新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(前編)

2016-02-29 20:46:34 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

原田直次郎展昨日、「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」を観に埼玉県立近代美術館(MOMAS)に行ってきました。

北浦和駅を出て、MOMASのある北浦和公園前の交差点まで行きますと、なんだか風景がさっぱりしています。

埼大通り「日本一長いけやき並木」が剪定されたようです。

私、埼大通りの沿道で暮らしていた時期がありまして、このけやき並木にも馴染みがあります。
初夏の若葉の頃はホントにキレイ気持ちよいのですが、になると、早くも落葉が始まって、沿道の人は掃除が大変になります。
また、けやきの根の勢いのせいで、歩道凸凹していて、歩くのが大変です。自転車にはもっと辛いぞ、きっと

それはともかく、MOMASを見物する前に、「半年前の信州旅行記(その22)松本編④」

「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」(2/11-3/27)を観に行くときに拝見してくることにします。

と書いた「旧制浦和高等学校門柱」を拝見しました。

たまたま作業用のトラックが入門した直後だったため、門が開いていますが、普段は閉じています

公園内から見た旧制浦和高等学校正門

って、この内側からの眺めは何度も見たことがありました

門柱には銘板が取り付けられていまして、曰く、

旧制浦和高等学校正門

旧制浦和高等学校ハ大正10年11月8日第20番目ノ官立高等学校トシテ創設サレ、昭和22年4月ノ学制改革ニヨリ昭和25年3月最後ノ卒業生(第26回生)ヲ送リ出シテ閉校ソノ光輝アル28年間ノ歴史ノ幕ヲ降ロシタ
ソノ間5,418名ノ卒業生ヲ世ニ送ッタガソレラ有為ノ青年ハ学術 文化 政治経済等ノ各分野ノリーダートシテ活躍シ戦後日本ノ復興ト繁栄ニ貢献シテキタ
埼玉県ナラビニ浦和市ハ同校ノ跡地ヲ公園トシテ整備シ県民ノ憩ノ場トシテ提供シタ コノ門ハ旧制浦和高等学校ノ正門デ同校ノ姿ヲ今ニ伝エル唯一ノ構造物デアル

昭和62年11月15日

旧制浦和高等学校同窓会

だそうです。
カナ遣いの文章は打ちづらい…

さて、「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」を観ましょうか、、と思ったら、音楽噴水の時刻になったので、噴水池前のベンチで一服

音楽噴水と虹

ちょうど良いの向きで、きれいにが出現しておりました

さてさて、MOMASに入館

いつもながら、MOMASエントランスのこの眺め、ごにょごにょした感じが好きだなぁ~

   

展示室入り口のタイトル看板を見ると、モダンデザインの展覧会かと思ってしまいますが、 この「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」「100年ぶりの回顧展」という触れ込みです。

図録から神奈川県立近代美術館の水沢館長による文章を引用させていただけば、

原田直次郎(1863-1899)の最初のまとまった展覧会は、没後10年の際に、画家の甥・熊雄の発案により、畏友・森鴎外(1862-1922)を中心に企画され東京美術学校(現在の東京藝術大学大学)を会場に開催されている。1909年11月28日、「原田直次郎氏記念会」による一種の「偲ぶ会」ともいうべきものであった。この初個展は、わずか一日だけの公開であった。(中略)
本展は、その日以来、じつに106年ぶりの個展である。21世紀に生きるわたしたちが19世紀の画家・原田直次郎の画集に「個展」として対峙する貴重な機会となる。

とのこと。

明治維新直前に生まれ、わずか36歳明治32年に亡くなった、まさしく日本の西洋画の先駆者の一人です。
私が初めて原田直次郎という名前を意識したのは、3年前に東京国立近代美術館(MOMAT)で開催された「美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年」(展覧会の記事はこちら)で巨大(272×181cm)「騎龍観音」(桐生観音ではない)を観たときでした。

「騎龍観音」「お持ち帰りしたい作品」ではありませんでしたので、記事には書きませんでしたが(お持ち帰りしたい作品目白押し凄い展覧会でしたし)、インパクトは大きかった…

宗教画(と言っていいでしょ)がこれほどリアルで良いのか

と思ったわけなんですが、この作品の寄託を受けているMOMATの解説によれば、

ドイツに留学した原田直次郎は、ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作しました。油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作です。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こしました

だそうで、そりゃそうだなと思います。

この作品に加えて、この展覧会のポスターにも使われている「靴屋の親爺」(タイトルも最高)、

これまた凄まじいインパクトです

では、このオヤヂが何といっているのか吹き出しをつけてみよう というなかなか気の利いた企画が行われていたのですが、ホント、何を言おうとしているのか気になります

それはそうと、「騎龍観音」「靴屋の親爺」の印象から、原田直次郎って、ゴツいイメージを持ってしまいます。

実際どうだったのか、、、、。

その話は「後編」で書くことにしましょう。
まだ原田直次郎の代表作2点しか紹介していないのに、済みませぬ

ところで、「このオヤヂが何といっているのか」、私も考えてみました。

どんな歩き方をしたら俺の作った靴がこんな風になるんだ?
スマホ見ながら歩いてんじゃねぇぞ、コラ

って感じでしょうか

つづき:2016/03/05 埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(中編)

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半年前の信州旅行記(その30)松本編最終回

2016-02-27 21:56:02 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その29)松本編⑪」のつづきです。

旧開智学校は、同じ「開智」の名を持つ松本市立開智小学校と隣接していて、松本市開智2丁目にありますので、私はてっきり、もともと現在の位置にあったのかと思ったのですが、リーフレットによれば、

この校舎は昭和38年(1963)まで約90年間にわたって使われていた、国内で最も古い小学校校舎のひとつです。同36年3月23日、建築文化史上重要な物件であることから、近代の学校建築としては初めて重要文化財に指定されました。昭和38年1月から翌年8月にかけて、市街地を流れる女鳥羽川のほとりから現在地に移築され、新築当時の形に近づけて復元されました。昭和40年4月、旧校舎は教育博物館に生まれ変わり、校舎とともに貴重な教育資料も公開しています。

だそうで、解体移築前(1963年)の写真が載っていました。

旧開智学校校舎内の説明板によると、

当初は現在残る本館部分に、L字型に教室棟が附属していました。修理工事等で当初の姿を残していなかったため、重要文化財の指定からは除外され、現在は残っていません。

とあって、「教室棟」が写真でも判りますな。
「その29」で、

普通の小学校・中学校・高校の校舎を思い浮かべれば、(旧開智学校校舎のように)建物の真ん中を廊下が貫いている構造というのは、そうそうないと思います。

と書きましたが、この建物が「管理棟」的な建物だったとなれば合点がいきます。
もっとも、開智学校が開校された当時はどうったか不明ですが…

それはともかく、市街地を流れる女鳥羽川のほとりという旧所在地がどこだったのか、での展示では見つけられませんでした
そこで、帰ってから調べてみると、跡地は「南深志本町(現・松本市中央2丁目)」にあり、石碑や説明板もあるそうな。

その場所、もうちょっと詳しく探すと、

スカイビル長野県理容会館とか三井生命松本営業部とか駐車場がある辺り、もしかすると時計博物館の敷地も含まれていたかもしれません。

あらかじめのことを知っていたら、跡地にも行ったのになぁ…

旧開智学校校舎の見学の後、松本駅前に戻る際、ソバ屋に忘れてきたらしい帽子の後釜を調達するべく、バスを途中下車して、この旧開智学校跡地すぐ近くを歩いたんだから…

旧開智学校校舎の展示を私が見落としたのか、そもそもなかったのか…
いずれにしろ残念です…

ところで、旧校舎(街のど真ん中)と、現開智小学校とはずいぶん離れています。
開智小学校は、旧開智学校から街の中心部にあった校舎を引き継いで、1963年現在地に移転したとのことですが、こんなに離れていて、学区はそのままなのでしょうか?

調べてみますと、松本市の資料によれば、

旧校舎のあった中央2丁目のほとんどは、現開智小学校の学区になっていました。
なるほどぉ~
それにしても、都市部の小学校にしては、広い学区のような気がします。

   

さて、旧開智学校「擬洋風建築」をもうちょっと楽しみましょう。

この角度から観ると、左上にちょいと見えている東西南北を示す金属板と縦長の窓を除けば、瓦屋根といい、漆喰壁といい、石垣の算木積み風の角(かど)の処理といい、いかにも和風です。

ちなみに、「算木積み」風の部分は、実際に石を積んでいるのではなく、石板を貼っているのだとか。
一方、正面玄関は、

和様折衷極み ってヤツです。

「擬洋風建築」については、校舎内に判りやすい説明板がありました

見方によっては、「ゲテモノ」と言われるかもしれないけれど、旧開智学校の場合、下卑て見えない、それどころか「端正」にさえ見えるのはどうしてなんでしょ

想像するに、立石棟梁が、「こんな感じだとウケるんじゃないかな?なんて軽いノリではなく、時代最先端の建物を造るんだという気合いのもとに、持っている知識技術技能発想をつぎ込んだ「本物の擬洋風」だからなのではなかろうか…

そんなことを考えながら、旧開智学校校舎を後にしたのでありました。

   

旧開智学校校舎の隣に、洋館が立っていました。

サイコロのような形といい、水色の外壁といい、日本の意匠ではあり得ませんな。

この建物は、「旧司祭館」というものでして、

旧司祭館は、明治22年(1889)松本カトリック教会神父クレマン(フランス人)により、旧藩政時の武家屋敷跡(松本市丸の内9番32号)地に建設された西洋館で、アーリーアメリカン風の建築様式を伝え、各部屋には暖炉を配し、1・2階ともベランダを備え、外壁に下見板張りを施すなど、随所に西洋館の特徴を表している。

だそうです。

旧開智学校校舎とは打って変わって、北面(現状)のほぼ全面ガラス窓で、

気持ちよさそうな造りなんですが、もともとこの方角で建てられていたのでしょうか?

これだけ「陽光燦燦なスペースが、北側に設けられているというのは、ちょっと解せない…

そんなことを考えながら旧司祭館を出て、 「旧開智学校」バス停開智小学校前にある)から「松本周遊バス タウンスニーカー」に乗って、松本駅方面に向かいました。

そして、途中の「伊勢町Mウイング」バス停でバスを降り、近くの松本PARCOで帽子を買い、松本駅南西側にあるホテルまで歩いたのですが、前記のとおり、ここで至近の「旧開智学校跡」に立ち寄れれば言うこと無し だったんですけどねぇ~

返す返すも残念です

これで今回の松本周遊お終い(夕食を除く)だったのですが、「旧開智学校跡」の一件を除けば、至極満足の一日でした。
いやいや、午前中は長野市を観光したわけで、なんとも濃密な一日でありました。

つづき:2016/03/09 半年前の信州旅行記(その31)茅野編 1

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半年前の信州旅行記(その29)松本編⑪

2016-02-23 23:34:25 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その28)松本編⑩」のつづきも重文 旧開智学校の見聞録です。

きょうは旧開智学校内部を見てみましょう。

と、その前に、平面図を。

現代の小学校との違いに気づきませんか?

そりゃ、普通の小学校に「明治天皇御座所」なんてのはありませんが、そのことではなく、普通の小学校・中学校・高校の校舎を思い浮かべれば、建物の真ん中を廊下が貫いている構造というのは、そうそうないと思います。
ほとんどの場合、校舎東西に伸びていて、北側に廊下南側に教室があり、さらに教室の中では、西側に黒板があったはずです。
これは、多数派の「右利き」の児童・生徒のために、筆記する右腕の影がノートを覆わないよう、左から光を入れるためです。

照明器具を簡単に設置できる現代でもこうなのに、明治初年に建てられたこの旧開智学校がこんな構造で大丈夫だったのでしょうか?

教室を覗くと、

もともと窓が小さくて、南側の教室でもこんな風。仮にが開け放たれていたとしても、あまり明るくなかったような感じです。

   

話題を変えまして、旧開智学校細部を見てみましょうか。

ドアを見ると、この装飾とか、

「杢目」手書きしちゃっているし、

見上げれば、こんなステキ照明器具とか、

はたまたステンドグラスまであって、

まさしく「一品もの学校(校舎)であります。

当時の筑摩県参事(知事)永山盛輝さんが、

教育を立県の指針とし、文明開化政策を推し進めたが、

というだけあって、意気込みになって残っています

感心しました。

「その30」もまだ旧開智学校のことを書きます。

つづき:2016/02/27 半年前の信州旅行記(その30)松本編最終回

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半年前の信州旅行記(その28)松本編⑩

2016-02-22 23:27:04 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その27)松本編⑨」のつづきです。

松本城を後にした私は松本城の北にある「名所」を目指したのですが、途中、こんなを見かけました。

江戸時代末期の旧町名 鷹匠町

とあります。

いかにも城下町らしい町名です

私のふるさとにも鷹匠町がありましたっけねぇ~

○○○野、△△△が丘」で書いたような、思わず身震いするような気恥ずかしい地名と、同じく一般名詞が使われているのに、その地の来歴が感じられる「鍛冶町」「家具町」「肴町」「馬口労(馬喰)町」「鉄砲町」といった旧町名と比べたら、って、比べるまでもなく後者圧倒的に私の好みです。

   

さて、松本市開智2丁目で見た光景は、新旧のコントラストが鮮やかなものでした。

手前が松本市立開智小学校で、左奥が旧開智学校校舎です。

旧開智学校校舎は、私にとって松本城以上にで拝見したい建物だったといっても過言ではありません
そして、期待に違うことのない魅力的な建物でした

とりわけ、東京日日新聞毎日新聞の前身)の題字パクったといわれている、校名板cute

もう一枚、正面から

この建物、リーフレットによりますと、

現存する重要文化財の校舎は明治8年4月に工事が始まり、翌9年4月に完成しました。教育を(筑摩県の)立県の指針とし、文明開化政策を推し進めた筑摩県参事(知事) 永山盛輝が計画し、地元松本の大工棟梁立石清重が設計・施工しました。立石は東京や横浜などに西洋建築を見学に行き、新校舎建築にあたりました。和風と洋風が混ざりあった擬洋風建築の校舎は、東京の開成学校(現東京大学)などを参考にしたと言われています。

ということで、明治初年の文明開化の風を伝える建物というわけです。

上にリンクを貼ったサイトの説明では、

西洋文明のうわべだけのまねにすぎないものも多かった。

と、「文明開化」を、結構冷ややかに説明しています。

確かに、「見た目」重視の傾向はあったかもしれないけれど、そんな、先進国の風(ふう)を吸収して、自分の血肉にしようとした当時の職人さんたち貪欲な精神技術には感服するべきなのではないかと思います。

「その29」でも旧開智学校「考察」いたします。

つづき:2016/02/23 半年前の信州旅行記(その29)松本編⑪

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東京国立博物館は館内も外も梅が満開

2016-02-21 21:33:49 | 美術館・博物館・アート

先週の皇居東御苑(旧江戸城)(記事はこちら)につづいて、きょうは東京国立博物館(トーハク)を観に行ってきました。

今日のトーハクは、結構な賑わいで、、っつうか、上野公園全体がかなり賑わっていました

さて、私はトーハクに入場するなり、表慶館の南側を通って休館中法隆寺宝物館へ。
ここがトーハク「梅スポットでして、さっそくの香りが

紅梅も悪くはないけれど、やはり私は白梅の方が好きだな…

でも、アップにすると、どこの判らない
ホントに今日、トーハクで撮った写真でございます。

ツンツンと上を向いた枝がらしくて、大変によござんす

   

外の「リアル梅」だけでなく、関連の美術品もごっそりと観られるところがトーハクならではでして、まずは野々村仁清「色絵梅花文茶碗」

紅梅「朱」白梅「金」で表現されていて、かなり華やかです。
一方、同じ仁清の作品、重文「色絵月梅図茶壺」では、白梅「黒」、、、、

に見えますが、元々は「銀色」だったそうな。

ちょうど今、ミュージアムシアターでは、「日本工芸の名宝 色絵月梅図茶壺 八橋蒔絵螺鈿硯箱」上演中で、私も、きょう、観てきました。

 

「日本工芸の名宝 色絵月梅図茶壺 八橋蒔絵螺鈿硯箱」は、硯箱の中に入って、外の絵付けが中に透き通って見えたら、どんな風だろうか? という趣向は面白かったのですが、総じていえば、これまで観たミュージアムシアターで観た作品の中では、一番あっさりしていたような気がしました。

それはともかく、「色絵月梅図茶壺」では、日本の美術作品ではよく見られるようにに加えて、白梅で表現されていたことを知りました。
さらに、絵画銀箔と同様、陶芸でも、時間が経てば黒く変色することも初めて知りました。(下の写真はミュージアムシアターの外に展示されていた「色絵月梅図茶壺」の展開図)

絵師の方々、は時を経ると真っ黒に変色してしまうことを知らなかったのでしょうかねえ…
それは知りつつも、敢えてその時だけでもの輝きを欲したということなのでしょうか?

   

さて、トーハク「総合文化展」では、上記の「色絵梅花文茶碗」「色絵月梅図茶壺」だけでなく、がらみの作品がどっさり

とりわけ、近世の日本画コーナーは、

だらけぇ~

この中では、現秋田県知事ご先祖筋にあたる佐竹義躬「紅梅椿図」に目を惹かれました。

佐竹氏といえば、江戸時代初頭、常陸から出羽(秋田)に移封され、その後を受けて常陸には御三家の一つ、水戸徳川家が本拠を構えたわけですが、その水戸徳川家きってのスーパースター(?)徳川光圀(いわゆる黄門様)の直筆の書状も展示されていました。

説明板によれば、

この書状は紀州藩士渡邊若狭守にあてたもので、来訪の礼を述べ併せて手紙を届けた使者が持参した刀を刀工伊賀守金道に渡すことを依頼している。

だそうですが、まったく読めませぬ…

ところで、ますます話が逸れますが、徳川家「葵紋蒔絵野弁当」なる調度品が展示されていました。

「三つ葉葵」の紋所が、これでもか とばかりに散らされた豪華なこの調度品、説明板を見ると、

「Picnic Set」とあります

転記しますと、

野弁当は、大名のピクニックセット。花見や観楓などの行楽や、道中のための飲食器一揃である。酒器や重箱、飯椀・汁椀から、多くは茶を点てる道具まで含むため、茶弁当ともいう。箱側面の上部につけた金具に棒を通して肩に担ぎ、持ち運んだ。

だそうです。
なんとも優雅なことで…

   

話を「梅」に戻すと、やはり鈴木春信「風流四季哥仙・二月水辺梅」は良いなぁ…

石灯籠に片肘をついたツンデレ系の女の子が何ともよろしいのですが、「梅」を描いた浮世絵版画といえば、私が鈴木春信に勝るとも劣らず敬愛する歌川廣重のこちらの作品を見逃すことはできないでしょう。

かのファン・ゴッホ模写したことでも知られる「名所江戸百景・亀戸梅屋敷」です。

ちなみに、私が今使っている飯茶碗は、の図柄でございます。

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半年前の信州旅行記(その27)松本編⑨

2016-02-20 20:49:43 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その26)松本編⑧」のつづきは、松本城本丸のお話です。

「松本城天守入城までの待ち時間 60分」という掲示があったわけですが、実際どうだったかといいますと、この時の観覧券松本城松本市立博物館共通観覧券)をご覧くださいませ。

左側の松本市立博物館のチケットは使用済みですが、右側松本城のは未使用

予告どおり、入場待ちの列がズラリ だったのですよ

結局、今回は松本城天守は、外から眺めるだけにとどめることにしました。
それでも、間近に天守を眺めるだけでもなかなかなもの

かなり手入れが行き届いている感じで、築城から400年以上も経っているようには見えません。
それにしても、窓が少ない
壁には小さな狭間(さま)が点々とあるけれど、は各面に一つくらいしかありません。
これじゃ、中は相当暗そうで、生活するには鬱陶しいでしょうな。
もっとも、天守「生活の場」ではなく戦の時の司令部のようなものですから、それはそれで何とかなったのかもしれません。

「その24で、

5棟が絡み合った「連結複合式」だという松本城天守は、メインの大天守を含む北側の3棟が、先ほどの太鼓門枡形の説明板にも登場した石川康長によるもの(推定1593~4年)で、南側の2棟(辰巳附櫓と月見櫓)松平直正によるもの(寛永年間:17世紀央)らしい。

と書きましたが、この造られた時期城の性格と構造に影響を与えているようです。
松本城の公式HPによれば、

戦国大名が領国をめぐる争いを繰り返してきた戦国時代、常に敵と戦い、敵から領国を守ることを念頭にした戦略拠点としての性格が強く、強固な城が造られました。松本城の大天守・渡櫓・乾小天守は、こうした時代の末期に、関東の徳川家康の監視という役割を負って築造されました。
このように戦いを想定した備えとして、この三棟には、鉄砲狭間(さま)・矢狭間という弓や鉄砲を放つための小さな窓を115か所設置し、一階壁面の一部を外に張り出してその床面を開け蓋をつけた、鉄砲を撃つための石落を11か所設けています。天守の壁は一・二階で約29センチメートルと厚く、また内堀幅を火縄銃の高い命中精度が維持できるぎりぎりの約60メートルとして、鉄砲戦の備えを持っています。
このように戦うことを想定した備えをもつ大天守・渡櫓・乾小天守の三棟が戦国時代末期に、それから40年後の江戸時代初期の平和になった時代に、戦う備えをほとんどもたない辰巳附櫓・月見櫓の二棟が建てられ、異なる時代にわたって建築されました。それぞれ結合された天守・櫓が複合しているのが松本城です。戦国期と江戸期という性格の違う時代の天守・櫓が複合された天守群は我が国唯一で、松本城の歴史的な特徴のひとつです。

とのこと。

確かに、右の乾小天守・大天守と、左手前の月見櫓はまるで造りが違います

天守の南東部に位置する月見櫓は、屋根はお城では珍しい寄棟で、張り出した回欄朱塗り高欄が巡り、壁面は取り外しのきく「舞良戸(まいらど)」と呼ばれる板戸しかありません

松本城の公式HPによれば、

徳川家光は寛永11年(1634)に上洛し、その帰り道に善光寺参詣を願い、宿城として松本城を宛てることになりました。時の松本城主・松平直政は、急遽寛永10年(1633)から普請にかかったと伝えられています。しかし、家光は中山道木曽路等に落石があり、来松しなかったといいます。

だそうで、松平直政公はさぞや気落ちしたことでしょうなぁ…
ちなみに徳川家光公と松平直正公とは従兄弟(家光の父・徳川秀忠と直正の父・結城秀康異母兄弟)の間柄です。

   

ところで、名城名古屋城の略称に非ず)に必ずといって良いほど登場する武将がいます。

そう、「せいしょこさん」こと加藤清正公です。

松本城にもゆかりのものがありました。
それがこちら

「清正公 駒つなぎの桜」という杭が立てられていますが、説明板によれば、

熊本城主加藤清正が江戸からの帰りに松本城に立ち寄った際、城主石川康長は、土産として駿馬二頭のうち一頭を差し上げる旨清正に申し出た。
加藤清正は、志のほどを感謝して「貴殿の目利きで取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。二頭友申し受けるのが礼儀と心得る。」といって二頭を頂戴して帰った。これを伝え聞いた人々は、さすがは清正公と感じ入ったという。
この時、駒をつないだ桜の木だと伝えられている。

だそうです。

加藤清正石川康長格の違いが感じられるエピソードだと思います。
さすがは清正公と感じ入ったという」とありますが、人々はどんな意味で「さすがは清正公」と感じ入ったのでしょうかねぇ…

   

ここで、昼食早すぎたせいか(こちらの記事おなかが空いてきたもので、一旦、松本城から出て、お城近くのソバ屋さんこの日二度目の昼食をいただきました。

腹ごしらえが済んだところで、もう一度松本城内に入り、今度は内堀の外を時計回りに歩いて

松本城天守を拝見
この角度からの眺めも良いなあ

松平直正公が辰巳附櫓と月見櫓を建てた頃は、既に「白い城」の時代だったはずですが、どちらも「黒い城」直正公も、さすがに「黒い城」「白い城」を増築するのはヤボだと思われたんでしょうなぁ

こちらの写真はちょっと「絵はがき風」っぽ過ぎるような…

こうして松本城天守の西側を抜けて、次なる目的地を目指したのですが、このとき、気がつきました

ソバ屋帽子忘れてきた

ソバ屋に戻る気力はなく失意のうちにに歩を進めたのでありました。

つづき:2016/02/22 半年前の信州旅行記(その28)松本編⑩

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半年前の信州旅行記(その26)松本編⑧

2016-02-19 23:01:39 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その25)松本編⑦」のつづきです。

私が松本を訪ねたのは、2015年7月19日のこと。
そのわずか10日ほど前7月8日、松江城が、お城としては5番目の国宝に指定されたわけでして、松本城本丸手前に、松江城国宝指定お祝いするこんな看板がありました。

 松本城主 松平直正公が松江へ移りました。

とあります。
「その24」「その25」で書いたとように、「松平直正」は、松本城を築いた石川氏のあと、小笠原氏、と戸田氏を挟んで次の城主で、天守の南側2棟(辰巳附櫓と月見櫓)を建てた方です。

国宝に指定されている5城(松本城、松江城、犬山城、姫路城、彦根城)のうち2城の城主だったなんて、平・本・「松づくし」だったご利益だったのでしょうかねぇ…

で、もう一つ看板がありました。

松本城天守入城までの待ち時間
60

ですと
しかも、

なお、天守内の見学所要
時間は約60分です。

だそうですから、行列に並び始めてから天守内の見学を終えるまで2時間かかるとのご託宣です。

この時の時刻15:00でしたから、このご託宣どおりだとすれば、この日の活動はで松本城天守お終いということになってしまいます。

ここでしばし迷いました
今回の松本訪問はを松本城天守を以て終わるべきか、もう一箇所見物するか…

結論は、とりあえず本丸入城して、ホントにこの看板どおり「松本城天守入城までの待ち時間60分」なのかを見てみよう、ということでした。

そして、黒門から松本城本丸入城

そして、左手には国宝松本城天守ぅ~~

と、ここから先は「その27」で。

つづき:2016/02/20 半年前の信州旅行記(その27)松本編⑨

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半年前の信州旅行記(その25)松本編⑦

2016-02-16 23:02:23 | 旅行記/ニュース

きょう一番のうれしいニュースは、、

松本から世界へ、壮大な夢 小澤さん受賞

 「松本から世界に音楽を発信する」という地元と育んできた壮大な夢が実を結んだ―。指揮者の小澤征爾さん(80)が、2013年8月のサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本で指揮した「こどもと魔法」を収めたアルバムが第58回グラミー賞最優秀オペラ録音部門を受賞した。「世界のオザワ」と称され、幾度となくグラミー賞にノミネートされた小澤さんが80歳を迎えて初めて受賞した快挙に16日、松本市などのフェス関係者や出演者らには喜びと祝福の声が広がった。
(信毎webより)

でしょう

ラヴェル:歌劇「こどもと魔法」
モーリス・ラヴェル,小澤征爾,サイトウ・キネン・オーケストラ,イザベル・レナード,アナ・クリスティ,ジャン=ポール・フシェクール,ポール・ゲ,マリー・ルノルマン,イヴォンヌ・ネフ,エリオット・マドア
ユニバーサル ミュージック

まことにめでたいことで、私のきょうの帰りBGMは、小澤さん指揮による、

ベートーヴェン:交響曲第4番&第7番
小澤征爾,ベートーヴェン,水戸室内管弦楽団,安芸晶子,会田莉凡,植村太郎,小栗まち絵,川崎洋介,久保田巧,木嶋真優,佐分利恭子
ユニバーサル ミュージック

でした。

さらに、グラミー賞受賞を記念して、、、、というわけではなく、「半年前の信州旅行記(その24)松本編⑥」のつづきです

国宝 松本城天守

松本城築城(第1期築城)した石川康長さん(現代人の名前にもありそう…)、調べると、康長さんはもともと徳川家康の重臣だった石川数正さん(これまた現代人の名前にもありそう…)の嫡男だったそうで、Wikipediaによれば、

小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年)11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。
秀吉は数正を家臣として迎え、和泉に8万石を与えた。天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、その後を受けて信濃松本10万石に加増移封された。数正が文禄2年(1593年)に死去した後、その遺領は嫡男・石川康長が8万石(石川氏の家督も同時に継いでいる)、次男の石川康勝が1万5000石、3男の石川康次が5000石とそれぞれ分割して継いだ。数正・康長父子は松本城を近世城郭に改め、城下町の建設に務めた。だが数正没後、跡を継いだ康長はその築城のために過酷な賦役を民衆に課したと伝わっている。

だとか。
さらに、

康長兄弟は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、戦後に家康から所領を安堵された。慶長15年(1610年)に家中で騒動が発生する。筆頭家老の渡辺金内と若手実力者の伴三左衛門との間で、藩政の主導権をめぐって対立したのである。この裏にはかつて数正に煮え湯を飲まされた家康がいたらしい。家康は、あわよくば家中騒動を理由に松本藩を取り潰す気だったのであろう。しかし、康長の縁戚であった大久保長安(長安の長男の妻が康長の娘)がこれを助けた。長安はかつて康長の後見人でもあった宿老・秋山治助をこの内紛に介入させて、三左衛門を石川氏の中枢から駆逐することで、無難に騒動を終結に導いたのである。慶長18年(1613年)4月、大久保長安が亡くなり、長安の死後に起こった大久保長安事件において、康長兄弟は長安と縁戚であるという理由(取り潰しの表向きの理由は領地隠匿罪)から改易されてしまった。他に改易の理由として分限をわきまえずに城普請を行なったことが付け加えられている。他にも家康の意趣返し、福島正則と同じ外様大名外しともされる。

とな。
徳川から離れたり近づいたりと浮遊した石川氏、一旦、家康に受け入れられたように見えつつも、やはり出奔を根に持たれていたんでしょうなぁ。

石川氏改易の後の松本藩は、明治維新までの間に、小笠原⇒戸田⇒松平⇒堀田⇒水野⇒(幕府直轄)⇒戸田と、めまぐるしく藩主が代わっています。
そして、石高は、立派なお城を誇る松本藩にしてはささやか6~10万石
お隣の松代藩が、真田信之以降、ずっと真田氏が治めていたのとは対称的です。

う~む、、、、です。

と、MISIA星空のラジオが始まったので、今夜はここまで

【追記】松本城主(松本藩主)の流れを修正しました。(2016/02/20 09:13)

つづき:2016/02/19 半年前の信州旅行記(その26)松本編⑧

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久しぶりに皇居東御苑と国立近代美術館を楽しんだ

2016-02-14 21:23:59 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

昨夜からの激しい風雨が、思いのほか早く収まったもので、外出を決行しました。
せっかくの3連休だというのに、一昨日から昨日の午前中まで自宅にはりつかざるを得ない事情があったもので、鬱屈したものがありましたから。

まず訪れたのは、「半年前の信州旅行記(その24)松本編⑥」

皇居(江戸城)もそうですが、お城のお濠に白鳥が似合うのはなぜなんでしょ?

と書いたからではありませんけれど、

白鳥のいる皇居東御苑です。(上の写真、なんだかに写っている…
白鳥お休み中

皇居東御苑にやって来た目的は白鳥ではありませんで、こちら

を観に行ったのでありますよ。

二の丸から本丸に至る、その名も「梅林坂」には心地良い梅の香りが満ちていて、鼻がスースー通っていきます

今朝の暴風にも負けず、けなげに咲いていました。

それにしても、中国語がビシバシと聞こえます。
もしかすると、日本人よりも外国人、それも中国人が多かったかもしれません。
もう春節休暇は終わったはずなのにね…

それはともかく、もう1

今回は天守台に上ることなく、

旧江戸城天守台

北桔橋門(きたはねばしもん)から退出して向かった先は、国立近代美術館(MOMAT)です。
きょうのお目当ては企画展「恩地孝四展」ではなくて、

企画展「ようこそ日本へ:1920‐30年代のツーリズムとデザイン」でした

私、1920-30年代のアート/デザイン大好きでして…

「ようこそ日本へ」展は、期待に違わない楽しい展覧会でしたが(埼玉県立近代美術館好評開催された「旅と芸術ー発見・驚異・夢想」と連携して同時開催したらよかったのに…)、それに勝るとも劣らなかったのが、所蔵作品展「MOMAT コレクション 特集:ちょっと建築目線でみた美術、編年体」

「ようこそ日本へ」展のことは後日書くことにしまして、きょうは「MOMAT コレクション 特集:ちょっと建築目線でみた美術、編年体」から数点ご紹介します。

「建築目線でみた」というところはちょいと上滑りしていた感があったことと、私の嫌いChim↑Pomの「作品」が2点音響つきで展示されていたことを除けば、こりゃ楽しかった

きょう初めて拝見して、一番「お持ち帰り」したかったのは、こちらの作品

中村正義「源平海戦絵巻 第1図(紅白吐霓)」です。
繰り返し描かれるの上に、これまた繰り返し描かれる源氏の小舟と、

これまた繰り返し描かれる平氏の小舟…、

このパターンって、「琳派」が使う手法のような…

   

この記事は、「半年前の信州旅行記」中断して書いているわけですが、そんな我が身にあれまぁ~ と思わせたものが3点ありまして、まず2点の作品がこちらで、

草間彌生さんの「残骸のアキュミレイション(離人カーテンの囚人)」「集積の大地」で、否応もなく松本を思い出してしまいます。(この2点は、1950年作といいますから、草間さんが20~21歳の頃の作品

そして、まったく予想していなかっただけに衝撃的だったのは、こちらの説明板でした

まさかここで藤森照信さんの「神長官守矢史料館」が登場するとは

「神長官守矢史料館」は、「半年前の信州旅行記」を書き綴るうち、100%間違いなく見聞録が登場するはずなんですけど…

ということで、次の記事では「半年前の信州旅行記」に戻る予定です。

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半年前の信州旅行記(その24)松本編⑥

2016-02-14 11:12:50 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その23)松本編⑤」のつづきです。

松本駅前に戻った私は、同じ「松本周遊バス タウンスニーカー」でも、今度は北コース(大きなバスでした)に乗り、松本城へと。

「松本城・市役所前」でバスを降りると、松本城のお濠では白鳥が和んでおりました。

皇居(江戸城)もそうですが、お城のお濠に白鳥似合うのはなぜなんでしょ?
ちなみに、松山城のお濠でも白鳥が飼われているようですが(こちらをご参照方)、私は気づかなかった…

それはともかく、松本城の入口の一つ、太鼓門枡形から入城しました。

すっごくキレイなんですけど・・・

一の門も、

木造部分をみると、「築後数年」のイメージです

説明板によりますと、

城の入り口を固く守るためには様々な工夫がなされた。その典型的なものが枡形門で、石垣・土塀を四角に囲って、内と外に門を二重に構えたものである。松本城には、大手門・太鼓門・黒門の三つの枡形門があった。
太鼓門は、天守築造後の文禄4年(1595年)頃に石川康長によって築造され、それから270年後の明治4年(1871年)11月、旧物破壊の風潮の中で取り壊されたままになっていた。第2次世界大戦後になって文化財保護の思想が高まり、松本城国宝保存工事、黒門の復興等を経て、平成11年(1999年)3月、128年ぶりに太鼓門枡形が復元された。

だそうで、実際に新しかったというわけです。
また、太鼓門から入った正面にその横顔をのぞかせる黒門も再興されたものなんですな

ここで松本城平面図(縄張り図?を載せておきましょう。

内堀に突き当たって左に曲がり、ちょっと歩くと、、、、見えてきました、国宝松本城天守

やはり良いなぁ、黒い城

と、ここで気づきました
私、松本城誰が造ったかを知らない

そこで、本丸に入城する前に、説明板を読み入りました。

5棟が絡み合った「連結複合式」だという松本城天守は、メインの大天守を含む北側の3棟が、先ほどの太鼓門枡形の説明板にも登場した石川康長によるもの(推定1593~4年)で、南側の2棟(辰巳附櫓と月見櫓)は松平直正によるもの(寛永年間:17世紀央)らしい。

でも、石川康長さんって誰? です。

その辺のことは「その25」で書きましょう。

つづき:2016/02/16 半年前の信州旅行記(その25)松本編⑦

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