金森俊郎さん(元小学校教師 とっても善い 珍しい教員)
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
Childhood and Society p.96の第2パラグラフから。
ここで一つ手に入れたいと思うのは,予定表と未熟な身体の様々なあり方が一体になる関係をまず理解することです。予定表と未熟な身体の様々なあり方が一体になる関係こそ,人間らしい生き方を確実にします。人間らしい生き方は、心響かせる人とその相手が,もう一人の心響かせる相手とその相手と,出会いを育むことにとって,なくてはならない生き方になります。心が響く身体と一体になることこそが,出会いや他者をありのままにします。心が響く身体と一体となった人は,出会いや他者をありのままにすることを許すこともできますし,他者が違っても許すこともできます。心が響く身体と一体となった人は,出会いや他者に入っていけます。心が響く身体と一体となった人達は,人の身体部位ともピッタリ響く関わりができます。人の子は,長い子どものころに,身体のくっ付け方を学びますし,身体のくっ付き方を学ぶと共に,人との関わり方も学びます。人の子は,育てられた場にいる心響かせる大人(あるいは,心響かせない大人)になるように,心響かせる人(あるいは,心響かせない人)になるのです。このように身に着けた心響かせること(あるいは,心響かせないこと)は,心響かせる生き方(あるいは,見て見ぬふりする生き方)とお互いに一体となることに基づいていますし,同時に,人の子が育つとどうなるかというイメージと一体になることに基づいています。
知性の働きを割り当てられた働きの一例とみなすならば,知性は心響く生き方と一体になるのか,それとも 知性は見て見ぬふりする生き方で歪んでしまうか のどちらかだと分かります。知識は付けたりにすぎません。知識は一部は覚えておいて,後は忘れます。知識を人に伝えれば,その人は上手に咀嚼したり,また別の人に伝えたりします。大人が関わる創造には,子どもの頃の心響く(あるいは,心響かない発達トラウマ)体験が,大なり小なり歪められた定めとなって,知らず知らずに滲み出ますように,人間の知性も,良きにつけ悪しきにつけ,赤ちゃんの頃に身に着けた,心響く生き方、ないしは、見て見ぬふりする生き方のいずれかが,人知れず,あるいは,露骨に,顔に出ます。知識は,「知ったら(ポストをめぐんでもらったら)お終い」と思う人もいます。たほう,自分の知を,何のための知かを問い詰めて,血肉にして身体そのもので体得底にする人もいます。大学のポストを得ても,学門の独立を図る希望が全くない人もいます。中には,自分でやったこともないのに,あるいは、自分では出来もしないのに,知ってるとばかりに,飾り立てたり、広めたりしている人もいます。「鈍い連中の耳の穴をかっぼじって、言い聞かせてやったよ」とほざく傲慢なインテリもいます。
(訳注:幼稚な顔の,御用学者・御用メディア・お役所仕事の連中は)まるでパロディでしょ。このパロディが示しているのは,創造には,創造にならない,幼稚な知の迷いがある,ということだけではありません。幼稚な知の迷いのない心から優しい関わり合いが育つのは,創造するようになる前に心響く生き方をする真実な人が一人いた(あるいは,幾人かいた)お陰なんです。また,同時に,パロディが示しているのは,あらゆる関わり合いは,お互いに相手を大事にし合う関わりが特色な場合と,一方が指示命令し,他方は従属するだけの関わりが特色の場合の2つがある,ということです。
ニッポンの小学校は,教員が指示命令し,子どもは従属するだけの関わりが特色であるのが,悲しき現実です。