エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

私が分裂するはじめ、内外の敵はこうしてできる

2013-06-30 03:40:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 陽気で楽しいこと(playful)が、ピチピチ、キラキラ生きていることそのものであること、ピチピチ、キラキラ生きることは、陽気で楽しいやり取りを日々繰り返す中から、親から子へ、教える者から生徒へ、ともに見る者同士の間で、自ら伝わっていくのです。

 この逆の生き方は、始めは、引っ込み思案のように見えるけれども、次第に、暴力に訴えても相手をコントロールしたいという衝動に突き動かされるようになり、さらには、家庭や職場など日常生活を共にする相手を否定したいと思う、暗い衝動と、激しい怒りが、ネットリと心の澱となって残ると同時に、いつも何度でも、心の奥底で、ドヨ~ンとした通奏低音となって、自動演奏が続くのです。

 さて、私が分裂する始まり、内外の敵=「他所」者の登場です。

 

 

 

 

 一人の個人が、その人の生育歴の最初から、「抑うつ的」、「抑圧的」、そして、「生きづらい」という言葉で言い表すのが一番いい根っこを育てている場合、文化的、政治的場が、ひとりびとりの人に対して、この世の中をどのように見たらいいのか、という点で、どういう責任があるかが、いっそう明らかになります。その世の中の見方とは、どういう感じを受け止めるようになり、どういう技能を用いるようになるかによって決まってくる、ゆとりに価値があることを認めるだけではなく、脆さ、無力、空想の既存の意味を乗り越えるのに役立つような、割と包括的ヴィジョンを価値あるものと認めるようにもなります。しかし、人間のいかなる根源的なニーズでも、それらを検討し、かつ、再検討しなくてはならないのは、赤ちゃんの時に陽気で楽しいことと、「大いなる他者」とのやり取りを求めることが、敵意のある条件に出くわす境界線上の文脈においてです。この敵意のある条件に出くわす境界線上に、人間がひとりびとり、「大いなる相手」を否定する声に出合う、内なる境界線もあるのですこの境界線上で、私が分裂する経験をするのであって、私が分裂する経験によって、人間がひとりびとり、すべての相手に対して敵意を抱く者となるのです。さらに申し上げれば、ここにおいて、仲間「内」と、「他所」者とを分ける分かれ目があります。仲間「内」の人は比較的包括的なヴィジョンが共有されます。それに対して、「他所」者に対しては、ヴィジョンが「他所」者を基本的には危険であると宣言することで線引きをするので、距離があれば、「他所」者は無視し、目立てば、引き下げ(陰口や悪口を言い)、一戦を超えてくれば、攻撃します。

 

 

 

 

 陽気で楽しいことが少ない、ないしは、ないと、人は、「抑うつ的」、「抑圧的」、そして、「生きづらい」と感じます。ここで、私が分裂します。あらゆる心の病の源と言ってもいいと思います。しかし、エリクソンは直接そのことには、ここでは触れません。

 エリクソンが注目するのは、ちょっと古いかもしれませんが、「ベルリンの壁」、あるいは、「万里の長城」、現代的に申し上げれば、イスラエル入植地とパレスチナ人居住地区を分ける「ガザの壁」です。それは、「敵」と「味方」を分ける分かれ目です。陽気で楽しいことが少ない、ないしは、ないと、その壁ができてしまうのです。しかし、それは、「大いなる相手」を否定する声に出くわす「内なる敵味方を分ける分かれ目」もあるのです。心の中の「内なる境界線」は、外なる「ガザの壁」を生み出す、と言えるでしょう。

 また、仲間「内」=味方では、一つのヴィジョンが共有されているのに対して、「他所」者=敵とは、ヴィジョンが共有されません。ですから、私どもがどれだけ包括的なヴィジョンを持つことができているのか、ということが非常に大切で、それは、協力、共同、平和に直結します

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やり取りがどれだけ大事か強調してもしきれない:根っこの経験

2013-06-28 03:03:45 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 一見攻撃的に見える行動も、それは、人との陽気で明るいやり取りを求めている行動であるこれは臨床上非常に大事な視点なのですが、なかなか納得できない視点でもあるかもしれませんねこれを納得するためには、自分の中の子どもと“よくよく”対話することが必要だからです

 また、子どもが大人に陽気で明るいやり取りを求めて歩み寄り、大人が自分のゆとりを割いても、その子どもの求めに応じて、陽気で明るいやり取りをするためには、工夫が必要ですその一つが、時間・場所・やることを、子どもと大人が約束して、それを繰り返し繰り返し行う遊びです

 

 

 

 そこで、遊びの生育歴上の始まりに戻る際に重要なことは、あるいは、重要なことの一つは、過去という神話以上に、人間が抱える事情の中で、陽気で明るいことの脆さを、その力と共に理解することです。それは、一人の赤ちゃんとそのお母さんとの相性と、2人がやり取りをどの程度熱心に求めてきたのか、というパターンを調べるところから始めることです。この赤ちゃんの時期の経験が、私どもが見てきたように、やり取りの中で関わり合う、という根っこの経験と、やり取りをすることによって、陽気で明るいことに価値を認める、という根っこの経験を作り上げるのです。つまりそれは、一つのやり取なのであって人間がすぐに「どうしていいのか分からない」気持ちになりがちで、しかも、すぐに激しい怒りにさいなまれることにもなりやすい、ということを子どもの時期に防いでくれるやり取りであると同時に、後年、その困惑と激しい怒りを和らげてくれるやり取りでもあるのです

 もちろん、動物にも魅力的な遊びがあるのも事実ですが、それはあくまで、どんな条件であれば、遊びをするゆとりがあるのか、相手を傷つけたりせず、また、相手の行動の自由を邪魔せずに、遊びはどこまでやっても許されるのか、ということが明確な秩序の中で行われていることなのです。激しい怒りが湧き上がってきたり、あるいは、激しい怒りの真似をしたりすれば、なだめるか、脅すかの身振りで反応が返ってきます。しかしながら、人間が赤ちゃんの時に、激しい怒りと怒りの抗議を本能的に表すことは、多くの場合、やり取りを切に求めるひとつのお願いであると、考えてもよいのです。実際、お互いに譲り合って、陽気で明るく受容してもらっている赤ちゃんには、どれだけ、不安と激しい怒りがいっぺんに良くなっているかが分かります。儀式化という人間の偉大な恵みが、いかに、このように極めて重要な、赤ちゃんとお母さんとの出会いに、形と見通しをもたらしてくれるのか、そして、そのようにして、本能的なやり取りの代わりを務めてくれるのか、そのことは、この本の第二章で詳しく議論することにしましょう。

 

 

 

 

 やり取りがどれほど重要なのか、強調しても強調しきれません。臨床で最も大事な視点は、やり取りがどれほどスムースにできるのかどうか、という点にある、と言っても過言ではないほどです。それは、やり取りの中で関わり合う、陽気で明るいことの価値をやり取りによって認める、という2つの根っこの経験を、やり取りをすることがプレゼントしてくれるからです。逆に申し上げれば、それがないと、この2つの根っこの経験をすることができません。ですから、やりとりがないと、「どうしていいのか分からない」気持ちか、「人を殺したい」と思うほどの激しい怒り(あるいは、この両方)が、心の根っこに、通奏低音として、ずっと残ります

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「攻撃性」の賜物とやり取りの範囲とルールなど

2013-06-27 01:01:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子どもの時期が厳しく苛酷な時期になりやすいことを意識して、子どもと関わることが大事であることが分かりました。また、遊びの目的が、やり取りをするためであることが先取りして明記いたしました。

 今日は「攻撃性」の賜物と、「あんた、邪魔なのよ」について、です。

 

 

 

 

 一つの根源的で、ほぼ無邪気な「攻撃力」は、ピチピチしている活動に生気をあたえるものですが、またそのようにして、陽気で明るいあらゆる活動にも、生気を与えるものです。攻撃力は、成長している生物が、この世に存在する、その実存に単純に属しています。aggredere(「攻撃」を意味するラテン語)の、まず第一の意味は、楽しく陽気なやり取りを求めて、物や人に歩み寄ることです。ただし、その時、相手のゆとりを邪魔することになるかもしれませんが、意図においても、感情においても、敵対する気持ちはないのです。しかし、攻撃力を「ほぼ無邪気」であると呼んだのは、やり取りによって人のゆとりを邪魔すると、心の中では、欲求不満と激しい怒り、恥と「自分は悪い」という気持ちをすぐに経験することになるからです。というのも、個人が成長し発達するためには、ゆとりが必要なのに、最初から、その文化の仕来りを、自分の行動に取り入れたり、自分の良心に当てはめたりすることによって、自分のad-gression、つなわち、自分が物や人に歩み寄ることを、制限するようにならなくてはならないのも、人間の実存の根源的な事実です。その文化の仕来りは、性質上、動物の本能に組み込まれたものではないので、やり取りをする範囲とルールも決めなくてはなりません。それに、その仕来りは、ある種のゆとりを約束する、世界に対する全体的な見方を、人のゆとりを奪い取ることを許す方法と一緒に、すべての人に提供しなくてはなりません

 

 

 

 

 ここは臨床上、極めて重要で、実践的なところなのです。

 ひとつは、「攻撃的」な時ほど、その人は攻撃され否定されることはないからです。エリクソンがラテン語から説き起こしている通り、「攻撃」は本来、物や人に歩み寄ることなのです。その歩み寄りは、その相手とのやり取りを求めてのことですが、相手のゆとりを奪うことにもなりますから、受け入れられる時ばかりではありません。「あんた、邪魔なのよ」などと言われることだって、必ずあります。歩み寄っても、受け入れられないことが多いと、その歩み寄りに次第に力が入ってしまいます。その力が入りすぎた歩み寄りad-gressionこそが、「攻撃」に見えるのです。それは英語のstrokeという言葉にもよく表れています。strokeは、元々「軽く触る」という意味で、いまでも、「軽く触る」「撫でる」という意味がありますが、名詞になると、「ぶつこと」という意味にもなります

 ですから、その歩み寄りには、「やり取りをする範囲とルール」が必要ですし、また、相手のゆとりを奪っても良い方法、すなわち、「時間と場所とやることを中身とする、やり取りの約束」が必要なのです

 この「やり取りをする範囲とルール」、「時間と場所とやることを中身とする、やり取りの約束」が、子どもの育ちを保証し、儀式化を進めていくうえで、決定的に重要です

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子どもの苦難、および、二律背反する遊びの、たった一つの目的…

2013-06-26 05:28:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 子どもは、目の前にいると同時に、心の中にもいる、ということは、心に銘記しておいて良い命題であり、子どもに対する大事な見方だと思います。今日は別の見方が紹介されます。

 

 

 

 

 「進化論的な気付き」というものがあるとすけば、それによって示されるのは、幼く、陽気で明るいことによって人を喜ばせること自体は、本能的な反応の一種、種が生き延びる必要性、人間の赤ちゃんが極端に危険な状況にあることを中和するものして、私どもが生まれながらに備えていることかもしれない、ということです。しかし、他方ではまた、「歴史的な気付き」によって私どもの心に残るのは、子どもの頃の、この潜在的に人を喜ばせることや人を信頼するきもちが、身体的虐待、経済的搾取、心理的拷問から、子ども達をいつも守ってくれる訳では決してない、ということです。子どもの時期の研究の新しい傾向は、実際、子どもの時期の歴史が悪夢であり、私どもはようやく最近になって、そこから目覚めつつあることを教えられているくらいです。

 そこで、遊びの目的は、人間の遊びを研究する上で必要不可欠な要素ですし、「遊び」という言葉自体が、矛盾する様々な使われ方をしているという観点から見ても良いのかもしれません。私どもはフェアプレー、すなわち、正々堂々たる態度で競技に臨むことを強調しますが、それは私どもが、フォールプレー、すわなち、狡い態度に傾きやすいことを、私どもが自覚しているからでしょう。私どもは陽気に明るくフリをすることができますし、王様のように「~かのように」振る舞うこともできるところでは、「一つの役割を演じる」ようになるのですが、同時にその役割によって、自分自身、騙されるようにもなりますLudere(ラテン語で「遊ぶ」の意味の言葉)という言葉そのものが、人間が陽気で明るいことによって幻(il-lusions)を見たり、空想が妄想(de-lusion)になったりすることを示しています。しかも、私どもは他人を騙す(de-lude)ために、何人かの人たちと共謀(col-lude)する場合だってあります。同様に、もしも、あらゆる無邪気な遊びに一つの「筋」があるとするなら、一人の筋立てを作る人の計画にも、同様に筋が一つあるはずです。ついでに申し上げれば、計画や青写真には一つの目的があるのなら、計画を立てる人達にも、他者に対する目的が同様に一つあるはずです。そこで、私どもは、家族の中でやり取りを求めたり、仲間の中でやり取りを求めたりする本性を、人間が利用するときに、そのやり取りの攻撃的な側面とごまかしの側面が、生育歴上どこに源があるのかをしっかり捉えるようにならなくてはなりません。というのも、そのやり取りこそは、後々の人生において、政治上の体制にもなれば、政治上の破壊にもなる基になるからです。しかも、やり取りが体制になるか破壊になるかは、やり取りを最も流行りのやり方で用いても、合法的に見えるやり方で用いても、変わりがないのです。これらすべてを一つ一つハッキリさせるためには、まず手始めに、遊びの攻撃的側面を、攻撃の陽気な側面とともに、議論することが非常に重要です

 

 

 

 

 子どもの時期は、歴史上ずっと、厳しく苛酷な時期だった、とするのは、ロマンチストには認めがたいことかもしれません。あるいは、子どもに直接関わる人は、子どもの時期を厳しく苛酷な時期としないために、自分の関わりがある、と思いたいでしょう。しかし、子どもの時期は、厳しく苛酷な時期になりやすい時期であることを、こころに銘じて、ハッキリ意識していることはとても重要です。ひとりひどりの子どもが、「良い子供時代だった」と感じられる関わりを、大人がするためには、大人の方に「子どもの時期は厳しく苛酷な時期になりやすい」という自覚が必要だからです

 遊びの目的はいったい何なのか?遊びは、二律背反の様々な使われ方をしますし、その意味するところも広範です。しかし、遊びをするためには、遊び場とルール・約束が必要です。遊びの場とルール・約束のことをエリクソンはここでは「一つの筋 a plot」と呼びます。さらには、遊び場とルール・約束を決める人には、「一つの、筋立てを作る人の計画 a plotter's schema」があり、その計画を立てる人には、さらに、「目的が一つ a design」あるといいます。それが、遊びの目的です。つまり、遊びのたった一つの目的は、家族の中でやり取りをすることであり、仲間の中でやり取りをすることです

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目の前にいると同時に、心の中にもいる子ども

2013-06-25 04:46:05 | エリクソンの発達臨床心理

 

 遊びには、一級の芸術を創造する時と同様な、独創性と完成度がある、ということは驚きではないでしょうか。また、遊びには、「最も深い意味で治癒力がある」ということも、意外でしょうね。では、子どもが遊んでいると、「いつまでも遊んでないで、勉強しなさい」と大人がすぐに言うのは、何故なんでしょう。おとなにとって、遊びとは役に立たない暇つぶし、としか考えられないでしょうね。もったいないことです。大人も昔は子どもだったのに、遊びがそんなに創造的で、治癒力があることに気付かなかったのでしょうか?多くの場合は、子どもは無意識に遊んでいますから、たとえその中で治癒力が発揮されていても、それを意識する大人がいなければ、子ども自身は意識できないのですね。

 さて、今日は臨床的気付きについてです。Toys and Reasons. p.54の下から2行目から。

 

 

 

 

 しかも、私どもに臨床的気付きを教えてくれたのは、フロイトその人でした。その臨床的気付きのおかげで、人間の子どもの時期が長くなったという事実に固有の、未熟な段階に留まり、逆戻りしてしまう力が裏付けられているのです。人間の子どもの時期が長くなったということは、フリをすることにドップリと馴染んでしまう、という状況そのものを含みます。そのフリをすることにどっふり馴染んでしまう状況は、創造的に陽気で明るい、ということにもなりうるだけではなく破壊的な程ごまかす、ということにもなりうることをも、私どもは示さなくてはなりません。というのも、発達上の気付きによって私どもが必ず分かることとなれば、それは、いかに人間(「遊ぶ人」であり、また、「知る人」、「立つ人」でもある)が、陽気で明るいという事実そのものと情緒的にやり取りをしてきたか、ということですが、それは、子どものころは、遊びとフリ(ですから、あらゆる詩のゆりかごであると同時に、あらゆる無責任のゆりかごでもあるのですが)が全てですが、大人は、(大人は“しばしば苦労して”遊ぼうと決心しない限り)概して、まじめで現実的である、ということを決めてかかった上での話だ、ということでもあります。

 信頼できる研究は、もし、そういったものがあれば、の話ですが、子どもの時期の本質を理解する上で最良の方法でしょう。しかし、科学的研究は、また、殊に、人間の実存に関する分野においては、それ自体先入観を含んだ展望によって左右されているのです。したがって、日々一貫した内省を続けることで、初めて、私どもは、私どもの目の前にいると同時に、私どもの心の中にいる子どもに対する大人の態度をハッキリと理解することができるのです

 

 

 

 

 最後にあるような文章に触れると、“エリクソンは止められない”と感じます。子どもは、目の前にいると同時に、心の中にもいるのです。ですから、私ども大人と、目の前にいる子どもとの関係は、私どもの心の中にいる子どもに対する私どもの日頃の、概ね無意識的な関係が色濃くにじみ出てしまうのです。逆に申し上げれば、心の中にいる子どもとの関係を意識して良いものにしてやり取りしていれば、目の前の子どもとの関係を、意識して良いものとしてやり取りすることもできるのです。素晴らしいことです。 

 フリをする、見せかけることには創造性ごまかしが共存しています。そのことも、ハッキリ意識していたいものです。なぜなら、意識していないと、ごまかしの方に傾く危険があるからです。逆に申し上げれば、フリしていることを意識していると、それは、創造的になる可能性が高くなる、ということではないでしょうか?素晴らしいことです。

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