新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

体調不良につき #4

2024-12-16 18:15:25 | 日記・エッセイ・コラム

「体調不良につき #3」のつづきです。

私が蜂窩織炎(ほうかしきえん)を発症してから1か月が経ちました。
また、「#3」の最後の【追記】を載せてからも10日余りが経ちましたので、その後の経過と現状を…。

実は、【追記4】をアップした12月4日以降、大きな改善は見られません

症状別に現状を整理してみます。

痛み
症状の最盛期(?)に比べれば、痛みは顕著に緩和しましたが、靴を履いて歩くと、足首辺りが擦れて痛いし、靴を履いていないときにも、ときおりヒリヒリする痛みがやってきたりします。
もっとも、ベッドを降りて立ち上がることさえ強烈な苦痛だったことを思えば、大きな良化です

痒み
発症から2週間くらいのタイミングで始まった痒みは、1週間ほどで治まりました

腫れ
ストレートタイプのチノパンやジーンズなら、裾をたくし上げて患部をお医者さんに診てもらえるまでに良化しました。
でも、スキニータイプのジーンズを履くと、右足だけサポーターを着けたような圧迫感があります。
「腫れ」で驚いたのは、先週、帰省して仏壇の前に正座しようとしたら、真っ直ぐ座れなかったこと 右脚の腫れのせいで、どうしても体が左に傾いてしまうのです 
でも、今の普段の生活では正座する機会はほとんどありませんから、大きな問題ではないでしょう。
試しに、今、正座してみたら、違和感はあるものの真っ直ぐ座れました

浸出液
確実に浸出液量は減っていますが、それでも、朝と夕の1日2回ガーゼ交換しています。
包帯はお湯で洗って再使用していますが、ガーゼは毎回使い捨て(パッケージには「再使用禁止」と書かれています)
「#1」で書いたように、11月19日の診察の際、お医者さんから「毎日ガーゼを交換してください。ガーゼは多めに用意しておいてください」と言われ、帰りにドラッグストアで12枚入り減菌ガーゼを買ったのですが(これほど長引くとは予想できなかった)、それはすぐに底をつき、次は24枚入り「徳用」を購入、それもけさからは2箱目に突入しています。
このロットで完治できますように

患部
浸出液の発生源になっている患部は、相変わらずグロいままです (写真は自粛)
1週間ほど前までは、中心部が直径15mmほど黒くなっていて、それを白いぶよぶよしたものが囲んでいましたが、今は、中心部の「黒変(?)」そのままながら、怪しい「白い物体」はほとんど無くなりました。
その代わりというか、患部とその周辺凹んだ感じです
素人目にはなんとも不安をかき立てられる状況なのですが、きょう、皮膚科CLで診察してもらったところ、お医者さんも看護師さん平然とされていて、大きな問題ではなさそうです

入浴禁止
入浴すると温められることでが元気になるから、という理由で、入浴が禁止され、ここ1か月、シャワー我慢しています。
この季節にシャワーだけというのは、本宅でも寒いのですが、帰省したら、別邸の浴室寒いのなんのって…
別邸では、シャワーを出しっぱなしにして浴室を暖めてからシャワーを浴びていますが、それでも寒いことは寒い
とりわけキツいのは、シャワーを終えて脱衣所に出た時です。
普通に入浴しても、冬の別邸(断熱性能が酷い)では厳しいひとときなのですが、体が十分に温まっていない状態で極寒の脱衣所に出る時は、「ヒートショック」ということばが頭に浮かびます
本格的な寒さになっているだろう次回の帰省(正月帰省)が思いやられます
と、先日、あるアイデアが浮かびました。
浴室のドアをちょっと開けただけで手の届く場所にバスタオルを用意しておき、それを浴室に引っ張り込んで浴室内でバスタオルを使うというアイデアです。
浴室内で体の水気を取り、バスタオルを羽織った状態で脱衣所に出て、すぐにパジャマを着たら、寒さ緩和できるのではなかろうか…
さっそく本宅で試してみたところ、これは効きます
考えてみれば、ビジネスホテルの浴室では、これが普通なんですよね
来週の診察で、入浴解禁が望まれるところですが、かなり気が楽になりました

なお、現在処方され、服用・使用している薬は、「外用感染治療剤」(塗り薬)、利尿を目的とした漢方薬、そして鎮痛剤の3種類です。
次回の診察の結果によっては、処方薬の変更もありうるとのこと。

「こんなに長引くとは思わなかったというのが一番の感想ですが、それでも、ゆっくりゆっくりと良化しております。

つづき:2025/01/05 体調不良につき #5

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今年も「特製MISIA卓上カレンダー」をつくった

2024-12-14 11:03:06 | MISIA

気がつくと12月も半ばに入り、今年も残すところ2週間余りとなってしまいました。
来年の準備も佳境に入ってきて、本宅と別邸の壁掛けカレンダーは、既に2025年のものを用意していますが(別邸は、先日の帰省の際、すべて2025年版に変更済み)、きのう朝の時点では、来年の年賀状「特製MISIA卓上カレンダー」には未着手の状態でした。
これはマズい と、きのうドタバタと作業した結果、年賀状も「特製MISIA卓上カレンダー」も、第一案ができあがりました 腰は重いけれど、やり出したら早い私です

本宅での作業スペース(南向きの出窓の前)の傍らには、いつ頂いたのか思い出せないCLUB MSAからのバースデーカードと共に、はがきサイズの「特製MISIAカレンダー」が鎮座しています。
勤務カレンダー(祝日が出勤日だったり、長期休みが年3回あったりした)が判るカレンダーを手元に置きたいという理由で作り始めた「特製MISIAカレンダー」ですが、早いもので、2024年(CY2024)版は10作目にあたります。

一応、毎年(毎年度)、テーマを決めて、持っているMISIAの画像データ(ある程度の解像度が必須)を使って制作していまして、過去のテーマはこんな具合でした(ブログの記事へのリンクを貼っています)。

FY2015 ライヴ
FY2016 壁紙コレクション
FY2017 ライヴ
FY2018 ジャケ写 (アルバム)
FY2019 ジャケ写 (シングル)
CY2020 ライヴ
CY2021 2020年のMISIA
CY2022 MISIA on TV
CY2023 比較的新しめの画像
CY2024 2 shot

CY2024版のテーマは、手持ちの画像データや過去のカレンダーとにらめっこした結果、「ジャケ写など」にしました。

そして、いつもの「ラベルマイティ」を使って、版下を完成させました

まずは、2025年1~4月。

つづいて、5~8月。

そして、2025年9~12月。

10月のが、「ジャケ写など」「など」に当たる部分です。

実際に印刷(フチなし印刷)すると欠ける部分が出てきたり、色合いがディスプレイで見るのと違ったりケースに入れるとケースの縁と日付が重なって見えづらくなったりもしますので、再編集したりレイアウトを変更したりもしますが、おおよそこれで行きたいと思います。

印刷用紙(いつものピクトリコプロ・セミグロスペーパー)は、手元にある分で足ります(歩留り70%でも大丈夫)から、そのうちに印刷して完成させます

なお、年賀状の方も、実際に出す分とブログ掲載用の2種類の版下を完成させました
こちらは、もちろん、来年の元旦までヒ・ミ・ツ

【追記1】実物大PDFをこちらで公開します。ストレージの容量ほかの都合により、1週間限定(21日正午まで)です。 (2024/12/14 16:58) 

【追記2】12枚を印刷しました 試し印刷(安い用紙を使用)も含めると、その倍は印刷したかな?
一番のお気に入り「2025年2月」はこんな具合です。
MISIAがカッコイイ

(2024/12/14 21:06) 

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #9 [完結編]

2024-12-11 17:11:06 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8」のつづきです。

致道博物館で次に見学したのは、「民具の蔵(旧御隠殿土蔵)」です。

見た目、普通の蔵ですが、

この土蔵は江戸時代末期に御隠殿に付属して建てられました。明治時代以降は、旧藩主酒井家伝来の武具や調度品を収納していました。敷地内には幾つも土蔵がありましたが、現存するのはこの一棟のみです。致道博物館の展示室拡張のため、1956(昭和31)年に「民具の蔵」と改称、現在は庄内地方の民俗資料を展示しています。

という由緒ある建物です。
内部には「庄内地方の民俗資料」が展示されていましたが、「#8」で書いたようにデジカメのバッテリーがギリギリだったこともあって、一枚も写真を撮りませんでした

と、「#5」で外から写真を撮った「赤門」の説明板がありました。

田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わります。乳金具(釘隠)などの金物類は古い形式をとどめています。
1892(明治25)年、台風で破損したために修復しましたが、2004(平成16)年8月の台風で破損、古材をできる限り用いて当初の姿に再建しています。
江戸時代、将軍家の姫君が大名家に嫁ぐ際には、江戸屋敷内に姫君のための特別な住居を構えて朱塗りの門が建てられました。これを表門の黒門に対して赤門といいます。
赤門は、大名に嫁いだ将軍徳川家の娘の敬称である「御守殿(ごしゅでん)」「御住居(おすまい)」のために許された特別な門で、焼失しても建て替えが許されませんでした。

だそうです。

「赤門」といえば、東京大学のシンボルにもなっている「赤門」を思い出しますが、あちらも同様の性格のものだったのか? (大名屋敷の表門のような番所付きの大仰な門だけど) と調べてみたら、東大のサイトに答えがありました。

旧加賀屋敷御守殿門 (赤門) 文政10(1827)年建立
赤門の呼名で広く一般に知られているこの門は、元加賀藩上屋敷の御住居表御門であった。明治36年現在の位置へ移されたが、元は15メートルほどキャンパス寄りに位置していた。明治30年頃から始まる医科大学の建設のためであったという。文政10(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女溶姫は、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れした。赤門はこの時溶姫を迎えるため建てられたものである。

だそうで、まさしく徳川家から嫁入りする姫のための門でした。

で、御隠殿の赤門は、1864(元治元)年に移築されたそうですから、「#5」で浮かんだ疑問「誰の為の門?」は、9代藩主酒井忠発公と鐐姫との婚姻に際して建てられた門っぽい。
更にWikipediaには、鐐姫は、

文久3年(1863年)3月、世子忠恕の未亡人・瑛昌院(山内豊煕の二女)を伴って鶴岡に下り御用屋敷新御殿に移居した。

そうですから、間違いなさそうです

   

最後に見学したのは、「旧鶴岡警察署庁舎 [重文]です。
「#5」で使った写真ですが、トリミングし直して、もう一度載せます。

なかなかインパクトのある水色です。
そういえば、札幌の豊平館も、外壁はながら、軒裏や窓枠ほか、水色の縁取りが印象的だったなぁ…
ちなみに、豊平館が建てられたのは、「#5」で書いた旧西田川郡役所と同じ1881(明治14)年で、この旧鶴岡警察署庁舎が建てられたのは1884(明治17)年ですから、流行りのようなものだったのでしょうか?

説明板を転記します。

明治新政府の維新を示すために建設したとされ、旧西田川郡役所と同様に初代県令・三島通庸が命じ、高橋兼吉が設計しました。擬洋風建築における一つの到達点を示すものと評価されています。もとは市内馬場町にあり郡役所と隣接していましたが、1957(昭和32)年警察署移転に伴い、地元の建築士会が中心となって保存のため当地に移築しました。
外部窓廻りなどにルネサンス様式を模していますが、宝形造(方形造)の堂々たる外観で、屋根の大棟や破風妻飾りなどは在来様式を巧みに取り入れています。
5年に及ぶ保存修理工事と調査を経て、水色の外観や3段構造の取調室などが復原されました。
創建当初の姿によみがえり、2018(平成30)年6月から公開が始まりました。

またまた登場した三島通庸高橋兼吉
それはともかく、この建物のどこが「宝形造」? と思ったら、こちらのサイトの写真を見ると、入母屋造の1階の上に、「宝形造」の2階が乗っかっているんですな。こりゃ、下から見ても判りませんって…
それよりなにより、鶴岡警察署1950年代半ばまでこの建物を使っていたらしいことに驚きます 「鶴岡警察署の沿革」によれば、

昭和31年10月 庁舎の老朽化、県重要文化財指定を機に鶴岡市馬場町(現、鶴岡地区医師会館)に移転新築

とあります
「庁舎の老朽化」とありますが、築70年超ですから、そりゃ老朽化しますよ

説明板に、「3段構造の取調室などが復原されました」とありますが、その復原された取調室衝撃的でした。
廊下から取調室に入ると、、、、

おわぁ、なんじゃこりゃ

ほとんど時代劇でみる「お白州」じゃありませんか

試しに被疑者目線だとこんな感じ。

「お白州」と違って板敷きですが、むしろに座らされて、二段高い場所で椅子に座る取調官を見上げたら、感じるのは「威圧感だけです
しかも、背後の「中段」には警察官が立っていたのでしょうし…

明治の初期は、こんな取調だったんですな。

説明板によれば、

取調室は、比較的早い時期に改造された。
2室の仕切り壁は撤去、3段の床組は最も高い位置に揃えられ、出入口は窓に変えられた。
この取調室は、その後、宿直室、倉庫、書庫と用途が変遷している。

だそうで、さすがに「お白州」長続きしなかったようですな

ということで、致道博物館の見学はおしまい。
いやはや楽しめました

   

致道博物館を退出した私は、鶴岡公園(鶴ヶ岡城趾公園)の中を通って駐車場に向かいました。

今回、私は、「鶴岡城下町めぐり共通券」を使っていまして、ここまでの「旧風間家住宅 丙申堂」「風間家旧別邸無量光苑 釈迦堂」「致道博物館」に加えて、「鶴岡市立藤沢周平記念館」も観ることができました。

でも、もう、「お腹いっぱい」状態で、「鶴岡市立藤沢周平記念館」は素通りしました
これでは「元を取れない」可能性があったわけですが、無理する必要はありませんしね…

それよりも私にとって大事なのは、「#6」で書いた鶴ヶ岡城「鬼門消し」を見ることでした

明治初年の廃城以降、都市改造や公園の整備ほかで変化しているでしょうけれど、見つかるかな? と歩いていくと、、、、

おぉ、コレっぽい
旧本丸の北東角で、内堀がL字形に屈曲しています
ますます大満足の中で、鶴岡公園を出て、駐車場に戻りました。

こうして、16:00ちょい前にクルマに乗り込み(鶴岡市散策は約4時間)、いざ、帰る

   

基本的に来た道をとって返す中、山形県の北西端にあたる遊佐町付近で、生まれて初めて日本海に沈む夕陽を見ることができて、さらに大満足

あとで知ったところによると、遊佐町には、小樽でのニシン漁をなした青山家の本邸があって公開されているのだそうで、いつかここにも行ってみねば
私は、北海道開拓の村旧青山家漁家住宅を観て、小樽小樽貴賓館(旧青山別邸)を観てそこでにしんそばを食べた経験がありまして、WOWOWで放送された「ゴールデンカムイ 北海道刺青囚人争奪戦」に、その両方が登場して大盛り上がりしました。
ここまで来れば、旧青山本邸にも行かないわけにはいかないぞ と心に決めている私です。

それはさておき、秋田市内まで戻って来たところ、ちょうど帰宅ラッシュ時で、渋滞に巻き込まれたのは想定外でしたが、それでも、18:30までには、無事、別邸に帰着したのでありました。
あ~、楽しかった

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8

2024-12-10 18:29:19 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7」のつづきです。

私が「おひょう~欣喜雀躍した建物というのは、

「旧渋谷家住宅(多層民家)」です。

「兜造り」のなんとカッコイイこと

角度を変えて見てもカッコイイ

説明板によると、この建物は文政5(1822)年に建てられたものだそうで、

県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家です。山峡の雪深い地域に対応した4層構造になっています。江戸時代は、出羽三山参詣の道者宿や湯殿山登拝の先達や強力を生業としていました。
明治時代初期の廃仏毀釈などにより参拝者が激減、養蚕業に転じて家屋に通風や採光を目的とした「高(たか)ハッポウ」と呼ばれる高窓を取り付け、2階・3階・屋根裏部屋を養蚕の作業場・収納場としました。「兜造り」と呼ばれる近世のとれた美しい茅葺き屋根が特徴です。

だそうです。

10年ほど前、「日本の民家 一九五五年」という二川幸夫さんの写真展を観て、日本の古民家の美しさに心を震わせたのですが(記事)、この写真展で「旧渋谷家住宅」の写真を見た気がします。

帰省Uターン後、安くなかった図録を見たのですが、田麦俣集落の遠景が載っているだけで、あれまぁ 気のせいだったのか? でした。
ところが、この記事を書くにあたって「日本の民家 一九五五年」展をググったところ、こちらのサイトに行き当たり(展覧館のタイトルを間違えてる)、その会場内の写真の3枚目に、この「旧渋谷家住宅」の写真がある
そうだよねぇ~ 私が「見た気」になっていたわけではなかったのがうれしい
で、「旧渋谷家住宅」致道博物館移築されたのは1965年ですから、二川さんは田麦俣集落で撮影したんですな

では、中へ。

写真の右下、軒下にある格子状のものは、田植えの前に、苗を植える目印を田んぼにつけるためのローラー(?)だよね…。

それはさておき、旧渋谷家住宅に入ってすぐ、左側に縄のれんが下がっていました。
居酒屋みたいだな、と思ったら、なんと、トイレでした

どうしてこんな入口のそばにトイレを設置したんでしょ?

近所の人が「渋谷さん、いるかい?」なんてやってきたときにトイレに入っていたら気まずいだろうに…

と思ったら、この家に「玄関」はなく、来客縁側から入ったのだとか

玄関が無いというというのは一般的なのかな? と思って調べてみたら、こちらのサイトには、

一般の農家では玄関はないため、土間から座敷へあがります。その土間から一段高くなった場所は長式台と呼ばれます。

と書かれていました。
なるほど…。

さて、2階の「お蚕さまルーム」に上がってみました。

わぁ、真っ黒

3階へ続く階段も、天井(3階の床裏)も、小屋組も煤けて真っ黒です
なんでも、家の中の竃や囲炉裏で火を焚くことで、立ち昇る煙の成分茅や木材をコーティングして防菌、防虫の効果を発揮して、また、家の中に対流を作って風通しも良かったのだとか。

でも、「お蚕さま」は煙たくなかったのかな?

この屋根裏を良く見ると、は真っ黒になっていません。恐らく、定期的に葺き替えをやっているのでしょうな

2階から1階に降りると、(うまや)がありました。

一つ屋根の下農耕馬と一緒に暮らしていたというわけですな。
馬栓棒が、かなり使い込まれたと見えて、テッカテカ

最後に、外から3階と屋根を見上げて「旧渋谷家住宅」の見学は終了です。

「旧渋谷家住宅」の横に、ポールが立っていますけれど、これは恐らく避雷針でしょう。
茅葺き屋根最大の弱点火災ですから…。

   

お次は、築40年と、致道博物館の見学スポットとして最も新しい建物「重要有形民俗文化財収蔵庫」

実は、デジカメのバッテリーギリギリの状況でして、この辺りから撮影枚数を減らしていました予備を1個持って行っていたのですが、これが充電していなかったヤツで、なんとも間抜けな話です

そんな状況で撮った1枚がこちら。

「金(かね)はかり」分銅です。

「両替屋」のシンボルマークとして使われがちな分銅ですが(銀行の地図記号もこの意匠)、どうしてこんな形をしているのでしょうか?
昔、理科の実験で使った上皿天秤に付属していた分銅は、円筒形の上につまみがついたものと金属片でしたよねぇ。

ちょっと調べてみたところ、Wikipediaによると、

この両替に用いられる天秤は、承応2年(1653年)に世襲的特権を与えられた、京都の秤座で製作されたもののみ使用が許された。また分銅については、寛文元年(1661年)に世襲的特権を与えられた彫金を本職とする、後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。そのため量目の単位としてのは江戸時代を通じて均質性が維持されている。

ですって
これで、分銅の形が同じ理由は判りましたが、「なぜあの形なのか」未解決

Wikipediaは、

この分銅の形は蚕の繭をかたどったものといわれている。

としていますが、見えないことはないけれど、ちょっと無理があるような…
なぜ繭の形なのか判りません
単に「指でつまみやすいから」だったりしませんかね?

というところで、「#9」(おそらく完結編)につづきます。

つづき:2024/12/11 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #9 [完結編]

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7

2024-12-08 11:27:24 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6」のつづきは、致道博物館で観た「手のひらに、江戸 檜細工師 三浦宏の粋」の途中から。

私、「棟割長屋」「割長屋」との区別がつかなかったのですが、この展覧会でようやくその違いを知ることができました

手前が「棟割長屋」で、奥が「割長屋」です。

一棟の長屋に、背中合わせに2列に部屋が並んでいるのが「棟割長屋」で、1列に部屋が並んで入口と反対側に裏庭があったりするのが「割長屋」です。

こちらのサイトによれば、「棟割長屋」1戸の平均的な広さは、9尺(約2.7m)×2間(約3.6m)で、土間と4畳半の部屋があって家賃は300~500文。一方の「割長屋」2間四方で、土間と6畳間と屋根裏部屋(4畳)があって家賃は800~1000文だったそうな。
「棟割長屋」なんて、今どきは苦学生か独身者でも住まなそうな狭さですが、ここに家族で暮らしていたというのですから、江戸の住宅事情はなんともpoorだったんですねぇ
考えてみれば、私の本宅「現代版割長屋」 もちろん、江戸時代の割長屋よりずっと広いけれど…

   

江戸時代には、寿司や天ぷらは屋台でひょいっとつまむものだったと聞きますが、その屋台がまたよくできてる

江戸東京博物館には実物大の寿司の屋台が展示されていましたけれど、当時の寿司は酢飯が茶色(赤酢を使っていた)で、握りの一つ一つが大きかったなぁ。

「三浦宏の粋」展では、「現代の寿司屋」(回らない寿司屋)のミニチュアも展示されていました。

食べ物つながりでは、

湯豆腐桶(左)と冷や奴桶(右)だそうで、こんな道具を使って食べたら、豆腐をいっそう美味しく食べられそうな気がします
さらに、街道を徒歩きしていて、こんなのを見たらすぐに食事したくなりそうな「めし屋(煮売り屋)」

右側の看板には「品川宿 煮うりや 㐂助」と書かれていました。

   

そして、最後に紹介するのは「木戸番小屋」です。

「木戸番」「町の門番」みたいなもののはずですが、なにやら「商店」のような雰囲気が漂っています。

これというのも、Wikipediaから引用しますと、

木戸番の賃金は少なかったため、彼らは駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢・草履・草鞋などの荒物(生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったりして副収入としていた。特に焼き芋屋は番太郎(=木戸番)の専売のようになっていた。そのため、番太郎は本職より内職の方で知られており、木戸番屋は「商番屋」とも呼ばれていた。

だそうです。
確かに、真ん中の樽状の(?)の中に入っているのはサツマイモっぽいし、傍らには笊に入れられたサツマイモがあります
三浦さん、芸が細かい

ほんとはもっと紹介したいところですが、なにせ、約70点を展示する、過去最大級の展覧会」ですから、キリがありませんので、「三浦宏の粋」展のことはここまでにして、美術展覧会場を出ましょう

そして、美術展覧会場のとなりにあったのは、、、私が「おひょう~欣喜雀躍した建物だったのですが、その話は「#8」で…

つづき:2024/12/10 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6

2024-12-07 17:22:01 | 旅行記/美術館・博物館・アート

だいぶ体調が戻ってきましたので、「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #5」のつづきです。

「旧西田川郡役所」の次に見学したのは、

「旧庄内藩主御隠殿(ごいんでん)です。
リーフレットには、

幕末に江戸中屋敷を移築したと伝わる酒井家11代忠発の隠居所。明治の廃城後は旧藩主の邸宅「酒井伯爵邸」となり、一部が現存します。

とありましたが、酒井忠発公は9代藩主で、11代藩主は酒井忠篤じゃなかったかな? 「旧庄内藩御隠殿」前の説明板にも「11代藩主忠発」と書かれているし、これはどういうこと? そのうち調べてみましょ。
なお、庄内藩の江戸中屋敷は、現在の神田和泉町北東角三井記念病院がある辺りだったらしいです。

「旧庄内藩主御隠殿」に入ると、まずは鶴ヶ城の年表があり、さらに、城下の地図などと共に、ジオラマがありました。

ガラスへの映り込みが邪魔ですが、写真の左上の内堀で囲まれた区画が本丸で、右下には馬出しを備えた大手門が見てとれます。
天守がなく、また、石垣ではなく土塁で本丸や二の丸を囲っているところがいかにも東日本の城ですなぁ。

そして、私にとって重大関心事である「艮(丑寅=北東)の鬼門消し」が写真の中央部、内堀を内側に屈曲させて成立させているのがよく判ります
古地図(上が西、右が北)だと、もっとはっきりと判りますな

あとで、「鬼門消し」が残っているのか、確認するぞ

また、「江戸時代後期の鶴ヶ岡城下」という町割り図(上が北)を見ると、

二の丸から「西御門」を出てすぐ、「旧庄内藩主御隠殿」を含む致道博物館のエリアが「御用屋敷」と表記されていました。
江戸城でいえば「西の丸」のような扱いだったのかもしれませんな

次のコーナーには、なぜか釣り竿とか魚拓が展示されていて、釣りに興味の無い私はさらっと通過してしまったのですが、あとで知ったところによると、魚拓発祥の地庄内だったらしい
Wikipediaによれば、

魚拓は庄内藩が発祥とされ、日本で現存最古のものは天保10年(1839年) 2月に現在の東京都墨田区錦糸町付近で釣られた鮒の魚拓「錦糸堀の鮒」とされている。9代藩主酒井忠発が釣り上げた鮒であるとされ、現在は鶴岡市郷土資料館に所蔵されている。

だそうな
現存最古の魚拓が、殿様が釣り上げたフナだとは、いろいろ驚かされます

それはともかく、「旧庄内藩主御隠殿」は、元藩主の隠居所にして、明治以降は酒井侯爵邸だっただったというだけに、各部屋が広い

現存するのは「一部」だそうですから、往時はさぞかし豪邸だったのでしょう

奥座敷からガラス越しに「酒井氏庭園」を眺めて、

そして、旧庄内藩主御隠殿退出しました。

   

旧庄内藩主御隠殿の隣にある新しめの建物は「美術展覧会場」で、私が訪れたときには、「手のひらに、江戸 檜細工師 三浦宏の粋」が開催中でした。

ジオラマ好き・ミニチュア好き・建物好きの私にとってはたまらない展覧会でした

三浦宏さんは、

浅草の風呂桶職人の家に生まれ、優れた技術で檜風呂や手桶などを製作していた三浦宏(1926-2019)。時代の流れに伴って木製風呂桶の需要が減るなか、子どもの頃から親しんだ和船の模型づくりに取り組みます。
確かな職人技で再現されるミニチュアは次第に評判となり、江戸最古の人形の老舗「吉徳」をはじめ、各方面からの依頼が舞い込み、亡くなるまでの38年間に100点以上の作品を手がけました。

という方で、私は、三浦さんの作品を、一葉記念館の常設展示や、今年春の「大吉原展」@東京藝術大学大学美術館で拝見したことがありまして、「大吉原展」に出品されていた三浦さんと辻村寿三郎さん(人形)、服部一郎さん(小物細工)とのコラボによる「江戸風俗人形」は(なぜかこの作品のみ撮影)圧巻でした

「三浦宏の粋」展では、この「江戸風俗人形」は展示されていませんでしたが、

本展は、長屋・湯屋・呉服屋などの代表作品(縮尺1/10)を中心に約70点を展示する、過去最大級の展覧会です。

というだけに、何とも見応えのある、顔の表情筋が緩んだままの展覧会でした

まずは、三浦さんの「原点」とも言える船の模型から「千石船」

美しいし、大きさも手頃(長さ30cm×幅18cm)だし、「お持ち帰り」したかった

浴槽のことを「湯船」と呼んだりしますが、その由来は、江戸時代に銭湯の無い場所や少ない地域を風呂を設置した船で巡回する商売があったそうで、その「湯船」がこちら。

晩年の父は訪問入浴介護のサービスを受けていましたが、移動入浴車は、現代版「湯船」かもしれませんな

お次は、古典落語時代小説でおなじみ(?)の猪牙舟(ちょきぶね)。

説明板には、

猪の牙状に舳先が細長く尖った、屋根のない小さな川舟のことです。江戸市中の河川で、タクシーのように使われました。
浅草山谷にあった吉原遊郭に通う客がよく使ったため、山谷舟とも呼ばれました。

とありましたが、江戸は川や運河が網の目のように通っていた町でしたから、活躍の場は多かったんでしょうねぇ

   

船はこの辺りにとどめて、次は建物で、まずは「湯船」商売仇であるところの 銭湯(湯屋)

浴槽エリアと洗い場エリアとの間には、下がちょっとだけ開いたがあり、ものものしく唐破風で飾られています。
柘榴口(ざくろぐち)と呼ばれるもので、浴槽エリアの温度や湿度を維持するための工夫だそうな。ちょっと似た感じのある茶室「にじり口」とは関係無さそうです

湯屋の楽しみは風呂だけではなく、入浴後に湯屋の2階で過ごすひとときがあったのだそうで、そのミニチュアもありました。

江戸川区浴場組合のサイトによれば、

時期にもよりますが、銭湯の二階が別料金を払って入る娯楽スペースだったこともあるそうです。脱衣場からハシゴで二階に上がると、お茶を飲んだりお菓子を食べたり、囲碁や将棋をさしながら会話を楽しむスペースが広がっていました。
二階スペースを利用するのは男性だけに限られていたようですが、これにはある時期に「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性スタッフが三味線などで男性をもてなしたこと、武士が刀を置くスペースが必要だったことなどが関係しているようです。

だそうです。
道後温泉本館の2階・3階みたいですな(道後温泉は男女とも2階・3階でくつろげる)

と、キリが良くないのですが、久しぶりに気合いを入れて記事を書いたら、妙に疲れてしまいました

したがいまして(?)、ここから先は「#7」につづきます。

つづき:2024/12/08 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7

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