エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

操縦=力頼み=モノ扱い

2014-10-31 11:16:55 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 子どもを操縦するのは、子どもをまるでリモコンのテレビかラジコンのように、モノ扱いしているからなんですね。「そんなひどいことしてません」と、ただをこねても、子どもをコントロールしているあなた、無駄な抵抗ですよ~。

 p116冒頭から。

 

 

 

 不合理的信念は、力に従属することに根っこがありますよね。その力は、人を圧倒するようほど強いし、全知全能ですから、自分自身の力とか強さとかは捨て置くのですが、合理的信念は、真逆の経験に根差しています。私どもがこの考えを信頼するのは、それが自分の観察や考えの結果だからです。私どもが、他の人たちや自分たち自身や人類全体を信頼するのは、私どもが、自分のポテンシャルが成長したり、自分が成長している実感があったり、自分の判断力やら、人を大事にする力やらの強さやらがあるからです。「合理的信念の基盤」は建設的であることです。すなわち、私どもが合理的信念に従って生きることは、建設的に生きることになります。ですから、力や実力行使を当てにすることは、信頼することとは真逆です。力を当てにすることは、まだ実現していないポテンシャルが成長することを信頼出来ないことです。

 

 

 

 

 力を当てにすると、他の人の、自分のポテンシャルが成長することを信頼できないことだ、とフロムは言います。慧眼でしょう。

 力は、子どもを操縦し、コントロールすることに使うからです。それが物理的な力でも、知的な力でも、変りはありません。その力は限りなく暴力に近い。ポテンシャルを信頼すると、力ではなく、踏み止まること、待つことにエネルギーを注ぎます。

 力と待つ、雲泥の差が出きすよ。

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「不思議」の不思議

2014-10-31 07:46:43 | アイデンティティの根源

 

 科学も、非常にスピリチュアルな悦びを基にしていることが教えられましたよね。

 p360の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 アインシュタインがこの文脈で「悦び」に触れたことから、「不思議」の役割を思い出すでしょう。その「不思議」を感じたおかげで、子どもの頃に、アインシュタインが科学的観察に向かうことになったものなんですね。また、その「不思議」を感じたおかげで、アインシュタインが別のところで言っているように、≪私≫や≪私たち≫から、≪それ≫に向かうことになったものなんですね。「不思議」には、真実を覆うベールを取り去る力があるんですね。というのも、「感覚が経験する世界は、奇跡と同様に分かりやい」と言う事実を知っていたからなんですね。そのおかげで、アインシュタインは、「スピノザの神」、すなわち、「存在するものが調和して秩序だっていることを示してくれる神」を分かち合うことができます。

 

 

 

 

 

 子どもの頃に感じる「不思議」を感じるおかげで、虫や星や大地を知りたいと願う。レイチェル・カーソンの「ザ・センス・オブ・ワンダー the sense of wonder」、不思議を感じ取る感性の力そのものですね。不思議を感じるからこそ、子どもは葉っぱを、蝶を、風を、もっと知りたい、と願うようになるんですね。それが科学探求の最も根源的な動機でしょう。

 ですから、「不思議」には実に不思議な力があるのです。

 

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仕える生活と現代科学の基

2014-10-30 13:10:59 | アイデンティティの根源

 

 「先生」と呼ばれる人まで「支配と服従」では、非常に困ります。

 p360の3行目途中から。

 

 

 

 

 

この文脈でアインシュタインは、ユダヤ教の神が「迷信を単に否定するものであり、迷信を除外したイメージの結果」であることをジックリと考えます。それならば、道徳を、恐怖だとか、残念で信じがたい試み[恨みと恥]だとかに基礎づける試みでもあります。でもね、ユダヤ民族の強烈な道徳的伝統は、恐怖から大幅に自由のなっているように私の眼には見えます。「仕える神」は「仕える生活」と等しいことも明らかです。また、ユダヤ民族の中の最高の者たち、すなわち、預言者やイエスは、「仕える生活」のために戦いました。「結局、アインシュタインは、恐怖の真逆な、詩編にたくさん出てくる見事な表現にある何某か、すなわち、この世が美しく、しかも、大きいことにウキウキして、悦び、感動すること」を、「素敵だね」と称揚するんですね。それから、ここにこそアインシュタインは、現代的な精神につきものの一文を付け加えんですね。「この悦びこそ、真の科学研究がそのスピリチュアルな栄養素を引き出す感じなんです」と。

 

 

 

 

  最も先進的な科学も、その基にあるものは非常にスピリチュアルなものであることが分かります。400年前のケプラーだけがスピリチュアルな人であったのではなくて、現代のアインシュタインも実にスピリチュアルな悦びを、科学研究の基としていたことが、今日のエリクソンで明確になりましたでしょ。

 益川俊英教授や小林誠教授らがかつて所属したN研の坂田昌一名古屋大教授も、この悦びを知っていたと思いますね。なんせ「教授でも大学院生でも、議論において対等」と言っていたんですから。それは坂田昌一教授がその師、仁科義男教授から受け継いだものだそうですね。仁科教授は、ヨーロッパ留学で、日本の上意下達の大学と異なり、ヨーロッパのやり取りのある人間関係に感動したということらしい。その伝統なのでしょう。

 まあ、科学でもその基にはスピリチュアルな悦びがあることは、覚えておきたいことですね。

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支配と服従が横行する国

2014-10-30 10:40:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 高橋源一郎さんの手になる、今日の論壇時評「自由の足元 支配と服従の横行する国」(10/30,2014「朝日新聞」第12版▲,p15)も、非常に秀逸でしたね。日本の民主主義と、私どもがどのように生きたらいいのか、を再検討するために、良い素材を提供してくださっていますよね。

 その一つが「外国人技能実習制度」。この美辞麗句も、また、ふたたび、「ウソとゴマカシ」の詰め合わせセット、になっていることがハッキリ分かります。この言葉だけ聞くと、「外国人に、自国では学べないような高度な技術を、ただで教えてあげる親切なものなのかな?」と、ふつうの良心を持ってる人は思うでしょうね。でもさぁ、これは全く別の代物なのよね。この制度は、❶外国人に技能を全く教えない、❷外国人を安月給で働かせている、❸他の仕事をしてはならず、職業選択の自由がない、❹恋愛や妊娠、携帯電話を持つ自由もない、というような状況下での「労働」を強いる制度であると言います。名前が実態(「言ってること」と「やってること」)が全く別という、典型的な「ウソとゴマカシ」なんですね。この記事のよれば、アメリカの国務省の人は、「この制度は『人身売買』だ」とハッキリ言っているとのこと。どの先進国で、「人身売買」が合法的に行われていることでしょうか? 先進国で「人身売買」を合法化している国なんぞは、日本以外には、1つもありません。

 「積極的平和主義」、「すべての女性が輝く社会づくり推進」など、わが安倍晋三政権は、「言っていること」と「やってること」の差が尋常ではなく、むしろ「真逆」「正反対」の場合が非常に多い。わが安倍晋三政権は、あまりにもひどいデマゴキー(大ウソつきの親玉)なんですね。

 私どもは、わが安倍晋三政権には、ハッキリ「NO」と繰り返し言ってやりましょう。

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今の日本の、根源的な貧困

2014-10-30 06:34:00 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 子どもを操縦すること、コントロールすることを「教育」だと誤解している人が、今の日本では、とっても多いですね。それは子どもをモノ扱いすることであって、子どもの自尊感情を日々傷つけることなのに、それを、自省し、内省し、振り返るユトリもない、無思考の大人がしでかす、「悪の凡庸さ」=「人類に対する犯罪」なんですね。この「悪の凡庸さ」=「人類にいする犯罪」は、家庭で学校で、残念ながら、しかも、空恐ろしいことに、非常によくあるパターンになっているのが、今の日本の根源的な貧困です。

 p115の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 他の人たちを信頼することは、最高潮に達するときには、人類に対する信頼となります。西洋世界ではこの手の信頼は、ユダヤ・キリスト教の中で、宗教的に表現されますし、非宗教的に申し上げれば、この150年の、人間らしい、政治社会的な理想の中で一番強く表現されてきました。子どもを信頼することと同じように、人のポテンシャルは、適切な環境があれば、平等、正義、博愛の原理に従って統治された社会秩序を創り出すことができるものだ、という理念に支えられているんですね。人類はいまだこのような社会秩序を創り出すには至っていませんが、だからこそ、人はそのようにできるという確信には、信頼が必要です。しかし、あらゆる合理的信念と同様に、人類に対する信頼は、希望的観測などではなくて、人類の過去の経験と、ひとりびとりの内省、それから、ひとりびとりが、判断力と人を大事にする気持ちに対して自分自身で経験してきた経験、という証拠に基づいているものです。

 

 

 

 

 信頼は、人類に対する信頼で最高潮に達する、とフロムも言います。この点でも「人間皆兄弟」を信頼するエリクソンと共通ですね。

 しかし、日本は真逆の現象があまりにも目につきます。

 日本の根源的な貧困は、人を操縦し、コントロールすることが、あまりにも多いこと。家庭や学校までもがそうなっちゃっていますから。同様にひどいのは、その操縦が、「振込詐欺」などのような犯罪にも繋がっていることです。操縦には、必ず「ウソとゴマカシ」が入り込んでいます。一番ひどいのは、わが安倍晋三政権のデマゴギーぶり。「積極的平和主義」、「すべての女性が輝く社会づくり推進」などと美辞麗句を言いながら、ケダモノのように人殺しができる国づくり、多くの女性が貧困で喘いでいるのに、それを無視・隠ぺいするキャンペーンになっていることですね。

 私どもは、あくまでも真実なことを大事にすることが、この手の「ウソとゴマカシ」に抗して、「人間らしい社会」を創り出す勇気と希望に生きる上で、どうしても必要ですよね。

 

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