エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

突き抜けた悦び という恵み

2015-12-31 23:27:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
突き抜けた悦び
  転移と逆転移の問題は、臨床の基本です。 p236の第3パラグラフ。   非常に広大で、難解な分野に入っていくのに必要な動機...
 

 恵みとして与えられる悦びは、突き抜けた悦びです。女性でも、男泣きするような、悦びです。嬉しくてうれしくて、たまらず、自然に涙がこぼれちゃうほどの悦びです。体験すれば、どなたでも、「あのことね」と分かる悦びです。

 それは、私どもの努力で得られるものでは、まったくありません。でも、努力と全く関係ないのか?と言われたら、まったく関係ない、感じがすると同時に、やっぱり関係あるかもね、という感じもあり、矛盾した感じです。つまり、努力に努力を重ねているのだけれども、その因果関係で、突き抜けた悦びを自分の手で手に入れたものでは、全くない。だけれども、「果報は寝て待て」とばかり、怠惰を貪ってても、もらえるものでも、さらさらない。

 変なこと言うでしょ。論理が破たんしてますもんね。

 以前のブログ「突き抜けた悦び」では、

「この「本物の癒し」は、自分が心身ともに健全でいることです。この健全healthが、永遠に変わらない価値があること、holy や、丸ごとwhole,all、あるいは、癒しhealと同根であるように、揺るぎのない自信と豊かさ明るさと結びついています。それは家族やご近所の人が、ハッとする感じなんですね。非常に魅力的。クエーカー教徒ではないですが、「内なる光」の体験ですね。ですから、work throughは、「突き抜けた悦び」にほかなりません。」

と記しましたね。

 「突き抜けた悦び」は、まるで人格がある存在みたいに、向こうからやってくんですね。いくら努力しても、こちらからは少しも近付けないのですけれども、努力に努力をかさねているところに、「突き抜けた悦び」が、向こうからやって来る感じ

 ですから、キリスト教では、それを、神様が来る」Coming(「神様の再臨」、「再臨」と訳されることが多い)と言いますし、仏教では、仏が来ているみたい」(如来)と言いますからね。

 

 皆さまにとっても、2016年が、「突き抜けた悦びの年」であることを、ささやかながら、お祈り申し上げます。

 

 

 

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偽物・悪魔・なか・さんVS 恵みの呼吸

2015-12-31 15:42:42 | アイデンティティの根源

 

  林竹二『問い続けて』裏表紙、および、P.91

 

 
突き抜けた悦び
  転移と逆転移の問題は、臨床の基本です。 p236の第3パラグラフ。   非常に広大で、難解な分野に入っていくのに必要な動機...
 

 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.248の、第2パラグラフ、下から5行目途中より。

 

 

 

 

 

悪魔たちは、根っからの悪なんですが、道義に従うためには、自分が裸の王様だと気付かなければならない、と分かった人だけが、悪魔たちが誰かを見分けられます。マーク・トウェインが昔言ってましたよね、「この宇宙で、人間が偉大なのは、恥を知っている動物だからです」と。

 

 

 

 

 悪魔たちの仕業の特色の続き

6)「悪魔だ」とはバレナイ場合が、(訳注:かなり)ある道義に従うためには、自分が裸の王様だと気付かなければならない、とは思えない人は、悪魔も「良い人」だと誤解します

7)悪魔だとバレル相手は、恥(自分は、もともとは、的外れでしかないこと)を知っている人だけ

8)悪魔は恥知らず

9)悪魔だから、心からの悦びがない今日も国会前を顔出しで散歩したらしい、なか◎朗さんみたいに、うつ病みたいな顔を、いつもしている

 

 

恵まれたら、女の子みたいに、心からの微笑みになるはずなのに、なぜ、なか◎朗さんはいつも、あんなに、ものがなしい顔をしているのでしょう? それは聖書に書いてある通りです。

マタイ6:5-6 
「祈るとき、偽善者のごとくであるな。彼らは国会前
や町角に立って祈りたがるが、それは人々に見せるためである。本当にいう、彼らはその報いを得ている。6あなたが祈るときは部屋に入って戸を閉じ、隠れたところにいますあなたの父に祈れ。さらば隠れたところに見たもうあなたの父は報いたまおう。」

国会前で祈る」と言われたら、このマタイの福音書の聖句の精神が分からない人は「いいね」をする人が何人かいるでしょ。なか◎朗さん「国会前で祈る」のは、神様とは何の関係もありません、ただ、自信が乏しく、自尊感情が低いので、人から「いいね」と言ってもらいたいだけ、受容して貰いたいだけなんです。マタイが「人々に見せるためである」と言っているのが、それに相当します。

 

 次に記す心の態度が、真っ当なキリスト者の態度です。

 

天の父さま
どんな不幸を吸っても
はく息は感謝でありますように
すべては恵みの呼吸ですから

 

私どもも、来たる2016年、恵みの呼吸をして生きたいものですね。

「恵みの呼吸の2016年」に、このブログの読者の皆様もそうでない方も恵まれますように!

 

 

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芽の眼

2015-12-31 10:40:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
釜石小学校校歌 改訂版
  先日もこのブログで取り上げた「岩手県釜石市立釜石小学校校歌」を改めて取り上げて考えてみたいと思います。 釜石小学校校歌           ...
 

 本物のセラピストになるためには、クライアントの魂が育っていく芽を見つけ出す眼を育てて、魂の親になることです。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p102の、最後の行の途中から。

 

 

 

 

 

というのも、手前味噌ですけれども、「クライアントの過去と現在の人生の舞台が、セラピストの人生の、相当するそれぞれの舞台で経験してきたことと響き合って、初めて、セラピストは、セラピーというものにある、魂の親になるということの隠された意味に、十分気付くことが出来るものだ」からなんですね。私が結論としてこの点を強調するのは、性別や年齢がそれぞれで、文化や歴史的背景が違ってても、クライアントとセラピストの間に生じる感情転移と対抗感情転移のやり取りを見比べてみることには、非常にやりがいがあるものだなぁ、と思うからなんですね。

 

 

 

 

 

 ここも、お見事。感情転移と対抗感情転移を比較することは、セラピーのイロハ(アルファ)であると同時に、果てなき目標(オーメガ)なんでしょう。

 時として、感情転移と対抗感情転移の組み合わせの不思議に、当方がビックリすることがあるくらいですからね。イタコやユタみたいに、クライアントの気持ちが、そっくりそのまま セラピストに「乗り移って来る」場合もあります。

 

 

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本当に私が生きてる、って感じる時は・・・

2015-12-31 04:16:01 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人を大事にすること ≠ 葛藤がないこと
  「子どものため」と言ってやってることは、ホントはそれをやってる大人自身のためであることが実に多い。「言ってること」と「やってること」が違います。 p95の...
 

 本当に私が生きている 実感するのはいつですか?

 

 

 

 

 

 ティク・ナット・ハーンさんの教え

「息を吸う度に、…生きてるって気づけますよ」

 

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けしからんことこの上なし の研究

2015-12-31 02:19:41 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
突き抜けた悦び
  転移と逆転移の問題は、臨床の基本です。 p236の第3パラグラフ。   非常に広大で、難解な分野に入っていくのに必要な動機...
 

 トラウマ治療に、CBT認知行動療法は効かないのは、発達トラウマ治療に、日本のトラウマ研究者の心理教育が効かないのと、同じです。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.224の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 クライアントがトラウマを生き直して、良かった、と思えるのは、トラウマに圧倒されない場合だけなんですね。その良い証拠に、1990年代初頭、私の同僚の、ロジャー・ピットマンが行った、ヴェトナム帰還兵の研究があります。私は、当時、毎週のように、ロジャーの研究室に通っていました。というのも、私どもは、第二章で議論した、PTSDの人達の脳のオピオイド(訳注:脳内麻薬)を研究していたからです。ロジャーは、セラピー場面のヴィデオを見せてくれて、私どもは、観察したことを議論したのでした。ロジャーと彼の仕事仲間たちが帰還兵たちにベトナムで経験したことを事細かに話すように、繰り返し促しました。ところが、この研究者たちは研究を中止しなくてはなりませんでした。というのも、たくさんなクライアントたちが、フラッシュバックでパニックになったからでしたし、恐怖がセッションの後も、執拗に残ってしまったからでした。2度とセッションに戻ってこない人もあったくらいです。ただし、研究に戻ってくれた者も、その多くが、鬱も、暴力も、恐怖も、ひどくなってしまいました。なかには、ますますひどくなる症状を、アルコールをさらにたくさん飲むことで抑えようとする者もいましたね。そんなことをすれば、結局、暴力をふるうことが増えてしまいますから、増々恥をかくことになります。その家族は、警察を呼んで、クライアントらは強制入院ということにもなります。

 

 

 

 

 こういう研究は、やってはなりません。まあ、ロジャーさんたちも、分からなかったんでしょうから、仕方がない面もあります。クライアントや被験者の福祉の反する研究ですから、やってはならないんですね。

 でも、相当怪しい研究もあります。クライアントの福祉には反さなくっても、クライアントの利益にならない研究は相当数あるからですね。その種の「研究」は、研究者の福祉と利益になっているので、今回のロジャーさんの研究みたいに、なかなか「中止」にしない場合があまりにも多いんですね。けしからんことこの上なしです。

 

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