陽気で楽しいこと(playful)が、ピチピチ、キラキラ生きていることそのものであること、ピチピチ、キラキラ生きることは、陽気で楽しいやり取りを日々繰り返す中から、親から子へ、教える者から生徒へ、ともに見る者同士の間で、自ら伝わっていくのです。
この逆の生き方は、始めは、引っ込み思案のように見えるけれども、次第に、暴力に訴えても相手をコントロールしたいという衝動に突き動かされるようになり、さらには、家庭や職場など日常生活を共にする相手を否定したいと思う、暗い衝動と、激しい怒りが、ネットリと心の澱となって残ると同時に、いつも何度でも、心の奥底で、ドヨ~ンとした通奏低音となって、自動演奏が続くのです。
さて、私が分裂する始まり、内外の敵=「他所」者の登場です。
一人の個人が、その人の生育歴の最初から、「抑うつ的」、「抑圧的」、そして、「生きづらい」という言葉で言い表すのが一番いい根っこを育てている場合、文化的、政治的場が、ひとりびとりの人に対して、この世の中をどのように見たらいいのか、という点で、どういう責任があるかが、いっそう明らかになります。その世の中の見方とは、どういう感じを受け止めるようになり、どういう技能を用いるようになるかによって決まってくる、ゆとりに価値があることを認めるだけではなく、脆さ、無力、空想の既存の意味を乗り越えるのに役立つような、割と包括的ヴィジョンを価値あるものと認めるようにもなります。しかし、人間のいかなる根源的なニーズでも、それらを検討し、かつ、再検討しなくてはならないのは、赤ちゃんの時に陽気で楽しいことと、「大いなる他者」とのやり取りを求めることが、敵意のある条件に出くわす境界線上の文脈においてです。この敵意のある条件に出くわす境界線上に、人間がひとりびとり、「大いなる相手」を否定する声に出合う、内なる境界線もあるのです。この境界線上で、私が分裂する経験をするのであって、私が分裂する経験によって、人間がひとりびとり、すべての相手に対して敵意を抱く者となるのです。さらに申し上げれば、ここにおいて、仲間「内」と、「他所」者とを分ける分かれ目があります。仲間「内」の人は比較的包括的なヴィジョンが共有されます。それに対して、「他所」者に対しては、ヴィジョンが「他所」者を基本的には危険であると宣言することで線引きをするので、距離があれば、「他所」者は無視し、目立てば、引き下げ(陰口や悪口を言い)、一戦を超えてくれば、攻撃します。
陽気で楽しいことが少ない、ないしは、ないと、人は、「抑うつ的」、「抑圧的」、そして、「生きづらい」と感じます。ここで、私が分裂します。あらゆる心の病の源と言ってもいいと思います。しかし、エリクソンは直接そのことには、ここでは触れません。
エリクソンが注目するのは、ちょっと古いかもしれませんが、「ベルリンの壁」、あるいは、「万里の長城」、現代的に申し上げれば、イスラエル入植地とパレスチナ人居住地区を分ける「ガザの壁」です。それは、「敵」と「味方」を分ける分かれ目です。陽気で楽しいことが少ない、ないしは、ないと、その壁ができてしまうのです。しかし、それは、「大いなる相手」を否定する声に出くわす「内なる敵味方を分ける分かれ目」もあるのです。心の中の「内なる境界線」は、外なる「ガザの壁」を生み出す、と言えるでしょう。
また、仲間「内」=味方では、一つのヴィジョンが共有されているのに対して、「他所」者=敵とは、ヴィジョンが共有されません。ですから、私どもがどれだけ包括的なヴィジョンを持つことができているのか、ということが非常に大切で、それは、協力、共同、平和に直結します。