第二章「ライフサイクルと儀式化」の第3節「人類を一つと見るのか、それとも、2つに分けて見るか と、儀式化」も、面白かったですね。儀式化について、エリクソンがまとめてくれたところが特に良かったです。日常生活の儀式化は、日常生活の何気ない関わりを、やり取りのあるものにすることによって、お互いに相手の価値を認め合う関係パターンであり、それなしには、<私>が育たない基盤になるものであるのことでした。
今日からは第2章の第5節「再儀式化(繰り返される儀式化)」に入ります。第4節を飛ばすのは、最初に(3月から4月にかけて)翻訳済みだからです。
無意識的暴力ほど、恐ろしいものはありませんよね。意識では止められない勢い(ドライヴ)がかかっていることが多いからです。
学校で一番「問題」になる無意識的暴力、それは、なんといってもいじめでしょう。しかし、そのいじめの心の傾きが、エリクソンが教えてくれているように、戦争やジェノサイドと同じだとは考えないことが、残念ながら、この日本では多いのかもしれません。
その心の傾きが、「人間を上下2つに分けるウソ」なんですね。日本は仏教や神道や天理教よりも、はるかに多くの人がこの「人間を上下2つに分けるウソ」教を信じているんです。しかも、その強烈な信者であることも知らない。宗教年鑑を調べても、載ってない。
この「人間を上下2つに分けるウソ」教の信者は、人と出会えば、「私の方が上」かどうかを値踏みします。「私の方が上」となれば、露骨に横柄なエバった態度に出るバカもいますが、それよりも、「謙虚」を演じつつ、我慢ならない状況が来たら、口角泡を飛ばして、感情丸出しでやりこめるバカの方か多い。それでいて、こういう人に限って、「いじめはやめましょう」「いじめはよくないね」などと言うバカをやるのですね。自分がいじめの諜報人であることにも気がつかないバカなんですね。
あっ、「バカ」、「バカ」とごめんなさいね。「バカ」は訂正して、「知的能力と誠実さに極端に欠ける人」と言い換えておきましょうね。本当の自分の姿を知らないんです。それは、自分自身と対話することを日ごろから怠り、上司の顔色をうかがったり、太鼓持ちをしたりすることに日ごろから心を砕いているからなんですね。「魂」を売り渡している人間なんですね。そういう人は、岡部伊都子さんの詩「売ったらあかん」を味わってもらいたいですよね。そうして、悪魔と取引することはやめにしてもらいたい。
「人間を上下2つに分けるウソ」教の信者をやめにして、いじめをなくすためには、まず自分が「人間を上下2つに分けるウソ」教の、無自覚な、それでいて、熱心な信者であることを意識的に認めることです。そして「人間みな兄弟」、「みんな違って みんないい」に意識的にシフト・チェインジすることですよね。