昨日、2月3日の記事「五反田へ行ってみようか」で書いた薬師寺東京別院の(またもや「別院」が登場)「薬師寺の文化財保護展」(3月6日まで)に行ってきました。
こちらは「展覧会」を観に行ったつもりが、ホントに「心のやすらぎ」を頂いてきました。その話は、もう少し頭の中を整理してから書きますので、少々お待ちください。
さて、きのうの予定としては、五反田で薬師寺の宝物を拝観した後、都営地下鉄を乗り継いで芝公園に行き、去年11月30日の記事「古墳に興奮!(その7:完結編)」と今年1月9日の記事「上野で古墳に登ってみた♪」で書いた芝丸山古墳を見物し、そして、気が向けば増上寺を見物してみようか、というものでした。
五反田駅から都営浅草線に乗り、三田駅で都営三田線に乗り換えて、と、簡単な行程だったはずなのですが、実際は、
五反田⇒浅草線⇒(高輪台)⇒泉岳寺[終点・乗り換え]⇒浅草線⇒三田[乗り換え]⇒三田線⇒芝公園
たった4つ先の駅まで行くのに2回も乗り継ぐことになりました。ほとんど駅ごとに電車を乗り換えた感覚です。
これは、都営浅草線が、泉岳寺から京浜急行に入るルート重視で、本線であるはずの西馬込~泉岳寺が「支線扱い」だからです。
もっとも、私が三田以北から都営浅草線に乗って高輪台以南に行く(またはその逆)なんて、ほとんど機会がありませんけれど…
それはさておき、芝公園駅で地上に出ますと、東京マラソンが現在進行形でした。
スタートして既に2時間50分が経過しているというのに、20km地点手前を大量のランナーっつうか限りなくウォーカーに近い参加者たちがぞろぞろと進んでいました。
あの人たちの何%がタイムオーバーすることなくゴールできたのでしょうか…。
さて、肝心の芝丸山古墳です。
場所はこちら。
ザ・プリンス パークタワー東京のすぐ隣り、芝東照宮(またもや「東照宮」が登場)の裏手にあります。
Googleマップによれば、これが芝丸山古墳のはず、、、、
なのですが、ちょいと違う…
こんな説明板がありました。
港区教育委員会が設置した「丸山貝塚」と題する案内板にはこう書かれています。
芝公園内の丸山と呼ばれる丘陵の東南斜面に貝層が残存している。<中略>
丸山の丘上には大型の丸山古墳が造られているので、破壊されているところもあるが、斜面に残る部分は都内の貝塚研究のため重要である。
目の前の丘の、その上に丸山古墳がある…
そして、この案内板は、古墳づくりのために貝塚が壊されたことに憤慨している…。
この丘の上に古墳があるわけだ、と、「貝層」はどれだ?と探しながら丘の上に登りました(「貝層」は確認できず)。
石段を昇ると、平坦な場所があり、石柱と案内板が建てられていました。
これこそが芝丸山古墳です
東京都教育委員会による説明板から転記しますと、
全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。
江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。<以下略>
とな。できることなら、現在の地図の上に古墳の形を図示するような説明が欲しいものです。
さっそく「前方部」に登ってみました。
「前方部」の上部はほぼ真っ平ら。
上の写真は前方部から後円部を撮ったもので、後円部は若干高い程度の高低差です。そして、くびれ部がかなり狭い。
素人考えながら、くびれ部の最高部に合わせるように古墳全体を削ったのかもしれません。
下の写真は去年11月26日の記事「古墳に興奮!(その3)」に載せた稲荷山古墳(復元)です。ご参考まで。
そして「後円部」に行ってみますと、これが結構広い
やはり相当削られたのでしょう。
その後円部にはこんな石碑がありました。
読みづらいですな。
墳 古 大 形 瓢
と書かれています。右から左に書かれていますので、普通に書くと「瓢形大古墳」となります。
「瓢形」というのは「ひょうたん形」ということでしょう。でも初めて聞く言葉です。
「瓢形古墳」でググると、引っかかるのは古い文献からの引用ばかり。
Wikipediaには、「前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容されていた」と書かれていますが、恐らくそうなんでしょう。
後円部には上の石碑の他に、「伊能忠敬測地偉功表」という記念碑が建っていました。
東京地学協会会長の細川護立さん(こちらの記事に登場)による碑文には、伊能忠敬の功績が書き綴られた上で、「1889年に東京地学協会がこの地に伊能忠敬測地偉功表を建てたが、先の大戦で失われた。そこで、各方面の協賛を得て再建した」といったことが書かれています。
どうして「この地」なのか疑問に思って調べてみると、港区の関連と思われるサイト「港区産業観光ネットワーク MINATOあらかると」に説明が載っていました。
飯倉交差点にもどり、赤羽橋方面へ進みます。都営三田線芝公園駅のほうから、芝公園に入ります。 広い芝公園のなかのこんもりとした小山、「史跡・丸山古墳」を上ると、上りきった広場に「伊能忠敬測地偉功表」があります。商人として身を立てた伊能忠敬は、50歳から隠居し天文や測量を学んで、寛政12年(1800)に56歳で全国の測量の旅に出ます。74 歳で亡くなりますが、それまで何回にもわたって全国の海岸線を歩いて測量した結果は、死後に編さんされ精度の高い地図と評価された『大日本沿海輿地全図』となります。 なお、測量の起点となったのが「高輪大木戸」です。この遺功表も当初は、その大木戸に建設することが検討されていましたが、明治22年、東京地学協会は、青銅製オベリスク型の遺功表を芝公園内に建立しました。しかし、これは戦時中の金属回収政策により取り壊されたため、同協会が昭和40年(1965)に再建しました。
だそうです。
これじゃ「どうして『この地』なのか」の回答にはなりません
謎は深まるばかりです。
つづき:2011/03/01 今月の京都遠征では奈良まで足を伸ばそうか…(前編)