昭和15年(1940)、分田七郎俊長の館跡周辺を土地改良した時、居城跡を裏付ける鎌倉時代のものと推定される手鏡・古銭・擂鉢や写真の古鏡(五十嵐敬吉氏所有)が出土した。古鏡は、菊花紋の配列が特徴的です。
「水原の歴史風土」の本によると、分田七郎俊長は応徳元年(1084)より長治元年(1104)まで約20年、群雄割拠乱国の時代によく人心を修め、郷土を安きに置いた名豪士であったと思われるが、以後は口伝にも他の文献にも拠ることができない。と、記されています。又、他のページには「分田氏は、佐々木源氏の一族で資料では南北朝期(鎌倉時代の後で、1336年に朝廷が分裂してから1392年に皇室が合一するまでの時代。室町時代の初期にあたる)に南朝(越後では足利源氏、北朝が優勢)に属し、やがて滅亡したと伝えられる。と、記されています。 以下、次回に続きます。 管理人