アルベルチーヌの外出は自動車を使ってノルマンディー地方へ出かけることもあり二週間ばかりに及んだりする。その際アンドレを監視役につけておけば、差し当たりこれといった疑念に苛まれることはなく安心していられる。そんな平穏な日々の訪れとともに<私>は或る種の奇怪な体験に身を任せる。「最初はしんと静まり返っていたところへ、いきなりトリップ売りの呼子(よびこ)と路面鉄道(トラムウェー)の警笛とが、まるで調子外れのピアノ調律師がやるように、かけ離れたオクターヴで外気を振動させた。やがて、交錯するべつべつの動機(モチーフ)が少しずつ聞きとれるようになって、そこにいくつか新たな動機(モチーフ)もつけ加わった」。<私>に音楽が到来するのである。
「アルベルチーヌが出かけたので、私はそんな考えごとはさておき、いっとき窓辺に身を寄せた。最初はしんと静まり返っていたところへ、いきなりトリップ売りの呼子(よびこ)と路面鉄道(トラムウェー)の警笛とが、まるで調子外れのピアノ調律師がやるように、かけ離れたオクターヴで外気を振動させた。やがて、交錯するべつべつの動機(モチーフ)が少しずつ聞きとれるようになって、そこにいくつか新たな動機(モチーフ)もつけ加わった。べつの呼子も聞こえてきて、なにを売り歩くのか判然としないその商人が呼ぶ声は、路面鉄道(トラムウェー)の警笛とそっくりで、しかもスピードに乗って通りすぎるわけではないので、なにやら路面鉄道(トラムウェー)が一台、もともと動けないのか、それとも故障したのか、じっと立ち往生して、断末魔の動物みたいに小刻みな悲鳴をあげているように思われた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.306」岩波文庫 二〇一六年)
生活空間の中に点在するそれぞれ雑種の別々の音がある。それはいつもある。「トリップ売りの呼子(よびこ)と路面鉄道(トラムウェー)の警笛と」、というように。その一つ一つが音楽の動機(モチーフ)として聴こえる。さらに生活空間を満たしている音は雑多であり決して一つではないので「そこにいくつか新たな動機(モチーフ)もつけ加わった」。<私>はそんな時間体験を「朝早くから聞こえてきて私を魅了するオーケストラ」と呼ぶ。
「もし私がこの貴族街に住まなくなったらーーーすっかり庶民的な界隈へ引っ越すのでもなければーーー、中心部の通りや大通りは(そこでは大きな食料品店のなかに果物屋や魚屋などが店を構えているから行商の売り声は無用のものとなり、そもそも売り声をあげても聞いてもらえないだろう)、ささやかな職人や食糧行商人のこうした連禱もことごとく拭い去られるように消え、朝早くから聞こえてきて私を魅了するオーケストラも奪われて、私にはなんとも味気なく感じられ、とうてい住めた場所ではないと思われるだろう」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.306」岩波文庫 二〇一六年)
こうもある。「ヴァイオリンのうなる音が聞こえるような気がするのは、ときには自動車が通るせいで、ときには私が電気湯たんぽに充分な量の水を入れておかなかったせいだ。そんなシンフォニーの最中に、場違いな時代遅れの『アリア』がとどろく」。
「ヴァイオリンのうなる音が聞こえるような気がするのは、ときには自動車が通るせいで、ときには私が電気湯たんぽに充分な量の水を入れておかなかったせいだ。そんなシンフォニーの最中に、場違いな時代遅れの『アリア』がとどろく。いつも自分の歌にがらがらの伴奏をつけて通りかかるボンボン売りの女に代わって、おもちゃ売りの男がミルリトンにくくりつけた繰り人形を前後左右に動かしながら、ほかにも多数の人形をひき連れてやって来ると、大聖グレゴリウスの典礼の朗唱法にも、パレストリーナの改革朗唱法にも、現代作曲家たちのオペラの朗唱法にもお構いなく、時代遅れの純メロディー派として大声を張りあげて歌いだす」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.307~308」岩波文庫 二〇一六年)
実に貴重な体験だと言わねばならない。<私>はアルベルチーヌに対する<幽閉・覗き見・監視>という所有欲とはまた違った機能を持つのだとプルーストは書いているわけであって、その際、<私>自身の狂気の報告という形を取って読者に向けて<暴露>している。それぞれのエピソードが諸商品の無限の系列をなして次々出現してきた「作品」だからこそ、むしろ積極的かつ明確に「<私>は狂気」、だとして文字通り受け取るべき箇所だろう。音楽への生成変化、オーケストラへの生成変化。ラカンから二箇所。
(1)「精神病の現象像においては、或るランガージュが突然前景へと現われ、そのランガージュとの間に、或る関係が精神病の初期から末期に至るまで維持されているということは誰の目にも明らかではないでしょうか。このランガージュはただそれだけで、声高に語り、そのざわめきと喧噪の内で、そしてまたその孤立性の内で語ります。神経症者がランガージュに住んでいるとすれば、精神病者はランガージュによって住まわれ、所有されているのです。重要なことは、患者が或る試練にかけられているということ、つまり、人間の経験の日常的なこと、誰にでもあることを支えている絶えざるディスクールに関係する何らかの欠落にさらされているということです。この絶えざる独語から何かが切り離され、その様々な声による一種の音楽として現われるのです」(ラカン「精神病・下・20・P.157~158」岩波書店 一九八七年)
(2)「われわれの学ぶのは、分析とは、言葉が言語活動の示す登記簿全体にわたって構成するところのいわば交響楽の総譜のような、様々に複合した働きの場の上で行なわれるものなのであり、またそこから作り出される多元的決定は、この次元においてのみ意味を持つものなのだ、ということである」(ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」『エクリ1・P.398』弘文堂 一九七二年)
壮大かつ悠遠な音楽的多元性。とはいえしかし(2)に「多元的決定」とあるのは注意を要する。「多元的」に間違いはない。だが「決定」は決して<ない>と言わねばならない。ラカンの理論は静的な観点から見た構造主義的なものだ。ところが現実はいついかなる時にでも動的でしかありえない。だから狂気もまた「決定」されることはまるでなく、「《位置決定可能なものでなくなる》」限りで、最も現実的であると考えられなければならない。ドゥルーズ=ガタリに言わせるとこうなる。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)
同じことだが位置決定不可能な現実、いつも変動相場制でしかないダイナミックな現実であるがゆえに、狂気としての<私>もまた動的であることができる。報告者<私>が「作品」の中に出現するどんな出来事にも共振して報告することができるのは、<私>がそもそもそのような狂気を生きているからに他ならない。