先月、三井記念美術館に特別展「超絶技巧! 明治工芸の粋(すい)」を観に行ったということはこちらの記事に書きましたが、その際、三井記念美術館が入居している三井本館(重要文化財
)をしげしげと拝見
してきました。
周りにビシリとビル
が建ち並んでいるものですから、その全体像を1枚の写真
に収めることはできませんでした
その代わり、細部を見物
コリント式の列柱にほれぼれしたり、
建物上部には、三井財閥の事業を象徴するレリーフが飾られていることを知ったり、
旧三井財閥の旧本丸たる威厳に感じ入ったのでありますが、その意外さ
に見入ってしまった
のがこちら
玄関に彫り込まれているのは、三井グループのシンボルマーク「丸に井桁三」ではなく、なぜか「隅立て四つ目結」紋です
三井グループと目結紋とはどんな関係なんだろうかと思ったら、なんのことはない、三井家の家紋が「隅立て四つ目結紋」でした。
三井グループ、というか、越後屋呉服店が「丸に井桁三」を使い始めた経緯は、上の画像を拝借した「三井広報委員会」のサイトによれば、
もともと三井家は、近江源氏佐々木一族の六角氏幕下に属する武家の出。そのため、三井家の家紋も佐々木氏と同じ「四ツ目結(むすび)」であった。
高利の祖父三井高安が伊勢に移り住み、その子の高俊(高利の父)が商人となって松阪で酒屋の商売を始めたとき、この武家紋の「四ツ目結」を暖簾に用いた。高利も、越後屋呉服店の開店時には「四ツ目結」を引き継いだが、その武家紋を改めようというのである。
旧習を重んじる時代にあって、新たな店章を創始するなどは重大事であった。店の使用人全員が異議なくこれを受け入れるためには、店章そのものに権威や確固たる意義も必要であった。なおかつ、将来にわたる三井家の大きな理想と抱負を店章に表すには何がふさわしいのか、高利はその考案に苦心したことだろう。
伝承によれば、その思いはやがて母殊法の夢想となって現れたといわれる。実のところ「丸に井桁三」は、決して三井の二字を平凡に図形化したような着想ではない。
丸は天、井桁は地、三文字は人を表し、これらにより天・地・人の三才を示すという、すこぶる深遠な意味合いが含まれているのである。
だそうです。
まことに「深遠」だと思います。
ところで、「紀伊半島旅行記」の最終回を差し置いて、思い出したように「三井家の紋」について書き出したのには訳がありまして、録画していたNHKスペシャル「中継 京都 祇園祭 千年の謎」を観たから、そして、その中に、「隅立て四つ目結」の紋付きを着た三井高利さん(小倉久寛さんの白塗りと京言葉(?)がうさんくさかった…)が登場したからなのです。
へぇ~、さすがはNHK
と思いました。
一方、去年、高島(上陸記はこちら)で観た岩崎弥太郎さんの銅像は、岩崎家の家紋「三階菱」ではなく、三菱グループのシンボルマーク「スリーダイヤ」のついた紋付を着ていましたっけ…
三井・三菱と来れば、住友グループも採り上げておかねば気が済みません
ところが、住友の場合は、若干バランスは違うものの、住友家の家紋「井桁」がほぼそのまま「菱井桁」として商標に使われているようです。
でも、「三井⇒井桁」、「三菱⇒菱」は容易に結びつきますが、どうして「住友⇒(菱)井桁」なんでしょうか?
住友グループ広報委員会のサイトによれば、
住友の商標である「菱井桁」は、住友の屋号「泉屋」に由来する。泉という字は、『孟子』によると、「原泉混混として昼夜を舎めず。科に盈ちて而る後に進み、四海に放る。本有る者は是の如し」とあるように、清冽な水が昼夜をわかたず滾々と湧き出てつきない意味があった。また、お金のことを「貨泉」あるいは「泉貨」と称したので、商人にとって泉の象徴でもある「井桁」は、非常に縁起のよい商標として一般的に用いられてきた。
だとか。
この由来を知れば、京都・鹿ヶ谷と東京・六本木にある「泉屋博古館(読みはせんおくはくこかん)」という美術館(東京が分館)が「住友系」だということがすんなり理解できますな…
ところで私、住友グループ各社は同じ形の「菱井桁」を商標・社章に使いながらも、色で差別化を図っていることは知っていましたが、
三井グループが微妙に形の異なる「丸に井桁三」を使い分けているとは知りませんでした
「社章の色から住友グループの社名当てクイズ」とか、「社章から三井グループの社名当てクイズ」とか、ごく一部の人にはウケるかも…
というか、この記事そのものも、「ごく一部の人」以外にはさっぱりなんだろうな…。むちゃくちゃ手間がかった
記事なんだけど…
井形については知りませんでした。