「郷土史 外城物語」から → 水原八幡宮の神官 佐藤源大夫祖先当村草分けせしより数十代血統連綿たり。領主之を賞して更に田5反歩を賜はり、合計1町歩なり(1639年)。 明治15年(1882年)6月23日村社に列せられる。 明治16年2月田1町歩を売却して金300円を得、その利子にて祭祀料とす。 ※これによると、水原八幡宮は田5反を持っていたが、数十代(何年間?)も佐藤家が神主を続けているので、領主が褒美にもう5反の田をくれ、合計1町歩(3000坪)の田を所有した。くれた領主は新発田藩の領主・溝口家。 明治15年(1882年)に八幡宮は「村社」に格上げされた。翌明治16年、村社になった祝の祭りをするために、所有していた田全部(3000坪)を売却し金300円を得た(現在の金額にすると何円?)、この300円の預金利息(何パーセント?)で村社になった祝の祭りをした。 溝口家から御神田5反歩を貰ってから243年後の話です。村社 八幡宮(外城)は、平成20年(2008年)に「水原八幡宮」に改称した。
管理人の考え → 水原八幡宮が新発田藩の溝口家から神田5反をもらった年に、瓢湖の工事が完了しました。神主を代々継続しているからと褒美に田(神田)をもらったとありますが、貰った理由の一つに瓢湖の造成工事に水原八幡宮が協力したから・・と考えます。工事着工時の神主のお祓いは勿論、工事中、工事に携わった人達の休憩所に水原八幡宮の境内や拝殿を使用したのではないでしょうか。隣にお寺がありますが、休憩所と考えると神社の方が使いやすいと考えます。その お礼も兼ねている・・かなと考えます。 次回に続きます。