新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

THE TOUR OF MISIA 2025の「東京」2 daysのこと

2025-03-10 20:56:08 | MISIA

3月8-9日の両日、東京・有明アリーナで開催された「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」に行ってきましたので、その感想とかを書きます。

Webニュース等で明らかにされたことは「公知の事実」と見なしますが、それ以外は、いつものように、極力ネタバレしないようにしますので、お含みおきください。

さて、有明 2 daysは、前公演の横浜 2 days (記事)から約1か月の空白期間をおいて開催されたわけで、この1か月の間に、New Album「LOVE NEVER DIES」のジャケ写や収録曲、さらには購入特典などが次々と発表され、ツアーポスターも、「LOVE NEVE DIES」のジャケ写を使ったものに一新されていました(写真は入場時に配られたフライヤー)。
私が、横浜 2 daysの記事の中で、

この間、MISIAは愛知公演で「今、絶賛レコーディング中」と言っていたアルバム制作没頭するんだろうな

と書いたとおり、MISIAから、

レコーディングが完了しましたぁ~

という宣言がありました。
そして、横浜公演のときに未公開だった新曲が1曲初披露され、これで未公開曲1曲だけになりました。

というところで、ここまでの「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」のセットリストを載せます。
画像をクリック/タップすると、セットリストをご覧いただけます。

セットリストを見るだけでも、ツアーの最終形態にまた一歩近づいた感がありますな

   

ここでいつもの「MISIAのおことば」です。
まず初日(3月8日)

MISIA「日本人アーティストで『東京公演』って言う人いる?」なんて言っていて、その時は「確かに…なんて思った私ですが、でも会場が有明アリーナ有明ガーデンシアターなら「有明公演」日本武道館なら「武道館公演」地区名や会場名で呼ぶけれど、会場が「東京国際フォーラム」とかだと、「東京国際フォーラム公演」「有楽町公演」ではなく「東京公演」ではないか? と思い至ったりして…
でもでも、MISIAがライヴで地域名をシャウトするときには、「有明アリーナぁ~とか「東京国際フォーラムぅ~とかなわけで、「TOKYO~とシャウトするのは初めてだったかもしれません

そして、2日目(3月9日)は、

と、いう残念なことになりました
そこで、初日の「番外編」も載せます

3月8日は「国際女性デー」だということで、MISIAはそのことを話した上で、「3月8日はイタリアでは女性に黄色いミモザの花を贈る慣習があって、『ミモザの日』とも呼ばれているそうです」と続け、上記の「おことば(番外編)」につながりました。
MISIAの公式サイトに載っている「【MISIAによるメッセージ】(MC一部抜粋)をお読みいただければと思いますが、MISIA「想いを込めてみんなでペンライト黄色に点灯してくれますか?」に応じて、多くの聴衆がペンライトを黄色にして、それはそれはきれいな光景でした。
2日目、MISIAは、「ペンライトを持っていない人は、(次の曲で)手を振っていただくところがありますので、何か黄色のものを振るか、を振るだけでもいいですといったことをおっしゃっておりました。

なお、この日の私の座席は、アリーナのかなぁ~り前 かつ かなぁ~り左で、正面から右60°を向かなければステージが視界に入らなかったもので、スタンドの様子がよく見えました
そんな座席から会場を眺めて判ったのは、有明アリーナの聴衆のペンライト保持率めちゃくちゃ高いこと 横浜公演のときの5割増しくらいのイメージでした。

この14色に発色できる「LOVE NEVER DIES ペンライト」は、3,500円と、お安くありませんが、このツアーに行かれる方には、全力推しアイテムです

もちろん、「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」ツアーは、ペンライトが無くても十二分に楽しめる内容(13,500円+αのチケット代の元は確実に取れる)ですが、このペンライトがあればもっと楽しめることは請け合いです
とりわけ、中盤の「DJタイム」での「ペンライト遊び」楽しいったらありゃしない
MISIAというシンガーのことをよく知らない人ライヴに初参加するという人には、恐らく一般的なMISIAに対するイメージ(例えば「歌の上手なバラードシンガー」みたいなイメージ)がガラリと変わる、というか、ドッカーンと広がると思います。

「MISIAの世界」は、深いし、広いのです。

   

ここまでMISIA「東京 2 days」でのパフォーマンスについてまったく書いていませんでした

さすがに、ここまで4地区7公演に参加してくると、ネタバレ無し新しいネタを書くのは難しいのが実情なんですが、これだけは何度でも書いておきたい と思うのが、私がMISIAと同時代を生きていて、そして、MISIAの歌声の響きを全身で感じられることの奇跡と喜びと感謝です。

この気持ちは、MISIAのライヴに参加するたびに更新されるのが常で、東京 2 days例外ではありませんでした
とりわけ、2日目のMISIAは「素晴らしいという言葉では言い表せないものでした。これまでで何度も聴いたあの曲やこの曲が、更に磨き上げられ、新しい波動となって体全体に響き渡るのです
ある曲が終わり、嵐のような歓声と拍手が収まったあと、会場全体がどよめいていたのは、私にとっても、程度の差こそあれ、初めての体験だったような気がします。

   

最後に、私の超俗人的なお話

「東京公演」2日目の朝、私が目覚めてリビングに行くと、置き時計が止まっていました
電池切れかな? と電池チェッカーで電圧を測ると、案の上、電池切れでした
ここで、「X」「ペンライトが電池切れというポストをいくつか見たことを思い出した私は、有明に連れて行く予定のペンライトの電池を測定してみました。
すると、

「使えません」とな
危なかったぁ~

家には、乾電池の単1~5各種ボタン電池の備蓄がありまして、さっそく新品に交換しました。
3本の単4電池のうち、奥に装着する1本が、なんか収まりが良くない気がしたのですが、それでもちゃんと点灯しましたので、これで良し と、ペンライトをバッグに収めました。

その約7時間後ライヴが始まる直前にペンライトを点灯

ところが、ライヴが始まり、ペンライトを振ると、、、消えた
スイッチを入れ直すと一応点灯するのですが、何かの拍子で消える

仕方なく、スタンディングが続く間はペンライトの復活をあきらめて、手を振り、ハンドクラップで「対応」するはめに…

そして「着席タイム」になったところで、と耳ステージ集中させつつ、両手はペンライトの復活作業に従事させました。

まず疑われるのは、家で収まりの悪さを感じた「奥に装着する1本」接触不良なわけで、手探りでペンライトの電池3本をはずし、奥の端子を爪でいじって(なんか変な角度だったような感じ)調整し、電池を入れ直し、点灯
でも点かない

+・-が違ったか? ということで、再び電池を入れ替え、点灯
でも点かない

確か、奥の1本手前の2本とは電池の入れる向きが逆だったよな…
そして、手前の2本「-」が上だったはず…
でも点かない

今度は電池をに入れ直して、スイッチを入れると、今度は無事に点灯しました
しかも、ペンライトを振っても消えません

ライヴの最中ですから、電池ソケット目視することも、取説を読むこともできなかったわけで、よくぞ手探りだけで復活させたものだ自分に感心しました
いやいや、開演前に確認しろ ってヤツ

きょうになって、ペンライトの電池ソケット観察してみました。

その結果、あくまでも想定ですが、ライヴ開演直後の「不良」の原因は奥の電池用の端子の接触不良、その後の「点灯せず」の原因は、電池の向きがダメだったり、「電池取り出し用リボン」が電池と端子との間にはさまっていたのではないかと思われます。

どうか皆さんも、ライヴに行く前に、電池のチェック(だいたい4~6公演くらいで切れる)と、電池交換後の点灯チェック(その際、使用方法を想定して振ってみる)をお忘れなく

   

さて、次に私が「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」に参加するのは、またもや1か月のインターバルを挟んだ高松公演です。
間に入る福岡での「ホール公演」が気になりますが、高松遠征楽しみにしています。

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御徒町駅から西へ東へ

2025-03-07 20:49:01 | タウンウオッチング

先月末、陽気に誘われて、御徒町界隈を散歩してきましたので、遅まきながら、そのお話を。

この散歩の目的地は2つありまして、一つは梅が盛りの湯島天神、もう一つは、わが故郷と縁の深い久保田(秋田)藩の上屋敷跡でした。
途中、昼食を摂る店を求めて寄り道しましたが、基本的に、JR御徒町駅から春日通り西へ東へと歩きました。

まずは、西に向かって、2年ぶり湯島天神へ。

ちょうど見頃を迎えていたきれいだし、香り楽しい

女坂を上って行くと、ほんとに目の前で咲いていてしっかりと愛でられます
ちょうど梅と受験のシーズンだけに、境内はかなりの賑わいでした。
拝殿の前にはズラリ行列ができていて、とりあえず切実な願い事の無い私は、今回は参拝をパスしました

2年前に参拝&梅見物したときは、猿まわしも楽しんだのですが、今回はちょうど休憩時間に入ったばかりだったらしく、トレーナーさん(?)と手を繋いで退場していくお猿さんの後ろ姿だけを見かけました。
せっかくですので(?)、2年前に見たお猿さん(りきクン)竹馬ジャンプ(幅跳び)の写真を載っけておきます。

湯島天神の社殿は、1995年に改築された新しい建物で、それだけに、きらびやかで壮麗です

拝殿の後ろに廻って、本殿を拝見。

拝殿本殿とを弊殿で繋ぐ典型的な「権現造り」ですな

   

湯島天神はこの辺で切り上げ、帰りは男坂を下り、春日通りを今度は東へと歩きました。

時刻はちょうど昼時で、久しぶりに上野天ぷら屋さんに行ってみることにしました。
中央通りとの交差点で左折し、さらに「この辺りだったはず」と小路に左折して進むと、お目当ての天ぷら屋さんがあったのですが、、、、、なんと休業 定休日ではなく、「予定していた臨時休業」だったみたい

まぁ、上野にはしょっちゅう出かけているし、また機会はあるでしょう

そして、上野~アメ横~御徒町界隈では食事をする場所に困りません。っつうか、平日の昼間をかっくらっていても「普通」に見える街です。

で、私にとって2度目になる某焼肉店でランチをいただきました。

かつて私がよく行っていた別の焼肉店(この界隈には焼肉店が多い)は、いつのまにやらずいぶん高くなってしまい、そこにはちょっと行きづらくなってしまいました

それはさておき、昼食を終えた私は再び春日通りに戻り、東へ…。

   

昭和通りを横断し、ちょっと行ったあたりのカフェで、食後の一服

そして、スマホに入れてある「大江戸今昔めぐり」というアプリで、現在地と目的地をチェックしました。

このアプリは、現代の地図に、江戸時代の古地図をオーバーラップさせて表示できるもので、東京を街歩きするときには楽しませていただいています。

さて、私がコーヒーブレイクをとった店は、福岡・柳川藩上屋敷跡の正面で、目的地にしていた久保田藩上屋敷跡までは至近の地点でした

ところで、江戸切絵図のルールとして、家名の上に当たる部分が正門のある側で、柳川藩邸の正門は現在の春日通りに、久保田藩邸の正門は現在の清洲橋通りを向いていたことが判ります。

一息入れた後、久保田藩邸跡反時計回りほぼ一周しました。

当然ながら、江戸時代の雰囲気を今に伝えるものはほとんど無く「佐竹」に由来する地名と町会の名前(と後で紹介する商店街)程度のものでした。

それにしても「平成小学校」だなんて、地域性の欠片も無い
ちなみに公園の名前は「竹町公園」でした。

竹町公園には新幹線を模した遊具(ロッキング遊具)がありまして、その一つが「こまち」型でした。
現在なら、ここからほど近い上野駅から秋田新幹線「こまち」に乗れば4時間弱秋田に到着するのですが、江戸時代には、3週間近くを要して江戸⇔秋田を移動していたらしい 陸路だけですから、それは大変だったろうなと思います。
ちなみに、別邸の近くには、江戸に出立する久保田藩主御一行と国許に残る藩士たち別れのお茶を飲んだという謂れの橋があります。

さて、上に載せた「大江戸今昔めぐり」の画像の右下に「三味線堀」という風流な名前の堀が描かれています。
その形が三味線に似ているから、というのが名前の由来だそうですが(三味線よりも八分音符に似てる)、既に埋め立てられていて、現在は、都営アパートの建て替えが行われていました。

この写真は久保田藩邸跡の南東角から撮ったもので、この交差点近くにその名も「佐竹町商店街」南端があって、その入口には、台東区教育委員会による説明板がありました。

この一部を転記します。

佐竹家上屋敷の当地開設年代は、『武鑑』からみて、元禄2年(1689)もしくは翌3年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東3・4丁目東半分にわたっていた。
佐竹家八代藩主佐竹義敦(よしあつ・号曙山)は、日本初の本格的西洋医学書の翻訳書『解体新書』(安永3年[1774]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに、洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(1781~1789)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。

ここに登場する「手柄岡持(てがらのおかもち)なる狂歌師、本名は「平沢常富」、ペンネームは「朋誠堂喜三二」
平沢常富 by 尾美としのりそう、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のオープニングロールで、ほぼ毎回、

平沢常富 尾美としのり

とクレジットされるのに、番組が終わると「あれ? 出てた?」「尾美としのりを探せと話題になっている御仁です。私もリアタイ視聴では一度も見つけていません
番組の「登場人物紹介」では、

のちに蔦重にとって最高かつ最大の協力者となる戯作者。

とありますので、いつ、画面に堂々と登場するのか、また、蔦重とどんな絡みを見せてくれるのか、楽しみです

   

説明板を読んだ後、私は佐竹商店街に足を踏み入れました。

なんでも、この商店街は、金沢片町商店街(私が今愛用している九谷焼の飯茶わんは、去年、片町商店街にある陶磁器店で買ってきた)に次いで、日本で二番目に古い(組合組織が結成された)商店街だそうな。

アーケードには、

     何でも揃う お買い物は商店街で

というバナーが掲げられていましたが、なかなかのさびれっぷりで、仕舞た屋のなんと多いこと
「何でも揃う」盛り過ぎだろ と思ってしまいました。

ところで、佐竹商店街のシンボルマークは、「竹に留まったフクロウ」です。

こちらのサイトによると、

この地は、秋田の佐竹藩の上屋敷跡で、藩内に学校があったことから、知恵の神ふくろうを商標にしようということになった。
皆で足立美術館を訪れた時、横山大観竹に止まったみみずくの絵を見て、竹にすずめではなく、みみずくもありだと思い、竹に止まるふくろうのデザインにしたとのこと!

だとありますが、「横山大観の竹に止まったみみずくの絵」は、横山大観記念館所蔵の作品とか福岡市美術館所蔵の作品とか何点かあるみたいですな。

と、こんな胸像がありました。

暖かそうなマフラーをしてもらっています

で、銘板には「吉田太郎吉翁像」とありますが、吉田太郎吉さんって誰??

調べたところ、テレ東のサイトに行き着きました。
去年8月放送の「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!」佐竹商店街を採り上げたのだそうで、その紹介サイトで、

明治時代に「吉田商店」として創業し、80年ほど前に呉服屋を開店。その後、隣で家電店やピザ店を営業し、今は店が一階に入るマンションに建て替え中です。

という記述につづいて、

初代・太郎吉は不動産業なども営み、区議まで務めた名士ということで、(以下略)

とな。
でも知らんなぁ~

こんなことで(途中、竹町公園のトイレを使った) 久保田藩上屋敷跡の散策を終了
JR御徒駅
まで戻り、自宅に帰りました。

今後は、久保田藩中屋敷・下屋敷の跡にも行ってみよう
と思い立ったのですが、そういえば、京都や大阪(大坂)にも藩邸があったはずだよな

Wikipediaによれば、

大坂布屋町に大坂藩邸、京都柳馬場通四条上ルに京都藩邸を持つ。

だとか。
こんど調べてみます。

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私は騙されない!

2025-02-24 16:04:02 | 日記・エッセイ・コラム/ニュース

毎日毎日、フィッシングメールがやって来ます

やれクレジット情報を更新しろだの、荷物が宛先不明になっているだの、アカウントが自動停止されるだの、滞納の税金を支払えだのと、もう次から次へとやってきます。

画像は、スマホ宛てに送られてきて、ドコモに迷惑メール通報したあとにごみ箱に移動したメールたち
通報しても、その意味があったのかと疑うほど、似たようなフィッシングメールが、異なるアドレス(それさえも偽装が多そう)から送信されてきます。

PC用のメールアドレスへも同様に、毎日大量のフィッシングメールが送られてきます。
私は、条件を設定して、それに該当するメールはごみ箱直行にしています。

具体的には、「ごみ箱直行」条件は、まず特殊なところでは、昔使っていたドメイン「@nifty.ne.jp」宛てに送られてきたメール、送信者のアドレスに「.cn」が含まれているメール、あとはメールのタイトルに「ヤマト運輸」「利用」「お荷物お届け」「三井住友カード」「ETCサービス」「日本アマゾン」「キャンセル」「お支払い方法」などの言葉を含むメールといったところ。

その「ごみ箱直行メールだけでこんな具合です

わずか6時間半の間に、これほどまでに送られてくるとは…
しかも、私の設定をかいくぐって受信箱に収まっているフィッシングメールも少なくありません

逆に、まともなメールごみ箱に直行しているケースもたまにありますので、ごみ箱の中は必ずチェックするようにしています。
以前、大事なメールが、「受信拒否」に設定していた単語をタイトルに含んでいたため受信できなかったという痛恨のできごとがありましたので、基本的に「受信拒否」はせず、あとで確認できる「ごみ箱直行」にしています。

メールに貼られたリンクを辿ると(良い子は真似をしてはいけませぬ)、スマホもPCも、ほとんどの場合、Googleやウイルスバスターが仕事をして、「この先危険のメッセージが出るのですが、先日、フィッシングサイトに行けました。
そこで、いたずら心で、クレカの番号や有効期限などの入力場所に、適当な番号・期限を入力してみました。
すると、驚いたことに、1分もたたないうちに「このカードは使用できません」のメッセージが返ってくるではありませんか
「これは架空のクレジットカード番号だ」と認識できるロジックを組んでいるっつうことで、相当に手の込んだシステムを作っていることが伺いしれます
ITにちょっと詳しい悪ガキが小遣い銭稼ぎにやっているようなものではなく、プロの仕業です

なお、PCのメールソフトだと、差出人のメアドとか、貼られたリンク先を簡単に見られて、「これは怪しい」と気づきやすいのですが、スマホだと、一見しただけではメアドやリンク先アドレスは判りません
スマホの場合、差出人やリンク元を長捺しすれば、アドレスを見られますので、迷惑メールか否かの判別が易しくなります。

ふと思うのですが、こういったことに使われるメアドは、実在するもので、本人の知らぬ間に使われている可能性はないのでしょうか?
偽アマゾンが使ったメアドを、ほんとに東京電力の人が自分のメアドとして使っているとか…
もしそうだとすれば、私のメアドもどこかでフィッシングメールの差し出しアドレスとして使われているのではなかろうか… ゾッとします

   

フィッシングメールに加えて最近目立って増えた気がするのが、知らない人からの「X」のDMです。

ほとんどが「お友だちになりたい」として、不自然な日本語LINEに誘い込むものですが、たまには怪しいアルバイトへの誘いとか、銀行口座を売って欲しいとか、明らかに犯罪っぽいものまであります。

ところが「X」に通報しようとしても、「違法行為」という項目はなく、「スパム」に大ぐくりにされてしまうというのが、いかにも「イーロンのX」らしい

もうひたすらに鬱陶しい迷惑メールですが、これにひっかかる人がいるからこそ、犯罪者たちは延々とメールを送り続けているのでしょうな

国としての体を成していないミャンマーの実質「中国人租界」を舞台にした、巨大な詐欺グループと、その片棒を担がされている国際性豊かな奴隷たちがニュースになっていますけれど、こういった迷惑メールもこんなところから送られてきているのかもしれません

まったくもって「あ~あです

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体調はすこぶる良いのだけれど

2025-02-19 10:46:33 | 日記・エッセイ・コラム

蜂窩織炎発症から3か月が経過しました。ということで、「蜂窩織炎のおかげで肝機能が改善?」のその後の状況です。

すでに脚の痛みや腫れはすっかりなくなり、よく眠れるし、食べるものは美味しいし、ビール旨いしで、体調はすこぶる良好です。
ただ、患部は相変わらずグロいままで、3cm × 2cmほどの範囲にわたって皮膚が再生されていません
1月末に処方された安くないスプレー4週間にわたって続けましたが、私の感覚では、さほど患部が良化した感じはありませんでした。

それでも、先週金曜日(2月14日)の診察では、先生曰く、「良くなっていますね」とのことで、治療法が変わりました。

デュオアクティブCGF今度は、絆創膏のようなもの(パッド)を、患部に直接貼るというもの。
クリニックでは、先生にそれを貼っていただき、「適当な大きさに切って3日置きくらいに、新しいものに貼り替えてください」ということで、10cm四方ほどのパッドをいただいてきました。

先生の説明によると、傷口からの滲出液をパッドが吸収・閉じ込めて、自然治癒力で皮膚の再生を図るというもので、市販のBAND-AIDキズパワーパッドと同じ仕組みらしい。

このパッド「デュオアクティブCGF」を調べてみると、これは医療機関向け専用品らしく、10cm四方サイズで 1,200円/枚もするらしい
もっとも、キズパワーパッドだって安くない商品だし(自宅には大小とりまとめて常備してる)、それに比べて厚みが数倍あるわけで、それくらいの値段でも不思議ではありません。

キズパワーパッドの効用は重々知っていますので、このプロ仕様パッドが次の通院(来週金曜日)までどこまで回復させてくれるのか、期待はです。

それにしても、どこかのサイト「蜂窩織炎は2~3週間で治る」とあった気がするのだけれど、とんでもないな…

   

もう2月も下旬に入ろうかというタイミングですが、つくづく2024-25年の年越しと今年の正月散々だったなと思い出されます

ただでさえ蜂窩織炎を病んでいたのに加えて、風邪には参りました
その辺のことは「体調不良につき #5」に書いたとおりですが、2024年内は頭がボーッとして、全身がだるく、そして喉が痛いのなんのって…。
年が明けて熱が下がっても、声は出ないし、嗅覚と味覚が無く食欲がわかず、また、脚の腫れ筋肉痛のせいで、正座できないし、いったんしゃがむとつかまり立ち必須だったなどと、なんとも酷い正月でした
これがただの風邪で、新型コロナでもインフルエンザでもなかったことは不幸中の幸いではあったけれど、我が人生でも、母が東京の病院に入院中で、父も上京して新年を迎えたときと並ぶ最悪の年末年始だったと思います。

そして今、冒頭に書いたように、体調はすこぶる良好な私です。

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今年最初の関西旅行記 #3-6 [完結編]

2025-02-16 09:57:03 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #3-5」のつづきです。

京都河原町駅で地上に出た私は、初めての「錦市場」へと向かいました。

四条通からひょいっとに入った(あがった) この小路「新京極」ですって?

「新京極」といえば、高校の修学旅行で京都の旅館に泊まったとき、夜の外出そぞろ歩いた商店街ではありませんか
その時以来新京極を歩く間、ウン十年前のこと、例えばここで生まれて初めて「シェーキ」なるものを飲んだことなどを思い出しました

そして、念願の「錦市場」

おぉ、賑わってる

そしてバナーは、ご当地出身の有名人伊藤若冲の作品がモチーフになっています

それにしても、なんという外国人観光客多さ

今や、観光地の多くで外国人比率高まっていることは身をもって体験しているけれど、錦市場での外国人比率の高さハンパありません

そして驚いたのは、予想に反した飲食店の多さでした。
しかも、明らかに外国人観光客を狙っている和風(?)ファストフードの店だらけです。
とりわけ多かったのが、エビの串焼きを供する店でした。
日本人なら、「なんでわざわざ京都まで来てエビの串焼きを食べるのだ? 」と思うけれど、外国人には関係のないことなんだろな

この辺りで昼食を食べようと考えていた私ですが(時刻は12:40)、錦市場昼食を摂るのは無理だと判断しました
そして錦市場の散策あきらめて四条通に出ました。

四条通の歩道の上からぶら下がっているのは、洛中洛外図から切り出した人々かな?

こりゃイイねぇ
でも、四条通沿いにはファストフード店はあっても、まともな昼食を摂れそうな店は見つかりませんでした

そのとき見つけたのは、錦市場の手前にあった焼肉店でした。
値段も手頃そうだったので、ここで昼食

そこは旅行中ですから、オーダーしたのは、ちょっと奮発して、こちらの焼肉定食です。

いかにも旨そうな牛肉と牛タンですが、実際、美味しかった
これで 2,500円(税込) なら大満足です

食後、「ところで伊藤若冲の生家跡はどの辺なんだ?」(←これが錦市場にやってきた理由) と、スマホで調べると、、、

ありゃぁ~~、この焼肉店の至近ではありませんか
こんなことってありますか?

確かに伊藤若冲のプロフィール「高倉通」という地名を見た記憶がかすかにありますが、まさか、たまたま昼食に入った店が高倉通にあったとは

正直、「私は持っていると思いました。

そして、焼肉店でお支払いして、「伊藤若冲生家跡」に行きました。

ゆっくり歩いても1分ほど「現場」に到着。

これですよぉ~ ここに来たかった

この案内板はコの字形に設置されていまして、錦市場に面した側(北面)にはいろいろと説明文が書かれているのですが、この角には中華系とおぼしきグループたむろしていて写真が撮れません
それでも、「以心伝心」でちょいとどいてもらい、撮影に成功

この案内板の後半部分、「若冲と錦市場」を抜き書きします。

伊藤若冲京都錦の青物問屋の生まれという事実は広く知られている。若冲の描く絵画の仲には蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲譜という巻物には、野菜だけでなく柘榴や蜜柑、桃といった果物までが描かれている。(中略)
若冲は、次弟に家督を譲って、錦で絵画三昧の生活を送っていたとされていた、
しかし、近年、新たな史料が発見されたことにより、錦市場における若冲のイメージが一変した。その史料とは「京都錦市場青物市場記録」というもので、明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える史料である。これによると、若冲は、錦市場の営業認可をめぐって、じつに細やかに、かつ、積極的に調整活動を行っている。その結果、錦市場は窮状を脱することになるのだが、若冲のこのような実務的な側面は、これまでまったく知られていなかった。
若冲は、文字通り青物問屋の主人として錦市場にいきていたのである。

ほぉ、なかなか興味深い話です

   

こうして錦市場にやってきた目的を果たした時点で、時刻は13:30
帰りの新幹線の発車時刻まで1時間しかありませんので、オプションにしていた建仁寺の拝観はまたの機会に、ということで、四条駅から地下鉄に乗って京都駅に戻りました。

建仁寺を拝観するには時間が足りないけれど、京都駅では時間を持て余すわけで、駅ナカにあるお茶の販売店で抹茶ソフトを買い、店の片隅の縁台に腰掛けてイートインしました。

この抹茶ソフトが、抹茶の香り高く、美味しかった

ここで抹茶大量に購入していく外国人観光客を目撃しました。
友知人へのお土産で買っていたのだろうけれど、これをもらった人たちはどうやって飲むのでしょうか?
日本人だって、とつぜん抹茶をもらったら困る人が多いと思うのだけれど…
抹茶のパッケージの中には、茶筅が無くてもお茶を点てられるよう「取説」が入っているのかな?

そのうちに新幹線の発車時刻が近づいてきましたので、コインロッカーから荷物を取りだし、、、とコインロッカーは満杯

京都駅から新幹線に乗って帰るときには、新幹線改札口近くの551蓬莱熱々豚まんを買って帰ることが多いのですが、この日は、新大阪駅チルドの豚まんを購入済みでしたので、そのまま新幹線改札口を通過しました。

帰りの新幹線でも、往路同様、富士山雲の中でした

でも、心配していた降らなかったので良しとしましょう。

途中、ビルの隙間から見えた横浜アリーナ「来週来ますとご挨拶。

東京駅で夕食用に駅弁を購入して、電車を乗り継いで自宅最寄り駅に着くと、夕焼けがきれいでした

ここでも富士山笠雲をかぶっていて、山頂付近は見えませんでした。

こうして、富士山とは縁が無かったものの、今年最初の関西旅行無事に終了したのでありました。
めでたしめでたし…。

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今年最初の関西旅行記 #3-5

2025-02-15 18:32:32 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #3-4」のつづきです。

妙心寺法堂を退出した私は大方丈 (おおほうじょう)を見学しました。

私は「南総門⇒三門⇒退蔵院⇒仏殿⇒法堂⇒大方丈」というルートで拝観して、法堂の拝観券を求めて大方丈隣の寝堂の玄関まで行って法堂に戻り、再び大方丈へと、不合理に動いたのですが、妙心寺がお勧めする参観拝観ルート「…仏殿⇒大方丈⇒法堂」でした
これなら、ムダな動きをする必要がありませんな

で、大方丈です。

大方丈 (重要文化財)
東西27m、南北20m、入母屋造単層柿葺192畳江戸時代前期の承応3年(1654年) 8月に立柱上棟された。
本尊阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)を安置する仏間をはじめ、6室からなっている。
南側の大広縁(おおひろえん)の入口にかけられた「方丈」の額は、中国南宋時代の大書家、張即之の筆とされる。
本尊阿弥陀三尊佛は、鎌倉時代の傑作で、もと石清水八幡宮の奥の院の本地佛で、明治維新に神仏分離がおこなわれたため、妙心寺に祀られることとなった。
各室の襖障子の水墨画は、法堂の雲龍図を揮毫された狩野探幽と采女(探幽の養子・益信)の筆。(中略)
明治維新までは、勅使や賓客の応対の場所であったが、今日では檀信徒の先祖位牌をお祀りして、供養を行ったり、説法、講演、坐禅会等の会場として使用されている。

張即之の筆によるという扁額を観たのですが、、、

ぬぬぬ…、なんも見えません
載せた写真は露出ほかをいろいろ調整してみたのですが、それでも見えるか見えないかといったところです
もっと深く字を彫ってでも厚く盛っていれば良かったのになぁ

気を取り直して、狩野探幽&益信による襖絵を見学しました。

狩野益信という絵師の氏素性を見たら、かの御用金工後藤家(傍系)の出身なんですな。
Wikipediaから転記しますと、

幼少時に書を松花堂昭乗に学び、画を好んだ。その画技を見込まれて寛永12年(1635年)、11歳探幽の養子となる。(中略)
探幽の弟狩野安信に可愛がられその娘を妻とし、3代将軍徳川家光に寵愛された。しかし探幽に実子探信・探雪ができると、万治2年(1659年)の35歳の時に南光坊天海の紹介で別家し、寛文7年(1667年)に新たに駿河台に屋敷を拝領し、駿河台狩野家を興こす。

跡継ぎのいない宗家に当主の養子として入ったものの、当主に男子が生まれたことから身を引いて別家をたてたって、本阿弥光悦似た境遇です。

Wikipediaからの引用の中に「書を松花堂昭乗に学び」とあります。この松花堂昭乗「寛永の三筆(他に本阿弥光悦近衛信尹)として名高い能書家ですが、それ以上に彼に由来する「松花堂弁当」の方が有名かもしれません。

こんなところで妙心寺の拝観を終え、私は北総門へと歩を進めました。

   

JR東海「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンでは、妙心寺を2度とりあげていて、TV CMの映像を見つけましたので貼っておきます。

まず1996年の初夏編

そして、2013年の春編「妙心寺・退蔵院」

これを視ると、やはり退蔵院にはに来たいものだと思います。
でも、すんごい人出なんだろね

   

北総門の近くで「石田三成墓所」という看板を見かけました。

私はスルーしてしまったのですが、塔頭の壽聖院(じゅしょういん)は、慶長4(1599)年石田三成が創建した石田家の菩提寺
慶長4年といえば、妙心寺三門が建てられた年っつうか、関ヶ原の戦いの前年です。
三成率いる西軍が敗れて三成が斬首されると、広大かつ壮麗だった壽聖院も解体の憂き目にあったものの、その後、出家した三成の嫡男・重家が規模を縮小しながらも壽聖院を再興したのだとか。

関ヶ原の戦いで勝ったのが徳川家康だったのは、三成は斬首になったけれど、石田家にとっては不幸中の幸いだったかもしれません。織田信長豊臣秀吉なら、石田三成の一族郎党を皆殺しにしかねませんもの…

なお、壽聖院「石田三成の墓所」としているのは、供養塔があるから。
高野山蒼々たる武将や大名たちの「墓所」になっているのと同じ理屈です。
ちなみに、三成のお墓は大徳寺三玄院にあるそうです。

   

北総門を出てシャバに戻った私は、スマホのマップを頼りに、嵐電妙心寺駅を目指しました。

と、気づくと、青空

妙心寺駅では際どく帷子ノ辻行き逃してしまったもので、ちょうど10分待って電車に乗りました。

久しぶりの嵐電です

「連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』展~ひなたの映画村へようこそ~」を開催中だった東映太秦映画村に出かけたとき(記事)以来ですからちょうど3年ぶりです。
くしくも、NHKでは朝ドラ「カムカムエヴリバディ」を絶賛再放送中で(私は全話録画中)、撮影所前駅ではしばし感慨にふけりました

北野線の終点・帷子ノ辻駅嵐山本線に乗り換え、

西院(さい)嵐電を降り、西院(さいいん)から阪急京都線に乗り換えました。
京都では、同じ漢字・同じ地なのに読み方が違うのは、京阪電車「七条(しちじょう)駅」バス停「七条(ななじょう)京阪前」という例もありますな

それはともかく、京都河原町行きの阪急電車に乗り、京都の市街地へ。
「皆様、」で始まる阪急電車車内アナウンスを聞くのは久しぶりのような気がしました

つづき:2025/02/16 今年最初の関西旅行記 #3-6 [完結編]

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今年最初の関西旅行記 #3-4

2025-02-14 19:54:25 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #3-3」のつづきです。

退蔵院を退出した私は、狭義の妙心寺の参観を再開しました。

中心軸をなす三門・仏殿・法堂東側浴室ちょっと北にあるのが経蔵です。

その名のとおり、お経の保管庫ですが、江戸時代の建立と、ちょっと新しめで、

「一切経(大蔵経)が、中央に八角の輪蔵に納められています。正面には輪蔵の考案者である傳大士(ふだいし)の像が祀られています。

だとか。
「回転式書架」とも言える「輪蔵」は、けっこうあちこちの寺院にあるもので、私は仁和寺(訪問記)三井寺(訪問記)現物を拝見したことがあります。

高野山(訪問記)に至っては、書架が回転するのではなく、建物ごと回せる経蔵がありましたっけ
この高野山の六角経蔵は、

経蔵の下部が回転式になっており1回転すると一切経を1度読んだご利益があると伝わっています。

だそうで、実際に回している人が何人もいたけれど、ここに納められていた紺紙金泥一切経霊宝館に収蔵されているとかで、それでもご利益はあるのだろうか?

この「お経を読んだことにする」といえば、お経の一部を唱えながら、じゃばら折り経本をスプリング状のおもちゃ「スリンキー」のようににバラバラっとやることで全部読んだことにする「転読」なんてものもあって、仏教界なかなかやるものです

   

さて、妙心寺の核心部の拝観です。

仏殿は、禅寺で御本尊を祀る建物で、禅宗以外では金堂・本堂と呼ばれることが多いようです。
が、しかし、妙心寺の仏殿内部非公開でした

それでも閉じられた格子戸隙間から内部を拝見すると、御本尊の釈迦三尊像をチラ見できました

この仏殿と渡り廊下で繋がっているのが法堂(はっとう)です。

こちらは南側の戸のすべてががっしりと閉じられていて、内部拝観はできないのかな? と思ったら、北側から内部に入れました

貼りつけられた木札によると、

法堂 重要文化財
明暦2年(1656)の建造
内部正面に須弥壇を有し、重要なる法要儀式を行うところである
天井の雲竜狩野探幽の傑作である

とのこと。
例の狩野探幽による雲龍図法堂の天井画だとなれば、こりゃ公開しないわけには行きませんよね。

ちなみに仏殿文化10年(1813)の建造だそうですから、法堂よりかなり新しい

で、法堂の内部を拝観しようとしたところ、拝観券が必要なのだけれど、どこで入手できるのだ? 南総門を入ったところには、「拝観料はそれぞれの施設で納めろ」といったことが書かれていたけれど…。
法堂の拝観券は、大方丈の隣り寝堂の玄関にある案内所(券売所)で入手できました。
大庫裏が工事のため拝観できないとのことで、拝観料はちょっとお安く500円でした。

   

法堂の内部には、意外なことに仏像がありません

仏像は安置されず、重要な儀式や住持による法座(≒説教)・坐禅が行われます。

だそうで、いわば妙心寺のイベントホールなのですな

さて、法堂に入堂すると、おお大きな空間 (天井まで13m)
そして、天井画デカいことデカいこと
四角い天井の四方にが描かれ、中心部の直径12mの円の中に三爪が壮大に睨みをきかせています

天井の隅に書かれている、

探幽 法眼守信筆

だって3mはありそうです。
これが探幽の自筆(署名)かどうかは定かでありません。

探幽は8年の歳月をかけてこの天井画を完成させたとされていますが、8年間この仕事に専念していたわけではなく、この間にも他の仕事を精力的にこなしていたようです

法堂の内部では、録音された説明がスピーカーから流れていました。
仏像が並んでいるお堂だと、正直、音声ガイドは邪魔な存在でしょうが、幸か不幸か、ここには仏像はありませんので、ありがたく拝聴しました。

とりわけ、「これはこれは…と思ったのが、妙心寺が誇る国宝のひとつ、日本最古(698年)梵鐘の音でした。

「妙心寺梵鐘」は、経年劣化で「これ以上撞き続けると破損する恐れがある」ということで1974年に現役を引退し、今は法堂の片隅で、ひっそりと展示されています。
この梵鐘とは、15年前「妙心寺」展@九博以来の再会でした。
私がお目にかかった翌週、九博では「妙心寺梵鐘」と、兄弟鐘と考えられている太宰府・観世音寺梵鐘との「撞き比べ」が行われたそうで、ライヴで聴けた人をうらやましく思っていました。
それが、CD(-R?)音源とはいえ、鐘の音を聴くことができてうれしかった
ちょっと小ぶりな鐘だけあって、音程は高め(Aらしい)。そして、長ぁ~~く響いていました

ふと、YouTubeに無いかな? と探したらありました
15年前の九博での「『妙心寺鐘・観世音寺鐘』鳴鐘会(めいしょうえ)動画です

聴き比べると兄弟鐘とはいっても、音色が違うのが判ります。
奥の妙心寺の梵鐘の方が音程が高い

妙心寺(狭義)には、鐘楼が3つ、浴室のちょい北にある「浴鐘楼」、仏殿を挟んだ反対側にある「洪鐘楼」、そして法堂の北西国宝の鐘が活躍していた鐘楼があります。
写真は「洪鐘楼」で、メインの鐘楼の写真を撮っていない

いろいろネットを彷徨っていたところ、現在の「二代目梵鐘」の音を見つけました[こちら]

NHKのラジオ番組「音の風景」(私、この番組をけっこう聴いています。「MISIA星空のラジオ~Sunday Sunset~」待機で…)で2015年に放送されたものです。
二代目は、先代の音に近づけるため、銅や錫の配合を調整して製作されたのですと
まさか国宝の鐘削ってサンプルを採るわけにいかなかったでしょうから、比重とかとかで成分を推察し、その後は試行錯誤で音色を近づけていったんでしょうねぇ

こうして、法堂では、仏像一体もないけれどで存分に楽しめました

つづき:2025/02/15 今年最初の関西旅行記 #3-5

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今年最初の関西旅行記 #3-3

2025-02-13 18:05:20 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #3-2」のつづきです。

「瓢鮎図」の上部には、時の将軍・足利義持から出された「瓢箪でナマズを押さえることができるか」という公案に対する京都五山の高僧31人による答え(賛)が、太岳周崇による序文と四言古詩「用活手段 瓢捺鮎留 更欲得妙 重著滑油」を先頭に、ビシッと、それも漢字だけが並んでいます。

一部を拡大してみますと、

こりゃ各僧の自筆ですな
でも、何が書かれているのか、読めないし理解できません
こちらのサイトで、すべての賛を現代語訳してくれていますから、ご興味がありましたらどうぞ。
ちなみに、上に載せた太岳周崇の四言古詩の訳はこんな感じになっています。

活き活きとした手段によって、瓢箪でナマズを抑えとめようとする。
さらに絶妙の手を使うとすれば、そこにヌルヌルの油を塗といい。

冒頭から投げやりな回答です

他の僧の回答にも、まともに答えていないようなのが結構あって、なんとなく「征夷大将軍なんてなんぼのもんじゃい この若造がという雰囲気が感じられます なお、この頃、足利義持30歳前後だったと思われます。

ところで、私が不思議に思っていることがあります。
それは、この義持が身近に置いていた衝立に張られていたという「瓢鮎図」が、どんな経緯で妙心寺 退蔵院の所蔵になっているのかということです。
瓢箪と鯰を巡る義持と高僧たちとの禅問答(?)では、妙心寺は完全に蚊帳の外だったはず、というか、妙心寺は足利義持の父・義満によって存在しない状態にされていたのに です。
答えをネットでいろいろ探したのですが、見つかりません

仕方ありませんので、退蔵院方丈の他の部分を見物です。

この付書院シンプルでイイ
本宅の出窓に置いているPCをここに持ち込んだら、ブログ書きがはかどりそうです 南面の庭も見えますし
でも、私の足はすぐに痺れるからダメか…

室内には電灯が入っていますが、これがなかなかでした。

なんとなく、日本間にテーブルや椅子を持ち込んで洋風に使い始めた明治維新期のイメージです。

説明板によると、

室内には51面の襖絵杉戸絵10面があり、いずれも狩野了慶の筆である。
杉戸絵10面は、川面稜一氏により模写復元されたものである。

だそうです。
狩野(渡辺)了慶出羽国(おぉ同郷)の出身で狩野元信の弟子だそうですから、方丈は、庭を師匠が、襖絵・杉戸絵を弟子がと、師弟共演なんですな
襖絵の写真は一枚も撮りませんでしたが、色鮮やかな杉戸絵はパシャリ

ソテツとヤギとか。(どうしてヤギ?)

画題としてはよくあるとか、

これはヒノキ? それともアスナロ(ヒバ)?

私は、悲しいかな、ヒノキとアスナロ区別がつかないのです

まぁこんなところで方丈の参観を終えまして、退蔵院のもう一つの庭・余香苑に移動しました。

   

方丈の庭狩野元信による作庭といいますから、「室町時代の庭」なのに対して、余香苑は、造園家・中根金作さんが設計し、足掛け3年を要して1965年に完成した「昭和の庭」です。

この記事を書いていて知ったのですが、中根金作さんは、かの名園足立美術館の庭園を手がけられて方でした
このブログで足立美術館に行ったときの旅行記を探したんですけれど、ダイジェストしかありませんでした
そこで、2008年4月に撮った足立美術館の写真を…

さてさて、余香苑にもどります。

余香苑の門をくぐると目に飛び込んで来たのは広く枝を張った

これは紅しだれ桜だそうで、これだけ枝を広げていれば、満開になったらさぞや凄かろう
退蔵院のHPによると、

余香苑完成当時に植えられた樹齢50年ほど紅しだれ桜平安神宮にある紅しだれ桜孫桜で、瓢箪・なまずが彫られた門をくぐるとすぐに皆様の眼前に現れます。2013年春の「そうだ、京都いこう」キャンペーンに使用され、大変注目を集めました。

だそうです。
が、キャプションにある「瓢箪・なまずが彫られた門」って、ぜんぜん気づきませんでし
撮ってきた写真を見ても良く判りません

この門を入ると、前記のとおり正面紅しだれ桜が出迎えてくれるのですが、その手前の左右には石庭がありました。

門から見て左手の石庭はいたって普通です。

一方、右手の石庭はといいますと、、、

おっと、黒い
こんな石庭を観たのは初めてです
白い庭は「陽の庭」、黒い庭は「陰の庭」だそうで、リーフレットによると、

敷砂の色が異なる2つの庭は、物事や人の心の二面性を伝えています。陰の庭に8つ、陽の庭に7つ、合計15の石が配されております。

だそうで、きのう、白馬(白毛)ソダシが出産した黒馬(青鹿毛)イクイノックスとの仔馬は、陽と陰を併せもつ競走馬になるかもしれません。←関係ない

表示された経路にしたがって進んで行くと水音が聞こえてきました。
そして、先に進むに連れて水音は大きくなり、どうやらがあるらしいことが判ってきました。

進行方向左側があるようなのですが、さっきまで気配さえなかったというのに、なんか凄い
作庭した中根さんは、きっと、こんな音響効果も狙って、樹木の配置を考えたのでしょう。

このは意外にも小さくて、岩の間から水路(川)に流れ落ちていました。その遮音効果を発揮しているみたいです。
ほんの十数m歩くだけで、山の中をトレッキングをしているような眺め・音の変化を楽しめました。
もしかして、「元信の庭」川の流れ(砂)が、余香苑エリアに入ると、本当の水の流れに姿を変えた、という趣向なのかもしれません。

ただ、曇天季節柄色調の変化に乏しかったのは、ちょっと残念
リーフレットには「桜、蓮、楓など、一年を通して華やぐ庭園」とありましたが、私が訪れた時期は、ちょうど「端境期」だったということなのでしょう。いっそのこと、雪景色になれば一興だったかもしれません。
でも、だからこそ観光客が少なく(余香苑では私の他に欧米人のシニアカップルのみ)、静けさの中で庭園を楽しめたという側面もあります。

う~んんん、退蔵院良かったぁ~
心を洗濯できた気がします

つづき:2025/02/14 今年最初の関西旅行記 #3-4

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今年最初の関西旅行記 #3-2

2025-02-12 08:11:29 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #3-1」のつづきです。

私が持っていた妙心寺の予備知識は、臨済宗妙心寺派大本山であることと、15年前九州国立博物館(九博)で観た「京都 妙心寺 善の至宝と九州・琉球」展で得た断片的なものだけです。
しっかりとブログを書いて(一応は書いた)、「復習しておけばまだマシだったのでしょうけれど…

私が知っていたことは、せいぜい、京都五山には含まれないこと、「妙心寺展」メインビジュアルになっていた狩野山楽「龍虎図屏風」(九博でも2016年の「禅」展@東京国立博物館[記事]でも観られなかった)、円形フライヤーで採用されていた狩野探幽の筆による天井画「雲龍図」(もちろん展覧会には出陳されず)とか、如拙「瓢鮎図」とかめちゃ古い梵鐘(この国宝 2点は現物を拝見できた)などを所有しているということくらい

そこで、京都市による説明板に登場いただきます。

妙心寺
正法山と号し、臨済宗妙心寺派の大本山である。深く禅に帰依された花園法皇関山慧玄を開山とし離宮萩原殿を改めて寺とされたのが当寺の起りで、室町初期に一時中断し、再興後応仁の乱で再び焼失したが、乱後雪江宗深が再建、弟子にも名僧が出て寺運はさかんとなり、塔頭が相次いで建てられ、地方へも当寺の勢力は発展した。
現在末寺3,400余、臨済宗各派中最大である。勅使門より北へ三門・仏殿・法堂・寝堂・大方丈が一直線に並び、その東側に浴室・浴室鐘楼・経蔵が並ぶ。室町後期から江戸初期の建築で、近世禅宗伽藍の最も完備した形を示している。(後略)

上の説明にちょっと補足しますと、開山建武4(1337)年、また、「室町初期に一時中断」とあるのは、応永の乱(1399年)で室町幕府に対して反乱を起こした大内義弘妙心寺深い関係だったことから、怒った足利義満妙心寺を没収、それが解かれるまで30年以上も要したことを指します。
足利義満トラブったら京都五山入れるはずもありません

   

妙心寺伽藍拝観に戻りまして、内側から見た勅使門放生池

南総門は瓦葺なのに対して、勅使門は檜皮葺です。何か意図があってのことなのでしょうか?

それはさておき、妙心寺の勅使門は、桃山時代慶長15(1610)年の創建とのことで、

平生は閉じられていますが、妙心寺住持の入山・晋山時に新住職はこの門より入られます

とのこと。「勅使」専用の門じゃなかったんだ…
初めて「住持」という言葉を知って思ったのですが、もしかして、おなじみの「住職」って「住持職」の略か? ←そうらしい

妙心寺「晋山式」についてのページに、「住職として己を律する四つの戒め」が載っているんですが、これが深い そして納得

第一、勢い使い尽くすべからず (調子に乗りすぎるな)
第二、福受け尽くすべからず (受けている恵みを感謝し、恩返ししろ)
第三、規矩行い尽くすべからず (決まりを強制しすぎず、慈悲の心を持て)
第四、好語説き尽くすべからず (人の話を聞いて判った振りをせず、体得しろ)

( )内は私なりの解釈です
「モーセの十戒」とはレベルが違うって感じですな。

   

次は、境内で唯一色彩を感じた三門です。

こちらは勅使門よりちょっと古く、慶長4(1599)年(関ヶ原の戦いの前年だ)の創建だそうで、非公開2階には「観世音菩薩と十六羅漢が祀られ、極彩色鮮やかに飛天や鳳凰、龍の図が柱や梁に描かれています」とか。
そういえば、東福寺の三門ともそうだと聞きます(観世音菩薩の代わりに宝冠釈迦如来だけど)
いつか内部を拝観したいものです

ここで塔頭の一つ、退蔵院を拝観しました(拝観料:600円也)。

ここの塀の屋根にある鬼瓦がおもしろくて、

瓢箪と鯰(ナマズ)の図柄です
それもそのはず、かの国宝「瓢鮎図」は、退蔵院の所蔵なのです。
国宝の掛け軸なんて、そうそう拝見することが可能なはずもなく(京博に寄託しているらしい)、模本が退蔵院の方丈(本堂)に展示されていました。

その模本をしげしげと拝見し、写真も撮ってきたのですが、それはのちほど…

今から600年ほど前(1404年)室町時代の応永年間に当時の京洛に居を構えた波多野出雲守重通が高徳のきこえ高い妙心寺第3世をつとめる無因宗因禅師への深い帰依によって、無因宗因禅師を開山として建立されました。これが退蔵院のはじまりです。
そのころ妙心寺は足利義満の弾圧で名を竜雲寺と変えられ、 関山一派の人々も祖塔を去る悲運に見舞われました。無因宗因禅師は高徳を惜しまれて大徳寺へとの誘いがありましたが、固く辞して西宮の海清寺に隠棲し、ついに時の有力者たちに終生近寄ることがありませんでした。
退蔵院は応仁の乱妙心寺とともに炎上しましたが、1597年に亀年禅師によって再建され、今に至ります。

方丈(本堂)の南面と西面にある庭は通称「元信の庭」「元信」とは狩野派二代目の狩野元信のことで、絵師彼が作庭したのだとか。
南面の庭はさほどおもしろいこと無く、見どころは西面の枯山水様式の庭でした

常緑樹の生気溢れると、無機質石・砂との対比がおもしろい

北から南へと川(=砂)が屈曲しながら音も無く流れていきます
しかも、川の流れは、絶対に絶えることがないという…。
なんとも心が落ち着くひとときでした

このあと、恐らくはこの「川の流れのつづき」を意識したであろうものを体験することになるのですが、その前に、「瓢鮎図」の模本を拝見

説明パネルを転記します。

『瓢鮎図』 (国宝・如拙 筆)
「丸くすべすべした瓢箪で、
  鯰を押さえることができるか」
室町幕府の4代将軍・足利義持はある時、「瓢箪でナマズを押さえることができるか」という公案(禅問答)を考え、この公案を主題とした絵を画僧の如拙に描かせました
上部には五山の高僧31人による様々な答え(讃)が書き込まれています。
皆さんならこの禅問答にどのように答えますか?
※「鮎」とは「なまず」のこと。
「なまず」は「鯰」と書きますが、中国由来の「鮎」と表記されています。

恥ずかしながら私、今の今まで「鮎」と「鯰」のことに気づきませんでした
「ひょうねんず」で変換すると、ATOKはきちんと「瓢鮎図」にしてくれますので ←ただの言い訳

さっそく、じっくりと「舐めるように」観ることにしまして、まずは如拙による

背景と前景は静謐感漂う山水画ですが、人物と鯰はどことなくマンガチックユーモラスです。もっとも、公案自体がいわば足利義持のジョークみたいなものですからねぇ。

人物と鯰の部分を拡大してみます。

なかなかよくできた模本です
近頃、障壁画や絵画の精細な模本を作り、現物と模本を入れ替えて、現物は温度・湿度が一定で紫外線の入らない収蔵庫で保管するケースが見られますが、これだけ良い模本ができるのなら、非常によいアイデアだと思います。

それはそうと、この人物妙なところがあるのに気づきませんか?

浮游しようとする瓢箪両手で押さえ込もうとしているように見えます
または、既に押さえ込みにかかろうという瞬間なのでしょうか?
これは一体…というところで「#3-3」につづきます。

つづき:25/02/13 今年最初の関西旅行記 #3-3

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今年最初の関西旅行記 #3-1

2025-02-11 12:23:54 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-9」のつづき、関西旅行最終日(1月27日(月))の探訪記です。
最終日は、雨が降るという予報が出ていて、ホテルの自室のカーテンを開けると、

どんよりと曇り空

トートバッグに常備品折り畳み傘が入っているとはいえ、なんとか昼過ぎまではもってくれないものか と祈る気持ちでした。

この日朝までに構想していた最終日の行程は、ホテルを出発したら直ちに京都に移動し、まず妙心寺に行き、そこから京都の中心部に戻って錦市場を散策し、時間があれば建仁寺にも行って、予約している京都駅14:30発新幹線で帰るというものでした。
京都では、私がまだ訪問したことの無い場所を観光しようという算段です。

ホテルをチェックアウトして外に出たら寒い

新大阪駅からJR京都線新快速(途中の停車駅は高槻駅のみ)に乗って京都駅に着いた私は、一旦改札を出て、荷物をコインロッカーに入れた後、再び改札口へ
このあと、嵯峨野線に乗ることを考えれば、改札を出ずにそのまま嵯峨野線に乗り替える方が運賃が安いと思ったのですが、まさか大きなバッグをゴロゴロ引きずりながら寺社を拝観するのは相当無理がありますから

今調べたら、新大阪⇒花園(860円)よりも、新大阪⇒京都(580円)+京都⇒花園(200円)、の方が80円安かった
たまにありますな、こんなケース

さて、ちょっと時刻が遅くなると空きが無くなる京都駅のコインロッカー、この日は難なく新幹線改札口に近い八条口空きが見つかり、荷物を放り込むと、いざ、妙心寺

妙心寺の最寄り駅は、JRだと花園駅です。
私が花園駅で電車を降りるのは、2013年のGW仁和寺に行って以来(記事) 2度目

花園駅に掲示されていた案内図を見ると、花園駅から、仁和寺までは徒歩約20分ですが(確かにけっこう遠かった)、妙心寺までは徒歩5分だそう。近くてイイ

この案内図を頭に入れて歩き出したのですが、すぐに「妙心寺前交差点」があり、そこをやややや左折してうねっとちょっと歩くと、妙心寺南総門が見えてきました。

ところで私、2010年1月九州国立博物館(九博)特別展「京都 妙心寺 善の至宝と九州・琉球」を観ました。
「MISIA星空のライヴⅤ Just Ballade」福岡公演への遠征ついでに、初めての九博まで足を伸ばしたのでした(旅行記はこちらこちら)。
この旅行記の中で、

ところで、この「片手で拍手をするとどんな音がする?」公案、何かの本(翻訳本)のエピグラフで読んだ気がしますが、何の本だったのか、さっぱり思い出せません。(中略)
ご存じの方がいらっしゃいましたら、どうか教えてくださいまし どうも気になって、奥歯にニラエノキダケが挟まったような気分なのですよ。

と書いたのですが、これまで教えてくださる方は誰もおらず、今回の旅行記を書くにあたってネットで調べてみたところ、答えが判明しました。
J.D.サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」でした

原文だと、

We know the sound of two hands clapping.
But what is the sound of one hand clapping?
                --A ZEN KOAN--

別邸の書棚にあった「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)を引っ張り出して、野崎孝さんによる訳を転記しますと、

両手の鳴る音は知る。
片手の鳴る音はいかに?
   --禅の公案--

この「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」とよばれる公案は、このブログでも何度かとりあげた(例えばこちら) 江戸時代の禅僧・白陰慧鶴がつくったもので、代表的な公案の一つだそうです。

話が逸れているようで、それほど逸れてはいないのですが、ここから再び私が訪れた妙心寺のこと。

丸太町通から妙心寺前交差点で分岐した道の突き当たりにあるのが南総門です。

そして、その左にあるのが「開かずの門」っぽい勅使門

南総門から境内に入ると、右手に案内所っぽい小さな建物があって、そこで拝観料を納めるのかな? と思ったら、「拝観料は各塔頭でお納めください」といった内容の貼り紙が。
そこで、さっそく境内の散策を開始しました。
境内の案内図を見ると、

な、な、なんですか、この広さ

リーフレットによれば、南北約600m東西約550m面積は約10万坪(≒33万㎡)ですと
この「甲子園球場 8個分」とかいう広大なエリアの中に36ヶ寺の塔頭(たっちゅう)寺院があり、敷地外にも10ヶ寺の塔頭寺院があるそうな
妙心寺がこれほどの大寺院とは思ってもみませんでした

2023年1月に訪れた東福寺訪問記で、

塔頭がたくさんあります
これほど多くの塔頭が残っているお寺は京都では少ないのではなかろうか?
大徳寺にも多くの塔頭が残っていますが、現存の塔頭の数は大徳寺の22に対して、東福寺は25だそうな

と書きましたが、いやいや、妙心寺46は飛び抜けています

この中には、石庭で有名な龍安寺(訪問記)も含まれています。
恐らく一般的には、妙心寺より塔頭の龍安寺の方が有名だったりして…
相国寺とその塔頭・金閣寺(鹿苑寺)銀閣寺(慈照寺)との関係みたいですな

大本山妙心寺はこのように多くの塔頭寺院を含めた総称ですが、狭義の妙心寺は、寺域南端のマップで黄緑色に塗られた部分で、勅使門から放生池を挟んで三門仏殿法堂(はっとう)、方丈と一直線に並んでいる部分です。
この配置は、相国寺(二度目の訪問記)には三門と仏殿は残っていませんが、ほぼ同じ

京都には「東福寺の伽藍面(がらんづら)のような「○○寺の○○面」という表現があって、妙心寺は塔頭や末寺(約3,300ヶ寺)などの組織運営の巧みさから「妙心寺の算盤面」と呼ばれているそうな
呼ばれる方はどんな感じなんだろ? 「算盤面」と聞くと「商売第一みたいなイメージが沸くんですけど…

前置きが長くなりましたが、妙心寺の伽藍を拝見
まずはお風呂(浴室)

京都市による説明板によりますと、

浴室(明智風呂) 切妻造瓦葺・重要文化財
天正15年(1587)明智光秀の叔父にあたる塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が創建したものであり、のち明暦2年(1656)に改築されたものである。
天正10年(1852)年、本能寺で主君である織田信長を打、宿怨をはらした光秀は、自刃を覚悟し妙心寺仏殿に礼拝し、次の辞世の句を唱えたとされる。
  順逆不二の門 大道心源に徹す
  五十五年の夢 覚め来たって一元に帰す
この時、密宗和尚は光秀の心中を察し、自刃を誡めたとされるが、その後、武運つたなく山崎の合戦において豊臣秀吉勢に討たれた
死後5年ののち、密宗和尚は光秀の菩提を弔うため、この浴室(蒸風呂)を設け、大勢の僧侶に施浴した。この由縁により、この浴室を別名「明智風呂」ともいう。

だそうです。
光秀辞世の句(五言絶句)について、円覚寺のHPで判りやすく解釈されていますので、ご興味がありましたらご覧ください。

この浴室を創建(寄進)した「密宗紹倹」なる人物を調べてみたのですが、この浴室絡みの情報しかありませんでした。
それなら「明智光秀の叔父」という線から探れないか? と思いましたが、Wikipediaによれば、明智光秀父・母とも「不肖」ですと

う~む…とうなったところで「#3-2」につづきます。

つづき:2025/02/12 今年最初の関西旅行記 #3-2

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