新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年最初の関西旅行記 #3-1

2025-02-11 12:23:54 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-9」のつづき、関西旅行最終日(1月27日(月))の探訪記です。
最終日は、雨が降るという予報が出ていて、ホテルの自室のカーテンを開けると、

どんよりと曇り空

トートバッグに常備品折り畳み傘が入っているとはいえ、なんとか昼過ぎまではもってくれないものか と祈る気持ちでした。

この日朝までに構想していた最終日の行程は、ホテルを出発したら直ちに京都に移動し、まず妙心寺に行き、そこから京都の中心部に戻って錦市場を散策し、時間があれば建仁寺にも行って、予約している京都駅14:30発新幹線で帰るというものでした。
京都では、私がまだ訪問したことの無い場所を観光しようという算段です。

ホテルをチェックアウトして外に出たら寒い

新大阪駅からJR京都線新快速(途中の停車駅は高槻駅のみ)に乗って京都駅に着いた私は、一旦改札を出て、荷物をコインロッカーに入れた後、再び改札口へ
このあと、嵯峨野線に乗ることを考えれば、改札を出ずにそのまま嵯峨野線に乗り替える方が運賃が安いと思ったのですが、まさか大きなバッグをゴロゴロ引きずりながら寺社を拝観するのは相当無理がありますから

今調べたら、新大阪⇒花園(860円)よりも、新大阪⇒京都(580円)+京都⇒花園(200円)、の方が80円安かった
たまにありますな、こんなケース

さて、ちょっと時刻が遅くなると空きが無くなる京都駅のコインロッカー、この日は難なく新幹線改札口に近い八条口空きが見つかり、荷物を放り込むと、いざ、妙心寺

妙心寺の最寄り駅は、JRだと花園駅です。
私が花園駅で電車を降りるのは、2013年のGW仁和寺に行って以来(記事) 2度目

花園駅に掲示されていた案内図を見ると、花園駅から、仁和寺までは徒歩約20分ですが(確かにけっこう遠かった)、妙心寺までは徒歩5分だそう。近くてイイ

この案内図を頭に入れて歩き出したのですが、すぐに「妙心寺前交差点」があり、そこをやややや左折してうねっとちょっと歩くと、妙心寺南総門が見えてきました。

ところで私、2010年1月九州国立博物館(九博)特別展「京都 妙心寺 善の至宝と九州・琉球」を観ました。
「MISIA星空のライヴⅤ Just Ballade」福岡公演への遠征ついでに、初めての九博まで足を伸ばしたのでした(旅行記はこちらこちら)。
この旅行記の中で、

ところで、この「片手で拍手をするとどんな音がする?」公案、何かの本(翻訳本)のエピグラフで読んだ気がしますが、何の本だったのか、さっぱり思い出せません。(中略)
ご存じの方がいらっしゃいましたら、どうか教えてくださいまし どうも気になって、奥歯にニラエノキダケが挟まったような気分なのですよ。

と書いたのですが、これまで教えてくださる方は誰もおらず、今回の旅行記を書くにあたってネットで調べてみたところ、答えが判明しました。
J.D.サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」でした

原文だと、

We know the sound of two hands clapping.
But what is the sound of one hand clapping?
                --A ZEN KOAN--

別邸の書棚にあった「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)を引っ張り出して、野崎孝さんによる訳を転記しますと、

両手の鳴る音は知る。
片手の鳴る音はいかに?
   --禅の公案--

この「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」とよばれる公案は、このブログでも何度かとりあげた(例えばこちら) 江戸時代の禅僧・白陰慧鶴がつくったもので、代表的な公案の一つだそうです。

話が逸れているようで、それほど逸れてはいないのですが、ここから再び私が訪れた妙心寺のこと。

丸太町通から妙心寺前交差点で分岐した道の突き当たりにあるのが南総門です。

そして、その左にあるのが「開かずの門」っぽい勅使門

南総門から境内に入ると、右手に案内所っぽい小さな建物があって、そこで拝観料を納めるのかな? と思ったら、「拝観料は各塔頭でお納めください」といった内容の貼り紙が。
そこで、さっそく境内の散策を開始しました。
境内の案内図を見ると、

な、な、なんですか、この広さ

リーフレットによれば、南北約600m東西約550m面積は約10万坪(≒33万㎡)ですと
この「甲子園球場 8個分」とかいう広大なエリアの中に36ヶ寺の塔頭(たっちゅう)寺院があり、敷地外にも10ヶ寺の塔頭寺院があるそうな
妙心寺がこれほどの大寺院とは思ってもみませんでした

2023年1月に訪れた東福寺訪問記で、

塔頭がたくさんあります
これほど多くの塔頭が残っているお寺は京都では少ないのではなかろうか?
大徳寺にも多くの塔頭が残っていますが、現存の塔頭の数は大徳寺の22に対して、東福寺は25だそうな

と書きましたが、いやいや、妙心寺46は飛び抜けています

この中には、石庭で有名な龍安寺(訪問記)も含まれています。
恐らく一般的には、妙心寺より塔頭の龍安寺の方が有名だったりして…
相国寺とその塔頭・金閣寺(鹿苑寺)銀閣寺(慈照寺)との関係みたいですな

大本山妙心寺はこのように多くの塔頭寺院を含めた総称ですが、狭義の妙心寺は、寺域南端のマップで黄緑色に塗られた部分で、勅使門から放生池を挟んで三門仏殿法堂(はっとう)、方丈と一直線に並んでいる部分です。
この配置は、相国寺(二度目の訪問記)には三門と仏殿は残っていませんが、ほぼ同じ

京都には「東福寺の伽藍面(がらんづら)のような「○○寺の○○面」という表現があって、妙心寺は塔頭や末寺(約3,300ヶ寺)などの組織運営の巧みさから「妙心寺の算盤面」と呼ばれているそうな
呼ばれる方はどんな感じなんだろ? 「算盤面」と聞くと「商売第一みたいなイメージが沸くんですけど…

前置きが長くなりましたが、妙心寺の伽藍を拝見
まずはお風呂(浴室)

京都市による説明板によりますと、

浴室(明智風呂) 切妻造瓦葺・重要文化財
天正15年(1587)明智光秀の叔父にあたる塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が創建したものであり、のち明暦2年(1656)に改築されたものである。
天正10年(1852)年、本能寺で主君である織田信長を打、宿怨をはらした光秀は、自刃を覚悟し妙心寺仏殿に礼拝し、次の辞世の句を唱えたとされる。
  順逆不二の門 大道心源に徹す
  五十五年の夢 覚め来たって一元に帰す
この時、密宗和尚は光秀の心中を察し、自刃を誡めたとされるが、その後、武運つたなく山崎の合戦において豊臣秀吉勢に討たれた
死後5年ののち、密宗和尚は光秀の菩提を弔うため、この浴室(蒸風呂)を設け、大勢の僧侶に施浴した。この由縁により、この浴室を別名「明智風呂」ともいう。

だそうです。
光秀辞世の句(五言絶句)について、円覚寺のHPで判りやすく解釈されていますので、ご興味がありましたらご覧ください。

この浴室を創建(寄進)した「密宗紹倹」なる人物を調べてみたのですが、この浴室絡みの情報しかありませんでした。
それなら「明智光秀の叔父」という線から探れないか? と思いましたが、Wikipediaによれば、明智光秀父・母とも「不肖」ですと

う~む…とうなったところで「#3-2」につづきます。

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今年最初の関西旅行記 #2-9

2025-02-10 15:06:09 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-8」のつづきです。

大阪城東外堀を眺めた時点で、時刻は14:40
ちょっと早いけれど、大阪城ホール周辺で時間をつぶすことにして、野球場の方に歩いて行くと、あれま でした。

この道路も閉鎖されています
どうしたらこの道の向こう側へ行けるんだ? と、30分前と同じ悩みが…

今、改めて大阪国際女子マラソンのコース図を見ると、大阪城ホール一帯は、マラソンコースで閉じられていました

もちろん、マラソンの前半と後半とで時間差がありますから、大阪城ホール行き着けないことはないわけで、私が行ったルート(新世界地区から)と時間帯ならば、大阪環状線森ノ宮駅ではなく次の大阪城公園駅で降りればすんなり行けたはずです。
いや、でも、もしかすると、例の大阪環状線運転見合わせに引っかかっていたかも… いやいや、もしそうだとしても、私が乗っていた電車大阪城公園駅で足止めを喰らっただろうから、セーフ

それはともかく、道路の両側にはテープで「規制線が張られていましたが、ランナー係員さんもおらす、道路を歩いている人さえいます
これなら規制線を無視して横断しても大丈夫か… と、右を見て、左を見て、もう一度右を見た上で、テープをかいくぐって&またいで道路を横断し、ようやくようやく、大阪城ホール & 野球場エリアに入れました
いやはや、心身共に疲れました

   

大阪城ホール裏手の駐車場には、いつものようにトランポのトラックたちが並んでいました。

いつも思うのだけれど、トラックの運転手さんたちは、ライヴの仕込みが終わってからバラシが始まるまではどうしていらっしゃるんでしょ? この間のトラックの賃借料/運転手さんの拘束料とかは支払われるのでしょうか? 単日公演ならともかく、「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」日本武道館公演のように 3 daysだとねぇ 空いた時間は、トラックごと別の仕事をしてるのかなぁ

それはともかく、今回はラッピングトラック無いようです。
ラッピングトラックがあったり無かったりするのは、何か基準があるのでしょうか。恐らく、BOSSの一存なんだろうな

そんなこんなで大阪城ホール前の噴水にたどり着いた私は、「#2-8」で書いたように、ゴミ箱を探して大阪城公園前駅の近く辺りまでウロウロし、結局はゴミ箱が無いことを知った次第です。
それでも収穫はありました
喫煙所を見つけたのです。
大阪城ホール内には臨時喫煙所がありますが、そこは終演後には閉鎖されてしまいます。
ここなら、終演後に、ライヴの余韻を味わいながら一服できます

   

こうしているうちに時間が経ち、15:20頃大阪城ホール入場しました。

大阪城ホールは、昨年10月開館40周年を迎えたそうで(「#2-8」に載せた50年前の地図大阪城ホールが無いのもむべなるかな)、それを記念してこの1年間に出演されたみなさまにいただいたサインを期間限定で展示」しているというので、見に行ってみました。もちろん、MISIAのサインがあるかな? と期待しつつ…。

ところが、MISIAのサイン見当たりませんでした
MISIAは、24年1月7-8日に、「MISIA星空のライヴ XII Starry Night Fantasy」 を開催しているのになぁ(私は遠征していない)

その代わりというか何というか、阪神タイガース村上頌樹森下翔太両選手のサインがありました。

これは、大阪城ホールとは川を挟んでお向かいの読売テレビ制作の「超プロ野球 ULTRA」(23年度)収録の際のものらしい。
私はこの番組の存在すら知らずWikipediaも見たんですが、この記事、超ムダ情報が細かい一方で、収録日が一切書かれていないなど、チグハグ極まりない
Wikipediaでは鉄道系お笑い系などの記事にしばしば見られるヤツです

   

ここからMISIAのライヴ(記事)すっ飛ばして閉演後の話。

私は例の喫煙所に行き、一服

この頃(1月26日)18:30頃でも十分に暗く星空きれいでした
冬の大三角形はもちろんのこと、火星も見えました。

そんな中でひときわ明るかったのが木星

大阪城天守ライトアップにも負けずに写真に写るほどの明るさでした (見えづらいかもしれませんが、写真の上端近くやや左)
この写真の木星付近をアップにして露出を上げますと(天守は白く飛ぶ)、

木星の左下が写っています。
これは、おうし座アルデバランらしい。
おうし座といえば、すばる(プレアデス星団)を含む星座ですが、すばる見えませんでした
そもそも私の視力すばるを見るのはほぼ無理なのです

   

こうして「THE TOUR OF MISIA 2025」につづいてリアル「星空のライヴ」を楽しんだ私は、大阪城公園駅から通常運行に戻っていた大阪環状線に乗り、大阪駅JR京都線に乗り換えて新大阪駅まで戻りました。

夕食は、迷った末に、新大阪駅の駅ナカの初めての店(ほとんどがそう)で焼き鳥&ビールを食したのですが、この選択は失敗でした
大将感じがすこぶる悪いし、料理の出てくるのが遅いし、追加は各ネタ2本以上じゃないとダメ(こういう焼き鳥屋は少なくないかも)だし、大して旨くないし、安くないしと、しっかりと「勉強させていただきました。

不満を抱えながらホテルに戻り、大阪2日目の行動を完了させたのでありました。

つづき:2025/02/11 今年最初の関西旅行記 #3-1

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今年最初の関西旅行記 #2-8

2025-02-09 14:28:40 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-7」のつづきです。

観光客(大部分が外国人)でごった返す新世界で、「さぁ、昼食はどうする?」となった私ですが、「大阪で昼食に迷ったら『串かつ』でありまして、どの串かつ屋で食べるか、店頭のメニューを頼りに、手頃な値段(けっこう店によって値段が違う)かつ待たずに入店できる店を探しました(2日連続で昼食は串かつ)。

そして見つけた店に入ると、店員さんから喫煙可のテラス席でもよろしいですか?」ですと 私にとっては願ったり叶ったりです

最近、テーブルに置かれたQRコードスマホで読み取ってオーダーする店が増えていますが、この店もご多分にもれず、このパターンでした。
さっそく、串かつのセット生ビールを注文

隣の席には、欧米人っぽいペアがやって来て、メニューとにらめっこしていましたけど、このQRコードからオーダーするシステムは、外国人客が増えた今では客にも店にもかなり有効なんでしょうねぇ
ただし、スマホを持っていない客の場合は、従来どおりですが…。

赤ウインナーやタマネギ、シイタケなど、串かつ数本追加し、それを食べながらこの後の行動を検討しました。
時刻は13:15頃で、15時頃大阪城ホールに着くとすれば、余裕は1時間半ほど。とりあえずもう少し新世界を散策した後、大阪城公園に行って、たらたらと散歩してみようか、ということにしました。なお、を観るにはまだ早いことは確認済み

   

ということで、新今宮駅から大阪環状線に乗り、大阪城公園駅のひとつ手前、森ノ宮駅で降りて大阪城公園に入ることにしました。

じゃんじゃん横丁(大阪版ティン・パン・アレー的な名称)を抜けた辺りから新今宮駅までは、それまでとちょっと雰囲気が変わり以前の新世界界隈のムードが漂っています
新今宮駅近くの教会の外壁に貼られた「モーセの十戒」(昔は「モーの十戒」と呼ぶのが一般的だったと思うけど、Wiki「モーセ」)が、あまりにも倫理的に普通過ぎて、敢えてそれを示さなければならない地区なのか? と勘ぐってしまいました

新今宮駅ドボルザーク「新世界より」発車メロディーに送られた電車は、15分ほどで森ノ宮駅に着き(13:50頃)、ここを渡れば大阪城公園という「森ノ宮駅前」交差点に出ました。

すると、交差点は大阪国際女子マラソンのために閉鎖されていて渡れません

仕方なく、大阪メトロ 森ノ宮駅への階段を下り、改札前を素通りして、大阪城公園内の「3-B」出口へ。

ふ~、まいったまいった… と、噴水広場まで歩いていくと、これまたマラソンコースのため、通行止め

どうすりゃマラソンコースの向こう側へ行けるんだ

たまたま私と同じ境遇らしい人が係員さんに質問していて、耳をそばだてると、地下鉄の駅構内を通って中央大通の南側に渡り、そのまま中央大通を西に進むと、歩道橋があるのでそこを渡る」というルートらしい。

仕方なく、再び「3-B」から森ノ宮駅構内に入り、

「7-B」出口から森ノ宮駅前交差点に出ました。
そして、歩道橋に向かって歩き出したのですが、けっこう遠い。そしてダラダラと上り坂
結局、噴水の向こう側まで、ずいぶんと迂回してしまいました(赤い線マラソンコースで、青い線私が歩いたルート)

そしてやれやれと、コンビニカップアイスを買い、近くのベンチに腰掛けて一息入れました。

そして、スマホを見ていると、私がさっき乗って来た JR大阪環状線止まっているとの情報が (下の画像は後日に保存したもの)

運転を見合わせたのが「午後2時ごろ」で、支障が生じたのは「玉造~鶴橋間」ということは、私が次の電車に乗っていたら、これにハマっていたではありませんか
いやぁ~~~危なかった
なお、この日のMISIAのライヴは、この影響からか、開演が若干遅れました。

アイスを食べ終えた私は、そのうちにゴミ箱に捨てようと、空のカップバッグに入れ、ちょっとマラソンを見物した後、大阪城ホールの方向に歩き始めました。

「#2-1」で書いたように、大阪国際女子マラソンとMISIAの大阪公演が同日だったのは今回で9回目で、私はそのうち今回を含め5回連続してその当日、大阪に来ているのですが、マラソンの影響を受けたのはこれが初めてです。
だからこそ、「高をくくっていた」わけですが、ライヴの開始時刻が16:00と早いことを考慮するべきだったし、マラソンコースや時間を事前にチェックしておくべきだった…と後悔しています。

ところで、私がバックに放り込んだ空のアイスのカップゴミ箱を見つけたら捨てようと思っていたのですが、大阪城公園にはゴミ箱が無い
スマホでググってみると、大阪城公園にはゴミ箱がほんとに無いらしい

大阪城ホール前で、警備員さん「この辺にゴミ箱はありませんか?」と聞いてみたところ、警備員さんはしばし考えた後、「そこのコンビニにはゴミ箱があると思います」とな
「そこのコンビニ」というのは、こちらで書いた店内にSLがあるローソンで、「入店するとそのまま行列に並び、行列が進むにつれて棚から欲しいものをとって、最後にレジでお支払いというシステム」を採っている店です。
最近のコンビニはゴミ箱を店内に置いていますので、行列に並ばなければゴミ箱に行き着けません
仕方なく、ゴミ箱だけを求めて行列に並びました しばらく行列の中で静々進むと、レジの隣にあるゴミ箱が見えたのですが、そこには「ゴミは従業員にお渡しください」との貼り紙
結局、「もうイイと行列から離脱しました
そして、この約1時間後、大阪城ホールの中ゴミ箱を見つけ、ようやく空きカップに別れを告げることができました

   

いつ見ても、大阪城壮大です。
この石垣と堀、、、、こりゃ攻める気が薄れますって。

これは「東外堀」

大阪城二の丸の東に位置する水堀で、北が青屋口南が玉造口である。元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。
本来は青屋口より先の北外堀とつながっていて総延長はあわせて約3km、堀の幅は最大約90mである。(中略)
大正年間大阪砲兵工廠敷地拡張にともない北外堀を残して埋め立てられた。平成9年(1997)、東外堀(北外堀?)とつながらないままであるが、現在の姿に復元された。

へぇ、この堀は30年前に復元されたのか…

別邸にある古い地図(1976年発行)を見ると、

確かに東外堀無い大阪城ホール大阪ビジネスパーク無い
そして、NHK(JOBK)は現在のはす向かいにある。

大阪市が提供する昭和17(1942)年の航空写真でも、既に東外堀埋め立てられていて、二の丸三の丸には建物びっしりと立ち並んでいて、大阪砲兵工廠の主要部分は塗りつぶされています

私、大阪城北東~西に広大な大阪砲兵工廠があって、大阪城ホール大阪ビジネスパークその敷地内にあることは知っていましたけれど、東外堀埋めてまで勢力を拡大させていたとは知りませんでした

ふと不思議に思ったのは、東外堀の東側二の丸とはかなりの高低差(石垣分高さ)があるのですが、そこはどう処理したんでしょ?
昭和17(1942)年の航空写真では平地に建物が並んでいるように見えるのだけれど… ←いつか調べてみます。

ホントにブログ書き(旅行の復習)は勉強になるなぁ と再び感慨にふけったところで「#2-9」に続きます

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今年最初の関西旅行記 #2-7

2025-02-08 14:25:47 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-6」のつづきです。

淀屋橋ステキな橋ですが、難波橋も負けず劣らずステキな橋でした。

間隔を置いて何基も設置されている照明灯イイし、みおつくしをあしらった高欄オシャレだし、

こちらは正式みおつくし付きの中柱立派です。

フェスティバルホール近くの錦橋の北詰めに江戸時代につくられたと考えられている「浪華橋々繁栄見立相撲」と題する番付表がありました。

その名のとおり、当時の賑わいのランクづけですが、この難波橋はひとつ上流に架かっている天神橋につぐ「西の大関」No.2 です。

ちなみに、この番付の「行司」は、今は無き「四ツ橋」です。
四ツ橋は既に埋め立てられた長堀川西横堀川が交差する地点に口の字型に架けられた4本の橋(こういう形の歩道橋はあちこちにある)の総称ですから、別格扱いにしたということなのでしょう。
しゃれっ気がありますなぁ
そういえば、「心斎橋」も、長堀川の埋め立てで「橋」ではなくなっています

「難波橋」を語る上で忘れてはならないものがあります。
それは、大阪市のHPによれば『ライオン橋』の愛称でも親しまれている」とあるように、親柱の上に鎮座するライオンです。

Googleマップで確認したところ、土佐堀川・中之島・堂島川を越えた北側の親柱にもライオンが鎮座していて、どちらのライオンペア(牡と牡)も、橋に向かって左が阿形、右が吽形になっているという…。
東京国立博物館表慶館前のライオンも、阿吽のペアで、あ~日本だな と思います。

   

難波橋を渡ると北浜

大阪取引所五代友厚像が角地にど~んとあるのは、いかにも大阪随一の金融街の玄関口ですなぁ。

私がこの界隈に足を踏み入れるのはこれが初めてで、地下鉄に乗る前に、ちょっと見物しました。

まずは五代友厚像

よくよく見ると、ずいぶんと若々しいお顔立ちです
もっとも、五代友厚49歳で亡くなっていますから…。

五代友厚の像は、この大阪取引所前を含めて、大阪商工会議所大阪公立大学(旧大阪市立大学)など大阪だけで少なくとも5体あるのだそうで(ご参考)、大阪での五代友厚の位置づけが察せられます。
私は、大阪商工会議所に銅像があることは知っていましたが、大阪取引所にもあるとは知りませんでした。大阪商工会議所の銅像が1953年に設置されたのに対して、こちらは50年遅れ2004年に(取引所の建物の改装に併せて?)設置されたそうですから、けっこう最近のことなんですな

碑文にこうあります。

この地は 江戸期の金相場会所以来 金融取引の活発な地であり 今日まで大阪経済の発展を担ってきた
薩摩出身の五代友厚は 明治11年 当地で大阪株式取引所の設立に尽力 大阪の発展に多大なる功績を残す
ここに 大阪証券取引所発祥の地として 顕彰する
平成16年12(?)月        大阪市
   寄贈 大阪証券取引所

あれま この銅像は大阪市のものなのか
大阪市ったら、こんな場所のこんなものまで寄贈されて…
設置場所が市有地だったら理解できるのだがな。

せっかくだからと、大阪取引所の1階ロビーに入って、ステンドグラスを見物しました。

   

大阪取引所を出た私は北浜駅に潜りました。

堺筋線のホームで、こんな広告を発見

大林組の旧本店「ルポンドシエルビル」ですと? いつか行ってみたい と、メモ代わりに写真を撮ったのですが、そもそもこの広告の出稿者(広告主)は誰?

調べたところ、「生きた建築ミュージアム 大阪セレクション」大阪市の事業だそうで、また、「ルポンドシエルビル」は、大阪市中央公会堂の展示室(記事) にあった「大大阪時代を彩った近代建築」のリストに入っていました つまり、写真を撮るまでもなかったということです

北浜駅から恵美須町駅までは、4駅、所要時間はたった7分

恵美須町駅改札口の一つがなにやら怪しい

もしかしたら、これは顔認証の改札機か?

と思って調べたら当り でした。

大阪メトロのHPによると、「2024年度に全駅で顔認証によるチケットレス改札の導入を目指」しているのだとか
「2024年度」あと2か月弱しかありませんが、ホントに導入できるのでしょうか?
2025年大阪・関西万博に向けたキャッシュレス・チケットレス改札の取組みの一環」だそうですから、おしりを切られているわけで、大阪メトロ「協力会社」は、それこそ寝食を忘れるような状況最後の追い込みをかけているでしょうねぇ

   

恵美須町駅から地上に出ると、すぐに通天閣が見えました。

通天閣方向にちょっと歩くと、火事の跡

そういえば、最近、通天閣近くで火事があったとニュースで見た記憶があります。
さっそくスマホでググると、ニュースはすぐに見つかりました。
火事はほんの4日前という生々しい現場

火元は、「レトロゲーセン ザリガニ」という店で、なにやらゲーセン好きの間では「聖地」扱いだったらしい

建物がびっしり立ち並ぶ商店街にもかかわらず、延焼が最小限に食い止められたようで、その点では良かったかもしれません

この焼けたゲーセンもそうだったのでしょうが、新世界の魅力の一つは「レトロ」にあると思っています。
例えば、こんな喫茶店、なかなかありませんゾ

今でこそ、国内外の老若男女で賑わう新世界ですが、私が友人に連れられて初めて新世界に来たとき(何十年前だ?)は、猥雑なオッチャンの街でした。
昼間っから大勢の客がディープな酒をかっくらっているような店が並び、碁会所だか将棋クラブでは、道路から窓越しに対局を観戦する人が何人もいたりして、「暇はあるけど金は無い」なのかな? などと思っていました。

そんな思い出のある将棋クラブ悲しいことになっていました
その名も、「いかにも新世界」な将棋クラブ「王将」は、

建物の外装はそのまま、串かつ屋に変身していたし、「囲碁・将棋クラブ 三桂」も、

昨年6月30日で閉店

その名も「産経」の記事によると、「三桂」新世界最後の将棋クラブだったらしい。
通天閣の下には坂田三吉顕彰碑があるような街なのにねぇ

いまどきの観光地ではあたりまえではあるけれど、なんと外国人観光客の多いこと
そして、以前にも増して増えた感のある串かつ屋には、その多くの店の前に長蛇の列
さぁ、昼食はどうする?

というところで「#2-8」につづきます。

つづき:2025/02/09 今年最初の関西旅行記 #2-8

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今年最初の関西旅行記 #2-2

2025-01-30 18:12:31 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-1」のつづきも大阪市中央公会堂から。

東口出入口に掲げられた銘板のフォントが実によろしい
まさしく「大正浪漫」です
大正15(1926)年竣工の旧札幌控訴院(札幌市資料館)の玄関ポーチに掲げられたものと雰囲気が似てる気がします。

大阪市中央公会堂の建物は、正面からの眺めも良いけれど、この角度からもイイ

とても華やかで、宮殿みたいにも見えます。

大阪市中央公会堂の建設にあたっては、当時珍しかった設計コンペが行われ、1等には 28 or 29歳だった岡田信一郎の案が選ばれ、この原案をもとに、辰野金吾建築顧問に、公会堂設計事務所が設計したのだとか。
なお、岡田信一郎は、このコンペでの勝利をスプリングボードに、若くして48歳で亡くなるまでの20年間で、旧鳩山一郎邸(現鳩山会館朝ドラ「虎に翼」では桜川男爵邸として登場)、旧歌舞伎座(三代目)、黒田記念館旧博報堂本社ビル、そして、終戦後にGHQが本拠地としたことで有名な明治生命館など、蒼々たる作品群を残しています。

一方、私が「やはり辰野金吾と思ったのは、煉瓦の目地東京駅丸の内駅舎でも採用されている「覆輪目地」だったことでした。

辰野金吾の代表作、東京駅丸の内駅舎(1914)も、大阪市中央公会堂(1918)と同様に、鉄骨煉瓦造りで、外壁に貼られた化粧煉瓦には覆輪目地が施されています。

   

大阪市中央公会堂の地下には展示室があって、無料で観ることができました。

「大恩人」岩本栄之助さんの胸像があるのは当然としても、なぜか渋沢栄一に関する資料も多い。なぜかと思ったら、岩本さんの略歴の中に、

栄之助は、1906(明治39)年、父・栄蔵の営む株式仲買業を継ぎ、1907年の株式相場の高騰などで大きな利益を上げました。1909年渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカの進んだ産業・文化を視察。渡米中、父の訃報に接した栄之助は、欧米の富豪が公共事業や慈善事業に熱心であることに共感して、帰国度株式相場で得た利益の寄付に動き始めました

とありました。
そして、帰国後、東京や大阪で何度か渋沢と面会し、寄付の実施やその使途(結果は公会堂建設)などをなどを相談、さらに、大阪の政財界の有力者を招いた委員会を開催(渋沢も参加)し、公会堂建設案を示したのだとか。
そんな縁もあり、渋沢は定礎式に参加し、「定礎」の文字を揮毫したんですな。

私、この説明パネルの下に書かれていた

※定礎石は、東正面玄関に向かって左側(南側)のスロープから見ることができます。

をよく読んでおりませんで、定礎石を見逃しました
遠目からのこんな写真しかありませぬ

「渡米実業団」といえば、雑誌「東京人」2010年4月号(特集:美術館をつくった富豪たち)に載っている高階秀爾さんと鹿島茂さんとの対談で、鹿島さんは、渡米実業団の一員だった根津嘉一郎についてこんな発言をしています。

この人(根津)は、初期はひじょうに評判の悪い人だった。ぼろ買いの根津と言われるほどで、とにかく、クズみたいになった会社を買い叩いて再興させることでお金持ちになった人。しかし、渋沢とアメリカに行って、カーネギーワナメーカーといった人々の社会福祉活動を見て、それまで会社と金にしか興味のなかった根津の目が開く。それから、いろいろな社会貢献やコレクションをやったみたいですね。

岩本さんも根津さんも、他人に諭されたり教えられたりすることなく、アメリカの富豪の社会活動目の当たりにすることで「目を開いた」んですな。
既に実業界を引退した渋沢さんがそういう機会を提供したというのが、わたし的に響きます

さて、大阪市中央公会堂が建てられる前(1912年頃)の中之島の写真もありました。2枚の写真をパノラマ風に繋げましたので、ちょっと不自然な写真になってしまいましたが…

真ん中が、現在、大阪市中央公会堂が立っている場所で、それまでは豊国神社があったんだ
一番左が左右翼を増築する前大阪府立図書館、その右、豊国神社との間にあるのが旧公会堂(新公会堂開設に伴い天王寺公園内に移設:現存せず)だとか。大阪府立中之島図書館と大阪中央公会堂との間にこんなにスペースがあったかな?
で、豊国神社の右側、現在、広場と大阪市立東洋陶磁美術館になっている場所に立っているのが大阪ホテル、そのまた右にちらりと写っているのは大阪銀行集会所(大阪銀行協会の前身)だそうな。

現在、大阪府立中之島図書館の左(西側)には大阪市役所(4代目)がど~んと立っていますが、上の写真が撮影されたころは公園だったそうで、1921年5月に竣工した先代(3代目)の市役所の写真がありました。

なかなか威圧感のある建物です
どことなく台湾の総統府(旧台湾総督府)と似た雰囲気だな、と思ったら、設計原案台湾総督府の技師・小川陽吉さん(実施設計は片岡安)ですと

市役所の裏図書館との間にある緑地は、大阪市中央公会堂に追い出された形になった豊国神社で、その後、市庁舎の増築に際して、1961年1月、現在の大阪城二の丸に移転した由。太閤さんを祀る神社なのに、なんだか不憫

さらに、この展示室でもっとも私がときめいたのが、

「大大阪(だいおおさか)時代を彩った近代建築」という展示で、大阪市中心部に現存する日銀大阪支店(1903年)から大阪証券取引所ビル(1935年)まで20棟の一覧と、

各建物の説明パネル

さらには各建物の所在地を示した地図まで

これ、リーフレットにしてもらえないものでしょうか
有料だったとしても、私は欲しい
とりあえず、次回以降、大阪に行くときは、この近代建築マップを印刷して持って行くことにします

とまぁ、こんなところで展示室の見学を終え、最後にちょっと離れたところから大阪市中央公会堂の正面を撮影しました。

建物のてっぺんに何やらあります。
拡大しますと、こんな像が乗っていました。

これは、

ギリシャ・ローマ神話の、商いの神「メルクリウス」科学工業平和等の神「ミネルヴァ」をかたどったもの。第2次世界大戦の金属供出で失われましたが、保存・再生工事の際復元されました。

だそうで(確かに左のメルクリウス商業系の学校の校章で良く見る 2匹の蛇がからんだ翼付きっぽい杖を持っている)、こんな取り外しが大変そうなものまで金属供出の対象になったのかというのも驚きだし、この2神が定位置に再設置されたのが終戦から43年も経った2002年8月だったというのも驚きでした。

こうして、いつか大会議室(ホール)集会室中に入ってみたいものだ と思いながら、大阪市中央公会堂の見学を終えました。

つづき:2025/01/31 今年最初の関西旅行記 #2-3

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今年最初の関西旅行記 #2-1

2025-01-29 18:00:53 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #1」のつづき、旅行2日目(1月26日)のお話です。

この日は朝から良い天気で、

と、暢気にこんなポストを上げたりしていたのですが、まさか私がその大阪国際女子マラソン影響を蒙ることになろうとは、つゆにも思いませんでした。

なぜかMISIAの大阪公演は、大阪国際女子マラソンと同じ日に開催されることが多くて、調べたところ、2005年、2007年、2008年、2010年、2012年、2014年、2017年、2020年、そして今年と、同日開催はこれがなんと9回目
このうち何度か、私はMISIAのライヴに参加したのですが、ランナーを遠目から見たことはあっても、影響を蒙ったことはありませんでしたので、高をくくっていました
まぁ、この話はまた後ほど…。

   

さて、大阪2日目は、15:00頃大阪城ホールに着くことを絶対条件にして、それまで大阪観光を楽しむことにしていました。
そして、観光のメインに据えたのが、まだ行ったことのない大阪市立東洋陶磁美術館でした。それほど陶磁器に興味を持っているわけではありませんが、世に聞く「安宅コレクション」を拝見してみたかったのです。
その後の行動は「足の向くまま気の向くまま」ということで、新大阪駅から御堂筋線に乗って行動を開始しました。

淀屋橋駅から地上に出て、土佐堀川に架かる淀屋橋を渡ると、中之島

この辺りを夜に散歩したことがありまして(記事)淀屋橋自体とか、日銀大阪支店とか大阪市中央公会堂とかのライトアップかなり楽しんだのですが、この日は青空のもと、楽しませていただきました。

御堂筋を挟んで大阪市役所と相対しているのが、日銀大阪支店です。

「陰気だと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、辰野金吾さんらしい威風堂々とした建物です。

大阪市役所の横、「みおつくしプロムナード」を東に進むと、市役所の陰に隠れるように佇んでいたのが、これまた威風堂々の建物

建物横のガラスケース内に貼られた大阪府教育委員会による説明文を転記しますと、

重要文化財 大阪府立中之島図書館
        本館左右翼 3棟
この建物は、住友吉左衛門が図書館として本府に寄付されたもので、住友本店技師長野口孫市氏及び技師日高胖(ゆたか)氏の設計監督のもとに明治33(1900)年に着工、同37(1904)年1月に竣工したものである。
建物は、煉瓦及び石造3階建てで中央に円屋根を付けた十字型平面の本館左右翼(大正11(1922)年増築)からなっている。
外観では高い4本の柱の列立する正面ポーチとその後方に挙げられた円屋根が意匠の要であり、内部では、半球形のドームを頂く円形ホールがもっとも特徴的である。全体としてネオ・バロック様式の傾向が見られるが、これをよく消化して独自の造形美を形成しており明治時代の日本人建築家による極めて水準の高い作品である。

と、「作品」と言い切っているのが、ある意味凄い

中に入れるのかな? と思っていたら、一般人にしか見えない人が正面玄関から出てきたので、これ幸いと、さっそく私も中に入ってみました。

おぉ、優雅階段
そして、上を見上げると、

ステンドグラスが鮮やかな円天井です

そして、廊下もなかなかです
なんといっても色づかいイイ
今は普通の蛍光灯(LED灯具?)がぶら下がっていますが、昔はもっと魅惑的な灯具を使っていたんだろな…。

この本館1階には、この建物に関連するパネル展示がありました。
外の説明書きを読んだ時、住友吉左衛門住友家の当主が代々名乗る名前だから、個人を特定できないよな 恐らくあの方だろうけれど…」と思っていたのですが、館内のパネルには、

大阪府知事菊池侃二が府の教育10カ年計画の中で図書館新設を提案したのは明治32(1899)年のことであった。
それを知った住友家15代当主住友吉左衛門友純氏は、明治33年2月、独力で図書館建設費15万円図書購入基金5万円大阪府に寄附することを申し出た。(中略) 明治37年2月25日開館式典が挙行され、3月1日名前も「大阪図書館」として一般公開された。その後明治39(1906)年大阪府立図書館と改称し、現在の中之島図書館となったのは昭和49(1974)年のことである。
開館後、図書館の閲覧者は日に日に増加し、住友吉左衛門氏は、大正6(1917)年12月、再び寄附を願い出左右両翼棟が増築された。設計は技師長日高胖氏が担当し、大正11(1922)年10月21日増築が完成しほぼ今日の図書館の姿となった。

住友吉左衛門さんとは、やはりこの方、住友家15代当主住友吉左衛門友純(ともいと)さんのことだったんだ
住友友純(春翠)さんのことはこちらの記事でさんざっぱら書きましたので、省略させていただきます

大阪府立中之島図書館は観光スポットとして予定していなかったのですが、しっかりと良い建物を見ることができて、幸先良い大阪観光です

   

大阪府立中之島図書館東隣りは、以前、ライトアップを存分に楽しませていただいた美しい建物大阪市中央公会堂です。

大阪市中央公会堂(南西から)

煉瓦造り全般に好きな私ですが、この建物は、大のお気に入りの建物の一つです。

この建物も大阪府立中之島図書館と同じく、民間人の寄付をもとに建てられたもので、建設費100万円を寄付したのは、北浜の相場師・岩本栄之助さん。
岩本さんは、この建物が竣工する前に、相場で失敗して自殺してしまったのですが、そのあたりの話は、こちらの記事大阪市中央公会堂のHPから長々と引用しましたので省略いたします。

代わりに(?)、外にあった大阪市教育委員会による説明板から、建築様式に関するテクニカルターム満載の説明を転記しましょう

建築様式は、当初記述に「復興式中の準パラディヤン式」とあり、ネオ・ルネッサンス様式を基調としたものと解される。
外観は左右対称を基本にコーニス片蓋柱ペディメント付き開口部等による厳格な構成と、正面の壮大な半円アーチジャイアントオーダーなどのバロック的な壮麗さをあわせ持ち、柱頭飾りを幾何学図形化するなど細部にはセセッション様式の浸透も見られる。
外壁表面は地階部分が花崗岩積、地上階は、化粧煉瓦小口貼りに、腰の帯石と窓廻りを花崗岩、蛇腹と片蓋柱、パラペット廻りを擬石モルタル洗い出しとし、屋根は銅板葺きで一部を天然スレート葺き、側面と四隅に屋根窓を配す。平面規模は、間口43.6m、奥行き61.8mで、建築面積2164.17㎡、鉄骨煉瓦造、地上3階、地下1階建。耐震性能強化のため基礎下の新たな構造体と上部構造の補強によって免震レトロフィットを実施。
主要室の構成は、1・2階/大会議室(ホール)。3階/中・小集会室・特別室、地階/会議室(展示室)・レストラン

一生懸命にネットで調べながらテクニカルタームにリンクを貼ったんですが、判ったような判らないような

これだけでも私の頭がオーバーフローしそうなのに、大阪市中央公会堂のために岩本さんが寄付したのが100万円(1911年)で、大阪府立中之島図書館のために住友さんが寄付したのが15万円(1900年)というのが引っ掛かって、なんともなりません
大阪府立中之島図書館の設計者が住友本社の社員だったことを考えれば、寄付額に含まれない住友からの持ち出しがあったのでしょうけれど、金額の差が大きすぎると思うのです。

難しい文章を転記し、また、金銭に関するややこしいことを考えて、頭が疲れしまいましたので「#2-1」はここまでにします。
「#2-2」は、大阪市中央公会堂探訪記のつづきから再開します。

つづき:2025/01/30 今年最初の関西旅行記 #2-2

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今年最初の関西旅行記 #1

2025-01-29 11:26:59 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #0 & M」のつづき、旅行初日(1月25日)のあれやこれや(MISIAのライヴを除く)です。

月初めの愛知遠征のときより、約1時間遅東海道新幹線なので、朝食を自宅で済ませた上で、大阪に向けて出発しました。

関東圏~静岡県中部はちょっと曇っていて富士山雲の中だったのですが、浜松辺りからは良い天気で、浜名湖が青く輝いていました

そして、なんだか好きな伊吹山ど~ん

伊吹山

今回の新幹線への乗車で楽しみにしていたのは、去年11月放送のNHK「ブラタモリ:東海道“五十七次”の旅▼第一夜 京都・三条大橋から伏見へ」で言っていた『まもなく京都です』のアナウンスが流れるあたりが山科本願寺のあった場所です」を確認すること。
早くも浄土真宗開祖の親鸞上人ゆかりの地でもある比叡山が見える辺りからソワソワして、その時を待ちました。

そして、来たぁ~

知らなきゃ何のへんてつもない車窓の風景ですな
堀や土塁が残っていると聞きますので(ご参考)、いつかはこの辺りを歩いてみたいものです

   

私が乗った新幹線は、名古屋駅での小トラブルの影響で、定刻から5分ほど遅れて終点の新大阪駅に到着しました。

私が大阪遠征するときは、新大阪駅前の某ホテルに泊まることが多い傾向にあります。このホテルは駅から近いし、値段が手頃だし、喫煙可の部屋もとれるし、朝食がなかなかなのです。加えて、チェックインタイムが14:00と早いことも魅力です。
このため、13:00頃に新大阪駅に着く新幹線に乗り、新大阪駅の駅ナカでやや遅めの昼食を摂り、ホテルに向かう…というパターンが多く、今回もこれを踏襲しました。
昼食は、これまた何度目かの串かつ屋さん。

串かつを食すとなれば、昼であろうと、やはりビールが欲しい

「おきまり」に 3本追加して、満足

だったのですが、14:00にはまだ余裕がありました。
そこで、同じフロアにあった「喫茶店」に入り、バニラアイスをいただきました。
串かつ屋さんもそうでしたが、この喫茶店も「全席喫煙可」
入店したとき、店員さんから「全席喫煙可ですがよろしいですか?」の親切なひとことがありましたが、首都圏ではほとんど見られなくなったこういう店が、大阪ではまだまだあるんですな

あ、バニラアイス美味しかったです。

そして、ホテルチェックイン
驚いたことに、ホテルのフロント前には、10人ほどのチェックイン待ちの行列ができていました こんなのは初めてです
そして、床には、チェックイン前 or チェックアウト後のお客さんの大型バッグがズラリと並んでいます
相変わらずインバウンド客が多いのでしょうねぇ
商売繁盛御同慶の至り

で、部屋に入り、カーテンを開けると、

おぉ 大阪名物(?)の梅田スカイビルも見えて、お・お・さ・かぁ~ です。

考えてみると、何度も泊まったこのホテルで、南向きの部屋に泊まるのは初めてです。エレベーターまで遠いのはなんですけど…

さて、PC をセットして(マウスの無線接続端子が無い と一瞬焦ったものの、このマウスはBluetooth接続でした)、一服して…とくつろぐうちに、気がつけば出発予定時刻の14:30をとうに過ぎていました
トートバッグの中を整理(出:デジカメ 入:ペンライト)すると、大阪城ホールに向けて出発しました。

この日なく大阪城ホールまで行けましたが…

   

「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」大阪公演初日を至福の中で堪能したあとは、ミー友さんたち飲み会

ライヴ18:30前に終わるというのは、その後でのんびりできてイイ
直帰の遠征組にも優しいし…。

飲み会終了後は京橋駅まで歩いたのですが、かなり寒かった

「京橋駅」で思い出しましたが、地名の読み方(アクセント)は、地域によって違うので、「居住地詐称」はすぐにバレます
「京橋」の場合、東京の京橋平坦に発声しますが、大阪の京橋「京」にアクセントが付きます。
名古屋に行った時も、名鉄の車内アナウンスでは。清水駅森下駅平坦に発声されていて、関東での一般的な読み方(清水は「し」、森下は「り」にアクセントが付く)と違うんだと思いましたっけ…

それはともかく、京橋駅から大阪環状線に乗り、来た道を返して、ホテルに戻りました。

考えてみると、この日は、自宅を出発して以降、一度もTVのスイッチを入れませんでした
Y1000のCMMISIAが言っている「モニターを見ない時間をつくる」までは行きませんでしたが(PCのモニターは視た)、静寂の中でこの日のライヴを振り返るのは乙なものです。

いつものことながら、この夜も、ライヴ興奮をひきずって、寝付けませんでした
とはいえ、「眠れないと焦ることはありませんでした。翌朝に早起きしなければならない理由はありませんから…。

こうして「眠れぬ夜はMISIAのせい」状態で大阪旅行の初日を終えたのでした。

つづき:今年最初の関西旅行記 #2-1

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-7 [完結編]

2025-01-21 16:46:22 | 旅行記

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-6」のつづき、いよいよ完結編です。

私が大曽根駅からJR中央線に乗って向かったのは鶴舞駅でした。
 NHK 朝ドラ「虎に翼」で、名古屋市市政資料館と共に何度も登場した鶴舞公園にも行ってみようという次第です。

大曽根駅から鶴舞駅までは2駅、6分と、電車に乗ってしまえば速い

そうそう、JR車内アナウンス違和感を覚えた点がありました。
それは、「次は○○駅です。○○線と地下鉄線はお乗り換えです」と、なぜか地下鉄路線名を省略しているのです。
乗り慣れている人には何の支障も無いでしょうけれど、旅行者にとっては不親切に感じられました

で、鶴舞駅に着き、「駅直結」といっても良い鶴舞公園へ。

案内図を見ると、基本的に洋風ながら日本庭園っぽい部分もあって、どことなく日比谷公園と似た感じ

鶴舞公園のHPによると、

鶴舞公園は、明治42(1909)年11月19日に名古屋市が設置した最初の公園で、近世フランス式の洋風庭園回遊式の日本庭園とを合わせもつ和洋折衷の大公園です。
サクラ、バラ、ハナショウブなどの花の名所として、また、緑豊かな憩いの場、スポーツ・レクリエーションの場として市民の皆様に親しまれています。

だそうです。

朝は曇っていた名古屋ですが、気がつけば青空が広がっています
これはMISIAパワーなのでしょうか? (私は行かなかったけれど、この日も Aichi Sky ExpoMISIAのライヴがあった)

さてさて、あの噴水塔を見ます

「虎に翼」では、鶴舞公園は日比谷公園に見立てられていましたが、奥に見える「名古屋市公会堂」は、見立てた法曹会館に比べると格段に大きい
日比谷公会堂に見立ててもいいくらいです というのは言い過ぎか…

もそっと噴水塔に近づきましょう。

なかなか珍しい形をした噴水塔です

説明板によると、

明治43(1910)年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開かれました。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であり、以来、鶴舞公園のシンボルになっています。設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱岩組みという和洋折衷式です。地下鉄3号線(鶴舞線)工事のため一時撤去されましたが、昭和52(1977)年に復元されました。昭和61(1986)年に市指定文化財に指定されました。

だそうです。
「共進会」というのは「博覧会」みたいなものらしい。

で、再び登場しました、設計担当の鈴木禎次さん
「#2-2」で紹介した「いとう呉服店」の設計を担当された方です。

更に噴水塔に近寄って土台を拝見。

なかなかワイルドな石組みですなぁ。

「虎に翼」の第1回では、終戦後、トラちゃんが法曹会館に間借り中の司法省就活するシーンで、この噴水塔の最上部が壊れ、石段の下に転げ落ちていました。
もちろん、あれはCGだったわけですが、それにしても、良くできたシーンだったなぁ

法曹会館に見立てられた名古屋市公会堂の前は、この日、晴れ着をまとった若者たちで華やいでいました

「成人の日」は翌1月13日ですが、名古屋市昭和区の成人式が1日早く行われていたようです。

名古屋市は区ごとに成人式をやるんだ… と、使われることのないであろうトリビアを仕入れました
ちなみに私の地元・さいたま市では、13日に、全市まとめてさいたまスーパーアリーナで開催したようです。この日の昼前、本宅最寄り駅は、式に向かうらしき晴れ着の若者でいっぱいでした。今後一生着ることは無い自信を持って予言できそうなド派手羽織袴の男性もチラホラ

それはともかく、「逆光の噴水塔」の写真を撮ったあと、鶴舞駅に戻りました。

今にして思えば、奏楽堂も観てくればよかったな…
この時点(12:27)で帰りの新幹線まで1時間半ありましたからねぇ

   

名古屋駅に戻った私は、昼食タイム

何を食べようかと駅ナカをウロウロした結果、なぜか喜多方ラーメンを食べました
ところが、「これは違うって感じ
これまで食べた「喜多方ラーメン」を標榜するラーメンの中では「Cランク」と言わざるを得ませんでした

そんなことがありながらも、コインロッカーから荷物を出して、新幹線ホームへ。

ここで、東海道新幹線車内販売無くなり、あの「固いアイスクリーム」ホームの売店で買えるという話を思い出しました
そうだそうだと、バニラアイスを購入した上で、新幹線に乗り込みました。

カチコチに固い食べづらいだろ、と、しばらく時間を置き、頃合いを見計らって食べようと思いつつも、がまんできずに食べ始めたら、ぜんぜん固くありませんでした
私は遠征に出かけると、夜にコンビニで買ったアイスクリームを食べることが多いのですが(定番ハーゲンダッツのクリスピーサンド)、前夜は「世界の山ちゃん食べ過ぎた感じでしたので、アイスクリームは省略しておりまして、これで元を取った(?)といったところ。

実は私、東海道新幹線名物といってもよいこの「固いアイスクリーム」を、これまで一度も食べたことがありませんで、これが初めてでした。
で、噂どおり、美味しかった これで昼食の失敗挽回できた気がしました

東海道新幹線のお楽しみ一つ、富士山は、往路では「#1」で書いたようにクッキリ鮮やかに見えましたが、帰路は、、、

う~む、残念…

   

新幹線定刻東京駅に到着
東京駅の駅ナカで夕食用に駅弁を購入して(遠征帰りの夕食は作りたくない)、本宅に帰りました。

本宅には16:30頃帰着し、もくろみ通り、余裕を持って「MISIA星空のラジオ~Sunday Sunset~」を聴くことができました

こうして、体調回復の一途を辿る中、1泊2日の愛知遠征滞りなく終了したのでありました。

今週末に大阪遠征を控え、愛知遠征記完結できて良かった
めでたしめでたし…。

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-4

2025-01-19 06:15:12 | 旅行記

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-3」のつづきです。

ここで遠征2日目ルートマップを載せましょう。
オレンジの線が電車区間、の線が徒歩区間、観光スポットです。

こうしてマップにしてみると、名古屋城駅から名古屋市市政資料館までの「意図せぬ迂回」滑稽に見えますが、あとでいろいろLucky と思うことになります
実は、このあと、もう一度「遠回り」することになったのですが、それは追々書くことにします

さて、名古屋市市政資料館の見学を終えた私は東大手駅から名鉄瀬戸線に乗って徳川美術館を目指しました。

地下駅になっている東大手駅の入口に、石碑のような説明板がありました。
何の説明板かと思ったら、なんと、駅名の由来書きでした

こんなに立派「駅名の由来書き」なんて初めて見ました

ちょっと長いのですが興味深い内容なので転記しておきます。

かつて名古屋城外郭の「三の丸」には五つの城門があって正門にあたるのが「本町門(ほんまちもん)」であり、東門に相当するのが「東大手門」で、「東大手駅」の駅名の起源である。
このほか、南西には「三園門(みそのもん)」、西には「幅下門(はばしたもん)」、北には「志水門(しみずもん)」があって、そのいづれもが土居や石垣に囲まれた枡形をつくり、そこで通路を曲折させていた。本町門・幅下門・東門付近の道路の曲折はその名残りである。東大手門付近では、外堀に三つの清水橋がかけてあったが、そのうち一番南の橋の位置が今の清水橋に当たる。
名古屋鉄道瀬戸線の前身にあたる「瀬戸電気鉄道」は、明治29年(1906年)に、瀬戸と大曽根間を開通させたが、その後、明治44年(1911年)に、堀川の水運を利用するために堀川まで延長した際、土居下・堀川間は名古屋城の外堀底を利用した。この間に「東大手」「久屋」「大津橋」「本町」の駅があったが、昭和14年名古屋鉄道に合併してから「東大手」「久屋」は廃駅となった。
昭和53年8月名古屋鉄道瀬戸線が都心「栄町」乗入れに際し、旧東大手駅跡の北側の地下に改めてこの「東大手駅」を再開し、名古屋城史跡の名を残すことになった。

なんとも「力作なのですが、私のように土地鑑の無い者にとってはなかなか理解が難しい
地図を付けてくれたらよかったのに…と思いながらネットで探したら、こちらのサイトピッタリの地図を見つけました

1941年頃の地図(なぜか簡体字の説明が加えられている)だそうで、

「名古屋城の外堀底を利用した」という瀬戸線土居下~堀川のルートがよく判ります (東大手駅と久屋駅は廃駅済み)
また、本町門、東大手門に由来する「曲折」も判ります

昔はここ(久屋橋から見下ろした外堀)を電車が走っていたんだ

「#2-1」で書いた愛知懸議員會館といい、この眺めといい、今さらながら、「名古屋城駅から名古屋市市政資料館までの『意図せぬ迂回』僥倖だったと思います まさしく「災い転じ福と為す」でした

なお、Googleマップを見ていたら、旧瀬戸線や土居下駅の痕跡を見つけました

   

なんとも薄暗くもの寂しい東大手駅から名鉄瀬戸線に乗ると、徳川美術館最寄りの森下駅までは、わずか2駅・4分 でも歩くと、2.1kmありますから、25分程度かかります

森下駅で電車を降りた私は、スマホの地図アプリを頼りに、徳川美術館へ。
徳川美術館に行くのは2度目ですが、前回は名古屋名物(?)の基幹バスで行ったっけ…

しばらく歩くうち、今度は徳川園・徳川美術館の矢印看板が導いてくれました。

途中、久しぶりにネコヤナギを見かけました(ピンボケ写真ですまぬ)。

ネコヤナギといえば、どうしても「天才バカボン」を連想してしまう私です

徳川園・徳川美術館西門(黒門)近くに「中京法律専門学校」という学校がありました。このときはなんとも思わなかったのですが、実は、愛知懸議員會館の建物を建て、そこに住んでいたという大喜多寅之助さんは、この専門学校の前身・中京法律学校校長を務めたことがあるんですと
いろいろ繋がるもんですねぇ

そして、到着

1月らしく、門松が出迎えてくれていまして、この門松にも説明が加えられていました

門松といえば、竹の先端部を斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴(ずんどう)があります。「そぎ」は徳川家康が始めたもので、家康唯一の敗北で知られる「三方ヶ原の戦い」のあと、武田信玄に対して次は斬るという念を込めたのが始まりだと言われています。

また、門松には雄松(おまつ)雌松(めまつ)を対にして飾ります。触ってみて葉先が固いのが雄松、柔らかいのが雌松になります。
江戸時代の門松を模して作成しています。是非ゆっくりご覧になってください。

そっかぁ、門松の「そぎ」には、「次には信玄を斬ってやる」という家康の念が込められていたのか… 正月にしてはずいぶんと物騒な話です

黒門の傍らに、名古屋市が設置した「徳川園と徳川美術館」という説明板がありました。

江戸時代のはじめ、この地域一帯は尾張徳川家二代光友卿の「大曽根下屋敷」といわれる広大な別邸であった。光友卿の薨去後、別邸は家老の成瀬、石河、渡辺の三家に下附され幕末まで使用されたが、明治維新後、再び尾張徳川家の所有となった。
昭和6(1931)年、同家19代義親侯は、「…私有するは時勢に順応せざるを以て…」と意を決して別邸建物と庭園のうち約7千坪(23,000㎡)を名古屋市に寄附すると共に、相伝の一万数千点に及ぶすべての什宝美術品類・土地・必要資金を拠出して、財団法人「尾張徳川黎明会」を設立。昭和10(1935)、同財団による「徳川美術館」が開館した。一方、寄附を受けた名古屋市は、昭和7(1932)年、「徳川園」として公開したが、第二次世界大戦時に空襲を受け、「表門(おもてもん)」を残して焼失した。
開館50周年にあたる昭和60(1985)「徳川美術館」の大幅増改築事業が地元経済界を中心とした全国規模の募金活動によって推進された。この地に集積されている歴史遺産との融合をはかるべく、平成16(2004)には我が国を代表する近世武家文化の殿堂と、その環境にふさわしい池泉回遊式庭園が完成した。
なお、公園内の南側には、尾張徳川家伝来の書籍類を収蔵し公開する名古屋市蓬左(ほうさ)文庫が設けられている。

この説明にはいろいろと展開したいところがありまして、まずは「大曽根下屋敷」。現在の徳川園・徳川美術館エリア広大ですが、当時は現在の数倍のとんでもない広さを誇っていたようです。

もっとも、江戸では、尾張徳川家上屋敷として現在の仙洞御所迎賓館のある元赤坂エリア全域を、中屋敷として上智大学四谷キャンパス全域を、ほか合わせて30か所もの屋敷地を拝領していたわけで、それに比べれば大したことはないと言えないこともありません

次に、「大曽根下屋敷」を下附されたという3人の家老のうち、成瀬家って、20年ほど前まで国宝・犬山城(訪問記)私有していたあの成瀬さんだと思われます。

徳川園と徳川美術館との関係がよく判らなかったのですが、徳川園(と蓬左文庫)名古屋市の所有で、徳川美術館財団法人「尾張徳川黎明会」の所有なんですな。

徳川園パスして、さぁ、17年半ぶり()の徳川美術館

というところで一息入れ、徳川美術館の見聞録は「#2-5」で。

つづき:2025/01/20 2025年最初の遠征は愛知へ #2-5

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2025年最初の遠征は愛知へ #1

2025-01-14 18:54:15 | 旅行記

「#0 & #M」のつづき、愛知旅行の初日編を始めます。

赤羽駅の駅ナカのそば屋でのんびりと朝食を摂ったあと、余裕を持って東京駅に到着し、予約していた東海道新幹線に乗り込みました。
私が乗った新大阪行き「のぞみは、指定席満席だとか。そうか、私は1泊2日の遠征だけど、世間一般的には「3連休の初日」なんだものね。

途中、っつうか、この日は一日中好天に恵まれ、富士山もクッキリと見えました

富士市辺りからだとこんなに近く、大きく見える富士山だけれど、見えないときはホントに見えないんだよねぇ

新幹線は定刻の10:45名古屋に到着し、まずは、いつものように、ホテルに荷物を預けに行きました。
私は名古屋駅の太閤通口近くのホテルを予約していたのですが、ミー友さんたちと話をすると、セントレア周辺のホテルに泊まっている人がけっこういて、へぇ~でした。セントレア周辺のホテルに泊まったら、ライヴの他はどうやって時間をつぶすんだろと思ったりして…。

それはともかく、スマホの地図アプリを参照しながらホテルに向かったところ、名古屋駅の北西側ではリニア中央新幹線工事の真っ最中で、たくさんの道路が通行止めになっていて、あれまぁ でした。

リニア中央新幹線がこんなに「現実」のものになっていたとは、まったく知りませんでした
それはそうと、名古屋駅⇔ホテルを最短距離で歩こうとすると、なかなか難しい
それでも、たいした距離でもありませんから、ちょっと迂回しても、歩く分には大きな影響はなかったように思えます。クルマだと大変そうですが…。

ホテルに荷物を預けたあと、名古屋駅に戻り、ちょっと早めながら昼食を食べるべく、エスカ地下街をブラブラ
ランチの一番人気はどう見ても「矢場とんで、いつものように長蛇の列ができていました。並んでいる人たちの様子をみると、半分くらいの人たちが大きなキャリーバッグを持っていて、いかにも観光客、それもインバウンド客っぽさが漂っていました。

私はというと、そもそも行列に並ぶのは大嫌いですから、「矢場とん」に比べると行列がだいぶマシ「ひつまぶし」にしました。

ひつまぶしは、そのまま薬味とワサビで、出汁をかけて、の3段階を楽しむものですが、私には名古屋の蒲焼きの味がちょいとクドく感じられるものですから、せいぜい2口くらいにとどめて、すぐに&に移行するのを常としておりまして、この日も同様の食べ方にしました。

食事を終えた私は、地下2階の駐車場の一角に見つけた喫煙所一服したのち、さぁ、行くぜ、セントレア

   

まずは案内矢印を頼りに名鉄名古屋駅まで行くと、ミュースカイのチケットを買おうとしました。
自販機でチケットを選択し始めた段階では空席があったのですが、デビットカードで支払おうとしたら「このクレジットカードは使えません」というメッセージが出てきました ならば現金で買おうかと、操作するうちに「満席」 

あれまと思ううちに、次の特急の指定席も「満席」 

結局、12:26発の特急の普通車に乗ってセントレアに向かいましたが、座席に座ることは到底かなわず、座れたときは、既に電車は知多半島を走っていました

そして、13:00ちょい過ぎ中部国際空港駅に到着。

セントレアからAich Sky Expo(愛知県国際展示場)までは、500mほど歩く必要がありまして、冷たい
名古屋から約40km電車で30~40分。よほどのことがない限り、再びここ(Aichi Sky Expo)に来ることは無いだろな… などと考えておりました。
でも、首都圏でいえば幕張メッセも似たようなものか…

そしてそしてAichi Sky Expoに到着

なんと大きく立派な施設なんでしょ
さすが愛知県お金持ち

ここまでグダグダ書いてしまいましたが、Aichi Sky Expoの館内には座る場所がたくさんあるし、フードコートもあるし、とりわけ夏の暑さ冬の寒さの中で入場を待つには、かなり良い会場かと思われました。
宮城のセキスイハイム スーパーアリーナと比べたら、あちらは入場待ちのとき寒くてたまらないし、トイレのほとんどは仮設だし、飲食できる場所は無いしで、かなりの差があると感じました。
もっとも、それぞれの施設の主目的が違うわけで、仕方ないとも言えます。

   

一気に「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」終演後に話が飛びます

Aich Sky Expoからセントレアへの帰り道は、来場客がバラバラに歩いていた往路と違って、ドカン集中していますので、時間がかかるし、そしてなお一層寒かった

名鉄は、MISIAのライヴに合わせて、19時ちょい過ぎと19時半ちょい過ぎに、2本快速急行増発してくれていましたが、やはり帰りは確実に座って帰りたい
ということで、19:17発特急名鉄岐阜行きミューチケットを購入しました(450円也)。
もっと早い時刻ミュースカイに乗りたかったのですが、そちらは早々に満席になっていました

セントレアまで往復してみると、ミュースカイ特急の特別車両キャパが足りていないのではないかと思ったりして…
もっとも、簡単に車両を増やせるわけもなく、インバウンドも高水準で続くでしょうから、解決はなかなか難しそうです。

   

私が乗った電車は19:54名鉄名古屋駅に到着しました。
ライヴ終了から約2時間ですから、やはり交通の便が…

私はホテルへのチェックイン「20:00に設定していましたので、どこにも寄らずにまずホテルに向かい、チェックインしました。

ホテルの自室に入り、一服したのち(喫煙可の部屋)、夕食を食べに行きました。

首都圏でも食べられるけれど(北浦和や赤羽にも店がある)、名古屋に来たら、やはりコレでしょう

と、「世界の山ちゃん」で夕食を摂りました。
体調不良が続いていたここ1か月半ビールレギュラー缶1本飲むのがやっとという状況が続いていたのですが、「幻の手羽先」威力炸裂なのか(ポテトサラダも美味しかった)、中ジョッキを2杯飲んでしまいました

良い気持ちになってホテルに戻った私は、ここでも風呂ではなくシャワーを浴びてスッキリ(このホテルのシャワーカーテンが小さすぎバスマットビショビショ)。

風呂上がりっつうかシャワー後は、TVもつけず、ぼ~っと「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」を反芻して過ごしました。

こうして愛知遠征初日の夜はふけていったのでした。

つづき:2025/01/15 2025年最初の遠征は愛知へ #2-1

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