(三度栗の由来。水原町編年史から転載) 1207年(承元1年)、専修念仏の禁止により、親鸞上人は越後に流され、前後5年間、あまねく道俗を教化された。ある日、分田の里(阿賀野市水原地区の分田集落と思われる・管理人)で托鉢されたが、慳貧で半銭の布施をするものもなかった。たまたまとある老女が上人を見て、わが主源三位頼政、及び夫競の命日なるを以て、焼栗を供養をし、織りかけていた麻布に六子の名号を書いていただいた。翌日上人は老婆の供養した焼栗を従者に特たせて上野の原へ至り、くさむら中へこぼし、誓を立て、「わがすすむる所の法の弥陀の本願、未世に盛ならんには、このこぼれたる焼栗、根茎を生じ、しかも一年毎に三度の果を結ぶべし」と仰せられたが、果たしてその通りになり、三度栗の旧跡として寺が建立され専念寺と称した。 以下、考順寺跡(その1)へ続きます。
(参考) 1218年 阿賀野市出湯温泉内にある五頭山海満寺、華報寺と改名。 三度栗の話の11年後です。
(上)現在、阿賀野市保田に移転した考順寺境内に建つ「三度栗の碑」
考順寺の鐘楼。2022年11月撮影。