「南九州旅行記(その5:熊本城の巻②)」のつづきです。
往事の熊本城は、大小天守閣を始め、49の櫓(やぐら)、18の櫓門、29 の城門が偉容を誇っていたそうです。

ところが、石垣は別として、当初のまま残っているのは、「その5」で紹介した不開門や東竹の丸の櫓群のほか、かなり限られたものだけ(全部で13)です。
明治以降、熊本城に九州地区(九州南部地区)の軍事拠点が置かれていましたが、西郷隆盛率いる薩摩軍が蹶起(西南戦争)して間もない1877年2月19日の午後11時頃、本丸の一角から出火して、大小天守閣や本丸御殿など、熊本城の中枢部が焼失してしまったのだとか。
出火の原因は不明で、①薩摩軍に味方するものの放火説、②鎮台の自焼説、③偶然の失火説と、いくつもの説があり、②自焼説が有力だそうです。
でも、薩摩軍が攻めてきそうな時に、しかも籠城戦の準備を始めているというのに、なぜ自らが城に火を放つ必要があったのでしょうか?なんとも理解できません
それはともかく、従来は、1877年の火災で熊本城のほぼ全体が焼失したと考えられていたのだそうですが、本丸御殿の復元に際して行われた発掘調査の結果、かなりの建物が、火災の前までに撤去されていたことが判ったそうです。
ガイドブック「熊本城みてある記」に載っていた図を引用します。
緑が1877年の火災以降も存在していた建物(多くが現存)、赤が1877年に焼失した建物、そして黄は火災以前に撤去されていた建物を示してます。
これからすると、西南戦争直前の熊本城は、復元整備が進んでいる現在の熊本城よりもずっと寂しい姿だったようです。

さて、須戸口門を見下ろす石垣のてっぺんにこんなものが立っていました。
石の柱に、四角い穴が開けられています。これが何本も並んで立っているのですが、いったい何に使われるものなのでしょう?
何の説明もないので、頭の中に疑問符を残して東竹の丸へ向かいました。

櫓群(源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓)は上の図では「緑:1877年の火災以降も存在していた建物」で、国の重要文化財
に指定されています。
「その5」に石垣の下から見上げた櫓の写真を載せましたが、同じグラウンドレベルに立って観ると、なんとなく普通の倉庫に見えないこともありません

残念ながら、これらの内部に入ることはできませんでしたので、先に進みましょう。
だいぶ天守閣が近くなってきました

でも、本丸に登る前に、飯田丸を見物します。
2005年に復元された飯田丸五階櫓は、櫓というよりもこれ単体で小さなお城のようです。

築6年と新しいだけに、櫓の内部は、白木が薫ってくるようでした。

釿(ちょうな)の跡がステキです
また、床に点々と頭を覗かせる和釘の足触りも、往事はこんなだったかと思わせるものでした。

かなり手の込んだ復元です
いよいよ天守閣に近づきました

が、その前に数寄屋丸の数寄屋丸二階御広間を見物しましょう。

外見はただの倉庫っぽくて、実際、1階部分は倉庫なのですが、2階は建物の名称どおり、大広間
になっていました。

蛍光灯が煌々として(築22年)、普通の宴会場のようです(ただし、床に敷かれているのは畳ではなく薄縁)。
でも、廊下に出てみると、
やはりお城っぽい
公式サイトによりますと、
主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物です。しかし、南面には狭間(さま:鉄砲や矢を放つ小型の窓)や石落としを備え、また西隅には宇土櫓(うとやぐら)と同規模の数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)が建ち、実戦に十分耐えうる構造を持っていました。
明治になると城内に鎮台(ちんだい:陸軍司令部)が置かれ、次々に建物が撤去されましたが、古写真などの資料により、数寄屋丸一帯は城内でも早い時期に建物が撤去されたことが分かります。
現在の建物は平成元年(1989年)に市制100周年を記念して復元されたものです。
だそうです。
この広間を宴会用
に時間貸し(別途、ケータリングサービスを承ります
)したら人気を集めそうな気がします。
ちなみに、せいしょこさんたち、公式コスプレ・キャラクターの方々の休憩所
としても使われていました。

さて、いよいよ天守閣か
と思いきや、その前に重要文化財・宇土櫓(うとやぐら)を見物しました。
が、宇土櫓のことはまた後ほどということで、写真を1枚だけ載せておきます。
