新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

体調不良につき #3

2024-11-30 13:00:14 | 日記・エッセイ・コラム

「体調不良につき #2」のつづきです。

「#2」をアップしてから約1週間経ちましたので、その後の経緯を…。

立ち上がったときの激痛はすっかり治まりました。そして、歩くことにも、靴を履いていない限り、何の不自由もなくなりました
を履いて出かけると、足首周りが靴と擦れて痛いんですよね 
でも、「最盛期の脳天を貫くような痛みとは違って、ヒリヒリするような感じです。足が腫れ上がったままだからなのだと思います。なお、スニーカーのサイドに付いているジッパーは、依然として締めることはできません

「#2」で、

23日(土)朝は、滲出液がかなり少なくなっていて、ガーゼの交換は不要と判断しました。

と書いたのですが、その後、再び浸出液の量が増え、ここ数日は、朝と夜の2回ガーゼを交換しています。
また、浸出液で寝具が汚れるものですから、シーツ2枚(掛布と敷布)ベッドパッド、それにパジャマは、1日置きに洗濯しています。ほとんどホテルの連泊みたいな頻度ですな…

なお、浸出液の発生源は、写真を載せるのが憚れるグロい状況になっています

   

止まらない浸出液の問題に加えて、おととい夜あたりから始まった「困った症状」があります。
それは「痒み」

向こうずねとか足の甲がとにかく痒い
そう、日焼けの後の痒みみたいな感じ。右足の古い皮膚がボロボロ&ペリペリと剥けている最中ですから、その影響もあるのかな?
痒み止めを塗ってなんとかしたいところですが、右脚の膝から下には皮膚科クリニックから処方された「炎症皮膚疾患治療剤」を塗っていますので、他の薬を併用するのにはリスクがあるはずです。
こういう冷静な判断のもとに、なんとか我慢しています

   

ということで、この1週間の変化を整理すると、

良化が、立ち上がる時の激痛は治まった、体温は平熱を維持している、一時低下していた血圧はすっかり平常時の「高血圧状態」に戻った、右脚とふくらはぎの腫れは若干引いた、といったところで、

停滞・悪化は、浸出液が止まらない、患部がグロい、痒い、ということです。

思ったより長引いていますが、それでもなんとか回復に向かっているような気がします。

来週月曜日の診察で、もっと良い方向性が示されますように

12月2日の右足【追記】昨夜はますます足が痒かった 軽ぅ~く掻くと、ますます痒みが増して、とても寝付けない感じ。いやはや、痛いのも辛かったけれど、痒いのも辛い
そして一夜明けると、なんとなく右脚がほっそりした感じがします。そこで、ふくらはぎの太さを測ってみると、右脚は左脚の1.1倍の太さ「最盛期?」には1.2倍の太さでしたから、改善しております (2024/12/01 09:06) 

【追記2】皮膚科クリニックで痒みを相談したら、「それは仕方ありません」一蹴された
また、入浴についても、シャワーをお勧めします。風呂に入るにしても、ザブンと浸かる程度にして、患部を温めすぎないでください」とな (2024/12/02 11:07) 

【追記3】約半月ぶりに、スニーカーのサイドのジッパーを閉じた状態で履くことができました (2024/12/03 14:48) 

【追記4】きょう一日でかなり回復した感じです。具体的には、チノパンの裾を上げて患部を出せるようになった、しゃがんで米びつから米を計量できるようになった、の2点 (2024/12/04 21:02) 

つづき:2024/12/16 体調不良につき #4

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体調不良につき #2

2024-11-23 16:42:19 | 日記・エッセイ・コラム

「体調不良につき #1」のつづきです。

11月19日(火)の診察の結果、滲出液排出圧力を下げることとむくみを取ることを目的に、体内の水分尿として排出するのを促進することになり、新たに利尿剤2種(錠剤と顆粒の漢方薬)を処方され、また、前日処方された抗炎症剤(軟膏)に代えて皮膚感染症治療用のクリームを塗るよう指示されました。

考えてみれば、私が健診の前日ほかを除くほぼ毎日愛飲している「利尿剤の雄(?)ビールを、13日(水)最後に、全然飲んでいません
医師から禁酒を言い渡されたわけではないのに、自主的1週間以上にわたってビールを継続するなんて、私にとって「異常の極みです
薬を服用している間は肝臓に負担をかけたくない気持ちもありますが、なによりもビールを飲みたいという気持ちが湧かないのですから負担感はありません。
なおは、ビールは、この記事を書いている現時点でも継続中です。

   

さて、18日の診察で、医師から、お風呂に入って暖められると細菌が活性化しますので、しばらくお風呂はやめシャワーで我慢してください」と言われていました。
この日も、前日同様、事前に浴室を暖めてから、シャワーを浴びました。
気になっていたのは、皮膚がベロベロに剥けジクジクになっている患部が滲みるんじゃないかということ。
すると、不思議なことに、お湯をかけても、泡立てたボディーソープでスリスリ手洗いしても、まったく滲みません
いったいどういう仕組みなのか不思議ですが、これは助かります

シャワーを終えると、タオルで抑えるようにして水分を取り、皮膚感染症治療用のクリームを(足指周りにはステロイゾ剤軟膏も)塗り、ジクジクしている部分をめがけて減菌ガーゼを当てて、伸縮包帯で巻きました。
と、手順を書けば簡単ですが、実際は、ガーゼは患部に貼りついているわけではないので、ちょっと角度を変えるとストンと落っこちるし、ふくらはぎや足首が腫れ上がっているせいで、脚の向きや角度を自由に変えられないため、なかなか大変な作業です。

こうしてなかなか波乱の火曜日を終え、ベッドには毛布を丸めた足台を置いて右脚を高くできるようにして、就寝しました。

20日(水)朝は特段の変化は無し。なんだけど、これまでベッドから立ち上がってから1時間くらいは、家の中の移動さえも痛みが走って、クイックルワイパー杖代わりにしたり、キャスター付きの椅子に座って移動したりもしたのですが、立ち上がってから寝室のドアまで我慢すれば、そこからはヨタヨタながらも洗面所やリビングまで歩けるようになりました
それにしても、ベッドの縁に腰掛け、脚をプラプラさせているうちはなんともないのに、が床に着いたとたん激痛足裏から脳天まで突き抜けるのはどういう仕組みなんだろね

さて、リビングに到着し、昨夜巻いた包帯の状態をチェックすると、ガーゼも包帯も滲出液びっしょりと濡れ、パジャマズボンの裾まで滲みています
すぐにガーゼと包帯を交換しましたが、このままではこの夜も同じことが繰り替えされるのは必至なので、この夜からは、右脚を包帯の上からラップポリ袋で包んで寝ることにしました。(見かけは巨大なチャーシューみたい…)

それでも、痛みは緩和してきたので、クルマに乗って、近くのショッピングセンターまで買い出しに行ってきました。一番の目的は、外出用のスウェットパンツを購入すること。
もくろみどおり、裾がガバガバスウェットパンツを購入することができました。
これと、「もう捨てようか…と思うほどゴムが伸びきった靴下(こんなときに役立つとは)と、いつものサイドにジッパーの付いたスニーカーで、外出のスタイルを確保できました

蜂窩織炎に罹って初めてクルマの運転でしたが、やはり違和感がありました
なんか、アクセルやブレーキの踏み方ぎこちないんですよねぇ
まぁ、足首があれほどパンパンに腫れていれば、足の可動域が制限を受けるのも当然でしょう

21日(木)は、まず起きると、前日同様に包帯とガーゼを交換しました。
相変わらず滲出液多い でもラップとポリ袋の効果は大きく、パジャマズボンの裾は無事でした
昼に近所に買い物に出たとき、マツキヨ「伸縮ネット包帯(足首用)」を見つけ、「これは包帯を巻くより簡単かもしれない」と考え、買ってきました。
そして、夜、シャワーを浴びてガーゼを交換したあと、さっそくそれを使ってみたところ、確かに、包帯を巻くより簡単にガーゼを固定できました。肥大化した右脚に対応できるかも問題無し

なお、この夜のシャワーでは、右脚ふくらはぎから、大量の「不要」と見なされた古い皮膚がボロボロと大量に剥がれてきました。見た感じ、日焼けの後「皮むけ」みたいな感じ。
当然ながら、痛みはありませんでした。

22日(金)に起きると、伸縮ネット包帯の先端が、むくんだふくらはぎに食い込んで、包帯を外すと、それこそチャーシューのようになっています
やはり、巻く強さを調整できる普通の包帯の方が体には優しいのだと気づき、この伸縮ネット包帯は便利だけれども、現在のむくみまくった現在の私には合わないと結論づけました。
滲出液は少なくなってきた気がしますが、まだ、1日使ったガーゼは端が黄色く変色しています。
それでも、もう、ラップやポリ袋不要のようです。
この夜のシャワーでも、古い皮膚がドサリと剥がれてきました。

23日(土)朝は、滲出液がかなり少なくなっていて、ガーゼの交換は不要と判断しました。
相変わらず起きがけにベッドから立ち上がるときには激痛が走りますが、それもさっさと収まり、家の中の移動や、椅子からの立ち上がり等には何の不自由はありません
とはいえ、歩くテンポがなんかおかしい
「タッタッタッタッ」という4拍子ではなく、「タタッ タタッ」とい2拍子になってしまうのです。
それと、健常な左足にもビミョーな負荷がかかっている感じ…
なお、患部の赤味引いた気がしますが、相変わらず左右非対称にぶっとくむくんだ状態は変わりません。

さぁて、あさって25日(月)の通院までにどこまで回復できるのでしょうか

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体調不良につき #1

2024-11-22 14:55:31 | 日記・エッセイ・コラム

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行」シリーズの途中ですが、「#5」をアップしてから丸2週間沈黙期間が続いてしまいました。
11月10日(日)に帰省Uターンしたあと、運転免許更新やら、掛け布団の準備とそれに併せての固定紐からワンタッチスナップへの変更やらとドタバタと数日を過ごした後、「苦難の日々」が始まりました。
ちょっとした皮膚炎に罹ってしまい、それが今もつづいておりまして、備忘録として、この「苦難の日々」を書いておこうと思います。

発端は、13日(水)に約2年ぶりに皮膚科クリニック(CL)に行ったことでした。

その2週間ほど前から、両足の指の付け根や指の間が痒く、またぞろ水虫が再発したかな? と思っていました。以前に処方された水虫用の薬の残りを冷蔵庫に保存していただので、それを数日間塗ってみたのですが、まったく効きません
そこで、思い切って皮膚科CLを受診
すると、意外なことに真菌は検出されず(受診2日前から薬は止めていた)、ステロイゾ剤(軟膏)を処方され、両足の指周辺と、ちょっとガサガサしていた足首に塗るよう指示されました。

14日(木)の夕方、ガタガタ震えるような悪寒に襲わました。その晩は、早めに寝たのですが、今度は全身が筋肉痛で、なかなか寝付けないという事態に

15日(金)、こりゃ風邪を引いたかもしれないなと思いながら、朝起きて熱を測ると、38.3℃もありました
この日は、食事以外はほぼベッドの中で静養に努めました。
なお、足の指界隈の痒みはすっかり消えて、こちらの問題は解決したっぽい感じ

16日(土)、汗ぐっしょりの状態で目覚めました。
私の個人的見解として、「風邪のときはビタミンCを摂って静養して、寝汗をかきまくるに限るというものがありまして、その弁でいえば良い傾向です。
実際、熱を測ると、36℃台まで下がっていました
ただ、断続的に偏頭痛ピキン と襲ってくるのは辛い
そして、右脚の膝から下が腫れ上がって熱を帯びているのはいったいどうした
こんな状況でも、Xにこんなポストをする余裕はありました

22/11/16の私のポスト

17日(日)は、朝から右脚が痛くて、ベッドから立ち上がるのが一苦労だし、寝室からリビングへ移動するのも更に一苦労
右脚を見ると、ふくらはぎも脛も真っ赤腫れ上がっています
あいかわらず強烈偏頭痛は繰り返し襲ってくるし、体温も再び38℃台まで上昇しています。
いったい何事なんでしょ
「X」のフォロワーさんのお勧めにしたがって、「#7119 (救急電話相談)」に電話してみたところ、「風邪ではなさそう」「早めの外科の受診をお勧めします」とのこと。
確かに考えてみれば、風邪にしては咳も鼻水もありません皮膚の感染症由来のものなのかもしれません。とりあえず、18日(月)にきっかけとなった皮膚科CLに行ってみることにしました。

18日(月)は、皮膚科CLと念のため整形外科CL、さらに内科CL診察券を持って、これらがまとまって入居している近所の医療モールに行きました。
右脚の腫れのせいで、いつものジーンズやチノパンは履けません(仮に履けたとしても、裾をたくし上げて患部を診ていただくことができない)ので、私にとっては極めて珍しくイージーパンツを履いてでかけました。靴は、いつも愛用のスニーカーが、脱ぎ履きしやすいよう内側にジッパーがついているタイプなので、右側だけジッパーを開けてなんとか履けました
医療モールは、本宅から徒歩15分ほどの場所にあるのですが、途中まで行くと、やはり右脚が痛くて、こりゃクルマで来ればよかったかもしれないと小さな後悔 かつての腰痛のときは、ある程度まで歩けるようになった段階まで自宅療養をつづけたのち、クルマで整形外科CLに行きましたからねぇ

で、皮膚科CLでの診断「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」でした。

そして、点滴を打っていただき(30年ぶりくらいか?)、「2~3日では効果は出ないかも知れませんが、7日間、飲み続けてください。もし急変した場合は、2~3日以内でも再来院してください」というアドバイスと共に、非ステロイド系抗炎症薬(軟膏)とペニシリン系抗菌薬(錠剤)と鎮痛解熱剤(錠剤)を処方していただきました。
診察室に入る時も、点滴を打っていただいてベッドから降りる時も痛くて痛くて… 先生からも看護師さんからも、そして処方薬局の薬剤師さんからも「おつらそうですね」同情の声をかけていただいたのでした

帰宅して、「蜂窩織炎」を調べると、自然治癒しない、進行が早い、重症化すると敗血症にもつながることがあるなど、厄介な皮膚病らしい
また、症状としては、腫れや熱のほか、悪寒、頻脈、頭痛、低血圧、錯乱などがあったりするようで、私も結構当てはまっています。錯乱してはいませんが…
実は、17日(日)朝以降、血圧が(私としては)異常に低く「どうした?」とおもっていたのですが、妙に納得です。

私の血圧記録

19日(火)は、前日と変わらず、右脚の苦痛に耐えながらなんとかベッドから起き上がり、つかまり歩きしながらなんとかリビングまで移動して、生活を開始しました。
異変が起こったのは昼下がり
なにげなく、右脚のふくらはぎに触れたところ、濡れています
何? とティッシュを当ててみると、ぐっしょり濡れる
体液や膿が染み出す感じというよりは、体液がダラダラと流れ落ちています
驚きましたぁ~
これこそ、前日、皮膚科医の先生「もし急変した場合は、2~3日以内でも再来院してください」とおっしゃっていた「急変」ではないか
と、午後の診察が始まる15:30を待ちかねるようにして、通院しました。
そして患部を診ていただくと、焦っている私とは裏腹に、皮膚科医の先生も看護師さんも冷静極まりなく、「毎日ガーゼを交換してください。ガーゼは多めに用意しておいてください」ですと…
大したことではなかったのかぁ一安心でした。

その帰り、ドラッグストアに立ち寄って無菌ガーゼ伸縮包帯を購入したのはいうまでもありません。

この「体液」「滲出液(しんしゅつえき)というもので、免疫細胞、壊れた組織、死んだ細菌などを含む「膿」とは違い、「細胞を増やし・成長させる成分(細胞成長因子)が含まれ、キズが治る時に必要なもの」なのだそうな。
そういえば、「BAND-AIDキズパワーパッド」は、

滲出液を傷口に保持し、傷口の水分バランスを調整し、滲出液中の各種成分の働きを利用するための最適な湿潤環境を維持して、かさぶたをつくらず、かさぶたの代わりとなって傷を早くきれいに治す。

というものでしたな
こんな滲出液をガーゼに吸い取らせるのはもったいない気もしますが、あんなにダラダラ流れ落ちたら、その場に保持し続けるのは難しいし、衣類や寝具が汚れまくりです

ということで、現状には至っていませんが、つづきます。

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #5

2024-11-08 21:06:50 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4」のつづきです。

「庄内藩校 致道館」の次に向かったのは、今回の鶴岡街歩きのメイン、致道博物館です。

羽黒通りを西にちょっと歩くと、鶴岡公園内に「いかにも」な建物がありました。

現在は郷土人物資料展示施設として使われている「大寶館(たいほうかん)です。
案内板によれば、

大正天皇の即位を記念して創建されたもので、大正4年(1915)10月に完成、11月10日即位の日に開館、物産陳列場、図書館等として使用された。
「大寶館」の名称は、易経「天子の位を大寶という」によって名付けられた。
建物はオランダバロック風を思わせる窓とルネッサンス風のドームを載せた洋式で、赤い尖塔屋根と白亜の殿堂として大正建築の優美さが内部を含めて完全に原形を留めていることから昭和56(1981)年1月、市の有形文化財に指定された。

とか。
壁や窓、玄関、そして正面のドームはいかにも洋風ですが、屋根入母屋の瓦葺というのが、まさに擬洋風です。

入館無料らしいのですけれど、「郷土人物」にはさほど興味はないので、入館はしませんでした。
代わりというか、「天子の位を大寶という」原典を探してみたところ、易経の「繋辞下伝」に、以下の一節がみつかりました。

天地之大德曰生。聖人之大寶曰位。何以守位。曰仁。何以聚人。曰財。理財正辭。禁民爲非。曰義。

こちらのサイトでは、

天地の大徳(だいとく)を生と曰(い)い、聖人の大宝(たいほう)を位と曰(い)う。何をもってか位を守る。曰く仁。何をもってか人を聚むる。曰く財。財を理(おさ)め辞を正しくし、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。

と訳されています。

日本の天皇家の男子のお名前に必ず「仁」が使われている(後冷泉天皇以降に主流となったらしい)のも、この易経が由来なのかもしれません。

   

さて、致道博物館です。

上の写真では出入口の看板に隠れてしまっていますが、赤い門があります。
入館(入場)する前に、ちょっと回り込んでパシャリ

この門は、酒井家に徳川家の姫が嫁ぐ際に酒井家江戸屋敷(上屋敷は現在の大手町フィナンシャルシティのあるブロック全域)に建てられた特別な門だとか。

この徳川家の姫を嫁に迎えたのは誰だったのでしょうか?
調べると、致道館を創設した第7代藩主の忠徳公(正室:田安徳川家の修姫)、第9代藩主の忠発公(正妻:田安徳川家の鐐姫)、第11代藩主の忠篤公(正室:田安徳川家の鎮姫)のいずれかだと思われます。
それにしても、酒井家田安徳川家との婚姻が一代おきに続いて、大丈夫か? とちょっと心配になります

外から赤門を眺めたのち、入場

最初に見学したのは「旧西田川郡役所」

旧西田川郡ってどこにあったんだろ?
上にリンクを張った「文化財オンライン」のサイトによれば、

1876年廃藩置県後の置賜・山形・鶴岡の3県が統合し現在の山形県が誕生しました。その後郡制の施行により県下に11の郡がおかれ、鶴岡は西田川郡となり郡役所が設置されました。

だそうで、建物内にあった年表によると、もともとあった場所は「鶴岡町馬場町」ですから、今の町割りと同じであるとすれば、鶴岡公園鶴岡市役所などを含む、江戸時代からの中心部でした。

そして、年表を要約すると、

明治11年(1878) 山形県令・三島通庸の命により郡役所建設を計画
明治13年(1880) 6月23日起工
     設計・施工:大工棟梁・高橋兼吉、石井竹次郎、時辰器:金田市兵衛
明治14年(1881) 5月落成、9月24日に明治天皇の行在所となる。
明治18年(1885) 大時計が風圧等で不調となり、塔屋の時計台を取り外し
明治20年(1887)頃 時計を常念寺に移設
大正13年(1924) 鶴岡町が市制施行により鶴岡市になる
大正15年(1926) 旧郡役所庁舎が鶴岡市に移管

といった感じ。

落成からわずか4年不調になってしまったちょっと情けない時計ですが、なんでも、「現状確認されている国産塔時計では最古と考えられる」らしいです。
これは「へぇ~です。
ちなみに、かの有名な服部時計店の時計塔(先代)は、セイコーのサイトによると、明治27(1894)年にできたもので、しかも、服部金太郎さんが作ったものかと思いきや、スイス製のムーブメントを使っていたらしいです。

なお、高橋棟梁は、この旧田川郡役所だけでなく、1893(明治26)に酒井伯爵家が酒田米穀取引所の付属倉庫として建てた山居倉庫(記事)も担当したらしい。

さて、旧田川郡役所の中は、2階は「考古資料室」として庄内からの出土品の展示でさほどおもしろくありませんでしたが、1階の「致道ミニチュアコレクション」は楽しかった
とりわけ、「磯貝吉紀ドールハウスコレクション」凄かった

まるで映画やドラマのセットのようですが、ドールハウスですから、大きいものでも1m立方くらいの大きさです。

なんという精緻さなんでしょ
造形は完璧だし、の使い方も上手

体を小さくして、このドールハウスの中に入っていきたい気分でした。

作者の磯貝さん(1933-2011)は、東京生まれで、民放テレビ局に勤務しながら、アンティークドールハウスの研究や作家と交流しながら自らもドールハウスを制作された方で、2015年に三枝子夫人から致道博物館に作品寄贈の申し出があり、2017年に34点が、2019年に遺作の「テレビ局のスタジオ(未完)」や制作道具などが寄贈され、今年4月27日から旧西田川郡役所で常設展示が始まったのだそうです。
三枝子夫人が、どうして寄贈先に致道博物館を選んだのでしょうねぇ。
そこんとこがよく判りません。

ここで2階から屋根を眺めた写真を。

和風建築であれば鬼瓦が置かれる場所に、カボチャから何が上に伸びてたような形の棟飾りです。
これは何の意匠なんだろ

なお、旧西田川郡役所の隣にある致道博物館門柱には、この棟飾りを摸したものと思われる飾りがついていました。

   

ここで、そもそもこの致道博物館って何? ということを整理しておきます。

「#4」で、酒井家の現当主が(公財)致道博物館の理事長を務められていることを書きましたが、出発点は、

致道博物館は1950(昭和25)年、旧荘内藩主第16代酒井忠良氏は地方文化の向上発展に資することを目的として土地建物および伝来の文化財などを寄附し、財団法人以文会が設立されました。
昭和27年博物館法による博物館施設財団法人以文会立致道博物館として運営し、昭和32年1月財団法人致道博物館と改称、そして公益法人改革により平成24年4月1日より公益財団法人致道博物館となり現在に至っております。

と、酒井家からの資産の寄付でした。

資産家が、相続税対策その他の理由で、財団法人を設立して、そこに個人資産(土地・建物・美術品など)を寄付するのは今でもある話ではありますが、1926年(昭和21)、最高税率90%にもなる財産税が課され、1927年(昭和22)日本国憲法施行にともなって華族制度が廃止されるという、酒井伯爵家にとっても終戦からあまりにも早く大きな変化だったはずですが、その荒波を乗り越えて、さらに資産を寄付したというのは、どういうこと?

さて、発足当時から存在する建物は、旧庄内藩主御陰殿酒井氏庭園民具の庫(旧御隠殿土蔵)旧酒井家江戸屋敷赤門くらいのもので、

 1957年 旧鶴岡警察署庁舎(明治17年創建)を移築復元
 1961年 鉄筋コンクリート造の新館「美術展覧会場」開館
 1965年 旧渋谷家住宅 (文政5年創建)を移築復元
 1972年 旧西田川郡役所(明治14年創建)を移築復元
 1982年 重要有形民俗文化財収蔵庫竣工

移築復元や新築を重ねると共に、各建物の修復も続けているんです。

このあたりで「#6」につづきます。

つづき:2024/12/07 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6

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祝 記事3500本!

2024-11-07 20:10:28 | 日記・エッセイ・コラム

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行」シリーズの途中ですが、本日アップした「懸案の鶴岡市の街歩きを決行#4」が、このブログ通算 3500本目になりました。

そこで、恒例? のキリ番記事です。(3400本のキリ番記事)

2009年1月23日にブログを始めてから15年9か月あまりで3,500本、、、我ながらよく書いてきたものだと思います
ただ、100本の記事を書くのに要した期間は、過去最長だった3201~3300本の486日間大幅に更新して613日間

記事を書かなかった空白期間は、今年5月30日~8月30日の93日間を最長に、5週間以上だったのが、ほかに3回(昨年4月15日~6月17日:63日間、昨年8月20日~10月9日:51日間、今年4月11日~5月19日:39日間)もありましたからなぁ…
毎日更新していた頃に比べれば、1本の記事がかなり長編になっているとはいえ、もう少し頻度を増やしたいとは思っております。
ま、無理はしませんけど…

ということで、キリ番一覧です。

100本目
200本目
300本目
400本目
500本目
09/04/05
09/06/19
09/09/02
09/11/16
10/01/29
73日間
74日間
73日間
74日間
73日間
  花見に行ってきました
イントゥザライト、出走!
「火の鳥」第1・4巻を持ち帰った
エゾシカの寿司!?
J.D.サリンジャーの訃報
600本目
700本目
800本目
900本目
1000本目
10/04/24
10/07/23
10/10/16
11/01/16
11/04/17
85日間
89日間
83日間
90日間
91日間
  あれ? 「のだめ24巻」がきょう届く?
「空頭」って?
大宮を出発
アールデコの楽園であ~る
さすがに北海道は寒いぞ
1100本目
1200本目
1300本目
1400本目
1500本目
11/08/05
11/12/11
12/03/28
12/07/22
12/11/26
108日間
126日間
107日間
114日間
124日間
  頼朝さんはかっこよかった!(その4:完結編)
これから帰ります
今日の通勤"も"往復とも散々…
フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その6)
予定を変更して…
1600本目
1700本目
1800本目

1900本目
2000本目
13/03/25
13/07/31
13/12/14

14/04/01
14/08/11
119日間
126日間
134日間

107日間
130日間
  MISIA星空のライヴVII 東京2days(ネタバレ大あり)
相変わらずコメントスパムがやって来る
MISIA 星空のライヴVII 秋田公演は実質的に「アレックス追悼公演」でした
きょうにうってつけのニュースを発見
徒然煙草@「徒然草」展 (後編)
2100本目
2200本目
2300本目2400本目
2500本目
14/12/31
15/06/04
15/11/22
16/04/17
16/10/10
140日間
156日間
166日間
145日間
173日間
  MISIAのプレイリストをつくってみた
名古屋旅行記(その17)
今年二度目の関西旅行記(その12)高野山編⑤
FY16も埼玉県立近代美術館の展示は絶好調 (前編)
Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(初日・その5)
2600本目
2700本目
2800本目
2900本目
3000本目
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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4

あれま 3100本目も鶴岡ネタだった

   

つづいては、ジャンル別の記事本数。
まずは、最新100本の比較。

3401~3500本目のジャンル別記事本数

前100本と同様で、旅行>>美術館・博物館>MISIA>日記・エッセイ・コラム>その他 です。
当然ながら、全期間の順位も、

全期間のジャンル別記事本数

と、変わり映えしないランキング…

前回は「全期間のジャンル別記事本数」載せませんでしたが、やはり、これでは載せる意味が無さそうです

次の100本を書くまでどのくらいの期間を要するのか、懸案ともいえる「ジャンルの多様化」を図れるのか、乞うご期待 です

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4

2024-11-07 18:04:46 | 旅行記

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #3」のつづきです。

今回の鶴岡探訪の目玉は「致道博物館」だったわけですが、この名称は庄内藩の藩校「致道館」から採ったものだそうな。
その「致道館」は、施設の一部が現存していて、しかも無料公開されているというので、行ってみました。

鶴岡カトリック教会天主堂から南に歩いて行くと、羽黒街道の向こう側になんとも印象的な建物が見えました。

これは荘銀タクト鶴岡(鶴岡市文化会館)という多目的ホール。
キャパは1,120名と、地方都市らしくこぢんまりしていますが、客席は外観並みにかなり大胆な構造になっているみたいです (写真は荘銀タクト鶴岡のHPから拝借)

アンシンメトリーな客席のホールって珍しいのではなかろうか?

もちろん、私はホールに入ることなく素通り…のつもりだったのですが、

生垣越しに致道館の建物が見えました

いやぁ~江戸時代 と盛り上がった私は、いそいそと正面に回り、受付で観覧票に記入して(こんなとき、住所をさいたまにするか秋田にするかで悩む私です)、リーフレットを受け取り、藩主専用の入口だったという表御門から入場

ここで、受付の前にある説明板を転記しておきます。

致道館は、庄内藩酒井家9代酒井忠徳公が、士風を刷新して藩政の振興を図るために、文化2年(1805)に創設した庄内藩の学校です。
当時は鶴岡駅前通りにありましたが、政教一致の趣旨から、文化13年(1816) 10代酒井忠器公によって鶴ヶ岡城三の丸(現在地)に移されました。
明治6年(1873)の廃校までのおよそ70年間、徂徠学を基本に、孝悌忠信を重んじて庄内武士道の根源を培い、多くの人材を輩出しました。
その後、鶴岡県庁、鶴岡警察署、女子教育の明倫学校、朝晹第一・第二尋常小学校などに使われました。
昭和26年(1951)に貴重な文化財として国の史跡に指定されました。

説明板にはこのあと「観覧のご案内」が書かれていまして、入館無料は知っていましたが、休館日が、

毎週水曜日 12月29日から1月3日

だというのは意外で、ふ~危なかった…(この日は木曜日)となりました

さて、表御門から校内に入ると、正面に講堂、右側に藩主がお成りになったときの4部屋からなる専用スペース御入間(おいりのま)があり、

致道館 御入間

左側にあったのが孔子を祀る聖廟でした。

聖廟は、毎年2月と8月に孔子を祭る「釋奠(せきてん)」が行われた場所なのだそうな。
「釋奠」(ATOKでは「せきてん」から「釈奠」と一発で変換できた)というのは、東京国立博物館のHPから引用すると、

釈は「置く」奠は「据える」という意味の文字で、釈奠とは孔子やその門人の霊前にいろいろなお供え物を置き据えるお祭りなのです。(中略)
江戸時代には、全国各地に建てられた藩校や孔子を祀る聖堂において、春と秋の年2回、釈奠の祭儀が絶えず催されていました。幕府が建立した湯島聖堂では現在も、4月の第4日曜日に孔子祭として釈奠の儀式が行われています。

だそうで、江戸時代の儒教ベースの公的教育機関では欠かせない行事だったんですな。
で、致道館の聖廟では、釋奠の際に飾られた孔子聖像のほか、使われた祭器の一部が陳列されていました。

その祭器(釈奠器)の名前が難しい さすがは中国由来…。

と、ここで東京の湯島聖堂のこと。
もともとは江戸時代の朱子学「家元」的な林家孔子廟と私塾が、時代を経て、「大成殿」の扁額を掲げる聖堂昌平坂学問所(昌平黌)になったといういきさつがあります。
江戸幕府直轄の学校が、孔子廟を備えているのですから、各藩の藩校もこれに倣ったのは自然なことだったのでしょう。

   

聖廟の次は、講堂の見学です。

と、その前に、さっき生垣越しに見えた、講堂の東側を見物しました。

当時の他の建物の間取りが再現されていました。
藩校というのは、こんなに大規模なものだったのか…

と驚くのもつかの間、リーフレットによれば、

約15,000㎡の広大な敷地には、現存する建物のほかに神庫や養老堂、句読所をはじめ舎生の寄宿する本舎などの学舎が建てられ、武術稽古所、さらには矢場馬場までありました。

だそうで、講堂の中に展示されていた平面図を見ると、

現存する建物は全体の1/5くらいで、お隣の荘銀タクト鶴岡(鶴岡文化会館)の敷地も、かつては致道館のエリアだったようです

これだけの大規模施設だった致道館、「生徒はどれくらいいたのかと思いきや、350名くらいに達したといいます」だと
まさに庄内藩のエリート養成機関だったんですなあ

さて、「致道館」の額が掲げられた講堂内部を拝見しましょう。

これは大宝寺地内にあった旧学校時代からずっとこの講堂に掲げられていた額である。
文化3年(1806)、当時、侍医であり、致道館の助教兼司業であり、庄内を代表する書家でもあった重田道樹(1752~1811)が揮毫したもので、この時、下書が長持にいっぱいになったという逸話が残っている。

だとか。

ところで、「致道館」の名前の由来ですが、「まぁ、論語の一節だろう」というのは想像に難くないところ。
ちょっと調べると、論語巻10 子張 第19の7

子夏曰、百工居肆以成其事、君子學以

から採られたものでした。
意味としては、

子夏が言うには、職人はそれぞれの仕事場でその仕事をなし遂げ、人々の手本たるべき人間は学問によってその道を究める

といったところでしょうか。
なお「君子」とは、「学識・人格ともにすぐれた立派な人」という意味です。

私、藩校の教育は、現在のように教員がいて、生徒・学生に講義するイメージを漠然と持っていたのですが、講堂内の展示を見て、目から鱗が落ちました

数え年10歳で今の小学校にあたる「句読所(くとうしょ)」に入ると、そこは学級担任がついてくれますが、中学校にあたる「終日詰(しゅうじつづめ)」以降は自習と、今の大学のゼミのような「課題と期日を定めて研修の成果を個人ごとに発表し、互いに討論して疑問を明らかにしながら理解を深める」という「会業(かいぎょう)」だけになります。

句読所終日詰、現在の高校にあたる外舎(がいしゃ)は年4回、大学にあたる試舎生(ししゃせい)は年1回のテストがあり、年齢や就学年数にかかわらず順次進級したのだとか。
こりゃ「自主自律」(私の母校のモットーでもある)が求められますなぁ。

自習が主とはいえ、終日詰は6~7人/室、外舎は2人/室だそうですから、相部屋の学友との討論や教え合いとか、会業はかなり重要っぽい。

しかも、藩主が国許にいる場合は、「正月15日の講初(始業式みたいなもの?)をはじめ、毎月日を定めて昇校し、生徒の会業、武芸修練の場に臨み、これを激励した」そうですから、こりゃ盛り上がる一方で緊張する

   

ところで、庄内藩の藩主は江戸時代を通じて譜代大名の酒井氏(左衛門尉家)でした。

現在の山形県内にあった他藩はというと、米沢藩上杉家新庄藩戸沢家(いずれも外様大名)も転封も改易もされず乗り切りましたが、上山藩松平(能見)家⇒蒲生家[外様]⇒土岐家⇒金森家[外様]⇒松平(藤井)家と変遷したし、山形藩に至っては、最上家[外様]⇒鳥居家⇒保科家[親藩]と変わったあとは、Wikipediaでは、

山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。

と書かれる始末

庄内藩でも、藩主交替の「危機」を迎えたことがありました。
致道館を現在地に移転した10代藩主酒井忠器が、天保11(1840)年、幕府から長岡への転封命令を受けたのだとか。

そのきっかけとなったのは、こちらの記事で書いた唐物抜荷事件(中国産品密輸事件)」だったのですが、なんと、領民反対運動を繰りひろげ、外様大名・水戸徳川家・田安家の同情を集めると、ついには将軍(徳川家慶)まで巻き込んで(?)、結局、転封は撤回されたのだそうな(天保義民事件)

殿様はさぞかし感激したことだろうな。
昭和期になって酒井家鶴岡に居を構え、現在の当主も鶴岡在住(致道館の指定管理者である(公財)致道博物館の理事長をお務め)だというのは、こんな歴史も影響しているのかもしれません。

ところで、江戸幕府「官学」朱子学だったわけですが、鶴岡藩の「藩学」朱子学を批判した荻生徂徠「徂徠学」
その違いはよく判りませんが、「縁は異なもの味なもの」と思ったのが、前記の「転封問題」との関係です。

川越藩主松平斉典庄内へ、庄内藩主酒井忠器長岡へ、長岡藩主牧野忠雅川越へ転封させるという「三方領知替え」は、松平斉典公が庄内への転封を画策して、あえなく失敗したできごとだったわけですが、致道館において孔子に次ぐ聖なる人だったはずの荻生徂徠は、川越藩主だった柳沢出羽守吉保に仕えたことがありました。
なんだか「伏線」のようなものを感じます。

こうして期待以上の収穫を得て致道館をあとにすることになりました

最後に庄内への転封が叶わなかった松平斉典公が建てたという川越城本丸御殿の写真を置いて、「#5」につづきます。

川越城本丸御殿の訪問記こちら

つづき:2024/11/08 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #5

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #3

2024-11-05 13:28:44 | 旅行記

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #2」のつづきです。

鶴岡への遠征を決めたあと、ネットで観光情報を調べたとき、「無量光苑 釈迦堂」は、仏堂か何かだと思ってしまったのですが、「風間家旧別邸」と冠されているように、「#1」「#2」で紹介した「丙申堂」に住んでいた風間家別邸です。

丙申堂が建てられてから14年後

明治43(1910)年、風間家の別邸として建てられ、主にお客様の接待に使われました。敷地820坪(約2,700㎡)建坪24坪(約79㎡)、広い日本庭園が特徴です。

だそうで、敷地の一部には、現在も風間家の方が暮らしていらっしゃるのだとか。
本邸の「丙申堂」と比べると、敷地「丙申堂」より広いのに、建坪1/17くらい
なんという建ぺい率の低さでしょう
贅沢ですなぁ

ご自慢のでは、庭師さんたちが雪吊りの作業に励んでいらっしゃいました。

ところで、私が仏堂かと思ってしまった「無量光苑 釈迦堂」の名称ですが、リーフレットによると、

この建物は創建時より「無量光」(黄檗宗の三筆と称された木庵の書」の額が掲げてあったので、8代目当主が建物と庭園を含めて「無量光苑」と名づけました。
さらに9代目当主が、東京帝国大学インド哲学科・常磐大定師より寄贈された石仏釈迦像を安置し、現在の建造物及び庭園を含めて「無量光苑 釈迦堂」命名しました。

だそうです。
今にして思えば、もっとしっかりと「無量光」の額を観てくればよかった…

建物は、木造平屋建、妻入、入母屋造、銅板葺で、構造については基本的に良質な杉材を主体としており、丙申堂の小座敷の構造細部に類似しています。別邸建築を考える上で非常に貴重な遺構と言われています。

とあります。

玄関の横にある庭への入口(門)が、なんともでした

   

行き慣れていない街では、食事する場所に困ってしまう私でして(食事場所は事前調査しない)、丙申堂で、街のどの辺りに行けば食事できる店が集まっているのか尋ねてみました。
すると、いかにも手作り感満載「お食事処マップ」を頂戴し、お勧めの店まで教えていただきました

そこで、内川を渡り、お勧めの店があるという銀座通りに行ってみたのですが…。

地方都市でよく見かける「シャッター通り」でした

クルマもほとんど走っていないし、人通りも極わずかで、鶴岡のさびれっぷりも相当なものです…

しかも、お勧めしていただいた店も、マップに描かれている場所は駐車場になっていて、あれま です。
仕方なく、のれんは下がっているものの、内部がさっぱり判らない店に、勇気を出して入店しました。

店内にお客さんが誰もいなかったらどうしようかと思いましたが、カウンターでおばあさんが食事中なのを見てちょっと安心…。(奥の座敷では会社員のグループも食べてた)

カウンター席につくと、お店の人から「日替わり定食でよろしいですか?」と尋ねられ、日替わり定食が1,000円であることしか判らないまま、「お願いします」となりました。
店内を見渡したところ、夜のメニューしか見当たらなかったですし…。

そして出された「日替わり定食」がこちら。

メインディッシュは、カレーか? と思いますが、「コロッケのカレー掛け」でして、「コロッケカレー」のご飯以外を皿に盛ったものでした。

でも、小皿3品に、食後の飲み物もついて1,000円なら、これはアリでしょう

ちなみに、食事中、店内のTVのニュース速報で、ドジャース優勝を知りました

食事を終えて、次の目的に向けて銀座通りを歩くと、あれま丙申堂お勧めの店がありました

「お食事処マップ」デフォルメし過ぎでしょう
まぁ、スマホでGoogleマップを確認しなかった私が悪いのですけど…

   

食事を終えた私は、再び内川を渡り、次なる目的地、鶴岡カトリック教会天主堂へと向かいました。

裏側から近づいていくと、低い陽に照らされたペンキ塗りの壁がなかなかの風情です

正面に回ると、詳細な説明板がありました。
テクニカルタームが多くて難解ですが、備忘録として転記しておきましょう。

この天主堂は、フランス人パピノ神父の設計といわれ、明治36(1903)年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世期頃に建築されたロマネスク様式を持つ教会であり、昭和48(1973)年山形県指定有形文化財、昭和54(1979)年5月国から重要文化財として指定されたものである。
特色は、教会堂特有の三廊式バジリカ型の平面をとりいれたことで、中央と両側にそれぞれ身廊 側廊とよばれる部分と多角形の平面をもつ後陣とが型成されており、身廊の高い天井と側廊の低い天井とにはそれぞれ交差されたヴォルトが用いられ、それが直角に交わり集合されて、その下部は葉形の柱に力強く支えられている。
外観は鐘楼が中央に突出して高く、ロンバルト帯といわれる半円の連続模様がその壁をとりまき、身廊の主棟と低い側廊の屋根との間には小さな丸窓を設け、側廊に半円の窓枠を取り付けたのもロマネスク特有のもので、中世に建てられたヨーロッパ大寺院そのままの形を摸したものである。

転記したあと、テクニカルタームを調べていくと、なんだか教会建築に詳しくなった気がします

「庄内藩家老末松十蔵屋敷跡の武家門」だというひたすら和風をくぐると、一気に「西洋」です

なんとも瀟洒な教会です

パピノ神父が設計した教会は、博物館明治村にもなかったかな? とこのブログの過去記事を探したら、出てきました (記事)
明治23(1890)年に京都・河原町三条に建てられた「聖ザビエル天主堂」です。
木造瓦葺き鶴岡カトリック教会天主堂に対して、聖ザビエル天主堂は、側廊が木造身廊はレンガ造ですが、どちらも「三廊式バジリカ型」ですな

内部を拝観できるということで、靴を脱いで入堂してみました。

教会の内部というと、椅子と机が一体となった講義室のような眺めのイメージでしたが、が敷かれ、パイプ椅子が並んでいます
なんだか浄土真宗のお寺みたい…

この写真だと、「身廊側廊」、「多角形の平面を持つ後陣」、「交差されたヴォルト」もよく判ります。

そして振り返ると、パイプオルガンと、その演奏台や鐘楼に登るための螺旋階段がありました。

1階の隅にはエレクトーンが置かれていて、普段のミサでは、こちらを使っているのかな?

教会にはステンドグラスがつきものですが、鶴岡カトリック教会天主堂はちょっと雰囲気が違いました(写真には撮りませんでした)。
あとでフライヤーを見たところ、説明がありました

ステンドグラスでも色ガラスを組み合わせたものでもないこの教会の窓の絵は、通称「貼り絵」(プリンティド・フィルム・ステンドグラス)と言われている。
二重になっている窓ガラスの内側から描いて外側に透明ガラスをはめ込んだものと、この教会のように薄い透明な紙に描かれた聖画を外側から貼り、さらに外側にガラスを設け二枚のガラスで挟んだものがある。いずれも高価なステンドグラスに代えて使用したと考えられるが、現在、この種の窓絵は日本ではこの教会の他に見ることはできない

へぇ~ です。
もっとじっくりと観てくれば良かった(この記事2回目)

「もっとじっくりと観てくれば良かった」のはもうひとつありまして、それは、左側の側廊に佇むマリア像です。(写真はフライヤーから拝借)
教会のマリア像は珍しいものではありませんが、鶴岡カトリック教会天主堂のマリア像は、日本で唯一「黒い聖母マリア」(教会が建てられたときにフランスのデリヴランド修道院からやってきた)なんですと
Wikipediaを引用しますと、

黒い聖母(くろいせいぼ)は、黒色の聖母マリアおよび聖母子像
キリスト教信仰以前にオリエント一帯、またはケルト文化圏に広まっていた大地母神信仰が吸収されたものともいわれる。
マグダラのマリアを信仰するグノーシス主義キリスト教の一派は、特徴として、黒い聖母マリア像を持っていたとされる。
芥川龍之介の短編作品に「黒衣聖母」の名で登場し、不気味なモチーフとして扱われている。

とな。
キリスト教のことはよく知らない私ですので、単にお顔が煤けたのかと思っていました

あとからやってきた若者は、スマホでバシャバシャとあちこちの写真をとりまくっていましたが、聖なる場所あればちょっと… と思ったこともあって、写真は少なめにした私であります。

鶴岡カトリック教会天主堂の拝観を終えた私は、次なる目的地へとむかったのでありました。

つづき:2014/11/07 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #2

2024-11-02 18:18:29 | 旅行記

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #1」のつづきです。

「旧風間家住宅 丙申堂」の一番の特徴は屋根にあって、入口の「みせ」や「聖徳太子光寿無量堂」や土蔵瓦葺きですが、主屋の屋根は「杉皮葺きの石置き屋根」という珍しいもの。

防水シートを敷いた板の上に杉皮を並べ、その上に平らな石をびっしり並べています。

リーフレットには、

明治の頃はこの地方でよくあった形式の屋根ですが、現在この規模の屋根では、酒田の「旧鐙屋」と2軒だけとなった貴重な屋根です。約4万個の石が置かれています。

だそうですが、そういえば、別邸の近くにある(街の中心部から移設)久保田藩上級武士の家「旧黒澤家住宅」(訪問記)も、表門「石置き板葺」土蔵「石置き杉皮葺」でしたっけ…
ちなみに旧黒澤家住宅の主屋は「こけら葺き」

庄内と秋田とは気候も似ていますからねぇ。
冬の暴風雪に耐えるには「石置き」が適しているのかもしれません。とんでもない豪雪地帯でもありませんし。

なお、丙申堂では、ほぼ20年ごと「葺き替え」をしているそうで、杉皮のストックも用意されていました。

それにしても、約4万個もの石が屋根に乗っかっているというのは、相当な重さがあるわけで、構造的にどうなんだろ

案内してくれた人によると、トップヘビー石置き屋根は、やはり地震には弱いそうなのですが、丙申堂は、明治27(1894)年の酒田地震を教訓に建てられたそうで、天井の無い「いたのま」で、その耐震対策を見ることができました。

三角形を組み合わせたトラス構造になっています。

日本でトラス構造の小屋組が登場したのはいつ頃なんだろ? と思って調べてみたところ、こちらのサイトによると、

日本での洋小屋、トラス構造は明治10年代後半以降と言われている。

だとか。
そうだとすると、明治5(1872)年操業開始の富岡製糸場の繰糸所最古級かもしれません。

なお、丙申堂を建てた大工さんは新潟からはるばるやって来た小松由松さんという方だそうで、

ここを建てる2年前に『酒田大地震』があり、家屋の倒壊被害が甚大であったため、当時の最先端耐震技術ボルト吊り式トラス工法(洋式トラス)を取り入れ、更に和式トラスと組み合わせることで縦横あらゆる方向の揺れにも強く、現在の震度6にも耐えられるといわれています。

だとか。

   

小屋組を見ることができた「いたのま」は、使用人さんや小作人さんたちの食事や懇親会などに使われた場所だそうで、これがまた広い (60畳)
武道場か? と思うような空間です

北海道開拓の村で見た「旧青山家漁家住宅」(「ゴールデンカムイ 北海道刺青囚人争奪戦」にも出てきた)を思い出しました。

ちなみに、この「青山さん」は、庄内遊佐町から北海道に渡って成功を収めた人で、故郷の遊佐町には青山家本邸があって、公開されているらしい(今回知った)

この「いたのま」別格としても、丙申堂の各部屋は、12畳敷き基本になっているようで、どの部屋も広い

そんな中で、家族が寝起きしたいたという「なんど」という区画の多くは8畳敷きと、ちょっと庶民感覚
おもしろいのは、当主の部屋(10畳敷の日本間)の金庫蔵(木造の建物の中にある内蔵)になっていて、4つの金庫が置かれていることでした。
金庫が置かれている場所は石貼りの床ですが(なにせ重量物)、その他のスペースは鶯張り木の床になっていて、夜、盗っ人が金庫蔵に侵入すると、床がキコキコと鳴って、隣の部屋で寝ている当主が気づけるという仕組みとか
でも、当主が最初に現場に駆けつけるというのは、危なくないか?

それはさておき、4つの金庫のうちの一つ、竹内製造製の金庫のダイヤルは、数字ではなく「イロハ」

初めて見ました、こんな金庫

恐らくは風間家の家族専用のトイレは、畳敷きで、便器は染付

染付の便器は、博物館明治村で見たっけな…。(記事)

そして、丙申堂の最後は

なんだか高級旅館みたいな風情です

こんなところで「旧風間家住宅 丙申堂」の探訪記はおしまいにして、「#3」は、すぐ近くにある「風間家旧別邸 無量光苑 釈迦堂」の探訪記です。

あ、そうだ

書き忘れていましたが、

平成8(1996)年12月に主屋、同11(1999)年6月に付属の表門(薬医門)、各蔵、板塀、風呂場等国登録有形文化財となり、また、同12(2000)年12月に国指定重要文化財となりました。

だそうです。

つづき:2024/11/05 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #3

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #1

2024-11-01 18:57:40 | 旅行記

10月27日(日)から別邸に帰省中です。

今回の帰省は、今シーズン最後のドライブ帰省の予定で、もし天気が良くかつ気分が乗れば、懸案にしている山形県鶴岡市の街歩きを決行したいなと考えていました。
鶴岡には、2019年9月の帰省の際に出かけたのですが(記事)、このときは、羽黒山で思いつきで始めた「登山」に思いもよらず時間と体力を使ってしまい、羽黒山の後は加茂水族館にしか行けなかった過去があります。
羽黒山から加茂水族館への移動の途中、鶴岡の市街地で、なんとも魅力的建物たちの近くを通りながら、「いつかは絶対に鶴岡の街歩きをすると心に決めました。

「心に決めたのはいいのですが、その後、なかなか機会に恵まれず(って、その気になれなかっただけ)、2021年には津軽半島(記事)酒田(記事)2022年には弘前(記事)、そして今年青森市へ泊まりがけ(記事)と、別の近県ドライブを楽しんできました。

これではイカン と思っていたところ、一昨日の夕方、天気予報を見ていたところ、10月31日は良い天気になるということから、急遽、鶴岡の街歩きの決行を決めました

さっそく、ネットで観光情報を収集し、こちらのサイトから観光マップをダウンロードして、クルマの駐車場所街歩きルートを検討しました。

すると、驚いたことに、無料駐車場が数か所にあるんですな (土日祝日には市役所の駐車場も無料で使える)

そして、使う駐車場といくつかの観光スポット(致道博物館最優先)と巡る順番を決め、準備完了となりました。

   

当日(昨日)は、9:10頃に別邸を出発し、R7をしばらく走ったあと、岩城ICから日本海東北道(日東道)に乗り、まずは象潟ICを目指しました。

日東道は、秋田・山形県境の象潟IC~遊佐鳥海ICミッシングリンクになっていて、その代わりなのかどうか知りませんが、岩城IC~象潟ICは無料で走れます

その象潟ICのひとつ手前の金浦ICで一般道に降りるクルマ(とくに大型車)が多くて、こんなところ(失礼)で降りてどこに行くんだろうと不思議に思ったのですが、どうやら、象潟ICからR7に出るまでの道が長くかつ細いことから、日東道を走り慣れた人たちは、R7にほぼ直結している金浦ICで降りてR7を走った方が良いと判断しているようでした。

R7を走って県境を越え遊佐鳥海ICから再び日東道に乗ると、ちょこまかと設置されている料金所を通過し、鶴岡JCTから山形道に入り、鶴岡ICから一般道に降りました。

そして、一般道をしばし走ると、目的地鶴岡公園東駐車場に到着しました。

約140km所要時間2時間15分のドライブでした。
一般道をけっこう走ったし、日東道・山形道ともにほぼ片側1車線で制限速度も低いので、どうしても時間がかかります。やたらとトロトロ走るクルマもいたし…

   

さて、お昼時ではありましたが、しっかりと朝食を摂ってきたので、朝飯前ならぬ昼飯前にちょっと観光することにしました。

最初の観光スポットは、「旧風間家住宅 丙申堂」「風間家旧別邸 無量光苑 釈迦堂」にしました。

隣接するブロックにあるこの2つの観光スポットは、その名のとおり、風間家のそれぞれ住宅(兼店舗)別邸だった建物です。

まずは明治29(1896)年丙申(ひのえさる)の年に風間家7代当主・幸右衛門さんが住居兼営業拠点として建てた「丙申堂」

堂々とした薬医門(ご参考)をくぐると、

正面に「聖徳太子光寿無量堂」が建っているのですが、実は私、裏側から入ったので、写真は「聖徳太子光寿無量堂」の裏側と、内側から見た薬医門です。

そして主屋の前には、風間家の家紋「丸に二重亀甲花菱」が描かれた提灯となにやらシンボルマーク的なモノと「風間銀行」と書かれた提灯が掲げられていました。

風間家(私は今回初めて知った)についてリーフレットから引用しますと、

風間家の祖は、沢海(そうみ)(現新潟県新潟市沢海)の武士であったが、商人となり村上、酒田を経て、鶴岡には18世紀後半に移住したと伝えられている。その後、鶴岡城下で藩の御用商人として呉服太物屋を営み幕末には鶴岡第一の豪商となった。
明治期には貸金業に転じ、庄内地方では酒田の本間家に次ぐ大地主に成長し、鶴岡の産業振興に力を注いだ。その一方で児童福祉などの慈善事業を行い、現在は育英事業等に尽力している。

だそうです。
Wikipedia「風間氏」「沢海藩」を見ると、事情や経緯はもっと複雑で、どうやらご先祖様は沢海藩の改易(1687年)に伴って商人に転じ、その後、幾重もの分家を経て、一族の一人が鶴岡に土着したっぽい

そして、鶴岡風間氏の7代目が、風間銀行を設立し、その後、他の銀行と合併して現在の荘内銀行に至る、ということだそうな。

主屋に入ってすぐ、現在は丙申堂の受付になっている場所は「みせ」というエリアで、ここで銀行業務を行っていたそうな。

ここで丙申堂の平面図を。

「部屋数19室」というだけでもひやぁ なんですが、多くの部屋が12畳敷きだというのがなんともはや…です。

「みせ」の前を通って左に曲がり、居住区に入ったところの眺めが、、、

どこまで続くこの土間(石敷き)
その名も「とおり」というだけのことはあります

しかも、「とおり」の両側の長押も天井の竿縁も、

 長さ8間(約14.5m)の一本物の杉材
 使用しています

ですと

#2以降で紹介する予定の「いたのま」にあった大黒柱も、

なんとも見事

使っている素材だけでなく、

釘隠しも、風間家の家紋の一部「花菱」はもちろん、あり、なんだろこれ? 的なものありと、部屋や場所によって使い分けられていなど、芸も細かい

いやはや、眼福です。

「金に糸目をつけない施主に巡り会った職人さんは、もちろんプレッシャーはあるでしょうけれど、やりがいハンパないのでしょうねぇ

そして、わたしのようなトーシローは、こんな豪勢な建物を観るときは、非日常性と細部に至るまでの美しさをひたすら楽しむのでありますよ。

ということで、「#2」につづきます。

つづき:2024/11/02 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #2

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