脱儀式化の状況は、生きてる目的、方向性がハッキリしませんから、いわば、外からも内からも動かされやすく、踊らされやすい状況になります。たいていは「人間を上下2つに分けるウソ」の慣性、力は猛烈ですから、その力に飲み込まれているケースがほとんどであると言って過言ではないでしよう。この時、自分が踊らされているという自覚はないのが普通ですから、自分が何をしているのかにさえ、無自覚であることが多くなります。ましてや、その態度に、まさか「『下』のものはぶっ殺せ」というメッセージが含まれているなどとは、夢にも思っていないのです。
多くの人にとっては、戦争の時には仕方がないたくさんな事件に典型的な、異常な出来事としか思えない実例を、本の最後になって、紹介するのは、いったい何の役に立つのか? と、この本を読んでくださる方は問うかもしれませんね。私はこの物語を、「生きているのに死んでいる」こと(deadliness)の実例としてご紹介してきました。「生きているのに死んでいる」ことが幅を利かせるようになるのは、大人のシナリオから、試合でのやり取りが失われる時なのです。なぜならば、これは、たとえばゴヤが残忍なエッチングで描いたような旧式な戦争ではなれば、荒れ狂う嵐のような軍隊がしでかした大量殺戮でもないのです。我が国の兵隊たちの言葉それ自身、この兵隊たちが、このような歴史的なパターンでは説明できないことを物語っていますし、また、兵隊としても、アメリカ人としても、そのそれぞれの自分を確かにする道(アイデンティティ)全てを裏切るものであることを、兵隊たちが気にしていることも、明らかにしています。このような悪夢を忘れるとしたら、それは「アメリカ人の夢」にとって悲しむべき兵役(儀式)だったことでしょう。
やり取りが失われるときはいつでも、「生きているのに死んでいる」状態に人はなるのです。それは戦争の時だけではありません。むしろ、平時の時にそうなることの方がはるかに多いといわなくてはなりません。平時でも、やり取りが失われてしまえばいつでも、(暴)力による支配が幅を利かせるからです。