今年も米さんの写真展、見てきました。素晴らしい! 撮影場所は、どのように探すのでしょうか。
上記の画像は、左記の「福島潟たより」から転写しました。
今年も米さんの写真展、見てきました。素晴らしい! 撮影場所は、どのように探すのでしょうか。
上記の画像は、左記の「福島潟たより」から転写しました。
新発田市天王 「市島邸の、ひな人形展」
※ 市島家は明治22年度、新潟県の多額納税者 第1位でした。
※ 大正13年(1924年)の市島邸のデータ 田畑 約1,830町歩、米蔵 約20か所、山林 約3,000町歩、米売上 約3万俵。
小作人 2,600人、番頭30人、建物敷地 8千余坪、建坪600余坪。 新潟県の大地主です。江戸時代は水原町に住んでいました。
2023年2月24日撮影(2024年は2月10日~3月24日まで展示。水曜日は休館日) 新発田市天王にある市島邸で展示されている「おひな様」
(上)左側が市島邸に伝わるひな人形。 右側はお嫁に来た隆子さんが持参した ひな人形
市島家の雛人形は「江戸時代の古今雛」
(下)4枚の写真は江戸時代から市島家に伝わる古今雛。
(下)市島宗家の9代、市嶋徳厚の妻・隆子が嫁入り道具として持参したひな人形。明治時代の物。上段の幕は松平家の葵の紋の刺繍が施されています。隆子さんは江戸時代なら、岡山県津山藩・松平家のお姫様です。
(上と下)隆子さんが持参したひな人形。隆子さんの写真と夫・徳厚の写真。
二人は大正4年(1915年)に、お互い21歳で結婚。徳厚は慶応義塾大学の卒業。二人に子供はいませんでした。
徳厚は明治26年1月生(67歳没)。妻は明治26年11月生(61歳没)。徳厚が最後の地主になります。
← 雛人形の段には「松平」の紋が。
江戸時代なら隆子は津山藩主のお姫様。徳厚は大地主で大金持ちだけど平民の身分。明治時代になり、身分に関係なく結婚できました。 ひな人形と長持ちの「葵の紋入り」は、松平家のプライド・・でしょうか。
← 隆子の嫁入り道具を入れた長持ち。6棹を持参。
南山亭(新潟県文化財)。93畳。
隆子さんは東京から嫁に来て、左のような景色を見られたでしょう。
2024年1月下旬、新潟市中央区にある「荒川らーめん魂あしら 万代シティ店」で、(味噌バターらーめん 930円)を食べました。
美味でした。平日でしたが昼時、混んでいました。
阿賀野市出身 池田孤邨(いけだこそん)の屏風 「紅葉に流水・山景図屏風」
阿賀野市で、阿賀野市出身の日本画家・池田孤邨(いけだこそん・ 1802年?~1868年没)の屏風絵が4会場で巡回展示されています。
私が見学したのは1月26日、水原公民館・市民ギャラリーでした。入場料無料。綴プロジェクトで米国スミソニアン国立アジア美術館で所蔵されている門外不出の作品をキャノン(株)と共同で高精細複製品を作成し、オリジナル作品にゆかりのある自治体などへ複製品を寄贈する取組で、出身地の阿賀野市が寄贈を受けました。
屏風絵は「紅葉に流水・山景図屏風」。孤邨が40代後半から没年まで過ごした東京、両国久松町の自宅で描かれ、孤邨が最も脂の乗った50代半ばの安政3年(1856年)に完成させました。絵の師、酒井抱一の没後は30代半ば頃から一時、深川冬木町に住み、その後に両国久松町に転居した。 深川時代の作品は関東大震災で多くを失ったと伝えられている。 銀地に白藤という取り合わせや、6曲屏風に藤のみを描く試みは孤邨しかいない。(上)の屏風は6曲1隻屏風。孤邨の晩年の大作。 1864年、62歳で「光琳新撰百図」を出版。 1868年、66年の生涯を閉じる(※生年没年に関しては諸説あり)
池田孤邨は江戸後期に活躍した日本画家。阿賀野市出身(水原近辺)。10代後半頃に画家を志して江戸に出て、酒井抱一の家に住み込み、働きながら絵を学びました。師の酒井抱一は江戸琳派を代表する人物。孤邨は抱一の画風を受け継ぐ高弟として活躍、茶道や和歌にも優れ、書画の鑑定なども得意としました。孤邨の代表的作品は、国内外の著名な美術館が所蔵しています。江戸琳派を代表する画家の1人。草花図屏風を得意とした。水墨を用いた山水図や物語絵も近年見いだされ、幅広い制作活動を行っていたことが伺える。
← 屏風に書かれている署名・押印など。
(上)の屏風の裏側にも絵が描かれています。 山間に広がる水辺の風景が水墨のモノクロームで描かれています。
← 「和楽 2023年10・11月号」
(上左・中)屏風裏の署名、押印 「和楽」に(スゴいぞ! ニッポンの超絶技巧)として池田孤邨の絵が紹介されている。
旧水原町には和算で有名な山口坎山がいます。この人は1800年生。池田孤邨は1802年(?)生。二人は水原町生まれの2歳違い。どちらも江戸に出て学んでいます。それなりに裕福な家で育ったと考えられます。優秀な才能を持っていた人物だから、寺子屋などで顔見知り・友達だった可能性もあります。そう考えると、何か楽しくなります。
これからの展示は、 2月6日~2月9日、13日、14日「笹神支所のロビー」
2月16日~21日「安田交流センター 1回交流ホール」
2月23日~3月1日 ※2月26日を除く「市立図書館ギャラリー」 時間は9時30分~4時30分(共通)
水原公民館
市島家の話をするには、どうしても新発田藩主・溝口家の話をしなければいけません。
石川県から移住してきた溝口家は、最初は新発田市五十公野城に住みました。五十公野城の裏は山で、防御に良いこと。そして戦いで負けた新発田城は、そのまま使用できなかったこと。 溝口秀勝は入封すると、領内にある中世の遺城のうち、重家の居城であった新発田城跡を築城の地として選んだ。地形・水運・防御そして他の地域より城下町として発達していたから。ただ、当時の城郭は狭小で防備が十分でなく、城下町も未整備な状態だった。 最初に住んだ五十公野城と新発田城の距離は約7㎞。溝口秀勝は城が完成すると新発田城に転居。しかし、市島家は五十公野に住んだまま。五十公野から新発田城に通ったようです。市島家の墓は図面右下にある五十公野集落内にある浄念寺に現在もあります。分家の角市、市島春城の墓も浄念寺にあります。
新発田城を建築する普請には「何れの村々も人別に罷り出、皆々打寄り一普請仕るべく候」と領民が総動員された。建物は慶長8年(1603年)には西川門(西ノ門)が造られている。秀勝の時代を城の土木工事の時代とすれば、2代・宣勝(のぶかつ)の時代(1610年に初代が亡くなり、藩主になる)は建物の建築が進展した時代と言える。二ノ丸御殿が成就し、また大手門の普請が開始された。築城の進展と並行して、城下町の建設も進んだ。市街は入封以前は、上町・中町の地域であったが、その後下町、新町、寺町などの建設が進んだ。
2024年1月31日 午後3時30分、新潟市北区にある「福島潟」。 この日は快晴、春のような陽気。写真のように福島潟は薄い緑色になっていました。もうすぐ、春? そして今日、2月1日 午後2時45分、曇り空から雪がちらほらと・・ 屋根が少し白く。まだ春は先です。