可能なものでなくなる》」限りで、最も現実的であると考えられなければならない。ドゥルーズ=ガタリに言わせるとこうなる。

 

「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)

 

同じことだが位置決定不可能な現実、いつも変動相場制でしかないダイナミックな現実であるがゆえに、狂気としての<私>もまた動的であることができる。報告者<私>が「作品」の中に出現するどんな出来事にも共振して報告することができるのは、<私>がそもそもそのような狂気を生きているからに他ならない。