「メタノイアの沈めの式」(バブティスマ・メタノイアス βαπτισμα μετανοιας)日本の裁判所という ウソとゴマカシ 最大の子育て支援策 やれ、保育所が足りない、認可園も増やせ、などと言われます。その通りだと思います。いず......
座間や津久井やまゆり園などの猟奇的な事件,日馬富士の一件,東電,三井不動産レジデンシャル,神戸製鋼,日産,スバル,東レまでが,製品のデータのゴマカシをしているなどの事実の,細部に話が流れても,なぜこんな事件が起こるのか?という根本的な課題,全体を網羅する課題に意識が向かないのは,なぜなのか?
このこと自体,全体を問う意識がない。
この問題に,一番明確に答えを出したのが,私が最も尊敬する哲学者の,加藤周一さんです。
日本語は,言葉の最も肝心な,動詞,全体の構造を示す,動詞が最後に来ます。加藤周一さんの用例を引用すれば,「私は米を食べる」。「食べる」という動詞が最後に来る。ところが,英語やドイツ語などの欧米語は,I eat rice. という具合に,動詞が早く来る。日本語そのものが,全体は後回しで,細部に囚われやすい。
そして,何よりも,決定的なのが,時間に対する態度,心の習慣です。ユダヤ教の時間,それが決定的な意味のある欧米人の心の習慣では,全体の構造,中でも,「目的」が何にもまして大事になる。
ところが,日本人の時間に対する態度,すなわち,心の習慣が,時間の全体があいまい(初まりも,お終いも,ない)なので,細部に囚われやすい。「いま」さえ良ければいい,という感じ。過去や未来,全体や目的は常に後回し。
ですから,どうでもいい細部に囚われて,全体や目的,なぜこんな事件が起こるのか?という根本的な課題,全体を網羅する課題に意識が向かない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます