エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

宇沢弘文先生に耳を澄ませば

2014-12-31 14:40:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 宇沢弘文さん、雑誌『世界』に載る論文を時々読むくらいでした。しかし、この秋になくなって、様々な特集番組を見たり、お書きになったものを改めて読み直してみて、ハッとすることがいつくもありました。その一部をこのブログでも、メモしておきたいと思います。

 宇沢弘文教授は、アメリカの大学に招かれた後、同僚の経済学者フリードマンが、経済は法を犯さない限り、何をやってもいい、ということを聞いて、憤りを覚えたと言います。今の日本は、フリードマン以上ですから、驚きですね。「バレなきゃいいや」とばかり、法も犯しているんですからね。東電のような会社、JR北海道のような会社、そごうや西武デパートのような「一流デパート」、阪急、ディズニーランド、プリンスなどの「一流ホテル」内のレストランが、ウソとゴマカシの、法律も犯す行為を平気でしています。それでいて、地方経済は滅茶苦茶でしょ。貧困でしょ。

 宇沢弘文教授。大学の中でセコセコと研究してたんじゃぁない。水俣や成田などで苦しんでいる人の声を真摯に聴いて回って、それを謙虚に自分の研究に取り込んでいきましたでしょ。そこから「社会的共通資本」と言うカギになる考え方が生まれたんですね。それは、「人間らしい暮らし」を実現するために、市場経済とは別の枠組みの中で守らなくてはならないもの、としたわけですね。

 今の日本は、医療も、福祉も、教育も、市場原理を導入して、費用対効果を大事にする、なんてことは、大間違いですね。それは宇沢弘文教授が言う「社会的共通資本」を打つ壊しにするものだからですね。

 宇沢弘文教授は「経済学の中で一番大事なものは、人間、中でも、人間の心だ」と言います。私どもは、宇沢弘文教授から、「人間の心」を最も重んじる経済を学び、経済を人間らしい暮らしに役立つものにしていかなくっちゃね。

 

 

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葛藤が知恵と強さをプレゼントしてくれる

2014-12-31 11:07:56 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にすることは、葛藤がないことだ、と考えてしまうことは、大いなる誤解です。

 p95下から13行目途中から。

 

 

 

 

 

ほとんどの人は、事の次第を明らかにすることや葛藤を解決することにはならないような、些細なこととか、上っ面のことで、一致しないのです。2人の間の本当の葛藤、すなわち、その葛藤を隠したり、投影したりせずに、自分が生きている最深欲求のレベルで経験する葛藤は、破壊的であるはずがありません。本物の葛藤は事の次第を生き羅かにしますし、より豊かな知識と、よりしなやかな強さを、2人が手にすることになるカタルシスをもたらしてくれるんですね。こういうことから、今まで申し上げてきたことを、もう一度強調することになりますね。

 

 

 

 

 フロムもいいことと言ってくれますよね。本物の葛藤は人間の成長に欠かせないことなんですね。ですから、葛藤を回避しているようじゃぁ、成長しない。「可愛い子には旅をさせよ」でしょ。トラベルとトラブルはもともと同根という人もいるくらい。葛藤やトラブルを通して、人は発達することを、昔から人は良く知ってたんですね。

 ですから、葛藤やトラブルを通して、人は豊かな知識と、しなやかな強さを得ることができます。覚えておいていいことですよね。

 

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精神分析は、人格的真理を担当しない?

2014-12-31 06:37:52 | アイデンティティの根源

 

 本物の癒しこそが、ワーク・スルー。米沢興譲教会の田中信生先生の言葉で言えば「何があっても、大丈夫」。なぜなら、状況に左右されない「突き抜けた悦び」があるからなんですね。

 p237の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 この心身ともに健全であることに向かっている態度意外に、治療技術でも、臨床科学でも、新しい倫理的見通しに貢献できるでしょうか? この問いは常に、精神分析でも繰り返され、フロイトならではの答えが応えています。そのフロイトならではの答えとは、精神分析は、科学的真理のみを表わすものであり、倫理(ないしは、道徳)を科学的な方法で研究することに賭けているものだ、ということです。これ以外に、フロイトは、世の中に対する倫理的な見通しは、他者に委ねたんですね。

 

 

 

 

 フロイトが、心身が健全に向かっていく態度が倫理的な見通しを持つうえで大事だと言います。それはそれで大事です。また、精神分析は科学的真理だけを扱うのだとフロイトは言ってるみたい。しかし、エリクソンはどうやら、それだけではない、と言いたげですね。

 

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釜石小学校校歌 改訂版

2014-12-30 14:17:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 先日もこのブログで取り上げた「岩手県釜石市立釜石小学校校歌」を改めて取り上げて考えてみたいと思います。

 

釜石小学校校歌
           井上ひさし 作詞
           宇野誠一郎 作曲

1.いきいき生きる  いきいき生きる
 ひとりで立って  まっすぐ生きる
 困ったときは   目をあげて
 星をめあてに   まっすぐ生きる
 息あるうちは   いきいき生きる

2.はっきり話す   はっきり話す
 びくびくせずに  はっきり話す
 困ったときは   あわてずに
 人間について   よく考える
 考えたなら    はっきり話す

3.しっかりつかむ  しっかりつかむ
 まことの知恵を  しっかりつかむ
 困ったときは   手を出して
 ともだちの手を  しっかりつかむ
 手と手をつないで しっかり生きる  

 

井上ひさしさんの作詞。

これは、私が生きてある生活、パレーシア、連帯の、それぞれの大事さを詠ったものですね。それを今回再確認したいと思います。

1番。生き生き生きるためには、他の誰でもない「私」が生きていなくちゃなりません。誰かの子分になったり、力のある人にペコペコしてたんでは、「私」は生きられませんでしょ。誰かの顔色を窺って生きるんじゃぁない。それは「目をあげて」、「星をめあてに まっすぐ生きる」ことですね。地上を≪超越≫している「星」が目当て。なぜ、「太陽」でなくて、「星」なのか? それは、「困った時」は、この世は「闇」と感じやすいから。でもね、その「闇」の中にもきらりと光る「星」が必ずあることを、信頼する時に、「まっすく生きる」ことができるから。「闇の中の光」こそが、≪超越≫。その≪超越≫に素直に忠実に従って生きることが「まっすぐ生きる」こと。

 

2番。ハッキリ話すことは、パレーシアと言います。ギリシャ語で、バル(すべての)+レマ(言葉)から成るパレーシアは、自分よりも立場の強い人に対して、すべての言葉を包み隠さずに、ハッキリ言うことです。これは、民主主義のために必要不可欠なんですね。民主主義は、自分の1人の正義ではなく、自分たちの正義を実現するもの。自分たちの正義を実現するためには、アンパンマンのように、自分の顔をかじられるような損を覚悟しなくちゃなりません。でもね、「人間について よく考える」となれば、正義はそうやって、自分の損を覚悟に戦ってくれた人のおかげで、やっと今、手にしているものだということがハッキリ分かります。そして、いまここの正しさは、自分の損を覚悟しないと実現しないことが分かるから、自分も「はっきり話す」ことができるんですね。

 

3番。シッカリ生きるためには、真の知恵をしっかりつかむことが大事。真の知恵とは、処世術や、自分がなるべく得すること、とは全く違うでしょ。自分を≪超越≫する真理でしょ。それを掴めば、その真理に忠実に生きることが、日常生活になる訳ですね。自分が≪超越≫する真理に忠実であれば、自分を超えて仲間と連帯することも必然ですね。ですから、真理に忠実であればあるほど、より弱い立場の人たちとも、手と手を繋いで生きられるようになるんですね。

 

井上ひさしさん、最も難しいことを、小学生でも分かるようにしてくれた、天才です。

 

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人を大事にすること ≠ 葛藤がないこと

2014-12-30 11:36:06 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 「子どものため」と言ってやってることは、ホントはそれをやってる大人自身のためであることが実に多い。「言ってること」と「やってること」が違います。

 p95の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 もう1つよくある失敗も、申し上げときましょうね。人を大事にすることは、すなわち、葛藤がないことだ、という幻想です。痛みや悲しみは、どんな状況でも避けるのが正しいことだと信じているように、人を大事にすることには、葛藤が1つもあってはならない、と信じてんのが普通です。その格好の口実になるのは、自分の周りにドタバタがあることは、関わりのある人にとって良いことが全くない、破壊的な関わりだということです。この事の訳は、実際は、ほとんどの人が「葛藤」と思っていることは、現実には、「本物の」葛藤を回避するためのものだ、ということです。

 

 

 

 

 フロムも臨床のことがよく分かってる感じです。人が「葛藤」と呼ぶものは、本物の葛藤ではない場合がほとんど。表面しか見てないから、こんな誤解が生じるんですね。本当の葛藤から逃げないで、留まって、そこで自分自身を良く見つめていると、本当の解決に繋がります。それは、動揺しない泰然自若として態度と、どんな状況にも希望を見つけ出す態度をもたらしてくれますからね。

 それを、「ローマ人絵の手紙 第5章3節~5節」では、「試練は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むものです」と書いてあります。

 

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