マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
五感の
感ずるままに
眺める気持ちに
なったとき,
何かを
書きたく
なるのです。
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
五感の
感ずるままに
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.22の,エピグラフから。
迷いが大きいほど,気づきも大きい。迷いが小さいほど,気づきも小さい。迷いがなければ,気づきもない。
c.c.チャン 禅の指導者
皆さんの束の間の時間を生き延びるけれども,そのつかの間の時間は皆さんのものだけじゃぁ,ありませんから。その時間は,みなさんの時間であると同時にその他全ての人たちの時間と合計した時間です。…皆さんの存在は歴史のしるしです。
ロバート・ペン・ウォーレン 十分な世界と時間
チャンさんの話は,エリクソンが「迷いと恥の戦いが,自分が生きている実感を大事に育てます」という話に通じます
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現世考 : #緊急アラート #逃げ場所がない #政治の無責任発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケ......
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.104,第2パラグラフ,9行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
ゆとりをもって学ぶ力と(訳注:生きている実感を)正しい振る舞い(の形にする):その正しいやり方とその正しい見方
その「ゆとりをもって学ぶ力」は,日常生活に,もう1つの礼拝を付け加えます。すなわち,「正しいやり方を全うする」ように,日常生活を礼拝にすることです。この礼拝が日常生活にありませんと,今まで申し上げてきた日常生活を礼拝にする様々な原理も,子どもと大人をパートナーにする躾をなくしてしまうことでしょう。子どもと大人をパートナーにする躾のおかげで,日常生活を礼拝にする様々な原理は,細々とした一連の,ニーズにぴったりと見合った関わりと,やり取り上手な心構えと上手なやり取りを全うする,全体像の持つ品性に,ピッタリと固く結びつくことができるんです。新しくて,いつまでも変わらない形を創造するために,物事で全うできることがあることを示したい,と熱心に願う気持ちは,ゆとりをもって学ぶ力の中で成熟します。あるいは,立って復活するのに必要な知恵がついてきますから,子ども達は学校にやられるようになるんでしょう。ここで,いきなり変わってしまうのですが,遊びは勉強に形を変えますし,ゲームは競争と協力に変わりますし,自由に想像することが,様々なやり方に十分に注意を払って,やらなければならないことに,変わりまいます。決まったやり方のために,自由に空想していることが,人に伝わるもの,説明できるもの,決まった課題に合わせることができるもの,にします。日常生活を礼拝にすることも,今や,真実に,学校と呼ばれる段取りの中で,共に働くものになります。すなわち,日常生活を礼拝にすることは,生徒,教員,クラスのみんながやり取りする中で,共に働くものになります。あらかじめ予定された一連の課題が,文化の全体像が持つ言葉の成長力と身体の成長力に従って組み立てられて,経済的に,技術的に,共に立つことで復活する復活を分かち合うのに欠かせない初歩の様々な術が教えられます。それは狩猟社会でも,農業社会でも,商業社会でも,産業化社会でも,文字通り,科学的社会でも,同じです。様々な社会がそれぞれが,こと細かく,「日常生活の中で,正しい生き方,正しい振る舞い方を礼拝にしていきます」。「日常生活の中で,正しい生き方,正しい振る舞い方を礼拝にすること」は,(ここが,猟や漁をする部族の中では,子どもの頃の様々な生き方をお話しした時に,一番大事な点でした)善く生きる生き方ばかりではなく,うまく生きる生き方に,生まれ変わって,踏みとどまることになるはずです。
私どもはここで立ち止まって考えなくてはならないのは,学校が,経済的な理想や競い方を良しとする学校の在り方ですし,どのように(様々なもの,獲物、競争相手などを)破壊する働きが,建設する働きとともに,学校にあるのかという学校の在り方です。私どもは,短い事例の中で見て分かったのは,ユーロックの人たちが,サケに信心深く語りかけ,思いを巡られていたことでしょう。ユーロックの人々は,サケに向かって,神の国の中で,君たちは永遠の種ですからね,と約束していますけれども,それは,君たちがわれらがユーロックの人々にたくさん捕まって,飲食に供する限りだからね,ということです。そして,事実で,サケの遡上のピークの時に,毎年クラマス川に,厳かな礼拝を執り行って,大喜びして,ダムを作ると,ユーロックの人々は,大漁に恵まれます。たほう,十分な数の大人のサケが上流の産卵地まで遡上できるようにしますし,だからこそ,十分なサケの子孫は,下流に下り,決まった時期に戻るまで,大海の中に消え去ることができます。
カリフォルニア州の先住民,ユーロックの人々は,サケの漁を,神様を礼拝にすることと結びつけていました。アイヌの人たちと似ていますね。マックス・ウェーヴぁーに寄れは,もともと資本主義も,カルヴァン派のキリスト教と関係しますでしょ。
私たちは,生産活動を,神様を礼拝することと結びつけていますでしょうか? マモンですか?
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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.71の,第4パラグラフ,最終行途中からです。 その前も,ご一緒に。
≪私≫が生きている実感を法則にすること 対 ≪私≫が生きている実感に恥を感じて,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと
スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。
元気いっぱい
冒険したい気持ち
もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。
あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え
事故を防ぐ
赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時
自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?
物を落としたり,投げたりすること
子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる
噛みつく人間
寝る時間を良い時間にする
夜になっても寝ようとしない幼子
私が選んだ項目は,ここで示した様々な問題の一覧表と範囲をお伝えしようとしています。ただし,ここでは,スポック先生の優れたアドヴァイスやバランスの良さを検討しません。このバランスの良さは,とても分かりやすく,しかも,事実に即して描いている点ですが,子育ての場は,ほかの創造の舞台でも,この優れたアドヴァイスとバランスの良さに従って生きるのが善いでしょう。それにもかかわらず,不吉な様々な力の兆しが1つあります。その不吉な力は,方や縛り付けられた,方や解き放たれますが,特に,対等でない親子2人の意志がぶつかり合う時には,子どもの不吉な力は我慢させられるのに,親の不吉な力は解き放たれてしまいます。というのも,その子どもは,自分の暴力的な衝動と釣り合いませんし,親子も互いに対等ではありませんから。
この創造の舞台で,何よりも大事なことは,筋肉が育って,その結果できることも増えてくる(できない,と感じるのも,母子2人になります)中で,「我慢する」と「手放す」という2つの非常に相矛盾する行動バターンを補い合って共に働くことができるように成熟することですし,まだまだ人に頼りっきりの幼子が,自分が生きている実感を自分の法則,人生の習慣にして,歓んで生きていく意志を自分自身に与えるのに,途轍もなく重要だ,ということです。
精神分析が私どもの言葉を豊かにしてくれたのは,「お尻の穴」という言葉です。「お尻の穴」とは,特別な心地よさと強情さを示し,この創造の舞台では,様々な出す所と関係します。お腹や膀胱を,できるだけ空っぽにする全ての道は,「心地よく感じる」ご褒美で始まるものです。上手にできると,「上手,上手」と言われます。このご褒美は,人生の始まりにおいて,お腹が毎日仕事をする時の不快感や緊張を埋め合わせるはずです。赤ちゃんとお母さんは,≪私≫が生きている実感を尻込み・我慢せずにお互いを振り返り,聖書の神様の命が一巡するようになります。素晴らしい立ち姿で立つことができて,筋肉が創造のために整えられると,≪私≫が生きている実感に従って歓んで生きる意志を実感通りにノビノビと自由に生きる力が育ちますし,≪私≫が生きている実感を零して,創造の目的から的まずれにする力も育ちます。しかし,母子の出会いを研究する新たな評価は,母子を固く結びつける様々な絆があることに限りません。実際に,創造する唯一の力,強い影響力のある上等な唯一無二の生命力(である,聖書の神様)は,≪私≫が生きている実感を零して,創造の目的から的まずれにする力も育てますし,≪私≫が生きている実感を実感通りに見守ったり,出して生きたりすることを,代わりばんこにする力も育てます。
お尻の穴に関する限り,この点では,全ては,文化的状況がお尻の穴を大切にするかどうか次第です。両親が,お尻の穴が出したり引っ込めたりする行動の仕方を大切にしないで,年上の子ども達が,よちよち歩きの子どもを茂みに連れていくのに任せて,お尻のことはキチンとしたいと思う気持ちが,目上の子ども等の真似をしたいと願う気持ちと一致するようにする文化もあります。私ども西洋の市民社会,特に,市民社会のかなりの階層の人たちは,お尻の穴のしつけを,かなり厳格に考えます。まさに機械化の時代によって,機械みたいにしつけ,間違いなく働き,いつもきれいで,時間通りで,しかも,無臭の身体であることが理想である,と見なされるようになっています。それに加えて,大なり小なり,意識的な正しいと思われているのは,赤ちゃんの時に厳格に躾けることは,「時は金なり」とされ,規律正しいこと,時間通りであること,成功することが持て囃される機械化の時代の波に乗ってうまく立ち回れる人種になるためには,絶対に必要なことだ,ということです。これが意味することは,私どもは,厳しく躾け過ぎだ,ということです。つまり,子どもは,躾なければならない動物か,設定し,調子を調整しならない機械みたいに思っています。たほうで,実際に,人間らしい品性は,少しずつしか成長することができません。いずれにせよ,私どもが臨床をしていて分かることは,私たちの時代の精神過敏な人は,「過剰に強迫的な」タイプだ,ということです。「過剰に強迫的な」タイプの人は,下のことだけではなくて,愛情,時間,お金の点も,ケチで,がめつく,細かいもんです。うんちとオシッコのトレーニングもまた,私どもの社会はやらなくてはならないことがたくさんある中で躾をする際に,一番厄介な躾になっています。
それじゃあ,何で,お尻の穴の問題が,大切で,しかも,困難なのでしょうね?
お尻の穴,という身体部位は,身体部位の中で,互いにぶつかり合う2つの力の上で,ぶつかり合いから生まれる,私が生きている実感がハッキリと不動にされることに,一番役立ちます。というのも,第一に,お尻の穴は,互いに反対のことを言い合う行動パターンのための身体の部分だからです。互いに反対のことを言い合う行動パターンとは,すなわち,「尻込み・我慢」と「敷居を超え出る」が代わりばんこになるものです。第二に,括約筋は,締め付けると緩めるの2重の意味のある筋肉, 曲げると伸ばすの2重の意味がある筋肉だからです。ですから,この1歳前後の舞台全体が,≪私≫が生きている実感を自分の法則にするための,1つのぶつかり合いになります。というのも,1歳前後の赤ちゃんが,自分の足で立つ準備ができているように,赤ちゃんは,自分の世界を,「私は」と「あなたは」,「私に」と「私のもの」という話し言葉で,正確に描きますから。お母さんであればどなたでも知っていることですが,子どもは1歳前後の舞台では,ビックリするほど素直なのは,自分がすべきことを「望もう」と心に決めた場合です。ところが,1歳前後の赤ちゃんが,すべきことを望むようにするのに頼れるお祈りを見つけられません。お母さんであればどなたでも知っていることは,擦り寄ってくるときには,とても愛らしいのに,大人を押し退けるときには,とても冷たい,ということです。1歳前後の赤ちゃんは,いろんなものを大事に貯め込見がちであると同時に,いろんなものをポイと捨てがちです。いろんなものを独り占めにしたいのに,そのいろんなものを窓から捨てたいのです。ですから,こういった,一見相矛盾する様々な傾向は全て,我慢と出すという決まった行動パターンのもとに含めます。
母子の間で,あ互いに,相手の行動パターンに自分の行動パターンを合わせあうことを生み出すことが,一番厄介な試練に直面します。神様の命の回転とは逆向きに,あまりにも厳格に,しかも,あまりにも早期に,お母さんが外から赤ちゃんの行動パターンを,回そうとするお母さんの気持ちが,赤ちゃんが自分のお腹や他の働きを,歓んで,自由な選択によって,「一つ一つ」自分でやろうと努力する赤ちゃんの気持ちを奪うことの上に立つ結果になりますと,その赤ちゃんも,写し鏡になった母子2人も,同じ反抗の顔と,同じ満たされない顔をします。自分の身体が言うことを聞かないし(よく自分のお腹が心配になります),外側にいる人も当てになりませんと,赤ちゃんは,元に戻るか,あるいは,偽りの前進によって,満足し,命が回転するようにせざるを得ません。別の言葉で言えば,その赤ちゃんは,生まれたばかりの時の,最初の口を介したコントロール,すなわち,自分の親指をしゃぶったり,不機嫌になり,とても手がかかるようになったりしますし,,敵になったり,わがままになったりして,ウンチ(後には,汚い言葉)を爆弾として使います。あるいは,赤ちゃんは,生きている実感に従って,誰にも頼らずに何でもできるような恰好をするようになるんですが,実際には,これまで頼りになる人が,いた試しがないんです。
この舞台では,ですから,人を大切に思う気持ちと人を悪く思う気持ちの割合や,人と力を合わせることとわがまま勝手をすることの割合,それに,自分が生きている実感通りに自由に生きられるのか,それとも,自分が生きている実感を引っ込めて生きるのか,の割合を決める分かれ道になります。「≪私≫が生きている実感を大切にしながら,≪私≫が生きている実感が正しいことを確かめる」心の習慣から,≪私≫が生きている実感を人生の法則にすることと,前向きに生きる気持ちが生まれます。筋肉とお尻の穴がうまくできない感じと,自分のことを自分でできない感じと,親が口うるさい感じから,≪私≫が生きている実感を生きられないのが自分のせいなのか親のせいなのか迷う心の習慣と,≪私≫が生きている実感を生きることにいつも恥じる心の習慣が生まれてきます。
≪私≫が生きている実感を法則にすることを育てるためには,赤ちゃんの時期に,自分自身と世の中を根源的に信頼する信頼が不動になるように育てられ,確信をもって続けられるようにしなくてはなりません。≪私≫が生きている実感を法則にできるような赤ちゃんは,自分自身と人様を根源的に信頼する聖書の神様に対する信頼(聖書の神様を信頼する根源的信頼感は,決して失うことのない天国の宝物ですから,最初の舞台の諍いから自由にしてくれます)は,急に強く,いいものが欲しくなっても,なんでも独り占めしたくなっても,頑なに,嫌いな人を押し除けたりしたくなっても,危険にされさることはないでしょう。「辛抱強くて,一つもウソのない真実な約束」が守って下さるおかげで,赤ちゃんは,まだしつけられていない分別が迷ったり,思い煩ったりすることも,ありませんし,必ず神様の命が一巡することを信頼して,めげずに信頼する立場に踏みとどまることもできますし,人に自由をプレゼントすることもできます。しかし,周りの大人たちは,その赤ちゃんが「自分の足で立つ復活」を願うように,赤ちゃんを手助けしなくてはなりません。それは,その赤ちゃんが,いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることがないようにするためです。いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることを,恥,あるいは,2番目の信頼の失敗,と呼びますが,それは,「2重に受け取れる」ことですから,私どもは「迷い,思い煩い」と呼びます。
「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,子どもっぽい気持ちで,まだ十分に研究されていません。恥は,丸裸にされて,人から見られていることに気付いたことを前提にしています。一言で言えば,自分の行動を意識している,ということです。見られているのに,見られる準備ができていないんです。ですから,私どもは,まだ服もろくすっぽ着ておらず,しかも,お尻丸出しの状態で,寝間着姿で,人から見られる恥ずかしい夢を見るんです。「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,赤ちゃんの時には,自分の顔を埋めようとする気持ちに現れますし,地面に,その場ですぐに,自分の顔を鎮める気持ちに現れます。この「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」になることがある,ということが,何かを教える時に,「恥ずかしい思いをさせて,≪私≫が生きている実感を隠させる(訳注:忖度)」といったやり方で,乱用される場合がとても多いんです。これは,もっぱら,幼稚な大人達がやらかすことです。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせると,後でお話しすることになる,一層破壊的なことが多い,チャンとしていない気持ちになります。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせることが破壊的であることは,いくつかの市民社会の中では,様々な工夫を凝らして「面目を保つ」ことと引き換えになっています。子どもに恥をかかせることは,自分はダメな子なんだと実感する,次第に強まる実感を悪用するんです。自分はダメな子なんだという実感は,矛盾しているんですが,その子が立ったり,その子が,大きさや力を人と比べることができるようになったりするにつれて,大きくなります。
恥をかかせ過ぎますと,結局は,キチンとやりましょうという気にはなりません。むしろ,人が見てないところで,こっそりやればいい,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心させることになります。アメリカの民謡に,一人の殺人犯が,人々の晒し者になって,絞首台の露となった話がありますが,その場にふさわしく,恐れたり,恥じ入ったりする代わりに,見物人たちを咎めだて始めて,終いには,ありとあらゆる罵るような言葉を浴びせかけましてこう言いました「目が潰れちまえ」と。
「ばれなきゃいいや」はいまやニッポンのお家芸。倫理崩壊,モラル破壊の極致です。東電や東芝,財務省のお役人,小中学校の教員,教育委員会の人たち…にモラルがないのは,1歳過ぎの頃の子育ての失敗が原因,その時期に公的な赤ちゃん支援がないことが原因です。
ここにあるみたいに,「ばれなきゃいいや」の人は,たとえ,ばれても,何食わぬ顔をして,「記憶にありません」,「覚えておりません」などと厚顔無恥に言う裏には,市民に対してひどく罵る気持ちが隠れています。