憂鬱に対して、ラテン人とゲルマン人では、その見方が正反対になるのは、生まれ育った場の気候も影響するんですかね?
Young Man Luther 『青年ルター』p215の第2パラグラフの9行目途中から。
これ(憂鬱に対する態度が、ラテン人とゲルマン人とで正反対なこと)が事実ならば、気候がこれと関係するのかもしれませんね。太陽が、北欧の冬に、2度と姿を現さないのじゃぁないのかな?と思うくらい、ハッキリと沈んでしまう程、いつまでも続く闇と、運命を左右する程の寒さが、それだけ長く続きますから、元に戻らないんじゃぁないのかな? という感じになっちゃったり、そんなダメかもしれないことに対して、とにもかくにも、全面的に合わせなきゃ、ということにもなっちゃう。ルターが、定期的に繰り返し鬱になったことから、ルターは絶望も病も「しょうがない」と思ったり、死を差し迫った危機だと思ったりしたのと、同じように、ルターが哀愁に満ちて、哲学的に一番賛成できない考え(個人の運命は、あらかじめ決まっちゃってて、個人の努力では変えられない、という考え)によって、あの、どん底の冷たい岩のような気分やら、あの背景をなした全くの闇やらを、表現したのかもしれませんね。それはそれは、北国育ちの人々にとっては、春が来る条件ともなります。
でも、ここにあるのは、本当のことなんですね。鬱でも、北国特有のものがありますからね。冬が雪雲のドンヨリした日が続きますとね、確かに鬱になりやすい。お天気からでも人間は、こんなに影響されんですから、日々の生活状況からは、もっと影響される方が普通ですね。日本でこんなに鬱や自殺が多いのは、日本の社会が心貧しい社会で、しかも、「個人の力では変えられない」と思い込む人が多いことと、直結した問題です。