昭和53年(1978年)3月、笹神村立 神山東小学校が、神山西小学校と統合の為に閉校
昭和47年4月 学校無人化になる
←神山東小学校の校章
(上)昭和6年(1931年) 神山村高関小作調停成立 大正時代の終りから阿賀野市内で小作争議が起き始めた。神山東小学校(当時は神山尋常第2小学校)のある上高関集落では大正12年から小作争議があり、小作が勝利した。その後も南部郷の通水土地改良費を小作料に転嫁したことで小作争議が激化。調停・破棄が繰り返れ ようやく成立。成立を記念して小学校の前で記念撮影。写真には神山村長・波多野敏太郎(上高関集落の住民)と笹岡村長・荒木義雄氏の顔もある。お坊さんも写っている。 この時代、調停成立の記念撮影の場に小学校が使われました。 (下)昭和8年(1933年)11月、2階建ての教室を増築した時の、竣工式の写真。
(上、3枚)昭和8年(1933年)11月、2階建ての教室を増築、竣工式の写真。子供たちの服は着物。大人達も団子拾いに夢中です。
(上)昭和20年代半ば頃? 神山東小学校の校庭で。子供達の学年は不明。左端のメガネの男性は片桐運先生。現在は神奈川県在住で96歳。御健在です。写真の真後ろは「加藤床屋」。この建物は10年ほど前に取壊し、現在は空地です。右側の家は茅葺屋根。子供たちの服装は「終戦後」を感じます。
(上)昭和33年(1958年)夏に撮影。神山東小学校の学区の内、滝沢集落の一部が新発田市(旧豊浦町)に分村編入した。そのため、豊浦町本田小学校へ転校する生徒もでた。この写真は、転校する子とお別れ会での記念撮影。小学1年生と担任。子供たちは、皆 裸足です。写真の後ろは、神山東小学校の校舎。 昭和31年(1956年)10月、神山村と笹岡村が合併し、笹神村になりました。
↓ 神山東小学校(昭和30年代後半)校舎前のグラウンドには、まだプールがありません。
(上)昭和30年代後半の神山東小学校の教室・給食風景 教室の真ん中にダルマストーブがあります。冬の時期の写真のようです。ストーブの周りにバケツ有り。掃除のときに暖かくなるよう水をいれています。給食はアルミの盆や食器です。脱脂粉乳でした。チーズは食べれない子がいたそうです。
(上)習字の時間。写真奥上にゴミ箱あり。「5年」とあるので、5年生のようです。
(下)神山東小学校 創立100周年記念 昭和47年(1972年)8月15日開催
最高は昭和33年(1958年度)の255名(生徒数)
昭和47年度(1972年)は82名の生徒数(昭和33年は255人)。昭和48年度は65名の予定※上のグラフ、(予定)の文字欄が間違っている。
創立100周年記念行事で、一般寄付 一世帯(300円×185軒)55,500円、篤志寄付 学区内 18,500円。学区外 40,000円。
経費 記念誌38,000円、祝賀会21,000円、記念写真2,000円。 記念品(湯呑)など
昭和47年度の全校生徒。皆、裸足です。
(下)創立100周年記念誌から 投稿・明治32年卒、上高関 片桐義一「笹神村明倫小学校の元・校長」
(下)創立100周年記念誌から 昭和41年卒、長起 佐藤育子「昭和39年(1964年)小学5年の時、新潟地震に遭った」
(下)昭和52年(1977年)8月14日 神山東小学校の裏グラウンドで盆踊り大会
(上)神山東小学校の校舎裏グラウンドで地元・上高関集落の青年会が盆踊りを主催。この時代、小学校のグラウンドは地元の公園のような存在で、放課後に子供たちは遊び、盆踊り会場にも無料で貸していました。現在のような「関係者以外、校舎立ち入り禁止」のような管理社会では考えられないことですが。盆踊りには神山東小学校の学区の集落の大人や子供達が踊りに来て、卒業した子供達(中学・高校生)や都会から帰省した大人たちの簡易な同級会の場にもなっていました。 ※小学校には校舎の前と後にグラウンドがありました。
(上)神山東小学校の屋内体育館、 ステージの壁に飾られていた校歌の額
「上左」平成8年(1996年)11月 記念碑建立 「上右」神山東小学校の校旗
記念碑は神山東小学校跡地に小学校の学区の人たちが寄付し建立。現在は、みのり保育園の園地として使用。