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本「五頭山華報寺と出湯温泉」 著・川上貞雄

2024年12月13日 | イベント・祭り

         

本「五頭山華報寺と出湯温泉 ーそして集落のすべてー」平成22年(2010年)11月18日発行 著者・川上貞雄。B5版 230ページ。厚1.3㎝。

(下)上記の本は、2011年(平成23年)3月15日 あがの新報(現在は閉刊)で紹介されました。

 新聞の最初の記事は「本の内容は、出湯集落の始まり、中世の五頭山華報寺、温泉では中近世のすさまじい様相と明治14年の漲泉窟立ち上げによる近代化と洞春館・集落の生産・生活、行事・出来事など12章にわたり、書かれている。」文献資料136、写図106。以下の文は阿賀野市図書館で上記の本を閲覧してください。知らない情報が多く載っており、興味深い本です。

 ←あがの新報の記事

 ← 写真は川上貞雄さん

上記の本には(下)のような絵図や貴重な地図・写真が多数 添付されています。

  ← 明治7年(1874年) 出湯・華報寺の寺社取調絵図

川上貞雄さんの紹介 阿賀野市出湯に住居、日本考古学協会会員、新潟県考古学協会会員

 現在の出湯・華報寺(曹洞宗)

   昔の出湯・華報寺「火災の前の建物?」

川上貞雄さんが関係した事業・発表した調査書、関係した新聞記事など

 1 笹神村文化財調査報告2 瓦ー水原郷の産業史 編著者名・前田伊勢松・川上貞雄。笹神村教育委員会が1972年に発行

2 新潟県北蒲原郡笹神村狼沢窯址群の調査 編著者名・中川成夫、川上貞雄、土井義夫 笹神村教育委員会が1973年3月発行

3 水原郷遺跡目録 著者・川上貞雄 水原郷文化財パトロール奉仕員クラブが1975年に発行

4 水原城館址及水原代官址発掘調査報告書 編著者名・川上貞雄、荒木重雄、吉原信従 水原町教育委員会が1977年3月発行

5 横峯経塚群 著者・川上貞雄 安田町教育委員会が1979年3月1日発行

6 上野林丘陵埋蔵文化財発掘調査報告Ⅳ 編著者名・川上貞雄、家田順一郎、渡辺文男、山口良彦 安田町教育委員会が1980年3月発行

7 行塚 著者・川上貞雄 笹神村教育委員会が1980年7月10日に発行

8 上野林丘陵埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅱ 編著者名・川上貞雄、石川日出志、山本勝彦、山口良彦 安田町教育委員会が1981年5月発行

9 (下)1983年「昭和58年」6月22日の新潟日報の記事から。

         (記事を略記)明治22年、県内で最も早く学会に報告されたことで知られる「ツベタ遺跡」で今月から発       掘調査が進められている。今回は4回目で足掛け20年にわたる調査~。同遺跡は縄文中期の初めから後期の初めにかけて千年以上も集落が形成~。発掘作業は地表から5mの深さで、日本考古学協会員で笹神村在住の川上貞雄氏を中心に、30人ほどで作業を進めている~。

10 渡場赤坂B 遺跡範囲確認調査及び発掘調査報告書 著者・川上貞雄 安田町教育委員会が1983年7月14日発行

11 ツベタ遺跡 著者・川上貞雄 安田町教育委員会が1984年3月30日発行

12 (下)1987年(昭和62年)6月17日に新潟日報から

   ~日本考古学協会会員で、同温泉街に住む川上貞雄さん(51歳)の漲による、いま同温泉にある華報寺は、文明9年(1477年)に耕雲寺の大安梵和尚が再興し、再興後は同寺境内にわき出る湯「漲泉窟」が湯治場として使われた。華報寺の前身は鎌倉初期から平安末期に建てられ、湯はそれ以前に発見されていたと考えられる、という。そして安永年間(1772~1781年)になると、湯を使う権利を持った今の民宿形体の10軒ほどが登場し、明治時代になるとこの民宿農家も旅館に次々と改築。同17年、川上貞吉さん(川上貞雄さんの父)が「目洗湯(天保5年発見)」を改修し、近代的旅館の第1号「洞春館」を建設。多くの人に利用されていたが、大正初期に洞春館は営業を停止した。今は温泉の旅館は15軒で、うち華報寺など7軒は自炊もできる湯治館~。笹神村商工観光課のまとめによると、昨年は約5万7千人が出湯温泉を利用。このうち約8割が新潟・新発田・新津市などの県内で、残る2割が関東方面などからの県外客~。

13 六野瀬遺跡 著者・川上貞雄 安田町教育委員会が1989年3月31日発行

14 発久遺跡発掘調査報告書 編著者・小林昌二、平川  南、川上貞雄 笹神村教育委員会が1991年に発行

15 新潟・発久遺跡(木簡研究 14) 著者・川上貞雄 木簡学会が1992年に発行

16 北沢遺跡群 著者・川上貞雄 豊浦町教育委員会が1992年に発行

17 八幡山遺跡Ⅰ 著者・川上貞雄  新津市教育委員会が1994年に発行

18 曽根遺跡Ⅲ 著者・川上貞雄 豊浦町教育委員会が1997年に発行

19 笹神村郷土研究 第25集 五山麓の歴史と民俗(その2)ー郷土資料館の展示に副って 著者・川上貞雄

    五頭山麓の古墳時代の遺跡、宮下の旦飯野神社の書上書など  笹神村教育委員会が1999年3月19日発行

20 前田遺跡・壱本杉遺跡 著者・川上貞雄 笹神村教育委員会が1999年3月31日発行

21 笹神村史(資料編5 自然)編集委員 川上貞雄 笹神村が2002年3月1日発行

22 福島潟周辺の遺跡から(五頭郷土文化 51) 著者・川上貞雄 五頭郷土文化研究会が2003年に発行

23 笹神村史1(原始・古代・中世)編集委員川上貞雄、(原始・古代・中世部会)副部長川上貞雄 笹神村が2003年5月30日発行

24 笹神村史2(資料編 近代2) 編集委員川上貞雄 笹神村が2003年12月1日発行

25 五頭郷土文化 第51号 優婆尊像・華報寺 著者・川上貞雄 五頭郷土文化研究会が2003年12月20日発行

26 笹神村史 通史編 原始・執筆 川上貞雄。古代・第7章 川上貞雄。中世・第7章 川上貞雄。編集委員 川上貞雄。 原始・古代・中世部会 副部会長(考古)川上貞雄。 笹神村が2004年3月15日発行

27 五頭山華報寺と出湯温泉ーそして、集落のすべてー 著者・川上貞雄。 川上貞雄が2011年11月18日発行

)「上記の本」の参考資料 本の文字だけ読むと理解しにくいので、参考にしながら上記の本をお読みください。

出湯には、 行基→弘法大使→温泉がわき出る→海満寺→華報寺・門前村の天神堂・薬師堂→石仏群→羽黒の優婆尊→山伏南学院→洞春館→出湯温泉→華報寺の火災・・のような歴史の移り変わりがあります。   順序の間違い、あるかも? このような話題が上記本に載っています。

(下)五頭山の五つの山頂に像が祀られています。この像についての記述が有り。「写真は五頭温泉郷旅館協同組合の観光パンフレットから」

(下左)出湯温泉の地図。右上の青矢印先が薬師堂。瑠璃堂の扁額が掲げられている。薬師如来は薬師瑠璃光如来(瑠璃→青色)である。元禄14年(1701年)に3間四面(5.46×5.46m)の堂を再建。「絵・五頭温泉郷旅館協同組合の観光パンフレットから」 (下右)華報寺本堂の前にある「優婆尊像」のモニュメント。2022年5月撮影。

 

(下左)画面中央が華報寺共同浴場。 画面左上端の赤矢印先が「薬師堂」 (下右)華報寺(画面奥)と前面道路

      ←  出湯にある「十二宮神社」

(下左)出湯温泉の地図。青矢印先が華報寺。ピンク色矢印先が旧華報寺の境内地。オレンジ色矢印先が石仏(中世墓址群)。図下の赤い線は国道290号。図の左方向は新発田市。図の下側は旧水原町。 (下右2枚)阿賀野市歴史民俗資料館に展示されている出湯温泉の中世墓址群の石仏「本物? レプリカ?」 ※中世(鎌倉時代~室町時代)

   

(下)康平3年(1060年)の地図。画像左下の赤矢印先が天神堂。 右下の緑矢印先は笹神村村岡。天神堂の上は東潟(越ノ海)、右は一分潟。どちらも水面で、陸地でありません。 弘法大使が船に乗り天神堂に到着。その後、出湯(温泉)まで来て、五頭山に登ったという伝説がある「上記紹介した本にも記事有り」。 弘法大使が来た・・という話は、大同4年(809年)。天神堂は海に接し、半農半漁だった・・そうです。

※図面は「笹神村郷土史」から借用

(下)江戸時代(1610年頃?)の初期の図面。画像左下の赤矢印先が天神堂。右下の緑矢印先が村岡。上部の青色太線内は50年前の福島潟。

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