新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年最初の関西旅行記 #2-3

2025-01-31 19:41:59 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-2」のつづきです。

大阪市中央公会堂の見学につづいては、今回の大阪観光のメイン(MISIAのライヴ別格)にしていた大阪市立東洋陶磁美術館です。

この大阪市立東洋陶磁美術館とは? については、館内に掲示された「開館に当たって」に頼りましょう。

当館は、東洋陶磁の宝庫として世界に知られた「安宅コレクション」を、住友グループから寄贈を受けたことを記念し、それを収蔵・展示するため、1982年11月、大阪市が設立したものである。
コレクションは、中国陶磁144件、韓国陶磁793件、その他28件、合計965件、総数約1,000点よりなる。中国陶磁は、後漢時代から時代に至る各時代の代表的作品を選りすぐり、世界で最も質の高いコレクションの一つに数えられる。韓国陶磁は、高麗時代と朝鮮時代の作品を編年別・技法別に系統的に集め、世界第一級の質と量を誇っている。

この「安宅コレクション」は、かつて10大商社の一つと言われた安宅産業の二代目・安宅栄一氏が収集したもの、というか、Wikipediaによれば「英一が安宅産業で美術品部を作って購入したもの」とな

安宅産業経営破綻し、1977年伊藤忠商事に吸収合併されて現在に至るのですが、なぜに安宅コレクション住友グループから大阪市に寄贈された? となりますな
簡単に書けば、危機に瀕した安宅産業の救済策として、メインバンクの住友銀行と協和銀行伊藤忠商事との合併案を持ち出し、「この事業はいらない」「いいとこ取りするな」とすったもんだの末、伊藤忠商事は安宅産業(の使える部分)を吸収合併する一方、銀行は住友・協和以外の取引行も含めて不良債権を償却。その残り物として資産管理会社の一時的な所有とされたものの一つが「安宅コレクション」だったわけですが、この体系だったコレクション散逸(=ばら売り)を防ぐよう、文化庁ほか多方面から要望が寄せられたのだそうな。そこで、住友銀行の音頭の下、住友グループ21社が、大阪市の文化振興基金に152億円を寄付し、大阪市はその資金で「安宅コレクション」を資産管理会社から買い取ったという次第。

なお、安宅産業の破綻をドキュメント・ノベルにしたのが、松本清張「空の城」で、私も読みました(別邸にある)。
また、これを原作としたNHKドラマ「ザ・商社」も視ました もう45年も前のことですが、いまだに頭の片隅に焼き付いている作品です。

【追記】別邸の本棚から「空の城」を探し出してきました。帰省中に読み終えるぞ (2025/03/06 21:19) 

   

さて、大阪市立東洋陶磁美術館の展示の冒頭ロビーに鎮座していたのは、なんとなんと、「安宅コレクション」の目玉ともいうべき国宝「油滴天目茶碗」でした

国宝 油滴天目茶碗 
南宋時代・12-13世紀/建窯 高 7.5cm、口径 12.2cm
宋代に流行した点茶法による喫茶文化では、最高級の茶白色とされたことから、色映りのよい黒い茶碗が歓迎され、なかでも建窯黒釉茶碗は皇帝をはじめ宮廷内でも評判となった。そうした中国の喫茶文化とともに日本でも鎌倉時代以降に多くの黒釉茶碗がもたらされ、後に「天目(天目茶碗)」と呼ばれるようになった。南宋時代の建窯曜変天目油滴天目はすでに室町時代に高く評価され、伝世の名品はいずれも日本にあり、国宝や重要文化財に指定されている。
本作は国宝に指定されている伝世の油滴天目最高傑作である。その名の由来とされる茶碗の内外の黒窯にびっしりと生じた油の滴(しずく)のような銀の斑文に、青色や金色など虹色に輝く光彩(虹彩)が加わり幻想的な美しさを見せている。口縁には日本製と考えられる純度の高い金の覆輪がはめられ、一層豪華さを増している。重さ349g、手に持つと心地良い重みが伝わる。かつて関白・豊臣秀次(1568-1595)が所持し、のちに西本願寺京都三井家若狭酒井家に伝来した。なお、南宋時代の天目台3点が付属している。

角度を変えてもう一枚

この説明に「南宋時代の建窯の曜変天目や油滴天目はすでに室町時代に高く評価され、伝世の名品はいずれも日本にありとありますが、館内に日本人よりも多くいた中国系とおぼしき観客はどう感じたんでしょ。
天目茶碗の名品が日本に集まっているのは、日本人が中国から名品ぶんどってきたわけではなく中国でのお茶の飲み方が変わり「天目茶碗は時代遅れの遺物という扱いだったからなのだそうです。
以前、中共国に出張したとき、蓋が付属したマグカップのような容器にお茶っ葉を入れ、それにお湯を注いで、その上澄みを飲むのが一般的だったのには驚きました(たまに茶葉が口に入る)。そして、お替わりは、お湯を追加するだけという…。瀋陽の茶藝館とかいうところで、急須で淹れたお茶を飲んだこともありましたが、これは「台湾式」だと聞きました。
お茶そのものや飲み方が変われば茶器も変わるのは道理ですな

ところで、美術館や博物館で展示されている陶磁器は、転倒・破損防止のため、テグスで固定されているのが普通ですが、大阪市立東洋陶磁美術館ではそうした措置を講じず、単純に展示台に置いているだけ(のように見えます)です。
地震が起こったらどうする?????
と思ったら、説明がありました。

展示ケース内に設置している斜面台は、地震のゆれに反応して内部の免震装置が繊細に作動する免震台です。作品をのせている敷板部分が前後左右に動き、地震のゆれと衝撃を吸収して作品を守ります。作品の安全を保つだけでなく、テグス等で固定する必要がないため鑑賞のさまたげにもならない当館のオリジナル仕様です。

ほぉ~~、さすがは陶磁器の専門美術館です

油滴天目茶碗をしげしげと鑑賞したあと、振り返ると、なにかいます

なんだろ? と説明板を見ると、

  鳩型土器 朝鮮・三国時代 (4-6世紀)

とな。
4-6世紀といえば、日本は古墳時代で、盛んに埴輪が造られていた頃ですな。
アップしてみます。

確かに
体に印刻された模様(○に・)の意味が判らないけれど…

それにしてもこの展示の仕方

「鳩型土器」を細部まで観ることはできないけれど、遊び心があってよろしいと思います

   

いま、大阪市立東洋陶磁美術館では、上海博物館(行ったことがあります)とのコラボレーションで特別展「中国陶磁・至宝の饗艶」が開催中です。

なんですが、前半は大阪市立東洋陶磁美術館のコレクション展です。
その最初は、「翠色幽玄」と題する韓国の青磁の展示。

高麗の人々はみずからの青磁「翠色」と称し、ヒスイのごとき輝きをたたえ、時に金銀器皿よりも尊んだ。白と黒の土によって文様を表す象嵌青磁は高麗で独自に発展した表現技法である。なかでも天空に舞う雲鶴文は繊細な深い神秘性とともに、高麗の人々が求めた自然との調和や心の安らぎを感じさせる。青磁の技術は中国から伝わったが、高麗が育んだ高麗青磁は本場中国でも「天下第一」と高く評価されるまでに至った。
静けさと瑞々しさを見せる「翠色」には幽玄の美が宿る。

だそうです。
私、「書」「茶道」系ほどではありませんが、陶磁苦手(疎い)のですが、青磁にはそこはかとない魅力を感じていましたし、この説明もなんとなく理解できる気がします。
説明に出てくる「象嵌青磁の雲鶴文」の作品は、別室の「李秉昌(イ・ビョンチャン)コレクション」の中にありました。

青磁象嵌 雲鶴文 椀  高麗時代・12世紀
器壁が直線的に広がり、北宋の定窯などにしばしば見られる形状である。内側に三羽の鶴と霊芝雲が施され、灰青緑の釉色が鶴と白雲を包み込む。静寂な本作は雲鶴文腕の中で最も美しく、象嵌技法の頂点と言える。

好きな人にとっては、この「灰青緑」色たまらないんだろうな…
でも、私は「青磁らしい青磁」の方が好みです
例えば安宅コレクションの「青磁 瓶」とか、

「青磁陽刻 菊花文 腕」とか…。

そして、そして、この「青磁陽刻 蓮唐草文 壺」も…

この作品とか「青磁陽刻 菊花文 腕」とかは、貫入(細かいヒビ)がまた美しい

なんともキリがありませんので、ここで一息入れて、「#2-4」につづきます。
諸般の事情、有り体に言えば、明日から「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」横浜 2 daysですので、数日空くことになると思います。

つづき:2025/02/04 今年最初の関西旅行記 #2-4

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今年最初の関西旅行記 #2-2

2025-01-30 18:12:31 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-1」のつづきも大阪市中央公会堂から。

東口出入口に掲げられた銘板のフォントが実によろしい
まさしく「大正浪漫」です
大正15(1926)年竣工の旧札幌控訴院(札幌市資料館)の玄関ポーチに掲げられたものと雰囲気が似てる気がします。

大阪市中央公会堂の建物は、正面からの眺めも良いけれど、この角度からもイイ

とても華やかで、宮殿みたいにも見えます。

大阪市中央公会堂の建設にあたっては、当時珍しかった設計コンペが行われ、1等には 28 or 29歳だった岡田信一郎の案が選ばれ、この原案をもとに、辰野金吾建築顧問に、公会堂設計事務所が設計したのだとか。
なお、岡田信一郎は、このコンペでの勝利をスプリングボードに、若くして48歳で亡くなるまでの20年間で、旧鳩山一郎邸(現鳩山会館朝ドラ「虎に翼」では桜川男爵邸として登場)、旧歌舞伎座(三代目)、黒田記念館旧博報堂本社ビル、そして、終戦後にGHQが本拠地としたことで有名な明治生命館など、蒼々たる作品群を残しています。

一方、私が「やはり辰野金吾と思ったのは、煉瓦の目地東京駅丸の内駅舎でも採用されている「覆輪目地」だったことでした。

辰野金吾の代表作、東京駅丸の内駅舎(1914)も、大阪市中央公会堂(1918)と同様に、鉄骨煉瓦造りで、外壁に貼られた化粧煉瓦には覆輪目地が施されています。

   

大阪市中央公会堂の地下には展示室があって、無料で観ることができました。

「大恩人」岩本栄之助さんの胸像があるのは当然としても、なぜか渋沢栄一に関する資料も多い。なぜかと思ったら、岩本さんの略歴の中に、

栄之助は、1906(明治39)年、父・栄蔵の営む株式仲買業を継ぎ、1907年の株式相場の高騰などで大きな利益を上げました。1909年渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカの進んだ産業・文化を視察。渡米中、父の訃報に接した栄之助は、欧米の富豪が公共事業や慈善事業に熱心であることに共感して、帰国度株式相場で得た利益の寄付に動き始めました

とありました。
そして、帰国後、東京や大阪で何度か渋沢と面会し、寄付の実施やその使途(結果は公会堂建設)などをなどを相談、さらに、大阪の政財界の有力者を招いた委員会を開催(渋沢も参加)し、公会堂建設案を示したのだとか。
そんな縁もあり、渋沢は定礎式に参加し、「定礎」の文字を揮毫したんですな。

私、この説明パネルの下に書かれていた

※定礎石は、東正面玄関に向かって左側(南側)のスロープから見ることができます。

をよく読んでおりませんで、定礎石を見逃しました
遠目からのこんな写真しかありませぬ

「渡米実業団」といえば、雑誌「東京人」2010年4月号(特集:美術館をつくった富豪たち)に載っている高階秀爾さんと鹿島茂さんとの対談で、鹿島さんは、渡米実業団の一員だった根津嘉一郎についてこんな発言をしています。

この人(根津)は、初期はひじょうに評判の悪い人だった。ぼろ買いの根津と言われるほどで、とにかく、クズみたいになった会社を買い叩いて再興させることでお金持ちになった人。しかし、渋沢とアメリカに行って、カーネギーワナメーカーといった人々の社会福祉活動を見て、それまで会社と金にしか興味のなかった根津の目が開く。それから、いろいろな社会貢献やコレクションをやったみたいですね。

岩本さんも根津さんも、他人に諭されたり教えられたりすることなく、アメリカの富豪の社会活動目の当たりにすることで「目を開いた」んですな。
既に実業界を引退した渋沢さんがそういう機会を提供したというのが、わたし的に響きます

さて、大阪市中央公会堂が建てられる前(1912年頃)の中之島の写真もありました。2枚の写真をパノラマ風に繋げましたので、ちょっと不自然な写真になってしまいましたが…

真ん中が、現在、大阪市中央公会堂が立っている場所で、それまでは豊国神社があったんだ
一番左が左右翼を増築する前大阪府立図書館、その右、豊国神社との間にあるのが旧公会堂(新公会堂開設に伴い天王寺公園内に移設:現存せず)だとか。大阪府立中之島図書館と大阪中央公会堂との間にこんなにスペースがあったかな?
で、豊国神社の右側、現在、広場と大阪市立東洋陶磁美術館になっている場所に立っているのが大阪ホテル、そのまた右にちらりと写っているのは大阪銀行集会所(大阪銀行協会の前身)だそうな。

現在、大阪府立中之島図書館の左(西側)には大阪市役所(4代目)がど~んと立っていますが、上の写真が撮影されたころは公園だったそうで、1921年5月に竣工した先代(3代目)の市役所の写真がありました。

なかなか威圧感のある建物です
どことなく台湾の総統府(旧台湾総督府)と似た雰囲気だな、と思ったら、設計原案台湾総督府の技師・小川陽吉さん(実施設計は片岡安)ですと

市役所の裏図書館との間にある緑地は、大阪市中央公会堂に追い出された形になった豊国神社で、その後、市庁舎の増築に際して、1961年1月、現在の大阪城二の丸に移転した由。太閤さんを祀る神社なのに、なんだか不憫

さらに、この展示室でもっとも私がときめいたのが、

「大大阪(だいおおさか)時代を彩った近代建築」という展示で、大阪市中心部に現存する日銀大阪支店(1903年)から大阪証券取引所ビル(1935年)まで20棟の一覧と、

各建物の説明パネル

さらには各建物の所在地を示した地図まで

これ、リーフレットにしてもらえないものでしょうか
有料だったとしても、私は欲しい
とりあえず、次回以降、大阪に行くときは、この近代建築マップを印刷して持って行くことにします

とまぁ、こんなところで展示室の見学を終え、最後にちょっと離れたところから大阪市中央公会堂の正面を撮影しました。

建物のてっぺんに何やらあります。
拡大しますと、こんな像が乗っていました。

これは、

ギリシャ・ローマ神話の、商いの神「メルクリウス」科学工業平和等の神「ミネルヴァ」をかたどったもの。第2次世界大戦の金属供出で失われましたが、保存・再生工事の際復元されました。

だそうで(確かに左のメルクリウス商業系の学校の校章で良く見る 2匹の蛇がからんだ翼付きっぽい杖を持っている)、こんな取り外しが大変そうなものまで金属供出の対象になったのかというのも驚きだし、この2神が定位置に再設置されたのが終戦から43年も経った2002年8月だったというのも驚きでした。

こうして、いつか大会議室(ホール)集会室中に入ってみたいものだ と思いながら、大阪市中央公会堂の見学を終えました。

つづき:2025/01/31 今年最初の関西旅行記 #2-3

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今年最初の関西旅行記 #2-1

2025-01-29 18:00:53 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #1」のつづき、旅行2日目(1月26日)のお話です。

この日は朝から良い天気で、

と、暢気にこんなポストを上げたりしていたのですが、まさか私がその大阪国際女子マラソン影響を蒙ることになろうとは、つゆにも思いませんでした。

なぜかMISIAの大阪公演は、大阪国際女子マラソンと同じ日に開催されることが多くて、調べたところ、2005年、2007年、2008年、2010年、2012年、2014年、2017年、2020年、そして今年と、同日開催はこれがなんと9回目
このうち何度か、私はMISIAのライヴに参加したのですが、ランナーを遠目から見たことはあっても、影響を蒙ったことはありませんでしたので、高をくくっていました
まぁ、この話はまた後ほど…。

   

さて、大阪2日目は、15:00頃大阪城ホールに着くことを絶対条件にして、それまで大阪観光を楽しむことにしていました。
そして、観光のメインに据えたのが、まだ行ったことのない大阪市立東洋陶磁美術館でした。それほど陶磁器に興味を持っているわけではありませんが、世に聞く「安宅コレクション」を拝見してみたかったのです。
その後の行動は「足の向くまま気の向くまま」ということで、新大阪駅から御堂筋線に乗って行動を開始しました。

淀屋橋駅から地上に出て、土佐堀川に架かる淀屋橋を渡ると、中之島

この辺りを夜に散歩したことがありまして(記事)淀屋橋自体とか、日銀大阪支店とか大阪市中央公会堂とかのライトアップかなり楽しんだのですが、この日は青空のもと、楽しませていただきました。

御堂筋を挟んで大阪市役所と相対しているのが、日銀大阪支店です。

「陰気だと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、辰野金吾さんらしい威風堂々とした建物です。

大阪市役所の横、「みおつくしプロムナード」を東に進むと、市役所の陰に隠れるように佇んでいたのが、これまた威風堂々の建物

建物横のガラスケース内に貼られた大阪府教育委員会による説明文を転記しますと、

重要文化財 大阪府立中之島図書館
        本館左右翼 3棟
この建物は、住友吉左衛門が図書館として本府に寄付されたもので、住友本店技師長野口孫市氏及び技師日高胖(ゆたか)氏の設計監督のもとに明治33(1900)年に着工、同37(1904)年1月に竣工したものである。
建物は、煉瓦及び石造3階建てで中央に円屋根を付けた十字型平面の本館左右翼(大正11(1922)年増築)からなっている。
外観では高い4本の柱の列立する正面ポーチとその後方に挙げられた円屋根が意匠の要であり、内部では、半球形のドームを頂く円形ホールがもっとも特徴的である。全体としてネオ・バロック様式の傾向が見られるが、これをよく消化して独自の造形美を形成しており明治時代の日本人建築家による極めて水準の高い作品である。

と、「作品」と言い切っているのが、ある意味凄い

中に入れるのかな? と思っていたら、一般人にしか見えない人が正面玄関から出てきたので、これ幸いと、さっそく私も中に入ってみました。

おぉ、優雅階段
そして、上を見上げると、

ステンドグラスが鮮やかな円天井です

そして、廊下もなかなかです
なんといっても色づかいイイ
今は普通の蛍光灯(LED灯具?)がぶら下がっていますが、昔はもっと魅惑的な灯具を使っていたんだろな…。

この本館1階には、この建物に関連するパネル展示がありました。
外の説明書きを読んだ時、住友吉左衛門住友家の当主が代々名乗る名前だから、個人を特定できないよな 恐らくあの方だろうけれど…」と思っていたのですが、館内のパネルには、

大阪府知事菊池侃二が府の教育10カ年計画の中で図書館新設を提案したのは明治32(1899)年のことであった。
それを知った住友家15代当主住友吉左衛門友純氏は、明治33年2月、独力で図書館建設費15万円図書購入基金5万円大阪府に寄附することを申し出た。(中略) 明治37年2月25日開館式典が挙行され、3月1日名前も「大阪図書館」として一般公開された。その後明治39(1906)年大阪府立図書館と改称し、現在の中之島図書館となったのは昭和49(1974)年のことである。
開館後、図書館の閲覧者は日に日に増加し、住友吉左衛門氏は、大正6(1917)年12月、再び寄附を願い出左右両翼棟が増築された。設計は技師長日高胖氏が担当し、大正11(1922)年10月21日増築が完成しほぼ今日の図書館の姿となった。

住友吉左衛門さんとは、やはりこの方、住友家15代当主住友吉左衛門友純(ともいと)さんのことだったんだ
住友友純(春翠)さんのことはこちらの記事でさんざっぱら書きましたので、省略させていただきます

大阪府立中之島図書館は観光スポットとして予定していなかったのですが、しっかりと良い建物を見ることができて、幸先良い大阪観光です

   

大阪府立中之島図書館東隣りは、以前、ライトアップを存分に楽しませていただいた美しい建物大阪市中央公会堂です。

大阪市中央公会堂(南西から)

煉瓦造り全般に好きな私ですが、この建物は、大のお気に入りの建物の一つです。

この建物も大阪府立中之島図書館と同じく、民間人の寄付をもとに建てられたもので、建設費100万円を寄付したのは、北浜の相場師・岩本栄之助さん。
岩本さんは、この建物が竣工する前に、相場で失敗して自殺してしまったのですが、そのあたりの話は、こちらの記事大阪市中央公会堂のHPから長々と引用しましたので省略いたします。

代わりに(?)、外にあった大阪市教育委員会による説明板から、建築様式に関するテクニカルターム満載の説明を転記しましょう

建築様式は、当初記述に「復興式中の準パラディヤン式」とあり、ネオ・ルネッサンス様式を基調としたものと解される。
外観は左右対称を基本にコーニス片蓋柱ペディメント付き開口部等による厳格な構成と、正面の壮大な半円アーチジャイアントオーダーなどのバロック的な壮麗さをあわせ持ち、柱頭飾りを幾何学図形化するなど細部にはセセッション様式の浸透も見られる。
外壁表面は地階部分が花崗岩積、地上階は、化粧煉瓦小口貼りに、腰の帯石と窓廻りを花崗岩、蛇腹と片蓋柱、パラペット廻りを擬石モルタル洗い出しとし、屋根は銅板葺きで一部を天然スレート葺き、側面と四隅に屋根窓を配す。平面規模は、間口43.6m、奥行き61.8mで、建築面積2164.17㎡、鉄骨煉瓦造、地上3階、地下1階建。耐震性能強化のため基礎下の新たな構造体と上部構造の補強によって免震レトロフィットを実施。
主要室の構成は、1・2階/大会議室(ホール)。3階/中・小集会室・特別室、地階/会議室(展示室)・レストラン

一生懸命にネットで調べながらテクニカルタームにリンクを貼ったんですが、判ったような判らないような

これだけでも私の頭がオーバーフローしそうなのに、大阪市中央公会堂のために岩本さんが寄付したのが100万円(1911年)で、大阪府立中之島図書館のために住友さんが寄付したのが15万円(1900年)というのが引っ掛かって、なんともなりません
大阪府立中之島図書館の設計者が住友本社の社員だったことを考えれば、寄付額に含まれない住友からの持ち出しがあったのでしょうけれど、金額の差が大きすぎると思うのです。

難しい文章を転記し、また、金銭に関するややこしいことを考えて、頭が疲れしまいましたので「#2-1」はここまでにします。
「#2-2」は、大阪市中央公会堂探訪記のつづきから再開します。

つづき:2025/01/30 今年最初の関西旅行記 #2-2

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今年最初の関西旅行記 #1

2025-01-29 11:26:59 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #0 & M」のつづき、旅行初日(1月25日)のあれやこれや(MISIAのライヴを除く)です。

月初めの愛知遠征のときより、約1時間遅東海道新幹線なので、朝食を自宅で済ませた上で、大阪に向けて出発しました。

関東圏~静岡県中部はちょっと曇っていて富士山雲の中だったのですが、浜松辺りからは良い天気で、浜名湖が青く輝いていました

そして、なんだか好きな伊吹山ど~ん

伊吹山

今回の新幹線への乗車で楽しみにしていたのは、去年11月放送のNHK「ブラタモリ:東海道“五十七次”の旅▼第一夜 京都・三条大橋から伏見へ」で言っていた『まもなく京都です』のアナウンスが流れるあたりが山科本願寺のあった場所です」を確認すること。
早くも浄土真宗開祖の親鸞上人ゆかりの地でもある比叡山が見える辺りからソワソワして、その時を待ちました。

そして、来たぁ~

知らなきゃ何のへんてつもない車窓の風景ですな
堀や土塁が残っていると聞きますので(ご参考)、いつかはこの辺りを歩いてみたいものです

   

私が乗った新幹線は、名古屋駅での小トラブルの影響で、定刻から5分ほど遅れて終点の新大阪駅に到着しました。

私が大阪遠征するときは、新大阪駅前の某ホテルに泊まることが多い傾向にあります。このホテルは駅から近いし、値段が手頃だし、喫煙可の部屋もとれるし、朝食がなかなかなのです。加えて、チェックインタイムが14:00と早いことも魅力です。
このため、13:00頃に新大阪駅に着く新幹線に乗り、新大阪駅の駅ナカでやや遅めの昼食を摂り、ホテルに向かう…というパターンが多く、今回もこれを踏襲しました。
昼食は、これまた何度目かの串かつ屋さん。

串かつを食すとなれば、昼であろうと、やはりビールが欲しい

「おきまり」に 3本追加して、満足

だったのですが、14:00にはまだ余裕がありました。
そこで、同じフロアにあった「喫茶店」に入り、バニラアイスをいただきました。
串かつ屋さんもそうでしたが、この喫茶店も「全席喫煙可」
入店したとき、店員さんから「全席喫煙可ですがよろしいですか?」の親切なひとことがありましたが、首都圏ではほとんど見られなくなったこういう店が、大阪ではまだまだあるんですな

あ、バニラアイス美味しかったです。

そして、ホテルチェックイン
驚いたことに、ホテルのフロント前には、10人ほどのチェックイン待ちの行列ができていました こんなのは初めてです
そして、床には、チェックイン前 or チェックアウト後のお客さんの大型バッグがズラリと並んでいます
相変わらずインバウンド客が多いのでしょうねぇ
商売繁盛御同慶の至り

で、部屋に入り、カーテンを開けると、

おぉ 大阪名物(?)の梅田スカイビルも見えて、お・お・さ・かぁ~ です。

考えてみると、何度も泊まったこのホテルで、南向きの部屋に泊まるのは初めてです。エレベーターまで遠いのはなんですけど…

さて、PC をセットして(マウスの無線接続端子が無い と一瞬焦ったものの、このマウスはBluetooth接続でした)、一服して…とくつろぐうちに、気がつけば出発予定時刻の14:30をとうに過ぎていました
トートバッグの中を整理(出:デジカメ 入:ペンライト)すると、大阪城ホールに向けて出発しました。

この日なく大阪城ホールまで行けましたが…

   

「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」大阪公演初日を至福の中で堪能したあとは、ミー友さんたち飲み会

ライヴ18:30前に終わるというのは、その後でのんびりできてイイ
直帰の遠征組にも優しいし…。

飲み会終了後は京橋駅まで歩いたのですが、かなり寒かった

「京橋駅」で思い出しましたが、地名の読み方(アクセント)は、地域によって違うので、「居住地詐称」はすぐにバレます
「京橋」の場合、東京の京橋平坦に発声しますが、大阪の京橋「京」にアクセントが付きます。
名古屋に行った時も、名鉄の車内アナウンスでは。清水駅森下駅平坦に発声されていて、関東での一般的な読み方(清水は「し」、森下は「り」にアクセントが付く)と違うんだと思いましたっけ…

それはともかく、京橋駅から大阪環状線に乗り、来た道を返して、ホテルに戻りました。

考えてみると、この日は、自宅を出発して以降、一度もTVのスイッチを入れませんでした
Y1000のCMMISIAが言っている「モニターを見ない時間をつくる」までは行きませんでしたが(PCのモニターは視た)、静寂の中でこの日のライヴを振り返るのは乙なものです。

いつものことながら、この夜も、ライヴ興奮をひきずって、寝付けませんでした
とはいえ、「眠れないと焦ることはありませんでした。翌朝に早起きしなければならない理由はありませんから…。

こうして「眠れぬ夜はMISIAのせい」状態で大阪旅行の初日を終えたのでした。

つづき:今年最初の関西旅行記 #2-1

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今年最初の関西旅行記 #0 & M

2025-01-28 13:28:39 | MISIA/旅行記

1月25日(土)~27日(月)の2泊3日で、「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」大阪公演に絡めた関西旅行に行ってきました。

まずは、愛知遠征記にならい、「#0 & M」として、3日間の行程と、MISIAのライヴ 2 daysのことから書き始めます。

3日間の行程は以下のとおり。

【初日:1月25日(土)】ライヴと飲み会の日
自宅⇒徒歩最寄り駅埼京線赤羽駅上野東京ライン東京駅東海道新幹線新大阪駅駅ナカで昼食⇒徒歩ホテル(チェックイン)⇒徒歩新大阪駅JR京都線大阪駅大阪環状線大阪城公園駅⇒徒歩大阪城ホール(THE TOUR OF MISIA 2025)⇒徒歩飲み会⇒徒歩京橋駅大阪環状線大阪駅JR京都線新大阪駅⇒徒歩ホテル

【2日目:1月26日(日)】ライヴと大阪観光の日
ホテル⇒徒歩新大阪駅御堂筋線淀屋橋駅⇒徒歩大阪府立中之島図書館大阪市中央公会堂大阪市立東洋陶磁美術館⇒徒歩大阪取引所北浜駅⇒堺筋線恵美須町駅⇒徒歩新世界⇒徒歩新今宮駅大阪環状線森ノ宮駅⇒徒歩(迂回しまくり)大阪城ホール(THE TOUR OF MISIA 2025)⇒徒歩大阪城公園駅大阪環状線大阪駅JR京都線新大阪駅駅ナカで夕食⇒徒歩ホテル

【3日目:1月27日(月)】
京都観光の日

ホテル⇒徒歩新大阪駅JR京都線京都駅改札外コインロッカー京都駅嵯峨野線花園駅⇒徒歩妙心寺⇒徒歩妙心寺駅嵐電北野線帷子ノ辻駅嵐電嵐山本線西院駅⇒徒歩西院駅⇒阪急京都線京都河原町駅⇒徒歩新京極錦市場昼食⇒徒歩四条駅烏丸線京都駅東海道新幹線東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線最寄り駅⇒徒歩自宅

   

ここからは「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」大阪 2 daysのこと。

私がこのツアーに参加する(観る)のは愛知(常滑)での初日公演以来でした。
初日公演では、こちらに書いたように、

本編だってぜんぜん悪くない(っつうか、素晴らしいMISIAのボーカルとバックの皆さん)のだけれど、古くからのサポーターが抱く「THE TOUR OF MISIA」とは違う感じ…

違和感を覚えました。
その後、愛知の2日目、福井 2 daysと、いろいろ変わって「THE TOUR OF MISIA」らしくなったらしいと漏れ聞いておりましたが…

で、MISIAが歌った曲は、たった1~2曲の入れ替えだったというのに、曲順(というか数曲からなるユニット)を入れ替えメンバーをちょいと替えた(増やした)ことで、1本のライヴとして劇的に変貌していました
これぞまさしく「THE TOUR OF MISIA」です

愛知での初日から大阪2日目までセットリストを、例によって「見たい人だけ見られる」ように載せましょう。画像をクリック/タップすると、セットリストをご覧いただけます。

「たった1~2曲の入れ替え」なのに、なんとも縦長なリストになってしまいました。もちろん、MISIAが40曲以上も歌ったはずもなく、これこそ「数曲からなるユニット」を入れ替えた結果です。

大阪 2 daysまでで、なんとなくセットリストが落ち着きつつある感じがしますな

それにしても初日なんだったんでしょ
「数曲からなるユニット」をそれぞれポストイットに書いて、それを並べ替えながらライヴの構成を練るつもりが、書いた順番に並べておいたヤツがそのまま本番になってしまった、とか???
いまにして振り返れば、それほど制作者の意図が感じられないセットリストだったと思います

ここで例によって私がピックアップして「X」にポストした「MISIAのおことば」です。

まず初日が、

どうもMISIA昨年のNHK紅白歌合戦紅組が負けたことがよほど悔しかったようです。
MISIAは大トリでもあったけれど、紅組のトリ」という責任感みたいなものが悔しさを長引かせているんじゃなかろうか

そして2日目が、

MISIAのボーカルは、デビュー当時から傑出していたのに今でも進化を続けて、まさに限界知らずなんですが、MISIAのMC(おしゃべり)は、かつてはやきもきするほどたどたどしかったのに今ではなんとも滑らかに次から次へとネタが出てきてボーカルの進化を越える成長っぷりです。
初日は、金曜日になんばグランド花月で観てきたという「やすとも」さんの漫才の話を、ネタの紹介まで含めて熱弁を奮ったMISIAでしたが、2日目は「やすとも」さんの話題は短縮版にして、「ジャグラーのビンビンさんも面白かったとのこと。
場内からはすかさずバンバンビガロだよツッコミが入っていました MISIAらしさ全開ですな

今回のツアーでも、バックバンド/コーラスが素晴らしくて、とくに某曲の「長すぎるアウトロ」というかインストルメンタル曲は、Jazzyで最高 大のお気に入りです

私だけかもしれませんが、最初の曲が始まってダンサーさんたちが出てくると、どうしても映画「翔んで埼玉」の冒頭を思い出してしまって…

と、ネタバレを極力抑えてライヴのことを書くのは大変です
今週末には横浜公演があって、来週、またブログに「THE TOUR OF MISIA 2025」のことを書くのだろうと考えると、書きたいことを小出しにしといた方が良いのだろうな…

ということで、#1以降は、MISIA以外のことを書きますのであしからず。

【追記】NHK「うたコン」こっちのけんとさんが出ているのを見て思い出しました。MISIA曰く紅白歌合戦で他の出演者の方々と一緒にギリギリダンスを踊りたかったのだけれど、自分の出番「歌って踊ろう! KIDS SHOW」がすぐだったのであきらめました」だそうです (2025/01/28 20:08) 

つづき:2025/01/29 今年最初の関西旅行記 #1

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蜂窩織炎のおかげで肝機能が改善?

2025-01-23 11:06:37 | 日記・エッセイ・コラム

きのう、先月受診した健康診断の結果を受け取ってきました。
受診したのは、蜂窩織炎真っ只中だった12月18日(ブログに「体調不良につき #4」をアップした2日後)だったので、その影響で酷い結果が出るのかな? と思っていたところ、なんとなんと近年稀良好な結果が出ました
要注意マークが付いているのは、いつもの腹囲BMI、そして「白血球数」の3項目だけでした
「白血球数」は、基準値の「33~85」に対して「106」と高めでしたが、これは蜂窩織炎の影響かと推察されます。
また、かつては要注意マークが常連だった「尿酸」(基準値:2.0~7.0)は、現在、薬を処方していただいていることもあってか、2年前:9.3⇒1年前:6.4⇒今回:4.4と、かなり良い傾向を維持できました

今回の健診結果で目を惹いたのは、何年も前からいつも要注意マークが付けられている中性脂肪肝機能劇的な改善を見せてくれたことです
今回の検査結果から「血中脂質」と「肝機能」だけを抜き出して、過去2年の結果と比較しますと、こんな具合です。

凄くないですか?

どうしてこんなに中性脂肪減少し、肝機能改善したんでしょ

素人ながら私が思うのは、11月半ば蜂窩織炎を発症してから、それまで毎日数缶は飲んでいたビールを、ほとんど飲まなくなったからではないかと…。
服用するが、これまでの血圧降圧剤に蜂窩織炎対応の抗菌剤などが加わって種類が増えたことから、肝臓に負担をかけたくない、という思いもありましたが、それよりも、ビールを飲んでも美味くないので、自然、禁酒・節酒(1日1缶も飲めない)を続けていました。
先週辺りからビール美味く飲めるようになりつつあるのですが、この健診結果を見ると、やはり休肝日を設けて節酒するべきなのだろうなと思っています

   

今回も腹囲BMIには要注意マークをつけられてしまいましたが、受診結果の「メタボリックシンドローム判定」では、昨年・一昨年「基準該当」から、今回は「予備群」と判定が変わり、かつ、

「メタボリックシンドロームには該当しません」というありがたいお墨付き(チラシ)をいただきました

仕事を辞めて以降、肥大化の一途を辿っていた腹回りが、最近、ちょっとスリムになったかな? と思っていたところ、これはうれしい

摂生を続けたいと心に誓っております

   

ところで、蜂窩織炎の方はまだ治っていません

痛みや腫れはなくなったものの、患部は相変わらずグロいまま

先週金曜日の通院では、大きなかさぶたを剥がしていただき(自分じゃできない)、薬も変わって新たな段階に入りました。
次の診察日の来週金曜日までにどこまで改善するんだろな

今回処方された薬の一つは、1日1回、患部にスプレーするものがありまして、「血管新生を促す作用や皮膚組織や皮膚の損傷部位に新しい組織を作る作用などをもつ」というこの薬(有効期間は2週間)がなかなか高価 (薬価は7390.4円らしい)
いつも1000円未満で済んでいた薬代が、今回は3000円近くえっ となりました。
高価なんだから、しっかりと効いてくれるよね

なお入浴は、「雑菌が入る恐れがある」として禁止され続けています

入浴が解禁されたら、首まで湯舟に浸かって入浴を満喫するぞと、その日が来るのを楽しみにしています

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-7 [完結編]

2025-01-21 16:46:22 | 旅行記

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-6」のつづき、いよいよ完結編です。

私が大曽根駅からJR中央線に乗って向かったのは鶴舞駅でした。
 NHK 朝ドラ「虎に翼」で、名古屋市市政資料館と共に何度も登場した鶴舞公園にも行ってみようという次第です。

大曽根駅から鶴舞駅までは2駅、6分と、電車に乗ってしまえば速い

そうそう、JR車内アナウンス違和感を覚えた点がありました。
それは、「次は○○駅です。○○線と地下鉄線はお乗り換えです」と、なぜか地下鉄路線名を省略しているのです。
乗り慣れている人には何の支障も無いでしょうけれど、旅行者にとっては不親切に感じられました

で、鶴舞駅に着き、「駅直結」といっても良い鶴舞公園へ。

案内図を見ると、基本的に洋風ながら日本庭園っぽい部分もあって、どことなく日比谷公園と似た感じ

鶴舞公園のHPによると、

鶴舞公園は、明治42(1909)年11月19日に名古屋市が設置した最初の公園で、近世フランス式の洋風庭園回遊式の日本庭園とを合わせもつ和洋折衷の大公園です。
サクラ、バラ、ハナショウブなどの花の名所として、また、緑豊かな憩いの場、スポーツ・レクリエーションの場として市民の皆様に親しまれています。

だそうです。

朝は曇っていた名古屋ですが、気がつけば青空が広がっています
これはMISIAパワーなのでしょうか? (私は行かなかったけれど、この日も Aichi Sky ExpoMISIAのライヴがあった)

さてさて、あの噴水塔を見ます

「虎に翼」では、鶴舞公園は日比谷公園に見立てられていましたが、奥に見える「名古屋市公会堂」は、見立てた法曹会館に比べると格段に大きい
日比谷公会堂に見立ててもいいくらいです というのは言い過ぎか…

もそっと噴水塔に近づきましょう。

なかなか珍しい形をした噴水塔です

説明板によると、

明治43(1910)年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開かれました。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であり、以来、鶴舞公園のシンボルになっています。設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱岩組みという和洋折衷式です。地下鉄3号線(鶴舞線)工事のため一時撤去されましたが、昭和52(1977)年に復元されました。昭和61(1986)年に市指定文化財に指定されました。

だそうです。
「共進会」というのは「博覧会」みたいなものらしい。

で、再び登場しました、設計担当の鈴木禎次さん
「#2-2」で紹介した「いとう呉服店」の設計を担当された方です。

更に噴水塔に近寄って土台を拝見。

なかなかワイルドな石組みですなぁ。

「虎に翼」の第1回では、終戦後、トラちゃんが法曹会館に間借り中の司法省就活するシーンで、この噴水塔の最上部が壊れ、石段の下に転げ落ちていました。
もちろん、あれはCGだったわけですが、それにしても、良くできたシーンだったなぁ

法曹会館に見立てられた名古屋市公会堂の前は、この日、晴れ着をまとった若者たちで華やいでいました

「成人の日」は翌1月13日ですが、名古屋市昭和区の成人式が1日早く行われていたようです。

名古屋市は区ごとに成人式をやるんだ… と、使われることのないであろうトリビアを仕入れました
ちなみに私の地元・さいたま市では、13日に、全市まとめてさいたまスーパーアリーナで開催したようです。この日の昼前、本宅最寄り駅は、式に向かうらしき晴れ着の若者でいっぱいでした。今後一生着ることは無い自信を持って予言できそうなド派手羽織袴の男性もチラホラ

それはともかく、「逆光の噴水塔」の写真を撮ったあと、鶴舞駅に戻りました。

今にして思えば、奏楽堂も観てくればよかったな…
この時点(12:27)で帰りの新幹線まで1時間半ありましたからねぇ

   

名古屋駅に戻った私は、昼食タイム

何を食べようかと駅ナカをウロウロした結果、なぜか喜多方ラーメンを食べました
ところが、「これは違うって感じ
これまで食べた「喜多方ラーメン」を標榜するラーメンの中では「Cランク」と言わざるを得ませんでした

そんなことがありながらも、コインロッカーから荷物を出して、新幹線ホームへ。

ここで、東海道新幹線車内販売無くなり、あの「固いアイスクリーム」ホームの売店で買えるという話を思い出しました
そうだそうだと、バニラアイスを購入した上で、新幹線に乗り込みました。

カチコチに固い食べづらいだろ、と、しばらく時間を置き、頃合いを見計らって食べようと思いつつも、がまんできずに食べ始めたら、ぜんぜん固くありませんでした
私は遠征に出かけると、夜にコンビニで買ったアイスクリームを食べることが多いのですが(定番ハーゲンダッツのクリスピーサンド)、前夜は「世界の山ちゃん食べ過ぎた感じでしたので、アイスクリームは省略しておりまして、これで元を取った(?)といったところ。

実は私、東海道新幹線名物といってもよいこの「固いアイスクリーム」を、これまで一度も食べたことがありませんで、これが初めてでした。
で、噂どおり、美味しかった これで昼食の失敗挽回できた気がしました

東海道新幹線のお楽しみ一つ、富士山は、往路では「#1」で書いたようにクッキリ鮮やかに見えましたが、帰路は、、、

う~む、残念…

   

新幹線定刻東京駅に到着
東京駅の駅ナカで夕食用に駅弁を購入して(遠征帰りの夕食は作りたくない)、本宅に帰りました。

本宅には16:30頃帰着し、もくろみ通り、余裕を持って「MISIA星空のラジオ~Sunday Sunset~」を聴くことができました

こうして、体調回復の一途を辿る中、1泊2日の愛知遠征滞りなく終了したのでありました。

今週末に大阪遠征を控え、愛知遠征記完結できて良かった
めでたしめでたし…。

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-6

2025-01-21 08:24:30 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-5」のつづきです。

徳川美術館の展示で私がもっとも興味深く観たのは、第3展示室「大名の室礼-書院飾り-」でした。

大名の公式行事は表御殿の「書院」あるいは「広間」で行われた。御殿の各部屋に設けられた飾り付け専用の空間-床の間・違棚・書院床-には、武家の故実にそって各種の道具が飾られた殿中の飾り付けや典礼を「室礼(しつれい)といい、江戸幕府はその手本を室町幕府の故実にもとめたので、足利将軍家が秘蔵していた東山御物(ひがしやまごもつ)を第一に、唐物と呼ばれる中国製の品々を中心とした飾り付け方が規式(きしき)とされた。
多くの書画や工藝品の産地が中国であっても、それを飾り道具に採りあげ、とりどりに組み合わせ、調和の美を創り出したのは室町の武家社会であり、その美意識や価値観は、そのまま江戸時代の大名家に伝えられた。

書院造りの建物はあちこちで拝見したことはありますが、そこに「飾り付け」した様子は見たことがないような気がします。
名古屋城の復原本丸御殿でも、

熊本城の復原本丸御殿でも、

建物は復原しても、障壁画を除く「飾り付け」は復原されていませんでした。
徳川美術館では、名古屋城二の丸御殿「広間」の一部が「飾り付け」と共に復元されていました。

その「飾り付け」を拝見する前に、床間(とこのま)に向かって右の壁面にある「帳台構え」から。

う~む、、、きらびやか ←月並み
安土桃山~江戸時代にかけての室内装飾は中でも「釘隠し」凄いんですよ。ほら。

今なら、金型を作って、それでバンバンとプレスすれば大量生産ができますが(需要は無い)、当時も今も、金工職人がタガネとトンカチで打ち出して作っているわけで、その工数たるや大変なものです。

ということで、まずは「違い棚」の飾り付けを拝見

違い棚は床や書院床の脇に設けられた段違いの棚である。違い棚の上段と下段に置く品はそれぞれ決められており、違い棚の上段には、茶入・茶碗などの茶の湯道具や、香炉・香合などの香道具、また下段には、盆石や本来食物を収納する容器であった食籠(じきろう)などが飾られる。

だそうです。
展示の仕方から、見上げるしかなく、違い棚に飾られているものをしっかりと拝見できなかったのは残念

ま、次、メイン押板(床の間)飾りに行きます

書院の中央に位置する押板(おしいた) (近世以降は床間(とこのま))の最も基本的な装飾形式を「三具足(さんぐそく)飾り」(三具足:花瓶・燭台・香炉の3点一揃のこと)という。武家の重要な儀式に欠かせない、最も格式の高い室内装飾の形式である。

 

飾り方は、壁面に三幅対の掛物をかけ、中尊と呼ばれる中央の掛物の前に(じょく)を置き、その上に香炉を中心として、向かって右に燭台左に花瓶を配す。さらに卓の左右一対の脇花瓶を置く。

とまぁ、理由は判りません(とくに燭台)が、いろいろとしきたりが大変です。
有職故実美術品に通じた人は重宝されたんでしょうな。

私、「卓(じょく)」という物・呼び方を初めて知ったのですが、ネットで調べていたら、別邸の仏壇前にある燭台や香炉、などを載せた「机」は、正式には「前卓(まえじょく)」と呼ぶのだと知りました

それはともかく、最後は床間の左側の壁にしつらえられた「書院床(しょいんどこ)飾り」です。

私、本宅のリビングの出窓には、PCやプリンター、筆記具をはじめとする文房具などを置いておりまして、その形状や用途からこの出窓スペースを「書院床」と呼んでいるのですが、

書院床は、中世の寺院の窓下で僧侶たちが用いた机が起源とされている。中国の文人が心を清らかにしたり楽しんだりするために室内に文房具を飾った先例にちなみ、や硯に入る塵を防ぐ硯屏(けんびょう)、筆や刀子を立てかけておく筆架・墨・文鎮、墨をする水を入れる水注印章朱肉・糊などを収める印籠などが飾られた。

だそうで、あながち間違いではなかったようです うちの「書院床」装飾性は皆無ですけれど…

徳川美術館のこの他にも、茶室や、

能舞台も復元していました。

かなり手の込んだ、そしてお金をかけた展示だと感心

このあと、第5展示室「大名の雅び-奥道具-」を観て、私の徳川美術館見学は終了し、ミュージアムショップでちょとした買い物をしてから外に出ました。

あとになって気づいたことがあります。

それは、開催中のはずの企画展「めでたきかなお正月」を観ていないこと

Why???

改めて当日の自分の行動館内マップを照らし合わせてみると、第5展示室を観た後、本来ならば、第6展示室を通って本館にある企画展示室に行くべきところを、私はそのまま玄関ホールへと向かっていました

どうしてこんなミスを犯してしまったのか…
しかも、館外に出るまでそれに気づかなかったという…

今になって反省しきりです。

   

徳川美術館を出た私は、JR大曽根駅へと向かいました。
ほとんど土地鑑のない私ですので、たよりはスマホの地図アプリのみ。

徳川園・徳川美術館の案内図にしたがって、

東門を出ると左折し、赤荻町線というらしい通り沿いに、「徒歩10分」だというJR大曽根駅に向かって歩きました。

「徒歩10分」というには遠いじゃないかと思いつつ、名鉄とJRの大曽根駅にたどり着き、改札を抜けると、JR線ホームの北端で、土地鑑の無い私でもなんとなく「迂回」をしてしまったような気がしてきました

帰宅してから調べると、やはり「迂回」していました

JR大曽根駅には、Googleマップではかなり拡大しないと表示されない「南口」が存在して(下の)、私はその近くを通り過ぎて、北口(上の)まで歩いていたのでした
後の祭りながら、徳川園・徳川美術館の案内図にはしっかりと、

JR大曽根駅南口(徒歩10分)
地下鉄・名鉄 大曽根駅(徒歩15分)

と書かれていました

そんなこととはつゆ知らず、私は、10分と待たずにやって来たJR中央線に乗って、次なる目的地、鶴舞公園へと向かったのでした。

つづき:2025/01/22 2025年最初の遠征は愛知へ #2-7 [完結編]

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-5

2025-01-20 08:19:33 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-4」のつづきです。

蓬左文庫の展示をちろっと観た後で、徳川美術館

最初の展示は、「いかにも尾張徳川家といった風情の具足です。

どうしてこれが「いかにも尾張徳川家と思ったかというと、単にこの具足が「白糸威」だから。でも、尾張徳川家の具足すべてが白糸威だったわけではなく、私がそんなイメージを持っているだけですので悪しからず…

この「銀箔置白糸威具足」は、尾張家3代綱誠公の19男松平通温公所用のもの。
人ごとながら、「19男ってのは凄い 綱誠公は22男18女子だくさん(正室の他、側室が13人)だったそうな。
当時のことですから夭折する子どもも少なからずいたことでしょうが、成長した男子それぞれにこんな立派な具足を誂えてやるのは、さぞかしお金がかかったことでしょうねぇ
また、女子を嫁に出すのも、嫁入り道具やら何やら出費が嵩んだことでしょう。なにせ名古屋ですし…

具足の右側には、一見、さすまたに見えないこともない(←見えるか)「上り藤馬標が展示されていました。
「馬標(うまじるし)というのは、戦場大将「わしはここにおるぞと誇示するための道具です。
この馬標は、尾張徳川家初代徳川義直公(徳川家康の9男)所用のもの。
義直公の初陣は、満13歳の時、大坂冬の陣だそうですから、もしかしたら、この馬標大坂冬の陣大坂夏の陣で実際に使われたかもしれませんねぇ

   

これは何だと思いますか?

「唐銅二百目短筒(からどうにひゃくめたんづつ) 銘 延宝二年甲寅七月吉日 辻弥兵衛之種作」です。

「短筒」といえば、ピストルみたいなものだと思っていましたら、これは、長さこそピストル級ですが、口径でかいでかい 4~5cmはあろうかというシロモノです。

この短筒はどうやって使ったんだろ
そもそも片手で持てるとは思えませんし、仮に両手で支えたとしても、発射の威力で手首破壊されること必至です
超ミニの大砲として、台座に据えて使ったんだろうな、こんな感じで…

サイズとしてはこんなものですから…

   

お次も初めて拝見したもので「折紙」というものです。

「折紙」といっても、紙を折って鶴や兜を形づくる遊びでも、スタバ使い切りドリップコーヒー(旅行に出かける際の私の必需品)でもなく、

刀剣をはじめ、書画や茶道具に添えられる鑑定書である。奉書の紙を横に二つ折りにし、作者名や評価額を示す代付(だいつけ)などが記される。代付は「金子○○枚」「代○○貫目」などと表記される。金子1枚は大判1枚(およそ10両、銅銭40貫)に相当した。
刀剣の折紙は、江戸幕府に仕え、刀剣の研ぎ・浄拭い(きよめぬぐい)・目利きを生業とした本阿弥家によって発行された。鑑定に際しては宗家の当主を中心に一族で検討し、その結果を宗家当主が自筆で認めるのを常とした。

だそうです。
この「折紙」は、刀剣(銘 肥前国住人忠吉作)の鑑定書で、

肥前国忠吉
正真 長サ2尺3寸2分 表裏二筋樋○○ ←読めない
代金子15枚
寛政3年 亥
卯月3日 本阿 [花押]

と書かれています。鑑定者本阿弥宗家17代の光一(こういつ)。
ちなみに本阿弥光悦はこの本阿弥家の人で、一旦は宗家の婿養子になったものの、義父に跡継ぎの男子が生まれたことで別家をたて、以降、創作活動に励んだそうな。
その後の日本にとって、光悦が「鑑定業」を本業にできなかったことは幸いだったんじゃなかろうか?

   

お次は梨子地大小の(こしらえ)です。

ピントが甘くて残念なんですが、なんともきらびやかな拵です。
これというのも、この大小(打刀と脇指)を所用していたのは、「質素倹約」を旨とする享保の改革なんぞ無視するかのように名古屋の街を盛り上げた7代藩主・徳川宗春公です。

説明には、

派手好みの宗春らしい趣を持つ大小拵である。総体に金粉を透明の漆で塗り込めた豪華な梨子地の鞘で、刀装具の細工も精緻である。小柄・笄には網地に葵紋を散らし、鐔は三葉葵紋と六葉葵紋を前面に散らして、密な魚々子(ななこ)を打つ。

とありました。
この説明の中に聞き慣れない「六葉葵紋」というのが出てきますが、私、ここに来る途中、徳川園の塀の瓦「六葉葵紋」を見つけて、なんじゃこりゃ? と思っておりました

尾張徳川家は、「六葉葵」裏紋に使っていたのかな?

   

ほぉ~と思ったのは、「三所物」の説明書きでした。

三所物(みところもの)の英訳が「Sword Fitting」というのが何とも良くて、

三所物とは、小柄(こづか)・(こうがい)・目貫(めぬき)の3点の総称である。
これらは同文様・同一作者であることを原則としている。
江戸時代には刀剣装具については厳しい格式があり、小柄・笄をつける身分の武士は、上級のものに限られていた。
加えて、大名家や旗本の正式な拵には必ず後藤家で製作された金具を用いることが慣例とされた。後藤家は足利将軍家をはじめ、徳川将軍家に代々仕え、不動の地位を築き上げた。
(以下略)

出ましたな、後藤家
現在の日本銀行本店の場所に屋敷を拝領し(金座)、江戸時代を通じて金貨(大判・小判ほか)の鋳造・製作を独占していたという後藤家のことは知っていましたが、「大名家や旗本の正式な拵には必ず後藤家で製作された金具を用いることが慣例」だったとは知りませんでした

と、ここで、以前、私が東京国立博物館で撮った写真を載せます。

これは、「業平東下り図揃金具」(モチーフは伊勢物語です)。
左の上にある細長ぁ~いのが、頭を掻いたり髷をちょっと手直しする時に使う「笄(こうがい)、その下、左の2つの小さな金具が、刀身と柄とを固定する「目貫(めぬき)、その右の長方形のものが携帯用カッターナイフのような小柄(こづか)の(え)で、ここまでの3組「三所物」です。右にある二つは、上が刀の柄の先端に付ける「柄頭(つかがしら)で、その下が柄と鍔との境目に付ける「縁頭(ふちがしら)

この「業平東下り図揃金具」18世紀の作品で、作者は後藤光理。やはり後藤家(光理は12代目)でした

18世紀ともなると、江戸の太平の世が続いて、武士たちも「粋(いき)」とか文学的素養を誇示するようになったんでしょうねぇ

そうそう、刀の鍔の中央には刀身を通す大きな穴があって、その両脇小柄を通すための小さな穴が一つずつ開いているものですが、中には小さな穴が一つしかないものがあります。
これは小柄と笄をつけられない身分の武士のものだったということでしょうか

ちょうどキリのよいところで、徳川美術館の見聞録は「#2-6」につづきます。

つづき:2025/01/21 2025年最初の遠征は愛知へ #2-6

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-4

2025-01-19 06:15:12 | 旅行記

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-3」のつづきです。

ここで遠征2日目ルートマップを載せましょう。
オレンジの線が電車区間、の線が徒歩区間、観光スポットです。

こうしてマップにしてみると、名古屋城駅から名古屋市市政資料館までの「意図せぬ迂回」滑稽に見えますが、あとでいろいろLucky と思うことになります
実は、このあと、もう一度「遠回り」することになったのですが、それは追々書くことにします

さて、名古屋市市政資料館の見学を終えた私は東大手駅から名鉄瀬戸線に乗って徳川美術館を目指しました。

地下駅になっている東大手駅の入口に、石碑のような説明板がありました。
何の説明板かと思ったら、なんと、駅名の由来書きでした

こんなに立派「駅名の由来書き」なんて初めて見ました

ちょっと長いのですが興味深い内容なので転記しておきます。

かつて名古屋城外郭の「三の丸」には五つの城門があって正門にあたるのが「本町門(ほんまちもん)」であり、東門に相当するのが「東大手門」で、「東大手駅」の駅名の起源である。
このほか、南西には「三園門(みそのもん)」、西には「幅下門(はばしたもん)」、北には「志水門(しみずもん)」があって、そのいづれもが土居や石垣に囲まれた枡形をつくり、そこで通路を曲折させていた。本町門・幅下門・東門付近の道路の曲折はその名残りである。東大手門付近では、外堀に三つの清水橋がかけてあったが、そのうち一番南の橋の位置が今の清水橋に当たる。
名古屋鉄道瀬戸線の前身にあたる「瀬戸電気鉄道」は、明治29年(1906年)に、瀬戸と大曽根間を開通させたが、その後、明治44年(1911年)に、堀川の水運を利用するために堀川まで延長した際、土居下・堀川間は名古屋城の外堀底を利用した。この間に「東大手」「久屋」「大津橋」「本町」の駅があったが、昭和14年名古屋鉄道に合併してから「東大手」「久屋」は廃駅となった。
昭和53年8月名古屋鉄道瀬戸線が都心「栄町」乗入れに際し、旧東大手駅跡の北側の地下に改めてこの「東大手駅」を再開し、名古屋城史跡の名を残すことになった。

なんとも「力作なのですが、私のように土地鑑の無い者にとってはなかなか理解が難しい
地図を付けてくれたらよかったのに…と思いながらネットで探したら、こちらのサイトピッタリの地図を見つけました

1941年頃の地図(なぜか簡体字の説明が加えられている)だそうで、

「名古屋城の外堀底を利用した」という瀬戸線土居下~堀川のルートがよく判ります (東大手駅と久屋駅は廃駅済み)
また、本町門、東大手門に由来する「曲折」も判ります

昔はここ(久屋橋から見下ろした外堀)を電車が走っていたんだ

「#2-1」で書いた愛知懸議員會館といい、この眺めといい、今さらながら、「名古屋城駅から名古屋市市政資料館までの『意図せぬ迂回』僥倖だったと思います まさしく「災い転じ福と為す」でした

なお、Googleマップを見ていたら、旧瀬戸線や土居下駅の痕跡を見つけました

   

なんとも薄暗くもの寂しい東大手駅から名鉄瀬戸線に乗ると、徳川美術館最寄りの森下駅までは、わずか2駅・4分 でも歩くと、2.1kmありますから、25分程度かかります

森下駅で電車を降りた私は、スマホの地図アプリを頼りに、徳川美術館へ。
徳川美術館に行くのは2度目ですが、前回は名古屋名物(?)の基幹バスで行ったっけ…

しばらく歩くうち、今度は徳川園・徳川美術館の矢印看板が導いてくれました。

途中、久しぶりにネコヤナギを見かけました(ピンボケ写真ですまぬ)。

ネコヤナギといえば、どうしても「天才バカボン」を連想してしまう私です

徳川園・徳川美術館西門(黒門)近くに「中京法律専門学校」という学校がありました。このときはなんとも思わなかったのですが、実は、愛知懸議員會館の建物を建て、そこに住んでいたという大喜多寅之助さんは、この専門学校の前身・中京法律学校校長を務めたことがあるんですと
いろいろ繋がるもんですねぇ

そして、到着

1月らしく、門松が出迎えてくれていまして、この門松にも説明が加えられていました

門松といえば、竹の先端部を斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴(ずんどう)があります。「そぎ」は徳川家康が始めたもので、家康唯一の敗北で知られる「三方ヶ原の戦い」のあと、武田信玄に対して次は斬るという念を込めたのが始まりだと言われています。

また、門松には雄松(おまつ)雌松(めまつ)を対にして飾ります。触ってみて葉先が固いのが雄松、柔らかいのが雌松になります。
江戸時代の門松を模して作成しています。是非ゆっくりご覧になってください。

そっかぁ、門松の「そぎ」には、「次には信玄を斬ってやる」という家康の念が込められていたのか… 正月にしてはずいぶんと物騒な話です

黒門の傍らに、名古屋市が設置した「徳川園と徳川美術館」という説明板がありました。

江戸時代のはじめ、この地域一帯は尾張徳川家二代光友卿の「大曽根下屋敷」といわれる広大な別邸であった。光友卿の薨去後、別邸は家老の成瀬、石河、渡辺の三家に下附され幕末まで使用されたが、明治維新後、再び尾張徳川家の所有となった。
昭和6(1931)年、同家19代義親侯は、「…私有するは時勢に順応せざるを以て…」と意を決して別邸建物と庭園のうち約7千坪(23,000㎡)を名古屋市に寄附すると共に、相伝の一万数千点に及ぶすべての什宝美術品類・土地・必要資金を拠出して、財団法人「尾張徳川黎明会」を設立。昭和10(1935)、同財団による「徳川美術館」が開館した。一方、寄附を受けた名古屋市は、昭和7(1932)年、「徳川園」として公開したが、第二次世界大戦時に空襲を受け、「表門(おもてもん)」を残して焼失した。
開館50周年にあたる昭和60(1985)「徳川美術館」の大幅増改築事業が地元経済界を中心とした全国規模の募金活動によって推進された。この地に集積されている歴史遺産との融合をはかるべく、平成16(2004)には我が国を代表する近世武家文化の殿堂と、その環境にふさわしい池泉回遊式庭園が完成した。
なお、公園内の南側には、尾張徳川家伝来の書籍類を収蔵し公開する名古屋市蓬左(ほうさ)文庫が設けられている。

この説明にはいろいろと展開したいところがありまして、まずは「大曽根下屋敷」。現在の徳川園・徳川美術館エリア広大ですが、当時は現在の数倍のとんでもない広さを誇っていたようです。

もっとも、江戸では、尾張徳川家上屋敷として現在の仙洞御所迎賓館のある元赤坂エリア全域を、中屋敷として上智大学四谷キャンパス全域を、ほか合わせて30か所もの屋敷地を拝領していたわけで、それに比べれば大したことはないと言えないこともありません

次に、「大曽根下屋敷」を下附されたという3人の家老のうち、成瀬家って、20年ほど前まで国宝・犬山城(訪問記)私有していたあの成瀬さんだと思われます。

徳川園と徳川美術館との関係がよく判らなかったのですが、徳川園(と蓬左文庫)名古屋市の所有で、徳川美術館財団法人「尾張徳川黎明会」の所有なんですな。

徳川園パスして、さぁ、17年半ぶり()の徳川美術館

というところで一息入れ、徳川美術館の見聞録は「#2-5」で。

つづき:2025/01/20 2025年最初の遠征は愛知へ #2-5

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