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「大地主・市島邸の物語 4」 市島家の移住順の図と、発祥の地を説明

2024年01月15日 | 大地主・市島邸の物語

市島家の移住順の図 ①~④ 兵庫県丹波市→福井県高浜町→石川県加賀市→新潟県新発田市

 

① 市島家、発祥の地(兵庫県市島町)の説明

「改定 家廟之紙碑」昭和46年発行 財団法人継志会が発行。 この本は市島宗家の分家・市島成一(明治32年生、1899年生・京都帝国大学法学部卒・東京高裁検察庁検事長・財団法人継志会理事長)が、昭和16年・1941年、41歳の時に自費出版した冊子を改定し、昭和46年・1971年、71歳の時に再度出版(非売品)。昭和16年当時は、市島宗家の分家・角市の市島春城(早稲田大学初代図書館長。80歳)が市島成一から相談を受けて昔話をし、冊子の序文を書いています。成一は昭和14年に岡山県の裁判所に勤務。兵庫県の市島町にも出向いて調査しているので、前記の本の記載が100%正確とは言えないけれど、かなりの確率で正確に近い・・かなと考えます。 以下、本の内容を略記して紹介します。

 市島家、発祥の地丹波国氷上郡吉見町字上田小字市島(現・丹波市市島町。 国鉄福知線市島駅の所在地)である。丹波は昔から未開地の代表とされているくらい辺鄙な土地であるが、氷上郡一帯は都が大和にさだめられ、皇化が山陰に霑うに及んで次第に重要な所となり又、出雲文化東漸の要衛に当たっていたので、比較的早くから開け人煙も繁く、上古、彦座主父子の下向をはじめ皇族の往来も多く、崇神帝の即位10年(120年)には四道将軍として丹波道主命を派遣されて以来次第に開花に向かった。 この地は水清く地味も豊かで、五穀豊穣のため中古以降、後一条・後陽成・光格御歴代の大嘗会には、主基田が設けられ、或いは皇室の直轄、貴族の所領となり、また仏教の興隆と共に、この地方の名山秀麗が多くの傑僧の修行の地ともなった。その後、群雄割拠の時代に入るや興亡盛衰幾変転、暫くは帰趨を知らぬ状態が続いた。

 元来この地は承久3年(1221年)以来、源範頼の次男・吉見資重が氷上郡鹿集城に拠り、その子孫が長くこの辺りを支配していたが、天正10年(1582年)時の城主・吉見式部則重は明智光秀と戦い、利あらず陣歿し遂に落城、城兵ことごとく討死したと伝えられる「※天正6年・1578年という説有り」。市島家の遠祖・弥惣右衛門は氷上郡上田の豪族として吉見氏に属し、その支邑市島に住んでいた。当時すでに相当な財力を擁し、吉見氏の御用達・所謂仕立屋を勤めていたものの如く、市島春城は、その随筆中に吉見氏が亡んだ年にこの地を離れたと記しているが、家史葛陵仲氏伝や氷上郡吉見村史などから恐らく、「この地方の度重なる兵火動乱に耐えかねて、弥惣右衛門は吉見氏の滅亡前の永禄の末(1565~1568年頃※1578年?)丹波に近い隣国・若狭に移り、たまたま高浜城主・辺見駿河守昌経の嗣となって入国(1581年。※1579年という説有り)した溝口秀勝候の家士となり、やがて取次側用人となる機会を得たもの」と推測される。 氷上郡を離れるにあたり、郷土を忘れかねて、地名市島をもって姓としたと考えられる。 ※西暦はウイキペディアや各ホームページで西暦年が違う

 もしかしたら旧姓は「吉見」だったかもしれない。溝口家へ投ずる場合に旧姓を避けた可能性がある。


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