「7月の帰省のこと #4 [秋田県立近代美術館編]」のつづきは、あの大雨が降り始める前日の7月13日に「道の駅 あきた港」に出かけたお話です。
「道の駅 あきた港」、通称「セリオン」のシンボルは全高143mのポートタワーで、地上100mの高さに展望室があります。
このタワーが竣工したのは1994年だそうですが、実は私、この界隈に出かけたのは2021年9月が初めてで、このときが2回目。
県内の他の道の駅には何カ所かには両親と一緒に行ったことがありましたが、この母の地元の道の駅 あきた港には一度も来ずじまい…
なんでこんなにセリオンに足が向かなかったのか、正直、謎です。
恐らく、金を払って登っても、視界の半分は海だし… ということと、かつて登った水戸芸術館シンボルタワーがあまりにもつまらなかったという記憶が邪魔していたのではなかろうかと…
で、今回、なぜセリオンに行こうかと思ったかというと、2年ぶりに伝説の「うどんそば自販機」のそばを食べたくなったのと、もう一つ、この碑を観るためでした。
これは、秋田港(土崎港)の築港に功績のあった地元の実業家たちを称える顕彰碑で、碑文にはこんな記述があります。
井堂近江谷榮次翁は独特の先見性をもって地方文化の開発に破天荒の貢献をなし殊に築港問題には身を挺して當り土崎港頭に廣井波止場を實現させる等秋田に青年近江谷ありとの名を馳せた
ここに出てくる「廣井波止場」については、セリオンの中に説明パネルがありました。
土崎港広井波止場
小樽から工科大学教授の広井勇博士を招き1902年(明治35年)に完成しました。長さ1,036m
この「広井勇博士」というのが、NHK朝ドラ「らんまん」で、主人公・槇野万太郎の竹馬の友として登場する広瀬佑一郞のモデルになっている人物なんです。
Wikipediaによると広井博士は、
1899年(明治32年)、秋田港や小樽港の設計に感服した土木界の泰斗古市公威の推挙により、学外出身にも関わらず工学博士号を得て東京帝国大学教授となり、1919年(大正8年)には土木学会の第6代会長となった。
だそうです。
ちなみに、広井波止場に先立って、大型船にも対応できるように秋田港(当時は土崎港)に築かれたのが、古市公威博士の指導による「古市波止場」なんだとか。
さらに脇道に逸れれば、三島由紀夫の本名平岡公威は、この古市公威にあやかって命名されたのだそうな。
今週の「らんまん」では、留学から帰ってきた佑一郞くんは、北海道に戻っていったけど、また万太郎と東京で、もしかしたら東大で会ったりするのかな? と期待しています。
さて、恥ずかしながら私、ポートタワーが無料開放されていることを知りませんでした
Wikipediaによると、1994年4月~:800円⇒1997年4月~:400円⇒2007年4月~:無料、という変遷を辿ったようです。なんとも情弱な私です
で、現金なもので、「無料なら」ということで、エレベーターに乗って100mの展望台に登りました
おぉ、良い眺め
まずは南東から。
中央に見える丘は、奈良時代に秋田城が置かれた高清水岡です(秋田城趾の見聞録)。
次は北東。
土崎の町が広がっています。
写真の右側やや上に、白い屋根が並ぶ工場が見えますが、これはJR東日本の秋田総合車両センター (旧土崎工場)で、JR東日本の駅にあるステンレス製のゴミ入れなんぞも製造しているらしい。なお、私の叔父と伯母がここで働いていたことがあると聞きました。
また、住宅地の中でこんもりしているところは、土崎神明社。江戸時代ごく初期までは秋田氏の居城だった湊城があった場所でもあります。秋田氏が宍戸に転封されると、代わって佐竹氏が入城したものの、「狭くてたまらん」と、現在の千秋公園の場所に久保田城を新築して引っ越し、湊城は廃却されたそうな。おそらく湊城の部材も久保田城に使われたんでしょうな
次は南。
「秋田運河」と呼ばれる旧雄物川です。
雲さえなければ、鳥海山もばっちり見えるはず。
次は西。
当然、日本海です。
最後は北。
天気が良ければ、白神山地も見えるはずなんですが(途中に山は無い)、男鹿半島すら見えませんでした
雲の無い、空気の澄み切ったときに再チャレンジしたいゾ
思いのほかポートタワーを楽しんで 降りてくると、タワーのふもとでは合歓の花が咲き誇っていました
道の駅 あきた港の〆として、あの自販機のそばをいただきました
と、自販機が2台あります 2年前に来た時には1台しかなかったのに…
「こちらの機械は展示用です」というラベルが貼られた機械の横にこんな説明板がありました。
「うどんそば自販機の再開について」と題する説明(日付は今年4月28日)によれば、
今回の大型メンテナンスをしたところ、"中身”の機械は50年経っているのにも関わらずまだ頑張れそうではありましたが、以前は屋外に設置されていたということもあり“外側”の劣化が激しく、このままの状態では営業再開が難しいという状況でした。そこで部品取り用として所持していたもう一台の自販機の外側を使い、中身は佐原商店時代のまま、二つの自販機を組み合わせた「ニコイチ」として再生・再開することとしました。
だそうです。海のすぐ近くの吹きさらしの場所で40年以上も活躍してきた自販機だものねぇ、そりゃ外板は劣化しますって…
でも、今後数年は、あのうどん・そばを食べられそうだということで、これは朗報ではあります。
つづき:2023/08/19 7月の帰省のこと #6 [完結編]