新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年最初の関西旅行記 #3-1

2025-02-11 12:23:54 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-9」のつづき、関西旅行最終日(1月27日(月))の探訪記です。
最終日は、雨が降るという予報が出ていて、ホテルの自室のカーテンを開けると、

どんよりと曇り空

トートバッグに常備品折り畳み傘が入っているとはいえ、なんとか昼過ぎまではもってくれないものか と祈る気持ちでした。

この日朝までに構想していた最終日の行程は、ホテルを出発したら直ちに京都に移動し、まず妙心寺に行き、そこから京都の中心部に戻って錦市場を散策し、時間があれば建仁寺にも行って、予約している京都駅14:30発新幹線で帰るというものでした。
京都では、私がまだ訪問したことの無い場所を観光しようという算段です。

ホテルをチェックアウトして外に出たら寒い

新大阪駅からJR京都線新快速(途中の停車駅は高槻駅のみ)に乗って京都駅に着いた私は、一旦改札を出て、荷物をコインロッカーに入れた後、再び改札口へ
このあと、嵯峨野線に乗ることを考えれば、改札を出ずにそのまま嵯峨野線に乗り替える方が運賃が安いと思ったのですが、まさか大きなバッグをゴロゴロ引きずりながら寺社を拝観するのは相当無理がありますから

今調べたら、新大阪⇒花園(860円)よりも、新大阪⇒京都(580円)+京都⇒花園(200円)、の方が80円安かった
たまにありますな、こんなケース

さて、ちょっと時刻が遅くなると空きが無くなる京都駅のコインロッカー、この日は難なく新幹線改札口に近い八条口空きが見つかり、荷物を放り込むと、いざ、妙心寺

妙心寺の最寄り駅は、JRだと花園駅です。
私が花園駅で電車を降りるのは、2013年のGW仁和寺に行って以来(記事) 2度目

花園駅に掲示されていた案内図を見ると、花園駅から、仁和寺までは徒歩約20分ですが(確かにけっこう遠かった)、妙心寺までは徒歩5分だそう。近くてイイ

この案内図を頭に入れて歩き出したのですが、すぐに「妙心寺前交差点」があり、そこをやややや左折してうねっとちょっと歩くと、妙心寺南総門が見えてきました。

ところで私、2010年1月九州国立博物館(九博)特別展「京都 妙心寺 善の至宝と九州・琉球」を観ました。
「MISIA星空のライヴⅤ Just Ballade」福岡公演への遠征ついでに、初めての九博まで足を伸ばしたのでした(旅行記はこちらこちら)。
この旅行記の中で、

ところで、この「片手で拍手をするとどんな音がする?」公案、何かの本(翻訳本)のエピグラフで読んだ気がしますが、何の本だったのか、さっぱり思い出せません。(中略)
ご存じの方がいらっしゃいましたら、どうか教えてくださいまし どうも気になって、奥歯にニラエノキダケが挟まったような気分なのですよ。

と書いたのですが、これまで教えてくださる方は誰もおらず、今回の旅行記を書くにあたってネットで調べてみたところ、答えが判明しました。
J.D.サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」でした

原文だと、

We know the sound of two hands clapping.
But what is the sound of one hand clapping?
                --A ZEN KOAN--

別邸の書棚にあった「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)を引っ張り出して、野崎孝さんによる訳を転記しますと、

両手の鳴る音は知る。
片手の鳴る音はいかに?
   --禅の公案--

この「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」とよばれる公案は、このブログでも何度かとりあげた(例えばこちら) 江戸時代の禅僧・白陰慧鶴がつくったもので、代表的な公案の一つだそうです。

話が逸れているようで、それほど逸れてはいないのですが、ここから再び私が訪れた妙心寺のこと。

丸太町通から妙心寺前交差点で分岐した道の突き当たりにあるのが南総門です。

そして、その左にあるのが「開かずの門」っぽい勅使門

南総門から境内に入ると、右手に案内所っぽい小さな建物があって、そこで拝観料を納めるのかな? と思ったら、「拝観料は各塔頭でお納めください」といった内容の貼り紙が。
そこで、さっそく境内の散策を開始しました。
境内の案内図を見ると、

な、な、なんですか、この広さ

リーフレットによれば、南北約600m東西約550m面積は約10万坪(≒33万㎡)ですと
この「甲子園球場 8個分」とかいう広大なエリアの中に36ヶ寺の塔頭(たっちゅう)寺院があり、敷地外にも10ヶ寺の塔頭寺院があるそうな
妙心寺がこれほどの大寺院とは思ってもみませんでした

2023年1月に訪れた東福寺訪問記で、

塔頭がたくさんあります
これほど多くの塔頭が残っているお寺は京都では少ないのではなかろうか?
大徳寺にも多くの塔頭が残っていますが、現存の塔頭の数は大徳寺の22に対して、東福寺は25だそうな

と書きましたが、いやいや、妙心寺46は飛び抜けています

この中には、石庭で有名な龍安寺(訪問記)も含まれています。
恐らく一般的には、妙心寺より塔頭の龍安寺の方が有名だったりして…
相国寺とその塔頭・金閣寺(鹿苑寺)銀閣寺(慈照寺)との関係みたいですな

大本山妙心寺はこのように多くの塔頭寺院を含めた総称ですが、狭義の妙心寺は、寺域南端のマップで黄緑色に塗られた部分で、勅使門から放生池を挟んで三門仏殿法堂(はっとう)、方丈と一直線に並んでいる部分です。
この配置は、相国寺(二度目の訪問記)には三門と仏殿は残っていませんが、ほぼ同じ

京都には「東福寺の伽藍面(がらんづら)のような「○○寺の○○面」という表現があって、妙心寺は塔頭や末寺(約3,300ヶ寺)などの組織運営の巧みさから「妙心寺の算盤面」と呼ばれているそうな
呼ばれる方はどんな感じなんだろ? 「算盤面」と聞くと「商売第一みたいなイメージが沸くんですけど…

前置きが長くなりましたが、妙心寺の伽藍を拝見
まずはお風呂(浴室)

京都市による説明板によりますと、

浴室(明智風呂) 切妻造瓦葺・重要文化財
天正15年(1587)明智光秀の叔父にあたる塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が創建したものであり、のち明暦2年(1656)に改築されたものである。
天正10年(1852)年、本能寺で主君である織田信長を打、宿怨をはらした光秀は、自刃を覚悟し妙心寺仏殿に礼拝し、次の辞世の句を唱えたとされる。
  順逆不二の門 大道心源に徹す
  五十五年の夢 覚め来たって一元に帰す
この時、密宗和尚は光秀の心中を察し、自刃を誡めたとされるが、その後、武運つたなく山崎の合戦において豊臣秀吉勢に討たれた
死後5年ののち、密宗和尚は光秀の菩提を弔うため、この浴室(蒸風呂)を設け、大勢の僧侶に施浴した。この由縁により、この浴室を別名「明智風呂」ともいう。

だそうです。
光秀辞世の句(五言絶句)について、円覚寺のHPで判りやすく解釈されていますので、ご興味がありましたらご覧ください。

この浴室を創建(寄進)した「密宗紹倹」なる人物を調べてみたのですが、この浴室絡みの情報しかありませんでした。
それなら「明智光秀の叔父」という線から探れないか? と思いましたが、Wikipediaによれば、明智光秀父・母とも「不肖」ですと

う~む…とうなったところで「#3-2」につづきます。

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今年最初の関西旅行記 #2-9

2025-02-10 15:06:09 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-8」のつづきです。

大阪城東外堀を眺めた時点で、時刻は14:40
ちょっと早いけれど、大阪城ホール周辺で時間をつぶすことにして、野球場の方に歩いて行くと、あれま でした。

この道路も閉鎖されています
どうしたらこの道の向こう側へ行けるんだ? と、30分前と同じ悩みが…

今、改めて大阪国際女子マラソンのコース図を見ると、大阪城ホール一帯は、マラソンコースで閉じられていました

もちろん、マラソンの前半と後半とで時間差がありますから、大阪城ホール行き着けないことはないわけで、私が行ったルート(新世界地区から)と時間帯ならば、大阪環状線森ノ宮駅ではなく次の大阪城公園駅で降りればすんなり行けたはずです。
いや、でも、もしかすると、例の大阪環状線運転見合わせに引っかかっていたかも… いやいや、もしそうだとしても、私が乗っていた電車大阪城公園駅で足止めを喰らっただろうから、セーフ

それはともかく、道路の両側にはテープで「規制線が張られていましたが、ランナー係員さんもおらす、道路を歩いている人さえいます
これなら規制線を無視して横断しても大丈夫か… と、右を見て、左を見て、もう一度右を見た上で、テープをかいくぐって&またいで道路を横断し、ようやくようやく、大阪城ホール & 野球場エリアに入れました
いやはや、心身共に疲れました

   

大阪城ホール裏手の駐車場には、いつものようにトランポのトラックたちが並んでいました。

いつも思うのだけれど、トラックの運転手さんたちは、ライヴの仕込みが終わってからバラシが始まるまではどうしていらっしゃるんでしょ? この間のトラックの賃借料/運転手さんの拘束料とかは支払われるのでしょうか? 単日公演ならともかく、「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」日本武道館公演のように 3 daysだとねぇ 空いた時間は、トラックごと別の仕事をしてるのかなぁ

それはともかく、今回はラッピングトラック無いようです。
ラッピングトラックがあったり無かったりするのは、何か基準があるのでしょうか。恐らく、BOSSの一存なんだろうな

そんなこんなで大阪城ホール前の噴水にたどり着いた私は、「#2-8」で書いたように、ゴミ箱を探して大阪城公園前駅の近く辺りまでウロウロし、結局はゴミ箱が無いことを知った次第です。
それでも収穫はありました
喫煙所を見つけたのです。
大阪城ホール内には臨時喫煙所がありますが、そこは終演後には閉鎖されてしまいます。
ここなら、終演後に、ライヴの余韻を味わいながら一服できます

   

こうしているうちに時間が経ち、15:20頃大阪城ホール入場しました。

大阪城ホールは、昨年10月開館40周年を迎えたそうで(「#2-8」に載せた50年前の地図大阪城ホールが無いのもむべなるかな)、それを記念してこの1年間に出演されたみなさまにいただいたサインを期間限定で展示」しているというので、見に行ってみました。もちろん、MISIAのサインがあるかな? と期待しつつ…。

ところが、MISIAのサイン見当たりませんでした
MISIAは、24年1月7-8日に、「MISIA星空のライヴ XII Starry Night Fantasy」 を開催しているのになぁ(私は遠征していない)

その代わりというか何というか、阪神タイガース村上頌樹森下翔太両選手のサインがありました。

これは、大阪城ホールとは川を挟んでお向かいの読売テレビ制作の「超プロ野球 ULTRA」(23年度)収録の際のものらしい。
私はこの番組の存在すら知らずWikipediaも見たんですが、この記事、超ムダ情報が細かい一方で、収録日が一切書かれていないなど、チグハグ極まりない
Wikipediaでは鉄道系お笑い系などの記事にしばしば見られるヤツです

   

ここからMISIAのライヴ(記事)すっ飛ばして閉演後の話。

私は例の喫煙所に行き、一服

この頃(1月26日)18:30頃でも十分に暗く星空きれいでした
冬の大三角形はもちろんのこと、火星も見えました。

そんな中でひときわ明るかったのが木星

大阪城天守ライトアップにも負けずに写真に写るほどの明るさでした (見えづらいかもしれませんが、写真の上端近くやや左)
この写真の木星付近をアップにして露出を上げますと(天守は白く飛ぶ)、

木星の左下が写っています。
これは、おうし座アルデバランらしい。
おうし座といえば、すばる(プレアデス星団)を含む星座ですが、すばる見えませんでした
そもそも私の視力すばるを見るのはほぼ無理なのです

   

こうして「THE TOUR OF MISIA 2025」につづいてリアル「星空のライヴ」を楽しんだ私は、大阪城公園駅から通常運行に戻っていた大阪環状線に乗り、大阪駅JR京都線に乗り換えて新大阪駅まで戻りました。

夕食は、迷った末に、新大阪駅の駅ナカの初めての店(ほとんどがそう)で焼き鳥&ビールを食したのですが、この選択は失敗でした
大将感じがすこぶる悪いし、料理の出てくるのが遅いし、追加は各ネタ2本以上じゃないとダメ(こういう焼き鳥屋は少なくないかも)だし、大して旨くないし、安くないしと、しっかりと「勉強させていただきました。

不満を抱えながらホテルに戻り、大阪2日目の行動を完了させたのでありました。

つづき:2025/02/11 今年最初の関西旅行記 #3-1

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今年最初の関西旅行記 #2-8

2025-02-09 14:28:40 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-7」のつづきです。

観光客(大部分が外国人)でごった返す新世界で、「さぁ、昼食はどうする?」となった私ですが、「大阪で昼食に迷ったら『串かつ』でありまして、どの串かつ屋で食べるか、店頭のメニューを頼りに、手頃な値段(けっこう店によって値段が違う)かつ待たずに入店できる店を探しました(2日連続で昼食は串かつ)。

そして見つけた店に入ると、店員さんから喫煙可のテラス席でもよろしいですか?」ですと 私にとっては願ったり叶ったりです

最近、テーブルに置かれたQRコードスマホで読み取ってオーダーする店が増えていますが、この店もご多分にもれず、このパターンでした。
さっそく、串かつのセット生ビールを注文

隣の席には、欧米人っぽいペアがやって来て、メニューとにらめっこしていましたけど、このQRコードからオーダーするシステムは、外国人客が増えた今では客にも店にもかなり有効なんでしょうねぇ
ただし、スマホを持っていない客の場合は、従来どおりですが…。

赤ウインナーやタマネギ、シイタケなど、串かつ数本追加し、それを食べながらこの後の行動を検討しました。
時刻は13:15頃で、15時頃大阪城ホールに着くとすれば、余裕は1時間半ほど。とりあえずもう少し新世界を散策した後、大阪城公園に行って、たらたらと散歩してみようか、ということにしました。なお、を観るにはまだ早いことは確認済み

   

ということで、新今宮駅から大阪環状線に乗り、大阪城公園駅のひとつ手前、森ノ宮駅で降りて大阪城公園に入ることにしました。

じゃんじゃん横丁(大阪版ティン・パン・アレー的な名称)を抜けた辺りから新今宮駅までは、それまでとちょっと雰囲気が変わり以前の新世界界隈のムードが漂っています
新今宮駅近くの教会の外壁に貼られた「モーセの十戒」(昔は「モーの十戒」と呼ぶのが一般的だったと思うけど、Wiki「モーセ」)が、あまりにも倫理的に普通過ぎて、敢えてそれを示さなければならない地区なのか? と勘ぐってしまいました

新今宮駅ドボルザーク「新世界より」発車メロディーに送られた電車は、15分ほどで森ノ宮駅に着き(13:50頃)、ここを渡れば大阪城公園という「森ノ宮駅前」交差点に出ました。

すると、交差点は大阪国際女子マラソンのために閉鎖されていて渡れません

仕方なく、大阪メトロ 森ノ宮駅への階段を下り、改札前を素通りして、大阪城公園内の「3-B」出口へ。

ふ~、まいったまいった… と、噴水広場まで歩いていくと、これまたマラソンコースのため、通行止め

どうすりゃマラソンコースの向こう側へ行けるんだ

たまたま私と同じ境遇らしい人が係員さんに質問していて、耳をそばだてると、地下鉄の駅構内を通って中央大通の南側に渡り、そのまま中央大通を西に進むと、歩道橋があるのでそこを渡る」というルートらしい。

仕方なく、再び「3-B」から森ノ宮駅構内に入り、

「7-B」出口から森ノ宮駅前交差点に出ました。
そして、歩道橋に向かって歩き出したのですが、けっこう遠い。そしてダラダラと上り坂
結局、噴水の向こう側まで、ずいぶんと迂回してしまいました(赤い線マラソンコースで、青い線私が歩いたルート)

そしてやれやれと、コンビニカップアイスを買い、近くのベンチに腰掛けて一息入れました。

そして、スマホを見ていると、私がさっき乗って来た JR大阪環状線止まっているとの情報が (下の画像は後日に保存したもの)

運転を見合わせたのが「午後2時ごろ」で、支障が生じたのは「玉造~鶴橋間」ということは、私が次の電車に乗っていたら、これにハマっていたではありませんか
いやぁ~~~危なかった
なお、この日のMISIAのライヴは、この影響からか、開演が若干遅れました。

アイスを食べ終えた私は、そのうちにゴミ箱に捨てようと、空のカップバッグに入れ、ちょっとマラソンを見物した後、大阪城ホールの方向に歩き始めました。

「#2-1」で書いたように、大阪国際女子マラソンとMISIAの大阪公演が同日だったのは今回で9回目で、私はそのうち今回を含め5回連続してその当日、大阪に来ているのですが、マラソンの影響を受けたのはこれが初めてです。
だからこそ、「高をくくっていた」わけですが、ライヴの開始時刻が16:00と早いことを考慮するべきだったし、マラソンコースや時間を事前にチェックしておくべきだった…と後悔しています。

ところで、私がバックに放り込んだ空のアイスのカップゴミ箱を見つけたら捨てようと思っていたのですが、大阪城公園にはゴミ箱が無い
スマホでググってみると、大阪城公園にはゴミ箱がほんとに無いらしい

大阪城ホール前で、警備員さん「この辺にゴミ箱はありませんか?」と聞いてみたところ、警備員さんはしばし考えた後、「そこのコンビニにはゴミ箱があると思います」とな
「そこのコンビニ」というのは、こちらで書いた店内にSLがあるローソンで、「入店するとそのまま行列に並び、行列が進むにつれて棚から欲しいものをとって、最後にレジでお支払いというシステム」を採っている店です。
最近のコンビニはゴミ箱を店内に置いていますので、行列に並ばなければゴミ箱に行き着けません
仕方なく、ゴミ箱だけを求めて行列に並びました しばらく行列の中で静々進むと、レジの隣にあるゴミ箱が見えたのですが、そこには「ゴミは従業員にお渡しください」との貼り紙
結局、「もうイイと行列から離脱しました
そして、この約1時間後、大阪城ホールの中ゴミ箱を見つけ、ようやく空きカップに別れを告げることができました

   

いつ見ても、大阪城壮大です。
この石垣と堀、、、、こりゃ攻める気が薄れますって。

これは「東外堀」

大阪城二の丸の東に位置する水堀で、北が青屋口南が玉造口である。元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。
本来は青屋口より先の北外堀とつながっていて総延長はあわせて約3km、堀の幅は最大約90mである。(中略)
大正年間大阪砲兵工廠敷地拡張にともない北外堀を残して埋め立てられた。平成9年(1997)、東外堀(北外堀?)とつながらないままであるが、現在の姿に復元された。

へぇ、この堀は30年前に復元されたのか…

別邸にある古い地図(1976年発行)を見ると、

確かに東外堀無い大阪城ホール大阪ビジネスパーク無い
そして、NHK(JOBK)は現在のはす向かいにある。

大阪市が提供する昭和17(1942)年の航空写真でも、既に東外堀埋め立てられていて、二の丸三の丸には建物びっしりと立ち並んでいて、大阪砲兵工廠の主要部分は塗りつぶされています

私、大阪城北東~西に広大な大阪砲兵工廠があって、大阪城ホール大阪ビジネスパークその敷地内にあることは知っていましたけれど、東外堀埋めてまで勢力を拡大させていたとは知りませんでした

ふと不思議に思ったのは、東外堀の東側二の丸とはかなりの高低差(石垣分高さ)があるのですが、そこはどう処理したんでしょ?
昭和17(1942)年の航空写真では平地に建物が並んでいるように見えるのだけれど… ←いつか調べてみます。

ホントにブログ書き(旅行の復習)は勉強になるなぁ と再び感慨にふけったところで「#2-9」に続きます

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今年最初の関西旅行記 #2-7

2025-02-08 14:25:47 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-6」のつづきです。

淀屋橋ステキな橋ですが、難波橋も負けず劣らずステキな橋でした。

間隔を置いて何基も設置されている照明灯イイし、みおつくしをあしらった高欄オシャレだし、

こちらは正式みおつくし付きの中柱立派です。

フェスティバルホール近くの錦橋の北詰めに江戸時代につくられたと考えられている「浪華橋々繁栄見立相撲」と題する番付表がありました。

その名のとおり、当時の賑わいのランクづけですが、この難波橋はひとつ上流に架かっている天神橋につぐ「西の大関」No.2 です。

ちなみに、この番付の「行司」は、今は無き「四ツ橋」です。
四ツ橋は既に埋め立てられた長堀川西横堀川が交差する地点に口の字型に架けられた4本の橋(こういう形の歩道橋はあちこちにある)の総称ですから、別格扱いにしたということなのでしょう。
しゃれっ気がありますなぁ
そういえば、「心斎橋」も、長堀川の埋め立てで「橋」ではなくなっています

「難波橋」を語る上で忘れてはならないものがあります。
それは、大阪市のHPによれば『ライオン橋』の愛称でも親しまれている」とあるように、親柱の上に鎮座するライオンです。

Googleマップで確認したところ、土佐堀川・中之島・堂島川を越えた北側の親柱にもライオンが鎮座していて、どちらのライオンペア(牡と牡)も、橋に向かって左が阿形、右が吽形になっているという…。
東京国立博物館表慶館前のライオンも、阿吽のペアで、あ~日本だな と思います。

   

難波橋を渡ると北浜

大阪取引所五代友厚像が角地にど~んとあるのは、いかにも大阪随一の金融街の玄関口ですなぁ。

私がこの界隈に足を踏み入れるのはこれが初めてで、地下鉄に乗る前に、ちょっと見物しました。

まずは五代友厚像

よくよく見ると、ずいぶんと若々しいお顔立ちです
もっとも、五代友厚49歳で亡くなっていますから…。

五代友厚の像は、この大阪取引所前を含めて、大阪商工会議所大阪公立大学(旧大阪市立大学)など大阪だけで少なくとも5体あるのだそうで(ご参考)、大阪での五代友厚の位置づけが察せられます。
私は、大阪商工会議所に銅像があることは知っていましたが、大阪取引所にもあるとは知りませんでした。大阪商工会議所の銅像が1953年に設置されたのに対して、こちらは50年遅れ2004年に(取引所の建物の改装に併せて?)設置されたそうですから、けっこう最近のことなんですな

碑文にこうあります。

この地は 江戸期の金相場会所以来 金融取引の活発な地であり 今日まで大阪経済の発展を担ってきた
薩摩出身の五代友厚は 明治11年 当地で大阪株式取引所の設立に尽力 大阪の発展に多大なる功績を残す
ここに 大阪証券取引所発祥の地として 顕彰する
平成16年12(?)月        大阪市
   寄贈 大阪証券取引所

あれま この銅像は大阪市のものなのか
大阪市ったら、こんな場所のこんなものまで寄贈されて…
設置場所が市有地だったら理解できるのだがな。

せっかくだからと、大阪取引所の1階ロビーに入って、ステンドグラスを見物しました。

   

大阪取引所を出た私は北浜駅に潜りました。

堺筋線のホームで、こんな広告を発見

大林組の旧本店「ルポンドシエルビル」ですと? いつか行ってみたい と、メモ代わりに写真を撮ったのですが、そもそもこの広告の出稿者(広告主)は誰?

調べたところ、「生きた建築ミュージアム 大阪セレクション」大阪市の事業だそうで、また、「ルポンドシエルビル」は、大阪市中央公会堂の展示室(記事) にあった「大大阪時代を彩った近代建築」のリストに入っていました つまり、写真を撮るまでもなかったということです

北浜駅から恵美須町駅までは、4駅、所要時間はたった7分

恵美須町駅改札口の一つがなにやら怪しい

もしかしたら、これは顔認証の改札機か?

と思って調べたら当り でした。

大阪メトロのHPによると、「2024年度に全駅で顔認証によるチケットレス改札の導入を目指」しているのだとか
「2024年度」あと2か月弱しかありませんが、ホントに導入できるのでしょうか?
2025年大阪・関西万博に向けたキャッシュレス・チケットレス改札の取組みの一環」だそうですから、おしりを切られているわけで、大阪メトロ「協力会社」は、それこそ寝食を忘れるような状況最後の追い込みをかけているでしょうねぇ

   

恵美須町駅から地上に出ると、すぐに通天閣が見えました。

通天閣方向にちょっと歩くと、火事の跡

そういえば、最近、通天閣近くで火事があったとニュースで見た記憶があります。
さっそくスマホでググると、ニュースはすぐに見つかりました。
火事はほんの4日前という生々しい現場

火元は、「レトロゲーセン ザリガニ」という店で、なにやらゲーセン好きの間では「聖地」扱いだったらしい

建物がびっしり立ち並ぶ商店街にもかかわらず、延焼が最小限に食い止められたようで、その点では良かったかもしれません

この焼けたゲーセンもそうだったのでしょうが、新世界の魅力の一つは「レトロ」にあると思っています。
例えば、こんな喫茶店、なかなかありませんゾ

今でこそ、国内外の老若男女で賑わう新世界ですが、私が友人に連れられて初めて新世界に来たとき(何十年前だ?)は、猥雑なオッチャンの街でした。
昼間っから大勢の客がディープな酒をかっくらっているような店が並び、碁会所だか将棋クラブでは、道路から窓越しに対局を観戦する人が何人もいたりして、「暇はあるけど金は無い」なのかな? などと思っていました。

そんな思い出のある将棋クラブ悲しいことになっていました
その名も、「いかにも新世界」な将棋クラブ「王将」は、

建物の外装はそのまま、串かつ屋に変身していたし、「囲碁・将棋クラブ 三桂」も、

昨年6月30日で閉店

その名も「産経」の記事によると、「三桂」新世界最後の将棋クラブだったらしい。
通天閣の下には坂田三吉顕彰碑があるような街なのにねぇ

いまどきの観光地ではあたりまえではあるけれど、なんと外国人観光客の多いこと
そして、以前にも増して増えた感のある串かつ屋には、その多くの店の前に長蛇の列
さぁ、昼食はどうする?

というところで「#2-8」につづきます。

つづき:2025/02/09 今年最初の関西旅行記 #2-8

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今年最初の関西旅行記 #2-6

2025-02-07 17:01:35 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-5」のつづきは、大阪市立東洋陶磁美術館見聞録の完結編です。

「#2-5」に載せた特別展「中国陶磁・至宝の競艶」フライヤーに使われているカラフルな壺、その名前が「緑地粉彩八吉祥文瓶(りょくじ ふんさい はちきっしょうもん へい)と長い

緑地粉彩八吉祥文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
パステルカラーの緑地に、粉彩によるカラフルな色合いで「八吉祥」と呼ばれるチベット仏教の八宝文や花文などが描かれている。この独特な瓶は清朝の宮廷で崇拝されたチベット仏教の儀礼用とされている。

映画「ラストエンペラー」で、幼い溥儀紫禁城に入城するときと西太后が崩御したとき、大勢のチベット僧が登場します。満州族が建てた清王朝とチベット仏教との関係が良く判らず、Why??? となりましたが、清王朝とチベット仏教とは縁が深かったんですな
それでも、なぜ地理的に遠く離れたチベット仏教? です。
調べたところ、こちらのサイト鳥取大学の柳(ユウ)教授がこんな風に述べていらっしゃいます。

モンゴルはチベット仏教を信じていたので、その最高位にあるダライ・ラマをめぐる諸問題の発生はモンゴルの介入を招き、清朝にとって統合を危うくする大問題だったのです。
多民族国家であるでは、漢民族の皇帝としてだけでなく同時に満州人の首長であり、モンゴル族の「汗(かん)と呼ばれる最高位であり、チベット仏教の保護者である「大施主(だいせしゅ)」でもあるという顔を同時に持っている必要がありました。これによって多民族国家である清という巨大な国を統合できたのです。中でも清帝国をまとめるために重要だったのが、チベット仏教です。チベットとモンゴルに影響を及ぼすために、清朝皇帝はダライ・ラマと同列に位置していなければなりませんでした。

なるほど、モンゴル対策か…
でも、満州よりもっと遠いモンゴルチベット仏教が崇拝されたのはなぜなんでしょ?
これまた調べたら、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトによると、

13世紀の中頃、チベットはモンゴル帝国の襲来を受け、軍事的には屈服せざるを得なかった。ところが、宗教面ではモンゴル人をチベット仏教に帰依させる結果となり、チベットはやがて独立を回復することができた。

ですと。
もしも、元寇で日本が屈服してたら、日本にもチベット仏教が広まっていたかもしれませんな

話が壮大に逸れてしまいました

話を元に戻しまして、「緑地粉彩八吉祥文瓶」よりもっと長い名前の作品がありました。
「松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶」(しょうせきりょくゆう てきこく ばんれん からくさもん へい)という名前で、一度では覚えきれません

松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
松石緑釉は、酸化銅を着色剤として低火度で白磁に二次焼成する色釉で、雍正年間に誕生し、乾隆年間に流行した。
青緑色の釉色トルコ石(緑松石)に似ることから名づけられた。
石の質感や模様を磁器で再現しようとした乾隆官窯の技術の高さをうかがわせる。

この瓶、私には磁器には見えずプラスチックを成形したかのように見えます。
かなり不自然に感じてしまうなぁ

   

「#2-4」に、小さな、野々村仁清「色絵 結文形 香合」尾形乾山「銹絵染付 羊歯文 香合」を載せましたが、上海博物館所蔵品にもこれらに負けず劣らず小さな作品がありました。

どちらも(いんごう)、つまり朱肉入れで、直径は約7cm

左が、「豇豆紅釉印盒 (こうとう こうゆう いんごう)

豇豆紅釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館
康熙年間、景徳鎮官窯では酸化銅を主成分とした多彩な紅釉磁器がつくられた。
なかでも鮮麗な紅色を特色とする「豇豆紅釉」(欧米では“peach bloom”(桃花紅)とも呼ばれる)は、焼成の難易度が高く、希少である。

そして、右が一級文物「蘋果緑釉印盒 (ひんかりょくゆう いんごう)

蘋果緑釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
本作は「豇豆紅釉」が窯の中での窯変により「蘋果緑(青りんごの緑)」と呼ばれる淡い緑色に変じた奇跡の一点である。清末の陳瀏「陶雅」で、蘋果緑の印盒一つが「値千金と記している。

どちらもとてつもなくきれいな色をしていますが、「蘋果緑釉印盒」「豇豆紅釉」を焼こうとしていたのに、「偶然こうなった」んですかぁ
「ふじ」リンゴの木に、なぜか「王林」の実がなったようなものですか? (かなり違う)
冗談はさておき、全体は淡い緑色なのに、左上部分だけ赤いのには、こんな背景があったんですな

   

最後に登場いただくのは、小さな作品ということで、高さ:65.5cm、胴径:56.5cmと、一番デカい作品です。

青花雲龍文壺 明時代・正統 (1436-1449)/景徳鎮窯
上海博物館
胴部に五爪の龍二体火焔宝珠が描かれた大壺。類似の陶片が景徳鎮珠山の御窯遺址から大量に出土している。
正統年間に青花の「龍缸」(龍文の大壺)が焼成されたが、きわめて大型のためうまくいかなかったとの記録がある。
本作は正統官窯を代表する現存最大の完成作例

いかにも中国陶磁 の佇まいです

でも、こんな大壺何に使ったんでしょ?
まさか「五爪の龍」が描かれた壺を、水や穀物の貯蔵、ましてや傘立てに使ったとは考えられず、「置物」くらいしか用途が思いつきません

ということで、大阪市立東洋陶芸美術館の見物を終えました。

陶磁器には疎い私ですが、かなり楽しめました
美術館自体、施設として立派でよくできていましたし…。

満足しながら館外に出た私は、「X」にこんなポストをしました。

こんな立派な美術館ですから、建設費は相当だったのだろう と思った次第ですが、ブログを書くうちに知ったところによると、建設費 18億円は、「#2-3」で書いた住友グループから大阪市の文化振興基金寄付された152億円運用利息でまかなったのだとか
最近上昇傾向にあるとはいえ、今のような低金利では到底不可能な話です

   

さて、時刻はほぼ正午昼食どきです。

昼食は久しぶりの新世界辺りで摂ることにして、そこまで堺筋線で行くべく、北浜駅まで歩きました。

大阪市立東洋陶芸美術館のお隣にある「こども本の森 中之島」は、建築家の安藤忠雄さんが寄付したんだったなぁ

それにしても、大阪府立中之島図書館住友吉左衛門友純(春翠)さんの、大阪市中央公会堂岩本栄之助さんの、大阪市立東洋陶芸美術館の主要コレクションは住友グループの、そして子ども本の森 中之島安藤忠雄さんの寄付で建てられたというのは、その4棟中之島で並んで立っていることと併せて凄いことだと思います。
江戸時代の町民パワー近現代の市民パワー大阪(大坂)の底力を感じます。

これを渡れば北浜、という難波橋もなかなか魅力的でした。
その話は「#2-7」で…。

つづき:2025/02/08 今年最初の関西旅行記 #2-7

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今年最初の関西旅行記 #2-5

2025-02-05 07:50:23 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-4」のつづきです。

大阪市立東洋陶磁美術館では、特別展「中国陶磁・至宝の饗艶」が開催中です。

2024年、大阪市と上海市の友好都市提携50周年を記念し、上海博物館から日本初公開作品32件(うち海外初公開19件)を含む計50件の中国陶磁の名品が出品されます。中国陶磁の世界的な殿堂である上海博物館大阪市立東洋陶磁美術館の至極のコレクションが一堂に会し、「競艶(きょうえん)」することで、悠久の歴史を誇る中国陶磁の真髄に触れるとともに、現在においても斬新さや新たな美の発見をもたらすその魅力に迫る機会となれば幸いです。

私は、20年ほど前に出張で上海に行ったとき、上海博物館を見物したような気がするのですが、建物が青銅器でよく見る「鼎」のような形をしていたということ以外、記憶がさっぱりと飛んでいます

それはともかく、会期が 5か月以上長い長い
陶磁器展ならではですな 日本画や浮世絵版画だと到底無理な話です。

さて、「#2-3」で、中国では「時代遅れの遺物」と見なされた天目茶碗日本にやって来た話を書きましたが、上海博物館所蔵の天目茶碗が出陳されていました。

茶碗の内側が何やら変色している、、、と思ったら、

黒釉木葉文茶碗(木葉天目) 南宋時代(1127-1279/吉州窯
南宋時代の吉州窯では鼈甲を彷彿とさせる玳皮(たいひ)天目をはじめとした建窯産天目とは異なる茶碗が生産された。吉州には禅宗寺院が数多くあり、禅に通じるとされた桑の葉を用いたこうした木葉天目は、禅僧の需要と美意識を反映したものである。

葉っぱを載せて焼き上げたのか
安宅コレクションにも木葉天目があって、こちらはもっと桑の葉葉脈まできれいに残って、鮮やかでした。

こちらも南宋時代の吉州窯産で、加賀・前田家伝来の品とか。

   

自然採光展示室(第10室)には、大阪市立東洋陶磁美術館が所蔵する2点の国宝のもう一つ「飛青磁 花生(はないけ)が展示されていました。

飛青磁 花生 元時代・14世紀/龍泉窯
鉄斑を散らした青磁は、日本では「飛青磁」と呼ばれている。優美な形のこうした瓶は中国では「珠壺春(ぎょっこしゅん)」の名で知られ、主として酒器として用いられたが、日本では花器としてとして珍重された。本作は鴻池家伝来品であり、伝世する飛青磁の最高傑作といえる。

私はあまり好みではありませんが(あやうく見落とすところだった)、園芸で斑入りの葉っぱを珍重するようなものなのでしょうねぇ

ところで、大阪市立東洋陶磁美術館ご自慢の一つ「自然採光展示」は、

陶磁器はさまざまに光を反射し、また光の質によって見え方も大きく影響されるので、照明にはたいへん気を使います。当館には、展示ケースのなかに天窓から自然光をとりこんだ世界初、そして世界唯一の自然採光展示室があり、陶磁器本来の色合いと質感を鑑賞することができます。

だそうです。
私が行った日は陽光燦燦良い天気でしたが、曇天雨天だとどのように見えるんだろ?

   

中国の陶磁器の窯でまず思い浮かぶ、というか、ほぼこれしか知らない窯は景徳鎮です。
この特別展では、普段は上海と大阪に分かれて所蔵されている景徳鎮産の陶磁器が一堂に会していました。

私が「いいなぁ~と思った作品をいくつか紹介します。

まず、景徳鎮といえば白磁の染付のイメージですが、、、
意表をついて青磁です

青磁暗花蓮唐草文碗 明時代・正統~天順(1436-1464)/景徳鎮窯
上海博物館
全体に淡い青磁釉が施され、釉下の浅い陰刻(「暗花」)による文様は釉がたまり濃く発色している。永楽・宣徳期の景徳鎮官窯ではすでに龍泉窯風の青磁も生産しており、正統から天順期にも引き続き造られていたことが2014年の景徳鎮珠山明代御窯遺址の発掘で明らかになった。

の美しさもさることながら、イイ 口縁無限に感じる、なんて言ったら盛り過ぎかも知れませんが…

次は「景徳鎮らしい」と私は思うこちら。

この「青花蓮唐草文壺」(上海博物館蔵)は「青磁暗花蓮唐草文碗」と同じ明の正統~天順年間だそうな。
堂々としていて、ちょっと肩を張った形イイし、余白を残しつつ壺の側面全体に蔓を張る唐草イイ

一方、こちらの皿はシンプルな幾何学模様で(はない)、現代でも普段使いできそうです。

青花花卉文盤 
明時代・天順~成化(1457-1487)/景徳鎮窯
上海博物館
端正な造形の盤で、見込みには宝相華を中心に、二種の十字状の花卉文が配されている。明の歴代皇帝は仏教も信仰しており、この文様も仏教的なものと思われる。

対称的に、こちらは皇帝専用の文様「五爪の龍」が描かれていて、ちょっと畏れ多い

青花龍蓮唐草文盤
明時代・成化(1465-1487)/景徳鎮窯
上海美術館 一級文物
本作は内面中央に蓮唐草に囲まれた五爪の団龍文、その周囲に団花状の花卉文、さらに外側面には蓮唐草の中をかける二頭の龍が、国産のコバルト顔料により精緻かつ上品に描かれている。

説明にある「蓮唐草の中をかける二頭の龍」は、写真で観るしかなかったのは残念でした。
この作品は「回転台に載せて見せていただきたかったな

白磁染付が続きましたので、カラフルな作品も載せます。

五彩百朝鳳図盤 清時代・康煕(1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
梧桐(アオギリ)、牡丹、太湖石、蓮池のある風景の中央に一対の向かい合った鳳凰が描かれている。空には祥雲がたなびき、孔雀、鶴、燕、鷺等の鳥が鳳凰を祝福している。
名君の遺徳を称える「百鳥朝鳳図」康熙年間に流行し、なかでも本作は景徳鎮民窯の代表作と言える。

いやぁ、なんとも華やかというかにぎやかというか…
なんとなく、伊藤若冲の絵(例えば動植彩絵)と雰囲気が似ているような気がするのは私だけでしょうか?

「五彩百朝鳳図盤」の説明文の中に「太湖石」ということばが出てきますが、私が故宮(紫禁城)の御花園で観たこの穴ボコボコ変な岩がそれかな?

話を戻しまして、更に時代もさかのぼりまして、

 

釉裏紅四季花卉文瓜形壺
明時代・洪武(1368-1398)/景徳鎮窯
上海博物館
明を建国した太祖・朱元璋、すなわち洪武帝は、赤色好んだ
酸化銅による朱紅色の発色を見せる釉裏紅磁器は、景徳鎮では元代にすでに見られるが、明の洪武年間御用磁器として優品が多く見られる。

朱元璋(洪武帝)赤色好きだったと…。
まさか自分の姓・に絡めたゲン担ぎだったりして…
仮にそうだとすれば、この壺のような赤い陶磁器洪武帝の目の前で割ったり欠けさせたりしたら、そうとうにマズいことになったんだろうな

時代が行ったり来たりで申しわけありませんが、清時代一級文物です。

琺瑯彩竹菊鶉図瓶
清時代・乾隆(1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
雪のように白い白磁胎は、つややかな釉色を見せる。胴部には琺瑯彩で太湖石、竹、菊、鶉、花卉などが緻密で瀟洒な絵付けで表されている。
鶉と菊「安居楽業」、すなわち人々が平穏に暮らし、楽しく仕事に励む善政の象徴とされる。

この徳利 じゃない瓶(へい)に入れたら、安酒美味しくなるかもしれませんな

ところで、今さらながらですが、ここまで何点か出てきた「一級文物」、これは、日本でいえば「国宝」に相当する国家による最高のレーティングです。

ふ~ 大阪市立東洋陶磁美術館の見聞録も残りもうわずか
ですが、諸般の事情(文字数が増えるとトラブルが起きがち)により、「#2-6」につづきます。

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今年最初の関西旅行記 #2-4

2025-02-04 15:17:58 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記」を再開します。
「今年最初の関西旅行記 #2-3」のつづきも、大阪市立東洋陶磁美術館の見聞録です。

もともと陶磁器に疎い私、今回、初めて「粉青(ふんせい)なる言葉を知りました。

朝鮮前期の陶磁器を代表するのは粉青である。粉青は「粉粧灰青沙器」の略称で、日本では「三島(みしま)とも呼ばれ、鉄分を含む胎土に白泥で装飾を施したものである。
高麗青磁の伝統を受け継ぎつつ、白泥を用いて、粉青はまったく新しい生気に満ちた意匠に変貌を遂げた。そのシンプルで力強い造形大胆にデフォルメされた文様は、現代の抽象画にも通じる。個性的な文様や形の上に表現された白化粧の多様な技法は、白色を尊ぶ儒教の美意識への変容を象徴している。

だそうで、「粉青掻落 牡丹文 瓶」(朝鮮時代・15世紀)とか、

「粉青鉄絵 蔓草文 瓶」(朝鮮時代・15後半~16世紀前半)とか、デフォルメされた文様が楽しい

そんな中で、「ん??」と思ったのが、「粉青粉引 瓶」(朝鮮時代・16世紀) でした。

使い古されて、ところどころ釉薬部分が剥がれた、ちょいと不細工な壺としか見えなかったのですが、説明板によると、

全面に白化粧を浸しがけした粉引(こひき)技法だが、長年の使用で所々に生じた「染み」は日本では「雨漏(あまもり)とも呼ばれ、茶人の間では「景色」として珍重された。口のくびれは注ぎやすくするための工夫である。加賀・前田家伝来と伝えられ、粉青粉引瓶の最高傑作である。

ですと
やはり私は陶磁器にも茶道にも疎い「野暮天」です

   

朝鮮・中国の陶磁器コレクションが凄まじい大阪市立東洋陶磁美術館ですが、日本産のものにもド素人の私が見ても素晴らしい作品がありました。

私にも織部と判る「織部 舟形向付」(桃山時代・17世紀初/美濃窯)とか、

志野と判る「鼠志野 草鳥文 額皿」(桃山時代・16世紀末-17世紀初/美濃窯)とか、

乾山(が入ってる)となった「色絵 椿文 輪花向付」(江戸時代・18世紀/尾形乾山) とか、

「これは信楽かな?」と思ったら、ピンポ~ンだった「甕」(室町時代・15-16世紀/信楽窯)とか…。

随所に長石の粒が吹き出した信楽特有の土は、独特の触感を生みだしている。淡緑色の自然秞が窯の中で降りかかった跡が数ヶ所白い斑文のようになり、見事な「景色」となっている。室町時代の信楽甕屈指の優品である。

だそうです。

こんな私でも、東京国立博物館で日本の陶磁器を何度も何度も拝見していますので、この程度は判ります

そんな中に、再び「染み」「景色」になっている作品がありました。

これは古くて、奈良時代の作品。

重要文化財「三彩 壺」(奈良時代・8世紀)
本作は薬壺(やっこ)と呼ばれる形の「奈良三彩」で、蔵骨器として出土した類例も知られる。緑釉に白秞と黄秞(褐秞)が点じられ、随所に秞の剥落や銀化が見られる。江戸時代の安政年間(1854-60)に奈良県生駒郡で出土したと伝えられ、大阪・平瀬家伝来品である。

とのこと。
なお、「薬壺」というのは文字どおり「薬を入れる壺」のことで、薬師如来像のシンボル(左手に載せている)とも言える持ち物です。

野々村仁清尾形乾山師弟が造った香合が、二人の個性が際だっていて面白かったなぁ。
まず、華やかでかつなんともかわいらしい 仁清「色絵 結文形 香合」

つづいて、「いかにも乾山な、乾山「銹絵染付 羊歯文 香合」

小さな作品だし、2個まとめてお持ち帰りしたかった

   

大阪市立東洋陶磁美術館マスコットキャラクターのこれ、何に見えますか?

[

私はてっきりだと思ったのですが、

吾輩は虎である。名前はなかったが、このたび「mocoちゃん」となった。
生まれは18世紀の朝鮮半島。王室専用の白磁の官営工房・広州官窯において、優れた「画青匠」(画工)の手によって誕生した。
遠くに見える山並みの上に満月がかかる夜、断崖の上を闊歩する堂々たる姿には我ながらほれぼれとして、思わず笑みがこぼれる。
ツートンカラーの毛並みにスマートな胴と尻尾が自慢だ。は朝鮮半島では霊獣として信仰され、崇められてきた。幸せをつげる鵲(カササギ)と一緒に描かれることも多い。
壺の裏側では猫のように丸まっている。猫に似ているとよく言われる。吾輩はもしかして虎ではなく、猫なのか?

ですと
この「mocoちゃん」が描かれている「青花虎鵲文壺」(朝鮮時代・18世紀後半/広州官窯) が展示されていました。

裏側も見てみました。

収蔵品をもとにしたマスコットキャラクターを持つ美術館・博物館は少なくありませんけれど、普通はマスコットにふさわしくデフォルメするものですが、「mocoちゃん」はポーズこそ違うものの、ほとんど現作品そのままです
大阪市立東洋陶磁美術館良い作品をお持ちだぁ 
なお、「青花虎鵲文壺」安宅コレクションです。
そういえば、京都国立博物館トラりんも、収蔵品である尾形光琳「竹虎図」のデフォルメされている虎を微修正した感じだった

   

大阪市立東洋陶磁美術館ご自慢の設備として、免震装置を組み込んだ回転台があります。館内には全部で3か所に設置されているそうですが、その一つに乗ってクルクル回っていたのは、「加彩 婦女俑」(唐時代・8世紀)でした。

8世紀の盛唐ふっくらと豊満なスタイルの女性像が主流となった。左手には本来小鳥が止まっていたようで、そのさえずりに耳を傾けるように首をややかしげている。
彩色はほとんど落ちてしまったが、かえって造形の美しさが際立つ。

とする説明板には、作品のひと言解説のように、

  盛唐女性はぽっちゃりがお好み

と書かれていました。

ほんとにぽっちゃりです
そして、そのポーズかわいい

この作品を観て思い出した、正倉院宝物「鳥毛立女屏風」に描かれた女性もぽっちゃり系でしたなぁ「鳥毛立女屏風」は国産品(中国にはいないヤマドリの羽毛が使われている)ですが、時は8世紀唐の流行を取り入れて制作されたのでしょう。天平時代の日本人ぽっちゃり系がお好みだったのかどうかは判りません

こんなところで「#2-5」につづきます。

つづき:2025/02/05 今年最初の関西旅行記 #2-5

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THE TOUR OF MISIA 2025の横浜 2 daysのこと

2025-02-03 14:13:53 | MISIA

「今年最初の関西旅行記」シリーズの途中ですが、ここで一昨日&昨日行ってきた「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」横浜 2 daysのことを書きます。例によって、ネタバレ極小にとどめています。
記憶が新しいうちに、ということで…。

天気予報では、2日目2月2日には「南岸低気圧の影響で関東の平野部でも積雪が予想される」などと言っていて(JRも前日から注意喚起をしていた)、私は、大雪のため電車が広範囲に止まり空席がチラホラあった 2014年2月15日MISIA星空のライヴVII -15th Celebration- Hoshizora Symphony Orchestra横浜公演初日のこと(記事)なんぞを思い出して、緊張を高めていました。
でも、結局は、私の知る限り、平地部では雪は降らず、影響はJR青梅線運休したくらいでした。ほんと、良かった

私にとって、愛知(常滑)初日(記事)大阪 2 days (記事)につづく 4 & 5公演目の参加になった横浜 2 daysは、いかにも横浜アリーナ公演らしい、MISIAをはじめとするキャストと聴衆が一体となった素晴らしい盛り上がりでした

驚いたのは、大阪 2 daysから1週間しか経っていないのに、そして横浜の2日間でも、ちょこちょこと修正や新趣向が加わっていたことでした。
セットリストは大阪とほとんど変わっていませんでしたが (2日目に某曲が初めて追加)、ダンサーが増えたり、モニターに新曲の歌詞を入れたり映像を加えたり、エンドロールに写真を追加したりすることで、どんどん「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」として、ショーとして成長(成熟)していっているようです。
正直、愛知(常滑)での初日とは「別物といった感じ。

このツアーを映像化(ディスク化)するとすれば、次(約1か月後)の東京(有明アリーナ)公演か、ファイナルの日本武道館公演収録するのでしょうけれど、もし、有明アリーナ公演を収録するとなれば、そこがほぼ完成形になるのかな??? 
でも、5月28日発売NEW ALBUM「LOVE NEVER DIES」に収録される新曲を、これからセットリストに加えていくだろうことを考えれば、有明アリーナで収録するのは早すぎる気もします

ここで話題を変えまして、いつものヤツ、「MISIAのおことば」です。

まず初日(2月1日)が、

でした。
恒例の「MISIAコール」の導入がこうした形になったのは初めてかもしれません。
「次点」は、「東京タワーの上部はロケットになっている」という話を信じてしまったという、いかにもMISIAらしいエピソードです
2日目には、久しぶりに「医学的にはそれを『緊張』といいます」ネタを披露していました

そして、ピックアップに難儀した2日目はこちら。

ライヴの中で、大林さんのピアノに乗ってMISIAがアドリブで歌うコーナー(?)があるのですが、この日は節分ということで、こんな風に聴衆を振りまいてくれました

なお初日には、ある新曲に絡めて、MISIA

自分が正しい、正義だと強く信じる人は、他人を傷つけたり残酷な言葉を発してしまうことがあると聞いたことがあります。
正義を横に置いて、中心に優しさを持って暮らしていきたい。

といった話(大意)をしていて、なかなか深い と思って「MISIAのおことば」にピックアップしようとも考えたものの、細かい表現まで覚えていなかったことから断念しました

   

横浜 2 days私の座席は、両日ともセンター席で、プロットするとこうなります。

初日は通路に面した席で、これはいいかな? と思ったのですが、前になかなか背の高い人たちがいたこともあり、ステージ上のキャストで見えたのはMISIAだけでした (上手[かみて]ならブロックの右端、下手[しもて]ならブロックの左端じゃないとあまり意味がない)
でも、2日目は、参加 5公演目して初めての「上手」側で、かつ、ステージの上手から下手までほぼすべて(吉田サトシさんは見えたり見えなかったり…)がよく見えました(これまでは真ん中から上手側の方々はほぼ見えなかった)。
おかげで、DJ & House Remixタイムでのお楽しみ「踊るホーン隊」(このセクションでは出番が少ない)も堪能できました

しかも「踊るホーン隊」は、小道具(大阪2日目は、小旗をステージ上に持ち込んで、途中、小旗を振り始めたのは良かったものの、早々に明男ちゃん小旗の本体がすっ飛んで柄だけになったという爆笑ハプニングがあった)が変わり、ダンスレパートリーを広げ、さらにコーラス隊ストリングスをも巻き込んで、一糸乱れぬ振り(?) で場内を盛り上げていました。
これから「THE TOUR OF MISIA 2025」への参加を予定してる皆さん、ペンライトを持っていると、ライヴを一層楽しめます

   

最後になってしまいましたが、肝心MISIA、もう倍音出まくり美しく響く歌声、どこまでも続くロングトーン、空気を切り裂くようなホイッスルボイス(MISIA曰くほとんどの場合はホイッスルボイスではなくファルセットらしいけど)、まさしく「高値安定の素晴らしさでした
どの公演でも、拍手がずう~っと長く続く「あの曲」2日目には、MISIAがMCを始めようと「ありがとうございました」と話すと、再び拍手が始まり、それが続く続く… MISIAはしばらくお辞儀をしながら拍手の嵐を受けていましたが、ついには、拍手にかぶせるようにMCを始めましたとさ

次の「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」東京(有明アリーナ)公演まで1か月と1週間空くことになるわけですが、この間、MISIAは愛知公演で「今、絶賛レコーディング中」と言っていたアルバム制作没頭するんだろうな
一方、バンドメンバーは新しいアドリブの構想を練り、スタッフは「もっと良い、もっと楽しいライヴ構成はないか」と頭をひねるんでしょう
東京(有明アリーナ)公演楽しみです

【追記】記事をアップしたあと、いろいろ間違いを見つけてしまい、ちょこちょこと随時修正しています (2025/02/03 20:47) 

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