(写真は、現在の分田集落) 古記によると分田七郎俊長は、悪さをして住民を苦しめていた新発田市五十公野に城を構えた阿部貞任の残党、黒鳥兵衛を退治して納代城を賜った。按ずるに分田は古昔、納代と称したるが如し。と、ある。黒鳥退治は、伝説として広く伝わり潤色されて読み物として普及した。実際は、山賊のような人間たちだと思われる。悪さにしても「越船を捕獲し米塩を奪い、渡し船一艘を阿賀野川大瀬戸に置きて行人を征す。諸民之に苦しむ」とある。やはり、分田集落から海や阿賀野川に行け、交通の要のよう土地位置だったと思われます。
明暦元年(1655)7月、日枝神社建替えの時、長治元年(1104)7月27日分田七郎再建と記載せる棟札を得たり、とあります。分田七郎俊長が実際にいた証になります。 「分田村郷土史に記載」
分田集落内にある玉泉寺境内にある崩れ落ちて苔むす塔は、往時の豪族分田七郎俊長の墓と伝えられています。これを大正時代の中頃、分田村有志が発掘調査の計画を立てたが、ついに実現にいたらなかった。と、「水原の歴史風土」に記載されています。
分田七郎俊長の資料が少ないので、一応 私の調査は、ここで終了します。最後まで読んでいただき感謝いたします。歴史を調べることは、推理小説を読むように探偵になって捜査するような気持になります。さて、ひと段落したので今晩は食品スーパー加藤商店さんが発売されている「分田七郎俊長」という日本酒(写真は、酒瓶のラベル)を飲んで、打ち上げとします。 この日本酒、おいしいですよ。 管理人